雨乞いの呪術、全国の芸能とのつながり。愛知県東浦町「藤江のだんつく獅子舞」

西日本にいる一人立ちの獅子舞。それだけでも珍しいが、何か獅子舞の真相を抉り出すような原始的な獣のような獅子舞のビジュアルに直感的に惹かれた。そこで2024年10月12日、僕は愛知県東浦町藤江神社のだんつく獅子舞(八ツ頭舞楽)を訪れた。以前拝見したTwitterの投稿を頼りに、祭り日程を探し出し訪問が叶ったのだ。

東海道線大府駅から数駅で東浦町に辿り着く。藤江神社は東浦駅から徒歩10分程度、住宅街の一角にある。この神社の第一印象は地域密着という言葉が似合うと思った。縄で括られた幾重もの柱はおそらく流鏑馬で使われるものだろう。神社から感じた雰囲気は重厚感というよりは親しみやすさである。円形の境内の周りには屋台がたくさん広がっている。

僕が到着した時には、もうすでにだんつく獅子舞が始まっていた。電車の乗り換えミスで、10分弱の遅刻である。恋歌仙は途中からの見学となった。最初の印象は足を踏み締める力が強く、大地に対する強い願いのようなものを感じた。相撲の四股や芸能における反閇を連想させる所作である。それから雌獅子と雄獅子との掛け合いが激しくなってきて見どころ満載だった。この獅子舞はやはり意匠が素晴らしい。作りが細かくて神獣感がある。身近な獣というよりはどこか想像上の獣を具現化した感じがある。

演舞終了後に担い手に疑問を投げかけてみた。「あの獅子頭の角は1本と2本ですが、これは雄と雌を表しますか?」その答えは「1本が雌、2本が雄です」とのことだった。なるほど、興味深い。どちらも獅子頭は鹿というよりは龍か獅子といった感じ。1本角といえば中国大陸で生まれた創造の獣である獬豸(かいち)あるいは角端(かくたん)を思い浮かべる。


だんつく獅子舞とは何か?

演目は恋歌仙・膝折・隠獅子の3部から構成される。この獅子舞は雨乞いの獅子舞とも言われている。各部の始めに古面をかぶった素盞鳴尊(すさのおのみこと)が登場。そこへ雌雄の獅子が胸にかけた太鼓を鳴らして現れ、足を踏み、身をくねらせて踊る。

恋歌仙では橙色の獅子が2頭、膝折では黒色の獅子が2頭、隠獅子では6頭の子獅子と橙色の獅子が2頭登場する。演舞後に担い手に話を伺ったことには、「もともと橙色の獅子しかいなかったのですが、最近黒色の獅子を使うようになりました。膝折だけ演目が長いので獅子頭が重いと大変なのです」とのことだった。確かに演目の時間をみると、恋歌仙15分、膝折30分、隠れ獅子15分と膝折だけ演舞時間が長い。

藤江神社八ツ頭舞楽保存会『だんつく獅子のしおり』によれば、舞いの意味についてこのように書かれていた。まず素戔嗚尊出雲国で八岐大蛇を退治した神話を万葉調で表現したもので、大蛇はあとに獅子に変化して雄雌一対の獅子隣仲睦まじく暮らして6頭の子どもをもうけた。つまりこれが合計8頭であり、八岐大蛇を表すというのである。この獅子が食べ物を求めて出没して田畑を荒らして作物に被害を及ぼすため、農家の人は困り果ててこの様子を見た素戔嗚尊が剣を持って退治するという流れで、ここでは剣ではなく棒に代わっている。


雌獅子隠しとの関連性はいかに

おそらく隠獅子が最も重要な演目であろう。これは関東の3匹獅子舞の演目「雌獅子隠し」を連想させる。そことの違いとして、隠すのは雌獅子ではなく子獅子というのがこの演目の特異性だろう。子獅子は生と死の境目を生きるマージナルな存在として登場し、それを守り育てることで五穀豊穣や雨乞いを達成させる呪術ではあるまいかと推測する。獅子が子獅子、雌獅子、雄獅子合わせて8頭となるので、だんつく獅子舞とは他の呼び方で「八ッ頭舞楽(やつがしらぶがく)」とも呼ばれている。これは素戔嗚尊が出てくることから推測できるように、八岐大蛇伝説が元になっている。また隠れ獅子の演舞中には雌獅子が子獅子に乳を与える所作がある。


幕踊り系と太鼓踊り系の融合か?

あとこの獅子舞について触れるべきは太鼓と幕との関係性である。一人立ちの獅子舞にも分類されることがある東北のしし踊りという芸能では、北部の幕踊り系と南部の太鼓踊り系に分かれるが、このだんつく獅子舞に関しては太鼓の上に幕をかけて舞っており、幕を振ったり太鼓を叩いたりする所作が同時に生まれていて、幕踊り系と太鼓踊り系の融合をしているような感覚がある。これはとても不思議である。なぜこのような舞い方が生まれたのだろうか。謎に包まれている。

「つく」とは何か?

そしてだんつくとは、雨乞いの呪法であろう。つくを漢字で書くと撞。すなわち突き当てるというような意味がある。たしかにだんつく獅子舞は地面を強く押すような所作が多い。これは東関東のつく舞と音が同じであり、関東のつく舞は柱や竹竿を意味する「橦」の字が転化したものとされている。「つく」の語義はもしかしたら異なるかもしれず、だんつく獅子舞では柱や竹竿という高いモチーフはない。しかし双方共に雨乞いの呪術であることを考えれば、そのルーツはおそらく同じであろう。

だんつく獅子舞の起源

そもそもどうしてこの獅子舞が始まったのだろうか。藤江神社はもともと知多郡大府町大字横根にある藤井神社の分身を祀ると言われている。創建年は不明で大永3年(1533年)に社殿を再建した記録がある。社宝の八つ頭の面はもともと藤井神社で使用されていたものだが、ある年疫病が流行して横根の氏子が多数亡くなったことから、その舞いが氏子から嫌われるようになったのが契機だった。横根は寛文8年(1668年)に豪華な祭車を新調して祭礼を改めたため、藤江神社の氏子たちが八つ頭の面や衣装、楽器などを一式譲り受けて舞楽を伝習し始めて例祭の奉納行事として定着したという。なぜ、藤江の人々は災厄をもたらしたと考えられる八つ頭を譲り受けたのか。それは非常に謎が深い部分であり、解明は難しい。

物的証拠があるという意味では、デン真『祭りいこまい 尾張三河國祭り写真紀行』(2023年6月, 三恵社)によれば、獅子頭の裏に「御修理享保七寅年藤江神社御神宝」という記載があり、享保七年(1722年)にはすでに藤江の方でこの獅子舞が伝承されていたことが伺える。昭和43年には保存会が発足。愛知県の無形民俗文化財となり、現在に至る。

また、この八ツ頭舞楽には雨乞いの願いが込められ、面に垂れている5色の麻はマムシよけになるため氏子が抜き取る風習があったという。昔は愛知用水がなかったため、水が確保できずに苦しんだ人が多かったのだろう。さらに詳しく調べてみたところ、藤井神社の御祭神は天照大御神素戔嗚尊であり、藤江神社の御祭神は素戔嗚尊であるため、そのもともとの信仰と獅子舞文化が結びついて、今日の独自の形態「だんつく獅子舞」が生まれたのだろう。

参考文献
東浦町企画課『東浦町誌(復刻版)』昭和54年12月, 東浦町企画課
藤江神社八ツ頭舞楽保存会『だんつく獅子のしおり』年代不明
デン真『祭りいこまい 尾張三河國祭り写真紀行』(2023年6月, 三恵社