歴史ある格式高い夫婦舞い、福岡・大分八幡宮の獅子舞から探る、獅子舞のルーツとは?

2024年9月29日、福岡県飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮で毎年行われる仲秋の大祭を訪れた。この地には、非常に歴史ある獅子舞が伝わるという。福岡の獅子舞といえば7月の祓い獅子の印象があったが、福岡市の周辺にも貴重な獅子舞が伝わっているようだ。今回はその中でも県の無形民俗文化財になっている大分の獅子舞をはじめとした祭礼行事に着目するとともに、「伝統行事お助け隊」という県の制度を使ってお祭り準備にも携われた様子を振り返る。

大分八幡宮を訪れて分かったこと

最寄りの筑前大分駅を降り立つと、高台の駅から街並みを見渡す風景が美しく、駅にある本棚なんかもどこか優しげな雰囲気を持っており、「受け入れられている感覚」を持った。スーパーの名前も暖かく、道端で自転車を漕ぐ子どもやゆっくりとした足取りで歩くおじいちゃんなどを見ていると、素朴で暖かい雰囲気を強く感じた。また、湖の水面は細やかに風で揺れ、静かで物音がわずかにしか存在しない、交通量の少ない田舎という印象を持った。素晴らしい、神棲む土地という印象である。

大分に着くと、神社にはわずかな担い手が集まっていた。比較的思ったよりはこじんまりと地元に人々によって受け継がれているお祭りだと思った。しかし格式高く歴史は古い。神事が終わると獅子舞が登場し、どこか所作をしっかりと伝承している舞いである。20分もずっと舞い続けていた。子どもと大人が太鼓で共演している姿、そして次々と担い手が変わっていく獅子舞の姿は、まさに担い手確保が必須な状況で、獅子舞運営には多くの担い手が必要な印象を持った。

その後に放生会らしく、「殺生を戒めるために生き物を放つ宗教行事」という本質に則り、子どもが鯉を池に放流するという姿も見られた。また流鏑馬は獅子舞よりも人々の注目度が高くカメラマンがこぞって場所取りをしているようにも見えた。3頭の馬が出てきて堂々としているその風格は生き物としての強さを感じた。流鏑馬の的に当たった瞬間の「おお!」という歓声はやはり、流鏑馬ならではの盛り上がりと感じた。途中、トイレの扉に鏑矢が飛んでいくこともあったが、ものすごい威力である。

またその後に街を回って神輿を担ぎ始めた。神輿を担ぎながらの担い手の会話は面白かった。話しながらもその大変さを紛らわしているように感じた。「お酒持ちながらでもあるかんと、やってられんわ」と話して盛り上がった。「今日の流鏑馬のときのまだらの馬は疲れとった。ずっと下向いたった。酒飲ませてやらなあかんかったわ(笑)。昔は馬はもっと元気があった。でも今は馬の景気が良くないもんで、馬も元気がない」などと話しておいでだった。

また、神輿を担いでいる時の神輿の飾りがチリチリンと揺れる音がたまらなく風流だと思った。これは神輿を担がないとわからないことだと思った。途中、おばあちゃんが手を合わせながら千円を神輿の台のお賽銭のところに入れてくれて、ああ信仰心や地域を愛する心ってこういうものかと思った。携帯もカメラも電池がどんどんなくなっていって、写真や動画を撮ることが少なくなっていった。その分、毎度演じられる獅子舞の所作をじっくりと眺める機会が増えた。神輿を持って止まって獅子舞を見るということを繰り返しているうちに疲労とともに頭がぼうっとしてきて、眠気を顔の強張りで押し殺すようにしながら回避することも増えた。祭りに参加するってこういうことかと思った。獅子舞を見ていると舞い手の気持ちにトランスしていくような気分にもなった。

神輿が神社に着いたときに、安堵感と帰ってきたような気持ちが強くなった。どこかもちに対する愛着のようなものも湧いてきた。飲み会はこの後内容だったのであっさりと解散になったものの、充実した1日だった。帰り道は虫が鳴いていた。もう薄暗くなった周囲の黒くて深い山々を眺めながらトボトボと歩いた。静かでいい町だと思った。スーパーでメダカなどを眺めながら、帰りの電車を待った。祭りの後の静けさがとても心地よい。

大分八幡宮について

創建は西暦726年とされている。箱崎宮へと遷宮した、本宮である。箱崎宮は夜に放生会をするが、この大分八幡宮は昼に行う。創建は応神天皇神功皇后三韓征伐の帰りに「いつか会いましょう」と、また合流しようと行って軍隊を解散した場所がその名前の由来となっている。五穀豊穣や良縁祈願などの願いが込められている。氏子が主体となり、放生会を開催している。


獅子舞の歴史

18世紀前半、江戸幕府の8代将軍吉宗の時代に、大分村の伊佐さんという庄屋さんが村人を京都の石清水八幡宮に派遣して獅子舞を習わせ(おそらく1722年)、それを持ち帰り、1724年(享保9年)に大分八幡宮放生会で初奉納を行ったのが始まりとされている。この獅子舞が話題を呼び、周辺の10以上の地域に伝えられ、獅子舞伝播のハブのような形で、今日に至る。このような貴重な民俗文化のため、福岡県無形民俗文化財に指定されている。2024年は初奉納から300年の節目ということで、獅子舞フェスティバルを2024年12月1日に開催し、12町の獅子舞を大分八幡宮に呼んで奉納が行われる予定とのことである。キッチンカーを呼んだりお楽しみ抽選会を行い、賑やかになる予定とのことだ。

獅子舞の周り方

獅子舞は座元をまわる「お座まわり」をする。これは家々の門付けの性格を持つが、全ての家を回るのではなく10軒ちょっとの座元を回るというのが特徴である。今回は9月28日、29日に大分、黒石、鶯塚、氷屋という4つの自治会がありそれを回っていく。お座の中でも大戸という親元では2回回し、それ以外は1回回すことになっている。演目の流れとしてはハナノキリ、ナカノキリ、ノリノキリという名前(略してハナ、ナカ、ノリ)がついており、1回の演舞で回し手が2回変わることになっており、「ノリ」だけ少しテンポが速くなる。昔は自治会長の家や議員さんの家を回るなど、もっと規模が大きかったが、今では少し簡略化されている。参道をずらりと並ぶ行列も長かった。

獅子舞の舞い方

御仮屋(神輿を置く屋根付きの建物)と鶯塚があった。どちらも2セットの舞いを回した。神輿に向かって1回、観客に向かって1回という順番だった。獅子舞の動きは結婚式の物語だという。向かう合い出会うところから始まる。首を捻る動きが特徴的だと思ったが、これは「夫婦がお見合いで乱れ狂って踊る感覚で舞っている」のだという。僕の見立てでは、頭の御幣が揺れることが原始的にはある種の厄祓い行為だったと思うので、この揺らすとか捻るという所作はそのようなルーツもあると思っていて、東北地方の権現舞山形県の黒獅子と重なる動きだと思った。また、お囃子の構成は完全に東北の神楽を思わせた。高く鳴る鉦、細くて長いバチで低く鳴る小太鼓の音、そして笛の音、リズムが皆、神楽に近いと思った。この獅子舞のルーツである岩清水八幡宮は今獅子舞をしていないが、神楽のルーツに関して、何か秘密があるのではないかと思っている。一方で首を捻る動きはあるが、頭を噛むという所作はない。これは娯楽的な要素の少ない2人立ちの原点に近い獅子舞を今に伝えていると思った。また「打ちおろし」は力がないと上に上げきれない所作だという。

獅子舞の構成、担い手作り

白い衣装の子どもは笛、襷がけする子どもは大太鼓、大人は小太鼓、青年は獅子舞を担当する。担い手によれば「小太鼓は指揮者のような役割。小太鼓が止まると全部が止まる。現在は2名しかできる人がいないので、後継者を作っていかないといけない。小さい頃から太鼓をしている人がいないといけなくて、子どもの頃からしていると音程の覚えが良い。親がやっていると子ども、孫、と受け継がれていくもの」と話してくださった。

最後に登場する不思議な古い獅子頭

獅子頭はオレンジの幕に赤い顔がオス、緑色の幕に黒い幕がメスということになっている。「オスメスはどう見分けるんですか?」と担い手に聞いたら、「オスには舌がついており」という話があり、そういう見分け方もあるのかと驚いた。口をガバっと開ける仕草があり、その時に舌が目立つのである。

神輿が拝殿に帰ってくると、ここは古い獅子頭2頭で1度だけ舞う。「納め獅子」といい、その最後は笛も太鼓も鳴らさずトンと置いて終わる。新しい獅子はオスの方がツノが長いのに、古い獅子はオスの方がツノが短かった。ツノが短いというのはすなわち、擬宝珠のような感じに見えたということでもあった。これはなぜなのだろうか、オスの方が口を大きく開けたり高い位置で舞ったりと威嚇的な所作があり、一方でメスの方が低いところで伸びた感じで舞うことが多く、その点でオスの方がツノが長い方が舞い方と照らし合わせたときに理にかなっているというかすんなり受け入れられるような気がした。

「オスメスが変わったんですか?」と一応聞いてみたが「そうではないです。その時に作る人の感性かもしれませんね」とのことだった。あくまでも推測の域を出ないが、この獅子頭の変化は面白いと思った。また、獅子頭は昔の方が古かったが、今のものは軽く感じた。実際に持たせていただく貴重な機会だった。古い方も綺麗に修繕手入れされていて素晴らしいと思った。

流鏑馬について

また、今回のお祭りで非常に注目度の高かった流鏑馬についても触れておこう。2時間前くらいから列を成すほどにカメラマンが場所取りをする流鏑馬。本来は200mほどの馬場を走りながら3つの的を次々に射ていたらしいが、今では道路となっており馬が走ることができないため、境内で円を描くように1つの的を射るという方式に変わっている。円形はスピードが出ない代わりにコーナーを曲がってから射るという点で技術的な困難さがあるという。流鏑馬の起源は6世紀ごろという話があり、実際に記録が残るのは12世紀に平清盛伏見稲荷などに流鏑馬奉納をしていた頃だという。源頼朝鶴岡八幡宮流鏑馬を奉納して以降、武家の行事として流鏑馬が定着していった。室町中期には流鏑馬が衰えたようだが、それを再興したのがこれも徳川吉宗時代の1724年とのことだ。つまり、2024年から300年前、大分八幡宮では今の行事の礎を築くような行事が始まったということになる。

伝統行事お助け隊について

今回は「伝統行事お助け隊」の制度を活用させていただき、祭りに参加させていただいた。福岡県が全国に先駆けて、お祭りの人手が不足している地域のお祭りを登録し、そこにお手伝い者をマッチングさせる「伝統行事お助け隊」の制度を始めた。この先駆的な制度は伝統行事お助け隊のホームページによれば、「これまで地域の人たちによって大切に守り、受け継がれてきた祭りや風習などの伝統行事も、担い手不足などの理由により、多くの行事で継続が難しくなってきています。地域伝統行事お助け隊は、そうした伝統行事を支援する人たちを登録し、ボランティアとして派遣する制度です」とのことである。

伝統行事お助け隊の派遣を目指し登録するための要件はこのようになっている。
・15歳以上であること(18歳未満は保護者の同意が必要)
・メール及び電話で連絡が取れること
暴力団員でないこと

また伝統行事の実施団体の受け入れに向けて募集をかける要件はこのようになっている。
・国、県、市町村の指定・登録を受けている無形民俗文化財
・それ以外でも世代を超えて受け継がれてきた祭り又は芸能、その他の伝統的な行事であって、市町村が今後も継続することが必要と認めるもの

https://fuk-otasuketai.jp/

僕の他に3名が参加されていた。基本的には県内の方が多いようだ。全国的にこの前は千葉県のお祭りに参加したなどという熊本県北部にお住まいの方もいて2時間ほど車で運転してきたようだった。基本的には車で来ている方が多かった。
今回の参加者の参加動機としては、
・山鉾を押したり曳いたりする機会はよくあるけれど、準備の段階から関われることは少ない。
・素直に見てるだけじゃ物足りない!という気持ちがある
・お祭りの写真を撮るのが好きだけど、演者を取るんじゃなくて、行列になっている時などに自分が演者になりながらも自分が沿道を見ている感じを撮るのが面白い。

お助け隊当日の流れ

最初のお仕事は御神輿を倉庫から出して、雑巾で拭いて綺麗にすることから始まった。お昼に1時間の休憩がありお弁当をいただいてから、流鏑馬のコース作りとなった。杭を地面に打ってそこにロープを通して円周を作り、それを2重にすることで馬が走るコースができたのだ。本番の流鏑馬の際には的を交換するという大役を務めながらも観客がまとに近づかないよう誘導した。終わったら杭とロープを回収。その後、担い手の方々と神輿を運んで街を一周して終了するという流れだった。なかなか準備から担い手まで裏方を務められる機会というのはないので、貴重な経験をさせていただいた。神輿を担いでいる時の神輿の飾りがチリチリンと揺れる音がたまらなく風流だと思った。これは神輿を担いで神輿の息遣いのようなものを身近に感じないとわからないことだと思った。思った以上に神輿を置くタイミングや高さに気をつけることなど、実際に持ってみることで皆で呼吸を合わせて協力して行うことの大事さを感じた。やはり祭りは「コミュニティをつなげるもの」という思いを改めて強く感じた。

10:00~11:00 祭典(秋季大祭)~獅子舞奉納
11:00 「お助け隊」集合(集合場所2 責任者:岩永)
11:00~11:30 神幸祭準備・・・神輿出庫~清掃
※ 祭典に参列した氏子総代とともに3神輿庫から神輿を運
び出し、参道上に据えて清掃します。
11:30~12:30 昼食休憩(4社務所にてお弁当を提供します)
12:30~14:30 流鏑馬準備・・・馬場づくりの杭・ロープ、的板の準備、馬場作り、的板準備、観客誘導
14:20 獅子舞 300 年記念事業、流鏑馬の紹介
14:30~15:30 獅子舞~流鏑馬~餅まき
流鏑馬では的板の交換(10 回ほど矢を射る)、観客の誘導(馬の進路、馬場内へ入らないように誘導)、終了後、5祭器庫に杭・ロープ、的板を戻す。
15:30~18:30 神幸祭(大分八幡宮→御旅所→鶯塚→大分八幡宮)
岩永の指示に従い、神輿の運搬、神輿に随行する道具を運
搬し、神幸祭に参列
※ 歩く距離は往復約 2 kmです。
18:30~19:00 還幸~神輿入庫~納めの獅子舞~解散
※ 大分八幡宮で還幸の儀式後、神輿を3神輿庫に納める

お助け隊設立の経緯とこれまで

次の日、伝統行事お助け隊について、福岡県庁にて企画・地域振興部 政策支援課の皆様お話を伺う機会があった。

この制度の企画経緯としては、地域の活性化について自治体の声を聞く中で、新型コロナウイルスの蔓延、高齢化、若者の流出、コミュニティ意識の希薄化などで祭りの継続が珍しいという声をよく聞くようになり、地域の衰退を食い止めて、伝統行事を継続的に実施できるように人的支援を行うことになった。これをきっかけに地域に興味を持っていただき、地域の関係人口の創出拡大を狙いとして、企画を構想したとのことだった。

最初のホームページは業者に委託し、あとの運営部分は県が担っているようだ。自治体に対して毎年5月に年度はじめの市町村向けの説明会を開いて、各自治体にお祭りの担い手を募集したい声が上がってきたら、連絡をしてもらうような流れになっている。外から人を入れてしっかりやりたいかどうかは地域のニーズによるところがあり、今回の大分八幡宮の件については、飯塚市か団体がこの制度を知り、飯塚市から依頼があって募集と派遣に至ったよう。基本的には要請のあったものは全て載せているようにしていて、伝統行事ではなく観光色が強い産業祭りのようなものは例外として考えているが、そのような要請は今の所来ていないようだ。

自治体や観光協会、地元の企業さんとの連携の中で人集めをしてもらっており、それと同時にお助け隊のホームページの方でも募集をかけているという流れのようだ。その中で定員の枠が何名埋まるかということで、5名定員くらいだと全部枠が埋まる時もあり、サイトに登録されている隊員の方々には、新規の案件の募集があれば一斉メールが送られるという仕組みになっているとのこと。

また、掲載した募集の数や参加した人の数についてである。令和5年度の8月にお助け隊の企画が始まり、それから令和5年度は5件、令和6年度で10件の掲載をしているという状況(2024年9月30日時点)。令和5年度の最初の3案件はまだまだお助け隊の認知度が低く、人が誰も集まらなかったという。これは神楽の舞い手を募集するという毎週の事前練習の必要な案件から、アーカイブのための写真の撮影・編集といった専門性の高い内容の活動を募集していたことが原因だったようだ。また、募集期間が10日くらいしかないなど、短かったことも原因だったらしい。

でも4件目の熊野神社鬼の修正会で松明の担ぎ手を募集してからは、常に応募者がいるようになり、常に派遣が続いている。報道機関(RKBのニュースなど)と連携しており、取材も重なって参加もらえる機会も増えた。あとは何をするかわからないような募集よりかは募集内容が明確化されていた方が人が集まりやすい傾向にある。休日は人が集まりやすいが、平日や夜にかかるような行事は人が集まりにくい傾向がある。要請があるのは田舎が多いので、公共交通機関で行けなくて、車と時間がある方が来る場合が多い。あとは神輿の担ぎ手が人気で比較的人が集まりやすい感覚がある。祭りの主役の部分に関われているという実感があるという。

そして参加者の属性について。福岡県の担当者によれば、最初は若い20〜30代を想定していたが、40〜50代の比較的余裕がある方が多い。大学生などの若者が難しい理由は交通費が出ないから、車を持っていいない方が多いからというのがある。大学の受け入れは、単位取得につながるのかという話も出てくる。そのような話もある中で参加者側が「自主的に」ということを大事にしている。金銭的な支援はお弁当が出たり、ボランティア保険に入っていたりする程度。長く続けるには補助金で維持していくのは難しいという。また県内全体を掲載という風に間口を広げているので、大学や研究機関などひとつひとつに声をかけるような対応はできていないが、神輿を担ぐ会、観光協会などさまざまな団体が独自で同時並行で募集をされているようなこともある。リピーターもいるようだ。

参加者からは「お祭りに参加しないと見えない景色がある」「観客として見れていなかったけど参加して充実していた」「参加することが地域の一助になるから次にも参加したい」といった声があり、また、「参加したい地域に貢献したいという想いを持っていても、お祭りの入り口がわからない」という声もあったようだ。

また、派遣制度に関して自治体やお祭りの担い手からの反響について。派遣後にアンケートを書いてもらっており、「派遣してよかった」という声があるようだ。お祭りを担うために20人欲しいというところまでは難しいので、最初は少しずつでも長い視点で見て、関係人口が少しずつ広がっていくと良いとのこと。受け入れ側と派遣者のマッチングするための関係作りをしていきたいそう。ボランティアさんと祭りの受け入れ側とでトラブルは今のところない。応募時にお祭り実施団体側からのメールだけでなく、行政側からもメールと電話で連絡を入れるということも徹底しており、それで違うかなと思った人がいないという。祭りの時間がはっきりしない場合もあるので、参加者の側では入り時間と終わり時間をはっきりさせるということは意識しているそうだ。場合によっては県の担当者が現地に行って、最初の集合の時に合流をスムーズにするということもあるという。

他の県からうちもこの制度を導入したいという声はある。県や市町村単位、また事業化も目指しながら、ヒアリングに来る方々がいる。市町村単位であれば、すでに多くの地域が取り組んでいる。ただ、県庁がこれに対して広域的に取り組み人的支援をしていくのは、珍しい事例。県で行うメリットは、遠方から人が来るような広域的な人的支援ができますが、交通費が出せないということで遠方からは参加しにくい方もいるという状況がある。そのような中で、県外からだと例えば大阪からの参加者がひとりいた。お仕事の関係で福岡に来ていて、「自由な日があったので参加しました」とのことだった。

今後の展望としては、制度を始めて1年経ち、徐々に参加者も増えてきた状況で、引き続き年齢層や性別を問わずに周知してやっていきたい。そういう意味では報道機関にたくさん取り上げていただきたいです。市町村の担当者の方も変わったりするので、年度はじめの説明会も引き続きやっていきたいそうだ。

とても充実したお話だった。全国的には祭りの突然死がある中で、自治体に相談しても良いという雰囲気が作られる点や、お祭りを支援するというだけでなく地域信仰という点でお助け隊の制度を始められた点も良いことだなと思った。受け入れ側は自分たちの村祭りというよりかは広い意味での「地域」と考えている場合が、受け入れやすくうまくマッチする制度だと思う。また、今回の取り組みでは地域振興部が企画しているからこのようなお助け隊の活動内容になったけれども、観光の部署であればインバウンド向けのお祭りガイド、文化振興の部署であれば舞いの指導を本格的に行う担い手などを募集するなど、全国的にはさまざまな展開可能性がある活動と感じた。行政側からすればご苦労もあると思うが、必ずしもハードルが高いものではなく、「窓口を開く」ということが重要でもあると思った。素晴らしい取り組み、募集はそれぞれが独立して広まっていくものだから、窓口を開け続けるという姿勢が大事なのだと思う。そうすることで、少しでも祭りに人が通い地域の賑わいと関係人口が創出される。そういうサイクルがとても理想的に思える。