岐阜県高山市にて、金蔵獅子と蛇獅子の系譜を辿る!獅子殺しの真意とは何か?

飛騨高山には非常に重要な獅子舞の一系統がある。それが県指定無形民俗文化財となっている金蔵獅子である。加賀の獅子殺しでもない、伊勢大神楽でもないその中間を行くような地方的展開。その理解を深めたいと思い、2026年5月3日〜4日、岐阜県高山市を訪れた。3日は国府町金桶の金蔵獅子と、糠塚のまむしとりの獅子舞。そして4日には国府町広瀬の金蔵獅子を拝見できた。

今回はゴールデンウィークでの訪問ということで、非常にアクセスや宿泊に苦労した。なにしろ、新幹線は満杯だろうからと夜行バスを見るも、東京から高山直通が満杯、名古屋経由も満杯...。そうなると、もう富山経由しか残っていないということで、夜行バスで早朝の富山駅に降り立った。

富山から南下して高山市を目指す。途中から渓谷の緑が青々と美しくて見入る。この線は非常にローカルであるが、外国人観光客をちらほらと見る。これhあみな高山を目指す人々である。高山はインバウンド最先端で飲食店に入ると外国語のメニュー表ばかり。街を歩いていても外国人ばかりでご飯を食べようとしても宿泊しようとしても値段が高い。なかなか日本人にとっては観光しづらくなっている。かくいう安旅の僕も非常に苦労して、節約のために風呂に入らずに、やっと雑魚寝の宿を5000円ちょっとでとったという感じである。

国府町金桶 冨士神社、ハンカチの奇跡

さて、ここからは獅子舞について振り返っていきたい。飛騨国府駅で降りて歩くこと30分ほど。金桶というエリアに着いた。
神社の方向を間違えたようで迂回するのに山をぐるりと回り、20分くらいかかった。鳥居の前でお辞儀して入ると、激しく爽やかな風が吹いた。こんな感覚は初めてだが、どうやら私は歓迎されているようである。

拝殿では神事が始まっており、浦安の舞を奉納していた。途中、浦安の舞の音楽のテープがだぶるようになり、慌てている様子もあったが、その後は難なく行事は滞りなく進んだ。「神楽奏上」の声がかかり、ここで誰か舞人が現れるのかと思いきや、大きな太鼓がドーンと重い音を響かせて打たれ、そして笛が鳴った。詳細は不明であったが、これが「神楽」ということのようだ。それにしても太鼓の大きさが大きいし、重くて大きな音が出るので、びっくりした。

神事が滞りなく完了すると、間もなく石段を少し降りたところにある神楽殿のような舞台で、金蔵獅子の時間である。サービス精神も旺盛で、基本的には観客は地元客のみのようだったが、見学に来た外国人観光客の夫婦がいらして、その方に体験として獅子をかぶらせていた。

それから、獅子舞は2演目披露された。終始、舞台の真下で動画を撮る小学生くらいの男の子がいて、的確な角度で動画を撮るのに苦労したが、本当に純粋に獅子舞が好きな様子が伝わってきてよかった。それから金蔵獅子の担い手たちも、三脚を据えて動画を撮影しており、演舞の記録アーカイブに力をいれておられるようだった。

それから、舞台での演舞が始まった。まずは獅子舞1頭が登場する演目(おそらくは「曲」)だった。その後、おかめと金蔵が登場する「金蔵」へと移った。金蔵が獅子を退治するような物語となっており、獅子との攻防が非常に迫力があった。おかめは直接的に獅子に働きかけることなく、その回りで囃すように舞っているようだった。

非常に激しい獅子舞だった。担い手の方によれば、「うちの獅子舞は他のところと比べても特に激しい」とおっしゃっていた。確かに僕もそう感じていて、シャッタースピードを1600分の1まであげないとブレるなあという感覚だった。いつもであれば、400分の1くらいで十分なので、相当早いなあという感覚である。

それから終了後に、神社の参道を鳥居から出ようとしていた時に、その手前で、「ハンカチ落としませんでしたか?」と呼び止めるスーツの方がいた。「いいえ、違います」とその場はお返事をしただけだったが、後から振り返って、「午後はどのように回るのですか?」と予定を尋ねてみた。すると、「獅子と金蔵、おかめの神輿を子どもが曳いて回るんです。あと、獅子舞が簡単な舞をして、家を一軒一軒回りますよ。いろんな地域の方が参加しています」とのことだった。「明治時代には小松宮殿下が馬車で通って、この獅子舞を御覧いただいたのですよ」と教えてくださった。名刺をお渡ししてみたら、家業のご立派な不動産屋の家屋に案内していただき、名刺をとってきてくださった。「ぜひ何かあればご連絡ください」とのこと。ハンカチをきっかけに素晴らしいご縁ができた。ちなみにハンカチの持ち主は見つかったようである。

改めて振り返ると、この地域の金蔵獅子はとにかく激しいと感じた。15分近く、側転などを含む演舞を続けるので、若い担い手の獲得が必須である。そのための工夫として、映像の記録作成やPRなど含め、残す映像と外に魅せていく映像の両側面についてしっかり考えておられて、2026年5月16日には国府公民館で映像の上映会を実施するという話も伺った。獅子の形態的な話でいうと、お亀が左手にささらを持ちそれだけではなく、右手に木のデコデコを持って擦り合わせる。広瀬の場合はささらを2つ組み合わせて擦るのでその点で地域的特徴がある。


国府町糠塚 白山神社、まむし取りの獅子舞

それから「ありがとうの広場 すえひろ」という場所にある、麺屋さんで、焼きそばとご飯の定食を食べた。ボリューム満点を予想したが、意外と少なかった。焼きそばが凝っている感じがした。付け合わせの野菜や肉が細々としていたのがよかった。ここから小雀獅子に向かおうかとも思ったが、歩いて3時間くらいで公共交通機関のアクセスが難しそうだったので、この近くのエリアの獅子舞に変更することにした。

歩いて50分ほどのところにある、糠塚というエリアに向かった。ここは山の中にあるエリアで、徒歩で向かうと後半、ほぼ山登りである。しかし、視界が開けてきて国府の街並みが徐々にひらけてきて美しかった。それから昔、年貢か何かの徴収が厳しくて村のために直訴した人物に関する説明板がありそれを拝見してから、急なグネグネした道を登りきると、田んぼやこじんまりとした牧場がある直線に出た。この高山市の山間部はなぜ、この時期に鳴くカエルの声が逞しいのだろうか。以前、この時期に両面宿儺の取材で近在に訪れた時にも感じたのだが、とにかくカエルの声が逞しい。人間が通ると、その存在を察知したからなのか、声が少し中断して、また鳴き出す。当たり前のことではあるけれど、人間もこの自然に対して働きかけていることを実感する。

集会所の前にたどり着くと、獅子がいた。これから祭り行列が、神社に向けて進んでいくようだ。見物客に「どこからきたのですか?」とすぐさま尋ねられた。こう聞かれる時は大体、あまり見物客が来ない祭りであることが多く、地域の村祭り的な雰囲気なのである。おそらく縁故がなく外から訪ねてきた人は僕のみなのだろう。そこで、「まちづくり協議会さんのinstagramを拝見してきました」と団体名を出すと、「ああ、そういうところで告知しているんだね」などと見知ったような口調になって、受け入れてくださった。

それから白山神社へと向かっていく。白山神社へも急坂を進んでいく。この坂もなかな急である。そして鳥居があり、お辞儀して入ると、ここでも激しく爽やかな風が吹いた。「あ、また受け入れてくださっている」と思った。こういう感覚は非常に珍しく、何かしら縁のある土地なのだという感覚が強くなった。

それから境内では金桶の時と同じように、神事が始まった。境内下の敷地内に四方を縄や紙垂によって囲まれた榊の木のような木があり、そこでのお祈りをするのが金桶と共通していた。そこでは浦安の舞こそなかったものの、非常に丁寧に玉串奉奠を実施している印象を受けた。神事ごとが丁寧に実施されている土地のようである。その合間で、神事の進行を見守る地域住民の姿があった。

なぜか見物客の中では、子どもが非常に多い気がする。すぐさま理由はわかった。まず、お菓子がもらえるようである。それもいくつか袋詰めされていて、お得感のあるようなお菓子の詰め合わせだ。中には、手作り獅子舞で幕付きのものを持参している子どもが2人いた。一人は金色の獅子舞、もう一人は赤色の獅子舞である。時折、被って大人や子ども同士で戯れる姿があり微笑ましかった。またペットボトル投げをして遊ぶ姿も見られた。時折、そのボトルが田んぼの方まで飛んでいって取りに行っていた。

神事が1時間以上に及び、途中で雨が降ってきた。そこで、どうやら「獅子舞は公民館で行います」と伝えており、そこで、再び、集会所へと戻った。集会所みたいな小さな空間だと、よそ者である僕は非常に緊張してしまう。しかし、最初に声をかけてくださった見学のかたが、僕を「ぜひ中に入ってください」と促してくださり、なんとか空間の端っこで動画と写真を撮らせていただくことにした。

2演目が演じられた。金蔵獅子同様の構成で、まず、獅子が舞い、その後に、見どころとなる演舞へと移った。ここでは「まむしとり」が行われた。担い手によれば「これは蛇退治をするんです」と教えてくださった。この 近くの村上温泉で以前、「へんべとり」というこれも蛇に絡む演舞を拝見したことがある。これと似たような系統であるが、あの時は蛇を退治するというよりも「踊りを教えている」と教わったことを思い出した。似た舞いでも、地域によって解釈が異なるようである。

演舞の間は終始、カーペットがコの字型に組まれて獅子舞を囲むようにして、お酒やジュースを飲んだり、お菓子を食べたり、して皆思い思いに過ごしていた。地域住民でない僕はそれをいただくか迷ったが、お酒を何回か注いでくださって、地域の方も僕のことを気遣ってくださっているようだった。動画が見切れるようなことはあったものの、何度も注ぎに来てくださったのは嬉しかった。

それから2演目の終了後に、「蛇の獅子舞について聞かせてください。詳しい方はいますか?」ということで、担い手に繋いでいただき、そしてお話を伺った。

ーーいつもはどこで練習していますか?
いつも集会所で練習していて、夜の8時から実施しています。

ーーなかなか蛇の獅子舞は見ませんが、どのような動きをしますか。
始めた頃からこういうものをやっていますね。蛇を食べるというものです。どぐろを巻いているのですが、それを咥えて、見上げて、歩きながら食べていくんです。他の部落にもあると思うんやけど。

ーー獅子の種類は幾つですか?今回は2つでしたよね。
ここの地区では本当は5つの舞い方があります。ざいぶり、たかやま、ふたつ、曲、まむしです。今回舞ったのはそのうち2つでした。まむしはいつもはもっと長くて、30分くらい舞いますが、今回、その3分の1くらいでした。いつ食べるんやろう?ってくらい、繰り返しが多い獅子舞なんです。

コロナ前は全ての演目を実施していましたが、コロナ明けからは縮小しています。舞える人数も減っていて、疲れる獅子舞なもんで。俺は48で、相方が46で舞っています。限界きとるんですよ、50になるまでとは思っていますが、後継者がいません。20〜30代がおれば良いんだけど。この部落では20代が1人、30代が1人で、あとは40代なんです。しかも後半なもんで。

ーー子どもたちはたくさん見にきてくれていますよね。
そうそう、ただほとんどは親戚の子で、地元の子は少ないと思う。うちもそうやけど、妹の子どもは見にきてくれていますね。

ーーいや、それでも会場に活気があるなと思ってみてましたよ!
ほんと?そう思ってみてもらえるのは嬉しいです。

東京から来たことを伝えると、シティボーイやんとおっしゃって驚いていらしたが、よく田舎の人みたいって言われるんです。とお答えしておいた。ここでも素晴らしいお話が伺えた。貴重な強いs米をありがとうございましたとお礼を伝え、その場を後にした。

お話を伺っていて、近年、飛騨市で途絶えた1300年の歴史ある数河獅子も激しい獅子舞である。このような獅子舞はとにかくかっこいい。しかし、担い手がとにかく若くないといけない。今回、お菓子を配ったり、親戚を連れてきたりして、工夫されている点に学ばせていただいた。

それから集会所を出て雨の中歩き出すと、横を通った車が止まってくださり、「乗ってくか?」とのこと。すごく綺麗な高そうな車だったが、中の運転手は農作業をしてそうな素朴な感じのおじいちゃんだった。大変ありがたく、「三ツ石まで行こうと思っています」ということをお伝えした。その方は昔、獅子舞の太鼓をしていたようで、獅子舞に関しての想いがある方で、最近は映像での記録も進んでおり、「誰が撮影したのかわからんけど結構長いことかかって、今度、(その成果として)国府会館で映像の上映もします」と情報を教えてくださった。これはどうやらネットを調べると、金桶の金蔵獅子の話のようである。春と秋の祭りでは獅子舞はせず、ゴールデンウィークの時だけ。今回、貴重な獅子舞であった。このたどり着いた三ツ石は光り輝いていた。素晴らしい出会いに感謝である。

国府町広瀬の獅子舞

朝7時半起床、高山駅近くのスタバで作業をした後に、電車で昨日と同じ飛騨国府駅へと向かう。急足で看板が開けっぱなしなのも忘れて歩いていると、鉦を鳴らす一団が道端で列をなして歩いている。どうやらこの地域には子どもたちが継承をする「闘鶏楽」があるようだ。それから線路沿いに15分ほど進むと、11時には度瀬神社へと辿り着いた。

ここで改めて、広瀬の獅子舞の演舞の流れについて振り返っておきたい。本日は以下、3つの神社での演舞を中心として展開された。

11時 度瀬神社
13時 秋葉神社
15時 廣瀬神社

まず、度瀬神社では非常に厳かな神社で、杉の大木が境内にかなりの数立っていて、古い歴史のある社であることを思わせた。なかなか演舞が始まらなかったが、神事、鶏闘楽の後に、獅子舞が開始された。初めて拝見した印象としては、金蔵の演目が非常に演舞時間が長く、20分近く舞っていた。感覚としては、金桶よりも演舞時間が長いような気がする。

また、金蔵の面を被り衣装を纏う子どもがいて、大人の演舞が始まった途端に踊り出して、おじさんが不意に本物の金蔵の踊っている真横まで連れていったら、控えの担い手によってまた客席に戻されるというハプニングがあった。瞬間的に金蔵が2人になったことで緊張が解けて笑いに包まれた。これぞ、道化役の本望だろう。演舞終了後に、おかめと金蔵に関して、担い手の方に非常に興味深い話を伺うことができた。

ーーおかめと金蔵が戦っているように見えたのですが、あれは獅子と金蔵との戦いではなくて、他にもそういう争い事があるのですか?

あの、金蔵ってのは小心者の見栄っ張りなもので、おかめがその手助けをしているんです。俺を庇うな、邪魔するなということで金蔵が怒るんですよ。夫婦喧嘩のようなもので、でも、おかめとしては金蔵を助けたいんです。ノミがついているからそれをはらってあげたいなどですね。

ーーおかめがささらを擦っていたのは、何かしていたんですか?
ささらっていうのは、肉を切っているということなんです。ジャカジャカジャっていう音を出して、切るんです。で、それも金蔵が「俺の仕留めたやつを何する!」と怒るわけです。

それからお昼ご飯を食べに、近くのお店に中華料理を食べに行った。そこで、ボリューム感や味付けなどの観点で、本当に美味しい中華に出会えて、とても嬉しかった。

それから、13時に秋葉神社に着いた。ここでは時間通りには始まり、街の中のこじんまりした社であった。ここでもしっかり金蔵が披露された。金蔵の演目は先ほどの度瀬神社では19分ほどであったが、ここでは16分ほどの演舞時間だった。少し短縮して実施されたようで、曲の演舞もなかった。しかし、ここでもお客さんがたくさんいて、さすがの演舞だった。

それから、獅子舞についていくと、2手に分かれて、家々を回っていた。家々を回る演舞のことを、この地域では「カイダン」というようだ。道路の向こう側とこっち側という風にして、並行して進んでいく。病院や郵便局などでは、先ほどの秋葉神社の時と同じように金蔵を演舞するものの、個人宅では小走りに走って玄関の中まで入ってきて、その家の方の頭を噛むというのが基本的な動き方だった。

また獅子舞と同時に、鶏闘楽(けいとうらく)が家々を回る姿も見られた。鶏闘楽とは、大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)P107によれば、「鶏を鳴かせて天照大神を天岩戸から呼び出したこの鶏の声に鉦の音が似ているところから、こう呼ばれる」とある。

さて、それからスーパーに寄っているうちに時間が過ぎ、再び獅子舞を追いかけた。田んぼに映る雲を見て、ああ、春になったと思った。これから稲を植える田んぼはたっぷりと水が張られていて、その向こうにはなだらかな山がそびえている。

さて、廣瀬神社には15時にたどり着いた。ここでは曲と金蔵が演舞された。お客さんの人数がとても多かった。狛犬にしめ縄と紙垂がつけられていて、演舞を見守っているようだった。

ここにきて気づいたのが、この地域にはカメラマンが少ない。三脚を立てているのが、僕ぐらいしかいなくて、安そうな一眼レフカメラを携える方はいるものの、圧倒的に携帯で動画を撮るという人が多い。あまり観光化が進んでいない証だろう。たまたまツーリングで通りかかった外国人観光客が数名いたが、外部の方はそれくらいだったかもしれない。

これは県指定の金蔵獅子があまり対外的に認知が進んでいないということの証でもあるが、その反面で同時に今の姿を保って欲しい気持ちもあった。どうしてもカメラが多くなると、祭りが観客に媚び始めることもある。その意味では、適度に在住者が多くて、観客もいて、非常に素晴らしいバランス感で継承されている獅子舞であると感じる。

さて、ここでの演舞も度瀬神社の時と同じくらいの長さで、素晴らしい演舞だった。それから、スーパーやタクシー会社などで舞い、終了となった。

改めて広瀬の獅子舞を振り返ると、さすが世帯数が多い地域である。どこも非常に多くの人が境内に詰めかけていた。鶏闘楽がまず実施されて、その後に獅子舞という順番が徹底されていた。また獅子舞は曲、金蔵の2演目で、この構成は度瀬神社と廣瀬神社で共通。あとは秋葉神社では短縮版の金蔵が実施される流れだった。また、この地域は朝から夕方まで、2組の獅子・金蔵・お亀が地区の回壇を実施。熱心に町回りをされている印象だった。地域に根付き愛されている獅子舞という感じがした。

さて、この日の最終演舞を見届けて、飛騨国府駅から高山駅まで電車で戻った。それから、高山で風呂に入り、食事をとって、帰路についた。そして、電車で名古屋に到着。日を跨いで間もない夜行バスで東京へと帰った。

金蔵獅子の歴史

さて、ここからは5月3日に高山市立図書館、そして5月4日に国府分館で調べた文献をもとに、金蔵獅子について深掘りをしていきたい。飛騨国はどうやら「獅子舞の生きた博物館」と言われることがあるようだが、それほどに獅子舞が盛んな土地である。なぜ金蔵獅子は始まったのだろうか。

その最古層にあるのは、「獅子殺し」という発想にある。岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書』(1999年)P16によれば、「古代から中世の飛騨国は、汎日本海文化圏の文化周圏地であり、祭政一致の当時の国司は天津社・国津社の宮司も兼ねていた(六五〇年)。従って、神事芸能の指導も行っていたと推定される。殊に古代飛騨の支配層は帰化人達(七四九年=大野郡司高市麻呂・七六六年=百濟王利善・七七四年=秦忌寸伊波多紀)であったから伎楽の普及も頷ける。この[獅子殺し](現在呼称<<金蔵獅子>>)も、この帰化人達の作品かも知れない。飛騨では、昔からの呼称[曲]と[獅子殺し]を統合して、昭和10年以降に<<金蔵獅子>>と呼称する村落も有る」とする。ここで非常に重要なのは、飛騨国の支配者層が帰化人であるということである。しかし、北陸周辺の加賀獅子や富山県の数々の獅子にも共通する獅子殺しの演目を一括統合して、その獅子殺しの起源とするにはかなり難しい論に思えなくもない。もう少しミクロ的な視点で検討をしてみよう。

大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)P106によれば、「広町・金桶・上広瀬の3集落には、現在県指定無形文化財の金蔵獅子がある。この沿革は、飛騨国造大八橋一族が金桶・名張・広瀬の地に繁衍した上古において、耕作に大害のあった野獣を狩って農作の豊饒を神に祈った事より起因し、天正年間(1580年)この地の城主広瀬宗城氏の代に大成した、ということで、年中行事として秋の新穀感謝祭に奉舞されている」という。

また、国府町史刊行委員会『国府町史 民俗編』(2010年)P318によれば、「金蔵獅子は、北陸系代神楽による伊勢のお札頒布の折に演じた「余興芸」の演目が、飛騨や北陸に定着したもので「神楽芸の獅子神楽(神楽獅子)」である」とする。また伊勢大神楽の分化として、旧高山市以南に伝わったのが一人立ち、北飛騨に伝わった二人立ちを金蔵獅子として位置付けている。いずれにしても、その伝播経路を辿ると、伊勢にたどり着くというのだ。代神楽の「棒使」と金蔵獅子の「金蔵」は同じような役割を担うようである。伊勢大神楽は尾張熱田派から江戸熱田派に伝播、それが甲斐、信濃を経由して、江戸文政期〜江戸末期にかけて飛騨へと流入している。今日の岐阜市周辺には明治維新後の現代において、風紀を乱すということで、中学区ごとに「獅子舞禁止」が通達されたことがあったそうだが、それより北側の地位域では獅子舞が盛んに実施されている。

またP320では「「金蔵獅子」の源流となるものは、三重県太夫町「神楽獅子」、愛知県鳳来寺町「田楽祭」、長野県阿南町「新野の雪まつり」などにある芸能に、「田畑を荒らす獅子を悪霊の猪(しし)に見立て、天狗や鬼がこれを鎮める舞」があり、このテーマを採り入れたものが飛騨に伝わる「金蔵獅子」である」とする。確かに野獣退治の側面から考えれば、その必要があるこの田楽系統の舞いを伝承する地域の影響も受けていると思われる。

また、金蔵獅子の伝播のハブになったのは、幕末に古川町の数河獅子が「金蔵獅子」を導入して、明治期に評判となって広まったという側面も大きい。国府町(広瀬、上広瀬、金桶、桐谷、漆垣内)もこの時に、数河獅子の「金蔵獅子」を取り入れたようである。P322によれば「国府町広瀬町は戦後に古川町種村へ、金桶は戦後に小坂町小坂へ、桐谷は明治期に高山市下切町へ、また同下切町は戦後に久々野町橋場へ金蔵獅子を伝承した」とあり、国府町は第2の伝播のハブになったようである。また、明治元年に「神仏分離令」があり、「神道国教化政策」によって、飛騨では獅子舞導入が進んだようで、全国的な傾向でもあろうが、この政策が獅子舞の伝播の遠因になっていることも検討する必要がある。また、昭和29年に広瀬町の金蔵獅子が東海三県芸能コンクールで金賞を受賞するなど、非常に芸の技能が名高く、金蔵獅子が世の中に知れ渡ることとなる。

主な構成としては、笛、太鼓、ささらすり、獅子、金蔵(男神)、お亀(女神)となっている。1曲目に神前奉納としての「曲」、2曲目に余興芸としての「金蔵」が来ることで、その緩急が人々を楽しませる側面があるように思う。


金蔵とお亀の深い関係性

そもそも金蔵とお亀というこの得意な登場人物はなぜ生まれたのか。元を辿れば、これは猿田彦と天鈿女であることは想像に難しくない。この関係性はひょっとことお亀というペアで表出するような地域もあると思うが、この岐阜県北部の高山地域の金蔵獅子というのは「金蔵」という呼び名が登場することに特殊性がある。

金蔵は天狗面を被り、鶏毛冠をいただく。紅白の段々巻をした短棒を握って、獅子の進路を遮る。獅子はその威圧によって衰えると、すかさず金蔵は背に馬乗りになる。それに対して、獅子は怒り狂い、金蔵を振り落とす。この攻防が非常に迫力があり、妙技が見える。

お亀はお福面をつけて、ささらを持ってすりながら、金蔵を手助けをする。獅子の背から振り落とされた時は手や脚を撫でて、その元気の回復に努める。しかし、金蔵はことあるごとに、介抱をするのを嫌って打ったり蹴ったりする。広瀬の金蔵獅子の担い手によれば、「ささらを擦るのは、肉を切る様子を表しています。自分が切った肉に手を出して調理をしようとするので、金蔵はそれを嫌がるのです」ともおっしゃっていた。このような状況の中でも、お亀はひたすら金蔵を介抱し続ける。最後に金蔵が獅子を押し倒して、短棒によってその後頭部を刺すと、獅子に跨って天を仰ぎ凱歌を奏する。お亀はそれを真似て右往左往してその悲壮な場面に、滑稽さを添えるのである。表面と裏面の関係性ともいうべきか、物語の楽しみ方にある種の深みを持たせている。

大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)P106によれば、「女神の情熱と嬌態は、まさに見る人の爆笑と情感をそそる」とある。お亀は金蔵に恋をしているのだろう。その熱っぽさとか、媚びている感じとか、そういう情感が伝わってきて、それを笑いに昇化させている。もちろん、現代においてこのようなところまで読み取れる人はほとんど存在せず、会場にお亀の所作が笑いを起こすことはなかった。人々はただ、なんかお亀がいるなあ、くらいにしか思わなかっただろう。でも、その裏側には、さまざまな物語が渦巻いているのである。

これはある種、男性優位社会の現れでもあり、女は男に対して、何があってもただひたすら尽くさなければならないという条理を表しているようにも思える。しかし、その反面で、男にはある種のプライドがあり、弱さを見せたくないという可愛げある条理も存在するようにも感じられる。ここに、男女の助け合いの普遍性について、考えざるを得ない。


演目「曲」の源流と分布

それから金蔵とともに演じられる曲の演目について。岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書』(1999年, 岐阜県教育委員会)P16によれば、「この「曲技を伴う獅子舞」は広く阿蘇山麓(虎舞と呼称)から飛騨までの西日本に分布し、能登・北陸・飛騨では<<曲>>の呼称で伝承されている。曲獅子圏の東限である飛騨の中で異色な舞風は、現在全国で三ヶ所にしか伝承されていない、基盤上で曲伎をする獅子舞である」とする。この3箇所とは、京都市中堂寺の六斎念仏の演目の「基盤獅子」、吉城郡河合村稲越(小雀獅子)、吉城郡国府町名張一之宮水無神社(台獅子)としている。この分布は非常に興味深く、碁盤に獅子が乗るという系譜の珍しさを強調する。


獅子舞の名付けの謎

金蔵獅子系統の獅子舞には、なぜか町ごとに「小雀獅子」や、「槍獅子」など、その獅子の性格的なところを踏まえたニックネーム的な名前がつけられている。これは団体名というよりかは獅子の特色を踏まえた呼び名のようなものだろう。この傾向は金沢の加賀獅子にも見られ、町ごとに「〇〇獅子」とこちらも名付けられる。この謎の「獅子舞の名付けの文化圏」の存在に気がついてはいるものの、その発端がどこにあるのかがわからない。

ちなみに、金沢、津幡、射水、砺波等で見られる熊の皮を張った熊獅子の系統は、岐阜県高山市で継承される県指定重要無形民俗文化財・荒城神社鉦打獅子舞(あらきじんじゃかねうちししまい)でも見られ、「熊獅子」と「曲」の2種類を伝承する。この獅子舞の歴史は鎌倉時代まで遡るかもしれず、熊獅子の源流と関わっているかもしれないので、今後詳細に調べて、熊獅子の伝播域にも注目したい。

参考文献
国府町史刊行委員会『国府町史 民俗編』(2010年3月, 国府町史刊行委員会)
大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)
岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書』(1999年, 岐阜県教育委員会)