東北の太平洋側を北上!福島県双葉町の獅子舞、岩手県鵜鳥神楽を鑑賞。芸能の根源的な力と古層を観る

2025年2月22日、23日の日程で、東北の民俗芸能を巡る旅をした。その行程を振り返る。今回は福島県浪江町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」で獅子舞をはじめとする民俗芸能と東日本大震災の関係について考え、その翌日、岩手県普代村で鵜鳥神楽を拝見した。寒空の下で青く白く光る東北の海を北上することによって見えた民俗芸能の姿を記す。

福島県で芸能と震災を考える

東日本大震災は芸能をどう変えたのか

以前から東日本大震災と獅子舞は大きな関心である。今年の正月明けに宮城県女川町で獅子振りを見たのだが、あれから震災は人々とその集団に存在する祈りを再確認することになるのは明白であり、今回は津波ではなく、原子力がどのように芸能を変化させたのかについて考えたいと思い、2025年2月22日に「東日本大震災・原子力災害伝承館」で開催されている企画展「長期避難と祭り~伝統文化がつなぐ地域住民の絆~」と、その展示に関わる団体が芸能を披露した民俗芸能イベント「ふたば・いいたて民俗芸能大集合!」を訪れた。

当日の演舞団体はこちら。
僕が拝見できたのは◯印

長者原じゃんがら念仏太鼓踊り(大熊町) ◯
東郷神楽(川内村) ◯
前沢の女宝財踊(双葉町)
町獅子(川内村) ◯
川添の神楽(浪江町)
樋渡・牛渡の田植踊(浪江町)
三字の神楽(双葉町)
高田島獅子(川内村) ◯
高田島神楽(川内村) ◯
山田のじゃんがら念仏踊り(双葉町) ◯



途中3団体は、展示を拝見している関係で、拝見することができなかった。個人的に最も感動したのは、最終演舞である山田のじゃんがら念仏踊りだった。音がシンクロして、中央で太鼓を鳴らす人物がどこか神がかりに近いようなところまでの没入感を見せていた。足元の不安定さや重心の偏りが芸能への没入度を増しているのは気のせいだろうか。足をクロス、あるいは片足立ちになって太鼓を打つなどの所作が、異界への扉を開けているような気分にさせた。一本足で立つ鳥はフラミンゴ。そして、人間だと王貞治。一本足打法の良さを調べてみると、体重の移動が大きく、インパクトの瞬間に体重をボールに伝えやすいからという話もある。念仏踊りは太鼓の打ち方が強烈だからこういう足運びになったのだろうか、どうなのだろう。

総じて思ったのは、原発事故区域という特殊環境であるか否かに関わらず、結局、民俗芸能の悩みは後継者不足ということだった。それが東日本大震災後の原発事故や津波によって土地を離れる人も多くて、より顕著な感じで急激に後継者不足になってて、外部から関わる協力者が早急に必要になったように思える。外部から関係人口による支えで数年後に復活して今に至る芸能がある一方で、全く復活ができない地域もある。だいたい踊り手はお年寄りで、マイクの扱いに慣れておらず演舞中にそれを付け直すという仕草が見られたほか、途中、担い手のおばあちゃんが転倒してしまうということがあったがあれはあえての演出だったのか事故だったのかどうなのだろう。笛の御囃子や歌の部分をカセットテープで流すような場面も見られた。完全なる継承は難しいところもあるとは思う。

あと今回感じたのは民俗芸能は多種多様なものを一箇所で見るよりも、ひとつひとつをじっくりと継承されている土地で見ることのほうがずっと価値があるということだ。芸能はポッと出て現れたJPOPとも違って、その土地で脈々と受け継がれていることに価値がある。とすれば、民俗芸能大集合イベントは各地域に足を運ぶ起爆剤にすぎない。いくら盛り上がっても、そこに繋げないといけない。だから、土地を垣間見えるようにする工夫、足を運びたくなるヒントを散りばめねばならないのだろう。そういうことを非常に強く感じた滞在だった。



祭りは地縁融合コミュニティを形成した

東日本大震災・原子力災害伝承館 常任研究員の葛西氏の説明書きによれば、「コミュニティ生成過程への注目〜双葉郡浪江町の事例を通じて〜」という研究で、浪江町には以下の4つのコミュニティが存在するという。それが「地縁コミュニティ」「地縁融合コミュニティ」「目的縁コミュニティ」「目的縁融合コミュニティ」である。地縁とは地理的範囲を確定した中で生まれる人のつながりで、その中でも移住者と地元住民のつながりを「地縁融合」と表現しているらしい。また目的縁とはある目的を介した人のつながりのことで、「目的縁融合」とは先ほどと同様に移住者と地元住民のつながりをその中に含むということのようだ。このうち地縁融合コミュニティ生成のきっかけは、土地に根づいた神社、神楽、民俗芸能、祭だったようで、この事実は大変興味深かった。つまり、移住者が入ってきて以前とは全く異なるコミュニティに変化したにもかかわらず、新旧の人々をつなぐきっかけは神社、神楽、民俗芸能、祭だったというわけである。このことを知れただけで、僕は本当に来れてよかったと思った。

ジャーナリズムの力

それから企画展と民俗芸能イベントだけではなくて、常設展も拝見できた。僕は毎日新聞社の方々が撮られた写真の数々が最も印象に残った。民俗芸能の研究できたつもりだったが、ドキュメンタリー、ジャーナリストの力をまざまざと見せつけられた部分が大きく、今回の訪問で最も印象的だったところである。東日本大震災後、子どもをおんぶした女性が長いトンネルを歩く姿、弓道場の避難所で椅子を机にして寒い中で少女が勉強をしている姿、除染のために樹皮を削り取られてしまった柿の木が収穫できずに黒ずんでいる姿など、現場にいないと想像もつかないような微細な描写の数々が、東日本大震災がなんだったのかを物語っていた。それを拝見して、何度も涙腺が緩くなったし、祭りは暮らしの中で生き延びるということに比べれば緊急性が薄く二の次のような感じが否めない。祭りの役割はなんだろう。

震災後に記憶を手繰り寄せる人々

寒空の中、海岸まで歩きにいく気力もなく、寝不足のまま伝承館の外に出てみると、だだっ広い原っぱがそこには広がっていた。土地の歴史も文脈も飲み込んだ津波によって、芸能は土地と建物を失った。新しい建物を作らねばならず、そして変化せざるを得なくなった。そんな時に人間を民俗芸能に繋ぎ止める鍵は何かといえば「記憶」なのだろうと思った。故郷の芸能とは何か、もう一度「記憶」を頼りに再現しようと奮闘した10年だったに違いない。芸能は記憶保存装置である。家族との絆、地域の絆をもう一度捉え直すために、先祖代々受け継がれてきたものをもう一度、手繰り寄せている。そういう過程の中で、芸能もジャーナリズムも私たちに記憶の片鱗を垣間見せてくれる。


岩手県で山伏芸能の源流を考える

鵜鳥神楽、厳しく勇ましい山伏の面影

次の日、盛岡で一夜が明け、真っ白な雪化粧をした岩手山が美しい。盛岡郊外の道をレンタカー屋に向かう途中、大きな橋を渡っていたら、岩手山方面の川のほとりで驚くべき光景が見られた。白鳥が何十羽も水面で羽を休めているではないか。途中住宅街に入っても、すごく近い上空に白鳥が飛んでいて大変驚いた。ゆったりとした時間の流れを噛み締めるように僕もしばし数分間その姿を眺めていた。留まるものと、ゆっくりと動くものが対照的であり、白鳥も雪の一部なんじゃないかと思うくらい白かった。辺りが雪で覆われすぎていて人影もないので、白鳥は悠々と過ごせるのだろう。自然の神秘を垣間見ることができたのは本当に素晴らしい出来事だった。

それから車で普代村に向かう途中、「小川炭鉱」と呼ばれる閉山した鉱山があり、そこの坑夫たちが食していたとされる「小川炭鉱ホルモン」を提供しているお店がありとてもそそられたので、朝10時半と早い時間であったがランチにすることにした。小川炭鉱は2009年に閉山したそうだが、このホルモンは朝鮮から来た坑夫の伝承をヒントに考案され、60年前からこの鉱山の人々の胃袋を支え続けてきたらしい。その閉山は大きな打撃だったろうが、それでもこの山の中でまだ細々と老夫婦がホルモンを作り続けている姿に心を打たれた。炭鉱ホルモンの味は本当に今まで食べたホルモンとは全く異なる味わいで、クセが全くなく素朴で優しくて素晴らしい美味しさだった。クセがなくて大盛りで野菜もたっぷり取れるから、もりもり食べてご飯も大盛りにしてもらって嬉しかった。ところでここら辺にも八幡様のお祭りがありお神輿を担ぐらしいが、コロナ禍以降、お祭りができない状況らしい。おばあちゃんは村の郷土博物館のパンフレットを手渡してくださり「やっぱりね、小さいところはそうのが楽しみなんだもんね」と微笑んだ。「ゆっくりあまり飛ばさないようにね」と気遣いながら送り出してくださった。山奥の田舎に温かい出会いありだ。さてその後に岩泉町立図書館を訪れ、文献を拝見してから、いよいよ本日演舞が行われる普代村黒崎にたどり着いた。

演舞の流れとしてはこのようだった。まず、「黒崎地域活動拠点施設」の玄関前で、12時半から舞い込みが行われた。権現様を持ちながら舞い、終盤になると権現様を被り、火を足で踏み消す火伏せが行われた。そこから、施設の中に移動。13時から神楽が開始され、座揃から始まり舞い立ちに至るまで演舞が展開された。舞い立ちが終了したのが、16時半。最後はステージで演舞するだけではなく、神棚や玄関でも舞われ、入念な厄祓いがされているように感じた。公演の演目の流れはこのようだった。

舞い込み
座揃
岩戸開
岩長姫
日本武
榊葉
山の神舞
恵比寿舞
綾遊
舞い立ち

ご祝儀は3000円が基本で、高いと5000円の時もあるようだった。多くの方はいつの間にか、演舞が行われる部屋の入口付近にいる受付の方に手渡していた。僕は気付くのが遅れて払うタイミングを逃してしまったが、最後に舞い立ちの時に最年少の担い手がお米を入れたお皿のうえにお金を入れられるようにして手に持って歩いていたので、本当に少額ではあるが入れさせていただいた。このご祝儀によって、おそらくいろいろな費用が賄われているのだろう。会場にはお茶やビールが振舞われていたほか、山の神舞いの時にはお菓子やお米が会場中に撒かれていて沸き立っていた。そのほか、権現様が噛んでいた大きなお餅が、舞い立ちの時に分けられて、それがラップに包まれた状態のものをいただくこともできた。そのほか、恵比寿舞の時には鯛のぬいぐるみが観客席に預けられ、それを恵比寿様が釣ろうと必死になっていてそういう掛け合い含めて、会場と神楽との間には積極的な交流があり、それが神楽をより一層楽しませてくれる要因になっているように思えた。ご年配の観客が多く、車椅子の方々は最前列で見ていてとても楽しそうだったので、素晴らしい配慮だと感じた。


古層にある山伏ネットワーク

印象的だった演目としては圧倒的に山の神舞で、ダイナミックで力強くて格好良すぎた。黒森神楽を以前拝見した時から思っていたが、この演目は振りが大きく演目が長いので相当な体力が必要そうであり、どこか神がかりを感じさせるほどの没入感がある。早池峰神楽などにも共通して見られ、山伏文化の中では非常に重要視されてきた演目だ。これは下北半島の獅子舞である「入口の獅子舞」の「虎の口」の演目に非常に似ており、少なからず関連性があるだろう。明治時代に岩手県二戸郡一戸町から入口へと獅子舞が伝来したというが、ここには虎の口はなく、他にこの演目を継承している団体はないので、入口の獅子舞は何かの演目を虎の口へとオリジナルな形で昇華したのだろう。一戸町といえば、高屋敷神楽があり、ここは山の神舞と権現舞が大きな演目として存在する。そして鵜鳥神楽の継承地と一戸町は100kmもなくかなり近いことから、何らかの交流や関わりがあったものと考えるのも無理はない。

また鵜鳥神楽を観ていて感じたのは、富山県や石川県の獅子舞に似ているようにしか見えないということだ。でもその関連性はどこにあるのだろう。途方もない山伏文化の一端を見ているように思えてきた。富山県新湊の獅子舞にはボンボコ舞が出てくるが、これは鵜鳥神楽の恵比寿舞に似ている。それから富山県全般的によく出てくる獅子舞に対峙する天狗は、鵜鳥神楽の山の神舞に似ている。山の神舞の片足ステップの踏み込み方は、まるで加賀獅子の棒振りの足遣いのようにも思える。加賀獅子の獅子殺しは、鵜鳥神楽の大蛇退治の演目にも似ている。また、「東西東西〜」から始まる祝儀の掛け声があって、これは富山県や石川県の獅子舞と鵜鳥神楽の共通点である。うーん、あまりにも類似点が多い気がするのだ。

これは日本の大動脈として芸能文化の中心を担っていた修験者や山伏のネットワークの中で、伝来されていったのが実情だろう。富山県の松明の火を使った獅子舞は立山修験に由来するというし、白山信仰と石川県の獅子舞分布は大いに関係があるからこれは白山修験と絡むわけである。そして、この松明の火を使う富山県の獅子舞は六渡寺を中心に広まったわけだが、これは鵜鳥神楽の舞い立ちの時に、火伏せの願いを込めて松明の火を獅子舞が足で踏み消すという所作を連想させる。上記の関連性は鵜鳥神楽に限ったことではなく、黒森神楽でも同様の傾向が見られることは言うまでもない。

東北の修験者と北陸の修験者を繋ぐものとは何か。うーん白山と対称性を持つ黒の信仰・熊野修験の影響力が絶大だったことの証明でもあるのだろうか、あるいは全国に信者がいて、修行に訪れた白山信仰の影響力の証であるのか。近世以前は吉野・熊野信仰優位、近世以後は白山・伊勢信仰優位と考えれば時代的な丁寧な考察も必要だろう。白山の白は西であり、死、西方浄土であり、祭神はイザナギを黄泉の国から帰還を迎えて禊を勧めた擬死体験・境界の神を祀る場所。冬という生命の生きながらえる期間の少ない太陽の日射がわずかな時期に再生の儀式として山伏神楽(東北)や花祭(愛知)、高千穂銀鏡などの神楽(九州)などが12〜1月に実施されることと関連性はいかに。非常に深掘りしがいがあるテーマである。

山伏神楽の連関の中で捉える

鵜鳥神社社務所『鵜鳥神社(卯子酉神社・うねどり様)』(平成2年11月23日,鵜鳥神社) P302によれば、山伏神楽は東北4県に伝わる神楽であり、青森県は能舞、岩手県は神楽、秋田県と山形県は番楽と呼ぶ。これらの源流は「呪師猿楽」や「田楽能」にあると言われている。鎌倉時代に一斉を風靡して、「田楽法師」や「猿楽師」といった職業が丹生したくらいである。全国の社寺に付き従って一座を形成し、鎌倉幕府滅亡後も信仰の山を求めて歩き回った。それで高野山や熊野山などでその舞いを演じてきたのだ。この神楽が信州の善光寺を経由して東北に伝わったのが現在の山伏神楽の起源だ。ちなみに室町時代に観阿弥世阿弥が創始した能楽もこの「呪師猿楽」や「田楽能」を起源としており、ただし山伏神楽の方が歴史が古いので能楽完成以前の姿を今に伝えている点で非常に貴重な芸能と考えられている。山伏神楽の各特色としては、巡行地域の広さからいえば黒森神楽や鵜鳥神楽が最も特徴的であり、海外に神楽を知らしめた伝統芸能の顔として大都市圏でも出張公演を行うのが早池峰神楽である。早池峰神楽は五七拍子であり優美であり厳粛、黒森神楽や鵜鳥神楽は三拍子で荒々しくダイナミックという特徴がある。このダイナミックさは太平洋の荒々しい波と激しい修験者の業を連想させるという話もある。ちなみに神楽という広い括りで捉えれば、日本全国の神楽は伊勢神楽か出雲神楽が多いようである。

神田より子『東北地方における修験者と権現舞』(国立歴史民俗博物館研究報告 第142集 2008年3月)という論文によれば、権現舞の研究史の基本ともいえる本田安次著『山伏神楽・番楽』に関して、「獅子を権現とあがめ、この獅子を祈祷のために舞わす神人達の持っていた芸能であったらしく、それは例えば、「祇園の社家記録(八坂神社叢書)康永二年(一三四二)十月十九日の条に 今 日御祈師子舞之。恒例春舞之処。依閉門延引。近日開門之間舞之(中 略)。猿楽三番仕之。師子者如例於庭上舞之。猿楽之時。召上禮堂云々。 白書師子猿楽。於堂上沙汰無先例」と見えるような獅子猿楽が、山伏の(3)祈 祷の方便に仕組みなおされた」と述べている。また山路興造の論について「観応元年(一三五〇)には秋田城之助泰長が熊野修験であった遍照院に、霞ともいえる獅子の舞場権と熊野牛玉札の配布権を認める寄進状を与えていたことなどから、東北地方では南北朝期に在地の熊野修験達が自分たちの霞で獅子頭をまわし、旦那に牛玉札を配札していた事が伺える」と述べている。これらが権現舞に関わると思われる最初期の古記の類だ。

鵜鳥神楽とは何か?

岩手県沿岸部の神楽といえば、「北の鵜鳥、南の黒森」と言われており、2大神楽の1つとして親しまれている。鵜鳥神楽は戦時中の一時中断のみで、それ以外は途絶えることなく連綿と受け継がれている。その始まりは明らかではなく、記録は残っていない。黒森神楽の歴史と共に歩みを進めていたことくらいしか手がかりがなく、そことの接点をこれから研究していく必要もある。

神楽集団は、鵜鳥神社に属するわけではなく、岩手県宮古市から下閉伊郡一帯の山間部に居住していたかつての羽黒派や本山派の修験者集団である。彼らが霞の中に住む神楽衆たちと手を組み廻村したわけだが、霞を越えてまでも廻村できた理由は、卯子酉山が漁の神様として厚く信仰されてきたからである。

毎年1月8日が舞い立ちの日であり、そこから廻村が始まる。北廻りと南廻りがあり、1年ごとに入れ替える。北廻りは久慈市小袖まで、南廻りは釜石市室浜・白浜方面までであり、圧倒的に南廻りの方が時間がかかる。昔は個人の大宿が一般的であり、神楽衆を家に招いてそこで神楽を演じてもらったという。鵜鳥神社社務所『鵜鳥神社(卯子酉神社・うねどり様)』(平成2年11月23日,鵜鳥神社) P349によれば、親族や近隣の家から「うねどり様がお泊まりになったそうでおめでとうございます」とお祝いのお金が金一封包まれて、これが大宿として神楽衆への祝儀になったという。黒森神楽の取材時には、裕福な家がもてなすことで所得の再分配的な側面があったことを知ったが、どうもこの大宿というのは少なくとも鵜鳥神楽においては、地域の取りまとめ的な側面もあったのかもしれない。今では地域の公民館など公の施設で行われることが多い。

鵜鳥神社社務所『鵜鳥神社(卯子酉神社・うねどり様)』(平成2年11月23日,鵜鳥神社) P350によれば、大宿において古くは石油ランプ、その前は松明によって明かりをともして夜に神楽衆を招き入れたようで、特に松明を燃やしてあかりをとったことでお神楽の終わりごろに「すすがで鼻の穴が黒くなった」というエピソードも残されているという。今は電灯でありバス移動だから、その演舞環境は大きく変わったようである。


鵜鳥神社の始まり

この神楽が伝承される鵜鳥神社とはどのような場所なのか?かつては鵜鳥とは「卯子酉」であり、修験者の霊場だった場所である。鵜鳥神社の草創は延暦23(804)年、もしくは大同2(807)年のことである。その後、建久元(1190)年には義経伝説が見られる。

金野静一『陸中海岸の民話』(昭和61年1月20日,トリヨーコム )P164~165によれば、ここは義経伝説と関係があり、蝦夷地(北海道)に渡ろうとしていた義経一行が、立ち寄りある日、古老からウノトリというトリについての噂を聞く。「毎年卵を産む季節になると、山の麓の泉の湧き水で身を洗い、その後に山に帰って卵を生み、これを大事に育てているという」。その後、興味をそそられた義経は山に入り、ウノトリを目撃することになる。「林の合間から垣間見たウノトリは、大きさはゆうに六尺(1.8メートル)を越え、しかも両の羽は、さんぜんと金色に輝いていたのです」。これを眺めていた義経は不思議な霊感に打たれ、七日七夜の行を行い、お告げを聞き霊山であることを悟る。そこで、この地で蝦夷地への無事を祈り、祈祷を行ったというのだ。下北の能舞取材の時も思ったが、義経伝説と神楽の関係性は非常に深いところで結びついているように思われた。

さてこの伝承、ウノトリが人を呑むと噂され、「不行道」という地名ができるほどに、その生息地付近の通行が恐れられたようだ。しかし鵜鳥神社社務所『鵜鳥神社(卯子酉神社・うねどり様)』(平成2年11月23日,鵜鳥神社) P311によれば、「義経の一行がこの地へ来た折に、けらいの3人がこの鳥を退治した。その人々の生まれが卯・子・酉の年だった。その人々の名がわからず、また隠れ人の身だったので名も告げなかった」とある。これが「ウネドリの神さま」の起源であるという。このエピソード、よくよく考えてもみれば、卯(=うさぎ、東、春)、子(ねずみ、北、冬)、酉(とり、西、秋)であり、太陽が真上に上る南であり夏を除いた太陽が陰る時期に対する祓いの呪術が込められているようにも思えるのだ。「不行道」と絡めていえば、おそらく方位に対する吉凶であり凶方位を「方違い」的にはらい清め凶威を逃すような祓いの意味が鵜鳥神楽には込められているのではあるまいかと感じる。脇侍として神社に祀られているのが、文殊菩薩、千手観音、不動明王であり、これが卯・子・酉と対応関係にあるような感じもあり大変興味深い。

伝承活動について

佐々木正太郎『<民俗音楽・宝の山シリーズ>岩手の民俗と民俗音楽』(平成29年1月21日, 錦正社)p160によれば、小学校への伝承活動について、鵜鳥神楽の違う演目を小学校ごとに教えているようだ。普代小学校「綾遊びの舞」、堀内小学校「三番叟」「榊葉の舞」、鳥茂渡小学校「みかぐら」、黒崎小学校「矢太寿」「七つ門」、普代中学校「七頭舞」という風に振り分けられている。これは普代村というのが小さな村だからこそ成り立つ、伝統芸能の学習による地域教育の高め方だったようだ。




東北の海を北上して見えたもの

さて、東北の太平洋側を北上して見えてきたのは、生き生きとそこの地に息づく芸能の姿だった。再出発せざるを得ない福島県双葉町一帯の芸能の数々と、歴史を脈々と保ってきて重層性を見せる岩手県鵜鳥神楽。両者は海と対峙しながら、冬の寒さに耐えながらも、逞しく強く生き続け、民俗芸能の根源的な目的、そして全国的な広域の視野を僕に教えてくれているように感じた。

参考文献
鵜鳥神社社務所『鵜鳥神社(卯子酉神社・うねどり様)』(平成2年11月23日,鵜鳥神社)
佐々木正太郎『<民俗音楽・宝の山シリーズ>岩手の民俗と民俗音楽』(平成29年1月21日, 錦正社)
金野静一『陸中海岸の民話』(昭和61年1月20日,トリヨーコム

豊橋市立図書館資料
https://www.library.toyohashi.aichi.jp/facility/chuou/information/H21.kin-oni.onidenjya.pdf

神田より子『東北地方における修験者と権現舞』(国立歴史民俗博物館研究報告 第142集 2008年3月)
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/1582/files/kenkyuhokoku_142_02.pdf