見たことがない獅子との出会い、そして大蛇...山梨県 山梨岡神社 太々神楽

2026年4月4日、シシの日。山梨県笛吹市の山梨岡神社で開催される太々神楽に伺った。この神社の春の例大祭の位置付けである。4月第一土日に実施、今回は4日9時〜20時、5日10時〜15時の日程で実施されているようだった。

昭和42年県指定無形民俗文化財指定。社伝によると「武田信玄公出陣の舞」とされているようだ。勝利祈願のための奉納の舞いとのこと。24種の舞があり、どれも天岩戸の故事など出雲神楽の系統に属するものである。もともと、この地に伝わる神楽に見られる保食命の狐に関心があった。それもあって、この地を訪れた。

春の風に誘われるようにして、ピンク色の絨毯を敷き詰めたような桃の花や、鮮やかな黄色い菜の花が彩るような道を、中央線はすすんでいく。中央本線の春日居町駅で降りた。途中雨が降り出した。傘を差しながら、桃の花畑を進む。大小の石が敷き積められたような小道を進むと、春日居ふるさと図書館にたどり着いた。資料を調べてから、すぐに山梨岡神社へと向かった。

山梨岡神社に向かうと、丸い形の山が大きくなってきた。「御室山」と言うようで、御神体だそうである。神社と山はやはり信仰の点で結びついているのだ。大神神社の三輪山(奈良県)、日吉神社の比叡山(滋賀県)などがまさに好例であろうが、山への信仰と神社がついになっている感覚がある。こんもりと丸く盛り上がったその山に向けて、人々は進んでいく。道の両側には提灯、その間を歩く地域の人々。山に向かうように、神社本殿へと向かう。そして神社の境内にたどりつくと、そこには数々の屋台が並んでいた。オム焼きそば(600円)がなかなかに美味しそうだった。そのほか、他定番のたこ焼きなども並んでいた。

さて、たどり着いたのが12時半過ぎ。神楽殿は何も行われておらず、担い手の人々の昼休憩のようだった。その間に、本殿から神輿が出ていった。18時過ぎに帰ってくるようである。それから、のちに顔を白塗りにした男たちの仮装集団が手を合わせて街に出ていったが、街の中もどうやら賑わっているようである。僕は今回は太々神楽をずっとみていたいので、神楽殿にはり付いていることにした。

雨の中の撮影はなかなか大変であったが、並べられたベンチに座る人が少なくてぽっかり空いた空間があることをいいことにして、撮影の妨げになるようなものはなく、その点ではスムーズだと感じた。

13時をすぎると「天岩戸」が始まった。非常に驚いたのは、この「天岩戸」だけで、なんと、1時間半も舞い続けていた。24舞もあるというのに、なぜこれほど長く舞うのだ!まずは天照大神が舞台に上がり、岩のような絵が描かれた板をもち、それで顔を隠す。その前に次々に登場人物が出てきて、舞を披露するのだが、なかなかその岩戸は開かない。天宇受売命と猿田彦命、そして天手力男神などが出てきたことはわかった。最後は天手力男神の怪力によって、板を剥がして、天照大神が地上に戻った。その時、その板で天手力男神が舞い始めた姿が、なぜか東北の鬼剣舞の膳舞を思わせた。

さて、次は祝詞舞だった。黒い面をかぶった舞い手が粛々と舞い納めた。その横顔がなかなかにかっこよかった。

続いて、薙刀両剣。これは今回拝見した神楽の演目のうち、最も感動したし、震えた。若い女性が1人ずつ舞い、それぞれ薙刀を扱う人が前半、二刀流の剣を扱う人が後半という流れだった。薙刀の人が最初出てきた時、後ろの見物客のお母さんが「かっこいい...!」と呟いていた。その後何回か、「かっこいい」を連呼していた。何がかっこいいのかと思って僕も客観的にみていたのだが、これは背筋と薙刀さばきの大胆さということなのだと思う。もう、ただすり足しているだけでもかっこいいくらいに所作が洗練されていた。

四剣の舞はこの神楽の最も花形であり、武田信玄公由来の舞である。「久米舞」とも呼ばれ、煌びやかな衣装を見にまとう4人の演者が、右手に鈴、左手に剣を持ち、舞うものである。その由来は、神武天皇が大和の宇陀という地にて、勝利の宴を催した際に、久米氏の兵士が天皇の詩歌をうたいながら舞ったことに由来し、勇壮さを感じる非常に格調高い舞いとされている。

さて、次は大蛇だった。さすが、出雲神楽を由来としているのもあり、大蛇の演目もすごく、出雲を連想した。ここでは蛇は蛇胴がないタイプで、蛇の頭を被るのみである。その大きさはあまり大きくなく、櫛名田比売を襲おうとするが、素戔嗚命と格闘をして、早々に、舞台から引っ込んでしまう。このあっけない所作や雰囲気が、石見神楽のような派手な大蛇とは異なっており、逆に魅力的にも思える。

それから、午後の部の最終演目が、大山祇神だった。髭を蓄えて、膳をもち、親善に進み出て、全ての演者がこの後ろにゾロゾロと続き、そして神楽殿では左右に分かれる。大山祇神の舞ののち、突如として餅まきが行われた。その餅まきでは、丸餅ではなく四角い切り餅で市販でパックに入っているようなタイプのものだった。

餅まきをして終わりの雰囲気だったので、奥の部屋に入ってしまいそうになる担い手に尋ねてみると、どうやら最近は狐の舞は午前中の最初の方に実施しているようである。保食すなわち、食物を司る神であり、農家、漁師、養蚕農家などに親しまれてきた。稲荷と同一視されることもある。なぜ神社に電話した時に、「午後からならみられます」と言ったのか、甚だ疑問である。元々狐の舞(保食命)を取材する予定で、時間まで問い合わせて行ったのに、全く的外れな時間で終わってしまっていた。悔しすぎる...。しかし、もう終わったことなので、仕方がない。

旅とはこのようなものである。狐の舞が見られなかった代わりに、素晴らしくてかっこいい舞いがたくさん見られた。それだけでも満足してこの地をあとにした。

 

正しいのか定かではないが、以下の通りの演目が伝わっているとのこと。実際に訪れることができた演目だけ、◯をつけておくことにする。

 

保食命(うけもちのみこと) 
天鈿女命
四弓
猿田彦命
天岩戸◯
祝詞舞◯
薙刀両剣◯
四剣◯
大蛇◯
大山祇神◯
二剣
四方拝
斎場
御勧請
国常立命
陰陽
供物献催
二弓
事代主命
五行
献玉
奉剣鏡造
地引
弓天狗

さて、この神楽を拝見したのち、神社を後にしたのが、16時半ごろ。そこから急にお腹が減ったので、甲府の「小作」というほうとう屋に向かい、非常に郷土色としてのありのままの食を堪能できた。やはりかぼちゃやにんじんなど、野菜は厚くするのが美味しさの秘訣かもしれないと思った。そして、囲炉裏のような座席にあぐらをかいて座り、鉄鍋でいただくという雰囲気もとても堪能できた。そして、次の取材先に向かった。

獅子のような「夔の神」の話

さて、今回の太々神楽とは関係のない話なのだが、どうやらこの山梨岡神社には

そういえば、帰りがけに「夔の神(キノカミ)」について本殿にいらした氏子総代に尋ねた。この神について知ったのは、先ほどの図書館でのこと。どうやら、木彫りの像で、獅子に似た神ではあるが、1本足のようである。

氏子総代に「次、いつ夔の神は拝見できますか?」と尋ねてみると、「結構先ですね。次は2030年です」とのこと。この春の例大祭で、公開するようである。7年に一度の公開のようだ。

春日居町誌編集委員会『春日居町誌』(1988年)P1294によれば、
社記に「山梨岡神社相殿勧請木像。飛騨之工彫刻ニテ唐伝来、雷除魔除之守護ト申伝・・・・悪疫為悉除。十ヶ年壱度ヅ、開扉仕来ニ御座候」とあるそうだ。

これを現代語に訳すと、「山梨岡神社の相殿に勧請された木像である。飛騨の工人による彫刻で、中国(唐)から伝わったものとされ、雷除け・魔除けの守護であると伝えられている。また、あらゆる疫病をことごとく除くためのものである。10年に一度ずつ、開帳(扉を開けて公開)する習わしとなっている」となる。この訳はChatGPTによるものであり、正しくない言い回しなどあれば恐縮であるが、おおよそ合っていると思う。

ただ、現在は7年に一回のご開帳なのに対して、この文章によれば10年に一回だったようだ。

『大和辞典』によると、「一足の物の怪、木石の怪」とあるそうだ。
また中国の古典『山海経』によれば、「獣有り状は年、蒼身にして角無し。一足。名づけて夔と日う。黄帝、共の皮を得て鼓と為す。声、五百里に開ゆ」とのこと。これはもはや人智を超えたような性質を持ったもののけであることがわかるだろう。

この神がなぜこの山梨岡神社におられるのかというと、春日居町誌編集委員会『春日居町誌』(1988年)P1294〜1295によると、

「古記によると、寛政中(1789-1801)幕府の勘定方・安田定一郎が甲斐の川検分に入国のさい、当社に参拝し江戸に帰ってこの怪神のことを将軍に報告した。享和二年(1802)大奥からの命によって甲府勤番支配滝川出羽守利雍を通じて、当社に夔神の真影を差出すべしと下命があった。これ によって初めて真影を木版に写して、大奥から御三家・御三卿その他旗本中へ数百枚差出した。さらに天保年間(1832-44)水戸藩から石和代官所へ御影差出せとのお達しあり、この時も多数刷りあげ、田安殿・諸大名・諸旅本などにも差上げたので夔神の信仰は急激に高まり一般民衆にまでおよんだ」とのこと。すでにこの時代には、夔の神の存在が知られていたようである。どうやら、江戸の徳川大奥や旗本方面への信仰が厚かったようだ。

また社記には「国家ニ災アルトキハ、古社地宮室山鳴動シ石落ツ。然ルトキハ巨摩郡秋山郷ニアル冷泉、此池色ヲ変ジテ血潮トナルト」とある。GPTの訳だと「国家に災いが起こるときには、古い神社のある宮室山が鳴動し、石が落ちる。そしてそのような時には、巨摩郡秋山郷にある冷泉が、この池の水の色を変えて、血のように赤くなる」とある。宮室山は御室山のことだろう。

個人的にこの夔の神について思うことは、以前、金沢の波自加彌神社で拝見した木製の朝鮮半島由来の狛犬像があったのだが、この夔の神の造形とそっくりだった。この神社も由緒が古く、室町時代以来と考えられる獅子頭などの保管もあるところなので、歴史ある狛犬とどこか通じるような感覚があるのだが、何か確証があるようなものではない。謎は深まるばかりだ。

山梨岡神社の由来

さて、この神社と神楽の由来について触れておこう。もともと、この山梨岡神社の「岡」は背後の御室山を指すようである。どうやら慶応4年の社記によると、「山梨」」の地名は成務天皇の時に、山の麓の窪地に梨の木が生えていて、それを伐り払って神戸を設置したとすることに由来するようだ。平安時代(10世紀はじめ)の延喜式神名帳に載る甲斐国官社20社のうちのひとつであり、それよりも歴史が古いことが伺える。武田信玄の時代には、お城がある山梨郡の氏神として崇敬したという。

 

太々神楽の分布

山梨民俗研究会『ふるさと山梨の民俗世界一可能性としての生活文化一』(アスパラ社,2024)のP192〜195を参考にすると、山梨県内の神楽はわずかな例外を除いて、そのほとんどが「太々神楽」という形態の神楽だそうだ。この名称が定着したのは、江戸時代後期であり、それまでは大神楽と呼んでいた地域が多かったようだ。関東、甲越、福島県などに似た分布が見られるという。

山梨県で神楽が盛んになったのかと言えば、武田信玄と密接に結びついているという。領国内の神社の神主に命じて、府中八幡宮で国土安全・戦勝祈願を祈禱する神楽を行わせたそうだ。武田家滅亡後、領主が変わってもこの神楽は存続し、諸社の神主は各所の自分の神社でも神楽を実施したという。、明治時代以降は、神職から地域の氏子へと引き継がれていったそうだ。

参考文献

春日居町誌編集委員会『春日居町誌一開庁記念編一』(2005年)P182-183

山梨民俗研究会『ふるさと山梨の民俗世界一可能性としての生活文化一』(アスパラ社,2024)のP192〜195