鰐がつく社名、鯖という土地名。極め付けは伊勢大神楽由来のくも舞まで伝来している。動物の印象がまず先行するこの神楽は実際にネットなどで調べてみると、道化役もいてどこか楽しそうな雰囲気がある。そのイメージに惹かれるとともに、山口県という獅子舞が少ないエリアにおいて、一際輝く獅子舞の姿を捉えたいという想いもある。2025年10月26日、山口県山口市の鰐鳴八幡宮で行われた小鯖代神楽舞を訪れた。
まずは交通のハブとなる駅を防府駅とした。30分で手際良く図書館で資料を探して複写して、急いでバスに乗り込んだ。図書館の位置がなかなか分からず彷徨い歩いたので、バスは予定より一本遅いものとなってしまった。防府の市街地からぐんぐん山の中を進んでいく。八反田というバス停で降車した。
ここから40分の道のりを歩く。レンタカーを借りるという手もあったが、なるべく歩きたいと思っている。それは道中ブログを書く余白を残すためと、この地を歩いてその風景をしっかり身体的に確かめたいという想いがあるからだ。防府の山々はどこか頂点が険しいような三角形の山が多いような気がする。丸型の山がとにかく少ないのだ。たまに岩がゴツゴツしたような山もある。雲がじわりじわりと広がっていく晴れた秋空の下で花やススキの穂が揺れてとても美しい。山の裾野が広くてその先には田んぼが広がっている。もう稲刈りは終わったようである。飲食店はあまり営業していない。田舎あるあるだが、土日は休むという飲食店は結構多い。

鰐鳴八幡宮にたどり着いた。参道はしーんとして静かである。多くの木々が折り重なり交差して互い違いに絡まりながら木のトンネルを作り出している。その長い長いトンネルの直線は異界へと続くようだ。横から木々を通り吹き付ける風がすっと入ってくる感じも良い。境内に到着して、その社殿の風格ある様には非常に感激した。庭もしっかり整備されており、これは格式が高い神社に来たと思った。それから何やらおもちゃの車を修理しているおじさんがいたので、「これから小鯖代神楽はどこでやるのか」と尋ねると、ちょうど「若宮八幡宮跡地」という違う場所に向かったところだという。

先ほどのトラックは確かにお神輿を載せていた。来た道をさらに戻って40分歩かねばならないことに急に焦り出した。ここから祭り行列が歩いていくのかと思っていたが、車移動だったとは!それでは早足で歩いていくことにした。どうやら今年は4年に1度の大祭のようで、鰐鳴八幡宮だけではなく、旧社殿の跡地でも実施されるということのようだ。若宮八幡宮跡地の場所は景好寺というお寺の入り口付近で、若宮病院の近くに位置していた。ここにいく途中、孫を連れていると思われるハーフパンツのお爺さんがいて、「こんにちはって言いなさいね」と孫に伝えていた。僕もぼそっと「こんにちは」を言った。
それで、案内された場所にたどり着いたのが、13時10分ごろ。紅白幕が張ってあり、そこで祝詞の奏上がおこなわれていた。それをしばし敬服するように眺め、その後に玉串奉奠ののち、小鯖代神楽舞が始まった。子ども場面をつけて獅子と対峙する。ひょうげ爺とおたまがその周囲を賑わし、ひょうげ爺が時折、観客に飴を配っている。これはおそらくおかめとひょっとこに値する役割だろう。太鼓は台に据えられて本格的な作りをしており、金や笛の音色も美しい。右回りに会場をぐるりと回り出し、継獅子の舞いのときに脚立が運ばれてきて子どもが担がれて獅子頭を操作する。素晴らしい舞である!そして、後ろにのけぞるような所作もあり、ハラハラした。



終了後、観客の頭をたくさん噛んでくれて、その後、お菓子や飲み物が配られた。地域の方々優先なので僕は控えていたが、あるおじさんが僕に飲み物を持ってきてくれた。見ず知らずの人に2本も持ってきてくださって感激した。お茶とグレープジュースみたいなのだった。普段は全く飲まないジュースも飲みながら、次の会場、いよいよ鰐鳴八幡宮での舞いを見るためにまた40分歩き出した。歩いていると、また孫を連れていると思われるハーフパンツのお爺さんに出くわした。どこかに孫を連れて行ってその帰り道なのだろう。また「こんにちはって言いなさいね」って孫に伝えていた。僕も今度は満面の笑みでこんにちはと返した。なんだか素敵な姿だなと思った。お孫さんはお爺さんに育てられているようだが、その歩く歩幅を合わせているのは孫の方である。この田舎道を車を使わず歩いているのは、そのお爺さんとお孫さんと僕と、あとは走ってるお兄さんくらいなもので、後はほとんど出くわさなかった。さて、道中、バッタとカマキリを見て、車道にはみ出そうになっていたので草むらに逃して、それから14時ごろに鰐鳴八幡宮に着いた。
鰐鳴八幡宮ではこども相撲をしているかと思ったら、もう終わっていた。その代わり、おじさんがいじってたおもちゃの車の取っ手を回すとシャボン玉が大量に放出されるのを子どもたちが楽しんでいた。それだけではなく、境内には昔の電話機「エジソン電話機」を展示していたり、昔の形態の車があったり、太った男の人がふわふわしている風船があったり、遊び心満載だ。非常に格式ある神社で、この遊び心を出せるのがとても素晴らしいと思った。なるほど、祭りの式次第をそのまま淡々とこなすのではなく、遊ぶ余白を残している。皆何をするでもなく境内で談笑したり、屋台で大判焼きやフライドポテト、焼き鳥などを買ったりしている。獅子舞の方々は準備万端そうなのだが、まだ始まるまで1時間あるらしい。僕は図書館で複写した資料を読んだり、カメラをいじったりしながら、1時間が過ぎた。雲行きが怪しくなってきた。黒い雲が神社の境内の上を覆い、今にも大雨が降りそうな天気である。風もビュービュー吹いてきた。それでも獅子舞の担い手たちは呑気に記念撮影をして楽しんでいる。


ようやく15時半ごろに獅子舞が始まった。ここ鰐鳴八幡宮での獅子舞は、どこか段違いに映えているような気がした。やはりこの社殿の重厚感あふれる雰囲気と、その一方で遊び心ある感じが、おかめやひょっとこがうろうろする獅子舞の雰囲気ともうまく合っているからかもしれない。先ほどと基本的に舞いの構成は同じだった。観客が円状にぐるりと獅子舞を囲み、右回りに獅子舞が展開される。途中、継ぎ獅子の舞いが挟まれる形態である。最後に終了後に獅子舞が頭を噛んでくれる。この時、流行りなのかなんなのか、噛まれる観客を顔の下から撮影するというカメラマンが大勢いたのはどういうわけか面白かった。



その後は餅まきがおこなわれた。バケツを持ってきている子どもも何人かいて、餅をかき集める気満々なのがとても良かった。餅がビュンビュン飛んでくる。最後の方に大きな餅が投げられて、取り合いは加熱した。

さて、最後にこのまま帰るのも惜しいと思っていたら、小鯖代神楽舞の演者の方が、餅を持ってきてくれて「お餅取れましたか?」と声をかけてくれた。いくつか取れたが、遠慮なくもらうことにする。見知らぬ来客も構わず声をかけてくれるのは嬉しい。そこで小鯖代神楽舞に関して、「舞い方に名前はあるのですか?」と踏み込んだ質問をしてみた。そしたら、奥の人を呼んできて、いろいろと教えてくれた。「獅子が口をパクパクさせる蚤取りの動作があるでしょ。それから獅子とやり合ってるのが鼻舞ね。なんかストーリーがあったら教えやすいと思ったんだけど、そういうのは覚えとらんくて。三重県の伊勢大神楽の方から伝わってきたみたいですよ。鳥取県の麒麟獅子とは違う系統ですわ」とのこと。
このように会話は非常に短いものであった。しかしながら、伊勢大神楽から伝わったのはしっかりと意識しているようだ。そして、鳥取の麒麟獅子という有名な獅子舞があることも認識してるようであるである。山口県には小鯖代神楽舞の他に、もうひとつ伊勢大神楽を由来とした獅子舞があり、それは防府市で継承されているということも教えてくださった。
さて、そこからまた40分歩き、そこからバスに乗って、防府駅に辿り着き、帰路についた。広島駅で食べたお好み焼きはとてもボリューム感があって美味しかった。うどんはダブルで注文した。今回の取材はどこかコンパクトでスムーズな移動ができてよかった。このくらいコンパクトな方が難なく取材ができて、しっかりと取材ができるので良いなと改めておもった。

小鯖代神楽舞の特徴
基本的に春と秋の大祭で舞われ、次第に五穀豊穣や悪魔祓い、民間の普請などの慶事に招かれて舞われるようになった。また悪癖病に効くと言われていたらしい。これは良くない癖や持病の話なのかもしれないが、その中身は不明だ。その場合は信仰者の頭を3回パクパクと噛むようだ。また4年に1度は若宮八幡宮社のあった毛割という土地でも舞うこととなっている。このように活躍の場はさまざまである。
獅子舞の構成員については、山口市『山口市史 史料編 民俗・金石文』によれば、獅子2人、鼻舞1人、ひょうげ爺1人、おたま1人、大太鼓1人、小太鼓1人、鉦4人、笛7人となっている。獅子舞の舞い方はまず右回りに舞い場を移動し、その後に神楽舞となる。鼻舞は獅子頭の鼻先のあたりで舞うことからそう呼ばれる。すりこぎでささらを擦って、日の丸扇で獅子をあやす。曲目には右回りに舞うことを「くも舞」とよび、右手に扇、左手に傘を持ち肩車に乗って舞う曲芸的な舞いを「継獅子」という。くも舞のとくも舞の間に継獅子が挟まれる形である。くも舞では、足を左右に動かして地を踏み、獅子頭を高く上げたり、地を這うようにしたりしながら浮き沈みを繰り返して前に進んでいく。継獅子の時は囃子のテンポが早くなり、くも舞の時は遅くなる。獅子舞が終わると、見物人は獅子に頭を噛んでもらう。山口市教育委員会『山口市の文化財』には「尊厳で和と静・勇の挙動がある」と書かれている。



小鯖代神楽舞の起源
どうやら鰐鳴八幡宮の「鰐鳴」の呼び方は、宇佐八幡神の勧請を行った刈屋、伊藤、原田の三家が豊前から帰る時に、船に鰐が付き添ってきたことに由来するようだ。椹野川を遡り、鰐石(わにし)と呼ばれる石のところで陸路に切り替わる時に、鰐がここからはもうついていけないために見送ることになり、そこで惜しむ気持ちで鳴いたと言う。それがこの社名の由来のようだ。この鰐は実は東日本でいう鮫のことであり、西日本では鱶(ふか)あるいはそれを昔は鰐と呼んだそうである。この鰐の信仰はどうやら水田稲作をする民が海洋民でもあり、海神として鰐を信奉したということのようだ。宇佐八幡宮を勧請した小鯖(鰐鳴)八幡宮は寛弘元年(1004年)に成立。応神天皇を主神とする。
小鯖代神楽舞の成立は時代がもう少し新しい。江戸時代初期、宮河内の氏子が伊勢に出かけて、伝承を受けたと考えられる。ここには家内安全繁昌の祈りが込められていたとされる。もともとの小鯖代神楽舞の姿は、伊勢御師の家にて、遠来の参宮者に向けて宿を貸して、参宮の案内に先立って、代神楽を実施して祓いを実施していたようである。小鯖代神楽舞の始まりとして、宮川内に根づいた経緯は定かではないが、元禄4年9月11日付けの八幡宮所蔵の文章によると、「一同 弍斗 右獅子頭江」の記述があり、少なくとも元禄4年(1691年)の秋祭りに奉納されていたことがわかる。

獅子頭を依代として神が移動するという発明
ここからわかることとして、伊勢大神楽が盛んになって間もない頃にはすでに、この山口の地にまで到達していたということである。伊勢大神楽の本拠地になった太夫村に山本十右衛門と山本市太夫の2名が住み始めて土地の開拓を始めたのが、慶長6年(1601年)6月のこと。伊勢大神楽の最初期の物語が山本源太夫家にて執筆された『伊勢太神楽由来ノ抜キ書』(1661年3月)であることを考えると、その30年後にはすでに山口までその神楽が到達していたのは非常に興味深い事実である。ちなみに伊勢大神楽の「大」は伊勢皇大神宮の「大」とも言われる一方で、神宮奉納料の「大」「小」に由来するとも言われる。また、小鯖代神楽舞の「代」は伊勢神宮に代わって獅子頭を神によりつけ神楽を演じる意味の「代」に由来するとも考えられるがはっきりしたことはわかっていない。ここに伊勢大神楽の革命的な発想があり、神楽とは基本的に一定の場所に神を勧請してそこで神楽を演ずるというのが一般的である。しかし、伊勢大神楽というのは獅子頭が神の依代であり、それが他地域へと移動することを肯定することに特色があると言える。小鯖代神楽舞もその性質を帯びつつ、のちに地域の民俗芸能として定着したと考えることができよう。

また、この小鯖代神楽舞と似た形態として、防府市大道の繁枝神社でも秋祭りで、伊勢大神楽を由来とする獅子舞が行われる。ここでは清めの舞、宝剣の舞、よろこびの舞、扇の舞(花舞)、しゃぎりの舞、肩立ちの舞、舞あげの曲という順序でまわれ、呼び方は違えど基本的に小鯖代神楽舞と同様の構成を持つ。山口県でもこのようにわずかながらに伊勢大神楽伝播の手がかりが点在しているのである。伊勢大神楽の伝播を解き明かしてくれるとともに、地方で愛される神楽を作り出していることが知れて、とても充実した取材となった。
参考文献
山口市『山口市史 史料編 民俗・金石文』(2015年3月)
山口県教育委員会『山口県の民俗芸能』(1982年3月)
山口市教育委員会『山口市の文化財』1965年3月