震災を経て獅子舞の役割を再考する〜宮城県女川町の獅子振りを取材

宮城県女川町の獅子振りを訪れた。東日本大震災から復活を遂げて10年以上経った今、女川はどのように変化したのだろうか。震災は地域のつながりや祈りを再考させ、現代の地域社会において、獅子舞が最も必要とされた場面のひとつだったようにも思える。

なにしろ、大震災の前後で人口が10分の1になってしまった集落もあるという。でも、獅子振りは今でも続いている。そこで獅子舞が担った役割とは何だったのか。そういう想いがあり、毎年女川を訪れている東京文化財研究所の久保田さんについて歩き、女川を訪れた。

まず元旦に東京から仙台の夜行バスに乗り、そこから電車で向かった。女川駅に降り立ったのは、2025年1月2日午前7時半。女川駅を降りると正面に朝日が昇ってきて、新しく整備された商店街とその広々とした道を照らし、ああ2025年も始まったなと心を新たにした。駅の周辺には津波に流されず残った鐘が「希望の鐘」として設置されていたり、震災の爪痕を感じるような場所が少なくなかった。


宮ヶ崎の獅子振りにまず訪れようと思ったが、山祇(やまずみ)神社にはすでに人がおらず、早めに獅子振りは終わってしまったらしい。ただ、その神社の境内に「女川いのちの石碑」があり、それは非常に興味深いものだった。「①非常時に助け合うため普段からの絆を強くする。②高台にまちを作り、避難路を整備する。③震災の記録を後世に残す。」を合言葉として、この石碑が作られたという。また「ここは津波が到達した地点なので絶対に移動しないでください。もし、大きな津波が来たら、この石碑よりも上に逃げてください。」と書かれていた。それを呼んだ途端に津波そのものが現実味を帯びて感じられた。この土地には、津波が本当に来たのだ。山祇神社のある小高い丘を発見した時、そのどこか歪にそそり立つ丘が、津波の激しさを物語っているようにも思えた。さて、それから宮ヶ崎の獅子舞取材を断念して、石浜に向かい途中で久保田さんと合流して竹浦まで伺えた時のことを振り返り、今回の獅子舞訪問の記録としたい。



獅子振りとはそもそも何か?

獅子舞ではなく獅子振り。この呼び方は宮城県女川町一体でよく呼ばれる。やはり上下左右に振るという動作が多いようにも思えるし、この動作が呼び名の起源なのではと思われるが、正式な由来は定かではない。もともと近場の宮城県石巻市にて継承されている「雄勝法印神楽」の春祈祷などの影響があって伝わったとされるが、その起源も明らかではない。

獅子振りは女川町の中では、竹浦、石浜、小乗、宮ヶ崎、大浦、女川、まむしなどで受け継がれている(大浦は近年途絶えてしまった?という噂もあり)。獅子振りの流れや構成はおおよそどの地域も同じである。大太鼓と小太鼓がまず打ち始め、歌を歌いながら進んでいく。途中で獅子が出てきて、玄関や窓から家に入り一階のリビングや神棚のある部屋をぐるりとお祓いして、最後の歌の締めを歌って終える。地域によっては後半にさしかかると、獅子あやしが扇子を振りながら獅子と対峙する場面がある。


石浜の獅子振り、住民が10分の1になっても継承

さて急いで石浜に向かうと、熊野神社の鳥居の前に3人ほど人がいる。これは獅子振りをするんだとすぐにわかったので、待っていた。そしたら、山の中にある神社から音が聞こえて、ああもう始まってしまったと。それならば町廻りからついていこうと思い直す。神社から担い手が降りてきて、すぐに仲良くなることができた。この石浜という地域は海沿いに水産関係の工場が立ち並ぶ。一軒の家を舞ったのちに、すぐに工場廻りとなった。あまりに敷地の面積が広いがために、途中曲が変化するタイミングで、室内の窓を開けて、曲の転換の合図を送るような場面もあり、その意思疎通が面白かった。早い時間帯なので鍵が空いてない箇所は玄関前で舞い、空いてて稼働している施設は中まで入って舞う姿も見られた。それが終わると町廻りで家を山側から一軒一軒順番に回っていった。最後は集会所にたどり着いた。ここで振ってからお昼になってお刺身やお寿司をいただき、交流が進んだのち、途中抜けさせてもらって竹浦へと向かった。

どうやら地域内外の人が集って獅子振りを継承しているらしい。おそらく地域外の方を受け入れる寛容さを持った地域なのではないかと思った。舞い手の方によると「昔と比べると軒数は10分の1ほど、純粋な地域の担い手の数は7〜8人になってしまった。実業団は無くなってしまったので、熊野神社の獅子振り保存会を作って、受け継いでいます」という。もともと石浜に実家があって震災を機に地域外に出てしまった人などに声をかけて、通いの人を受け入れることで、この獅子振りを継承しているようだ。「仙台の手前の七ヶ浜というところから通ってきてくれる人もいます」とのこと。

七ヶ浜から通っている方は実家で小さい頃から獅子舞を見ていたという。「小さいときは獅子見たら泣いで。うわーって言って、獅子いないからねえと騙されて頭を噛まれてさ。昔はそういうもんだから布団かぶって寝てるようにしてた。獅子きてもいないようにしておいてって言ってさ。近寄ってくると気持ち悪くなってドドドドドって走って、あれ、まだやってるよとか言って。またダーーーーーって走っていって。痺れが起きるくらいにおっかなくてダメだった。でも今は好きになったけどね。でも中学校ぐらいの時から、獅子ついて歩くの好きになった」とのことだった。そんなに恐怖感があったのに、今では獅子振りを盛り上げる担い手になっているのだ。「胴体が長い方が強い感じ、短いほどゆったりした感じがする。石浜は胴体が長い」とのことで、それも怖い要因だったのかもしれない。獅子の演舞には、安全祈願、無病息災などの意味が込められているらしい。

それにしても人が極端に少なくなった地域で、担い手の伝統をつなぐ意思がそれを強いものとさせていることが伺えた。実際に町の人数が少ないのでほぼ観客がいなくて伺った家の家主や工場のリーダーだけ出てくるという状態で、獅子振りが進んでいった。これは地域の観客が多い竹浦との違いでもあったが、それでもやはり担い手の活気は充分にあるように感じた。

さて、石浜の獅子振りの特徴を見ていこう。獅子頭は耳が立っているが、これは鹿耳だと言われている。昔岩手方面から伝えた人がいて、鹿耳の獅子頭を作ったようである。しし踊りとは違う展開である。雄勝では流木で作った獅子頭もあり、こっちの方が原型らしい。あとはここら辺は獅子頭の目玉が飛び出ている傾向がある。獅子振りの歌は、獅子が田植えをするような意味にもとれる一方で、長者さんがお金たくさん出してくれますようにという願いが込められているようだ。実際のご祝儀は1万円くらい出すところも多いらしく、全国的に比較してみると金額は高い印象である。

終了後に集会所で飲み会があった。そこで、担い手である21歳女性に話を聞いたが、お父さんがやってて自分も兄も獅子振りに参加するようになったという。太いバチは手作りによるものらしい。小さくて太いバットのような作りをしており、「この太鼓の音聞くとあがりますよね!」と言ったら「そうですね」と笑っていた。




竹浦の獅子振り、地域を繋ぐ復興の象徴「座布団獅子」

さて、それから竹浦へと向かった。こちらの獅子振りの大きな違いは「歌、法被を着ていない、地元の観客が多い」などであった。家に2度入れていただき、より地域と近いところで見学させてもらってとてもありがたかった。それだけではなく、地域の方に昔話を伺ったり、集会所にある「座布団獅子」という大事に保管されている復興にまつわる獅子を見せていただくこともできた。

竹浦の獅子振りは、昭和の頃はお正月の2日間、昼夜問わず続けて行われたらしい。「俺の家にはいつも23時ごろ獅子が来てたんだよ。そんで布団から起こされて、獅子見て寝るんだわ」という話もあった。しかし、いつしか昼夜ではなく昼のみになって、しまいに平成以降は1日に短縮されたらしい。どんどん獅子の時間は短くなっていったのだ。獅子の歌が短くなったことや、毎回、獅子を振ったあとに飲み会が行われて一軒あたりに1時間以上を費やしていたというから、驚きである。「夜に獅子を迎え入れた時には、酔い倒れてよその人が居間で朝まで寝ている姿も珍しくはなかった」という。祝儀をもらったら「昔はバスを一台貸し切って、1泊2日で山形に温泉旅行も行った」らしいが、「今ではおとなしくなった」とのことだった。釣船や漁師関係の人は2万円〜3万円、それ以外だとご祝儀は5千〜1万円を包むという。海に関わるひとは儲かるから、ご祝儀もたくさん出して、地域に貢献するようだ。それを後程、名前で書いて金額も整理するらしいので、そういう時の見栄のようなものもあるのだろう。

2011年3月11日の東日本震災後、獅子振りの道具は全て流されてしまった。「直前まで船で沖まで出ていたから本当に危なかった...」と振り返る方もいた。震災後最大で半年間、一時避難として、秋田県仙北市のホテルに泊まっていた住民たち。そこで70代女性2人が生み出したのが座布団獅子だった。座布団を折り畳み、安全ピンで留めて、コーヒーの空き缶2つを差して目として、口は紙を挟み込み、耳はホテルの館内用スリッパを取り付けた。また、防災用品の中にたまたま和柄の布があったので、これを胴幕としたようである。お2人は裁縫の技術があったこともあり、この獅子舞が生まれた。それにしても身の回りにあるもので生み出した座布団獅子の創意工夫には本当に驚かされる。この座布団獅子は非常に人気を呼んで、後にアジア各地やアメリカから留学生が見学に来て、新聞報道されて瞬く間に有名になった。この獅子は地域住民同士を繋げたのだ。この座布団獅子の誕生はとても象徴的な出来事だった。地域住民にその話を聞いてみると、「座布団獅子は(復興の)原点を感じます。地域にとってなくてはならない結束のためのものです。太鼓や笛の音もいいですよね」とのことだった。


2012年に竹浦はHERMESの支援で、宮本卯之助商店で獅子舞道具を新調。竹浦の方が宮本卯之助商店の職人さんと結婚した関係で、東京での縁もできているようである。それから女川町全体で日本財団の支援もあった。日本財団は8億円を芸能復興に充てた。その時に記念として女川の獅子振りはなんと東京の六本木ヒルズで公演も実施した。翌年2013年のお正月には、新しい獅子頭で獅子振りが復活した。2015年3月1日には、イギリスのウィリアム王子が女川町を訪れて、その復興の様子を見学され、竹浦の獅子振りと太鼓の演奏を楽しむ姿も見られたという。

竹浦の獅子振りは震災後、非常に大きく復活を遂げ、地域内外で活躍を見せている。竹浦の担い手は金髪の人が多かったように思うが、やんちゃ仲間の祭り魂が大きく地域に貢献しているように思う。親兄弟の繋がりで小さいころから獅子振りに慣れ親しんでいるとすぐに太鼓も獅子も溶け込みやすい。竹浦ではこの太いバチを思いっきり叩いて、木の破片が少しずつ飛び散るほどの力強い女性の担い手もいた。どの地域も必ず女性の担い手がいて「みんなを盛り上げてくれるんだ」みたいな話を伺えてとても興味深かった。獅子振り大好きな人が集まって、団体の垣根をなくした有志の会を結成。夏の盆踊りのタイミングで、演舞を合同で披露したこともあった。何かあった時に協力しながらやっていこうということで、継承に向けて女川全体で集まりができてきているようだ。小太鼓は皆一緒で、笛は違う。笛はワンフレーズずつで繋いた。参加者は「今までは自分たちの地区のしか知らなかったけど、(獅子やお囃子の)違いもすごくよくわかって勉強になりました」とのことだった。2023年1月には、小学生による獅子振り隊という組織も編成されたらしい。地域の方から小学校に獅子頭が寄贈されて、それを使って子どもが校内や地域の商業施設などで舞っているようである。獅子振り継承に向けて非常にたくさんの工夫があることが伺えてよかった。


女川の獅子振りの組織について

さて、ここからは女川の獅子振りの総括に入るとしよう。石浜も竹浦も金髪率が高かったが、若者のヤンチャな人含めて、祭りの盛り上がりができているようにも感じた。女川の獅子振りの担い手はもともと実業団を主体として運営されてきた。これは企業のスポーツ組織でよく聞かれる実業団ではなく、地域の団体である。ただしこれが近年、保存会が立ち上がり、共同での運営に変わった。実業団だと地域活動をさまざまに担い、年齢層も30〜40代が多いらしいが、これが保存会となると獅子舞に特化して保存・継承していこうという目的がはっきりする。また、近年はまむしと呼ばれる獅子振り団体も立ち上がったそうだ。もともと有志による団体だったが、それが地域の民俗芸能として定着したという。女川には全域的に、獅子振りを継承していこうというムードが高まっているように思われる。


空間認識、獅子振りしやすい家?

また、今回の女川の獅子振り見学を経て、最も興味深かったのは「建物や空間に対する意識」である。津波の来た土地だからこそ、新しい住宅地と昔からの住宅地の境目がはっきりしている。同じような作りの家が断続的に軒を連ねており、これが復興後の新築の家だということはすぐにわかる。しかし、今も昔も変わらないのは、玄関やその脇の大きな窓から獅子振りの獅子が家の中に入るということだ。昔は大きな窓の目の前に縁側があったのだろうが、今は仮説的なベンチのようなものが置かれている場合も少なくない。そして例外なく、この窓が広くて開放的である。獅子は家の空間をお祓いして、そこで祓った厄をこの窓から外に放り投げるような瞬間がある。窓から可愛らしい獅子頭の顔が覗くようなこともあり、とても印象的な場面だ。

そして、獅子が家の中に入ってくるということはそれだけ空間が必要なわけで、大きい家だと神棚のある家が13畳ほどあるという。この神棚には花のようなマークの紙が必ず貼られていて、これは太陽を表すという。またそこに緑色の色も入っており、これはお米とか収穫を表すのだとか。装飾が豪華で紅葉の枝も使われており、それに飾り付けがされている。

竹浦では一家団欒のような場で座布団に座り、獅子が入ってきて体を揺すり、そして出ていくまでの一連の流れを見学させてもらうこともできた。円を描くように一階部分のリビングや神棚の部屋をぐるりと回ることが多かった。その回る途中に、家主や家族、その友人や親戚たちは頭をお祓いしてもらう。頭を噛むと言うよりは口を大きくあけてそれを頭上で左右に揺らすので、左右の肩から頭にかけて全てをお祓いしてもらうような感覚なのだと言う。この一連の流れを家の中に招待いただいて2回経験させてもらえてとても感激した。獅子舞及び獅子振りと呼ばれる芸能はやはり空間の浄化、祓い清めの役割があるという原点の深い意味を再確認できた。


あとは石浜の獅子振りでは昔、家の中の高い梁の部分に悪魔がいると信じられ、肩車をして獅子をふるという話もあったが、今では少ないようでこれも家の空間が変化しているということかもしれない。今回の滞在ではこの舞いを拝見できなかったので、またいつか見てみたいと思った。

女川の獅子舞まとめ

今回の訪問を通じて、震災を経た獅子舞から、獅子舞そのものの役割を考える貴重な機会になったと改めて感じる。震災後の獅子舞の役割、それは座布団獅子が象徴していたようにも思う。とにかく舞うことで地域が元気になる。これからも頑張ろうと心新たにできる。獅子舞はそういう大事な役割を担っているように思える。六本木での演舞、ウイリアム王子の訪問、数々の活躍の先に、獅子振りは復活を遂げた。小学校での演舞団体設立などの工夫も見られ、これらは震災を乗り越えてきた証でもある。

また震災後を考えた時に津波の存在をどこか脳裏に掠めながら暮らすため、空間の認識が変わったように感じる。どこまでが安全、どこまでが危険という考え方である。その中で新しく建てられた高台の新しい家。しかしながら、昔とほとんど変わりのない庭が広くて縁側に近い窓と座る場所があった。変わることのない獅子舞に優しい空間設計は、この土地そのものが持つ気質のような何かを表出しているようにも思えた。

帰りがけに高台に登って町を見渡して、「止まってる列車があのあたりまで流れていってしまったんですよ」なんて話を聞いて、当時の様子を今でも恐ろしげに思い浮かべながら、夜の真っ暗な海を眺めた。街は非常に綺麗になった。そして、10年で大きな復興を遂げた。大きな濁流に翻弄されながらも、その中にあって変わらない伝統が、この地で脈々と受け継がれている。震災は街を押し流した一方で、変わらないものを残った人々に提示した。獅子舞の役割はこの女川から語られるべきかもしれない。そのような気づきを持ちながら、18時ごろ帰りの電車に乗って女川駅を後にした。