【富山県】加賀獅子のルーツを探る旅〜射水市曳山祭り取材・井波獅子頭取材

2021年10月1日

今日は石川県加賀市獅子頭のルーツを探るべく、富山県南砺市井波を訪れた。今までの調査で分かったこととして、石川県加賀市獅子頭のうち約3分の1は、井波で作られていると思われる。石川県でも獅子頭工房があるものの、なぜ井波に製作を依頼するのか?その繋がりとは何なのか?が気になり、加賀市の獅子舞文化を下支えするその技術や繋がりを探るべく、富山県に向かった。午前中は新湊で祭りがあり、壮大な曳山や行道獅子も出るようなので取材してきた。

 

富山県射水市新湊

8:30~ 富山県射水市新湊曳山のまつりを観る

新湊の曳山を拝見して、歴史の裂け目から出てきた巨大な生き物を現代の社会でうまく機能させているという印象を受けた。現代の金額で言えば3億円は下らないとも言われ、ひとたび新調しようと思えば、金銭的に非常に大きなハードルがある。過去に作られたものを少しずつ直すなどして使っているようだ。

普段は動かず格納庫にしまわれた13体の体躯がひとたび動き出すと、町中は活気に溢れる。最も見せ場となるのが、道と道が交差する曲がり角だろう。曲がり角に差し掛かると、力強い方向転換に見物客は歓声をあげるし、下り坂では曳山のスピードが上がりすぎないようにハラハラしてそれを見守るという様子も見られた。

この曳山行事では、箱獅子という行道獅子が登場する。猿田彦と共に神輿を先導する役目を担う。神輿と曳山は別ルートで回る。曳山は町内管轄で、神輿は神社管轄だからだ。新湊の町を歩いていると、家々の玄関先の窓ガラスに「神輿御駐車」の文字が書かれた紙が貼られており、そこを順々に回って、神輿が巡行していくことが分かった。神輿の方が、町内のみを回る曳山に比べて巡行の範囲が広いということもできる。今回は社務所の方に問い合わせつつ町中を歩き回ったが、神輿の行列を見つけることができず、行道獅子を見ることもできなかったが、その他にも様々な出会いと知見を得ることができた。

今回は、以前からYoutubeのコラボなどで親交のある獅子頭職人の久宗さんが担い手として関わる立町の曳山についてじっくりとお話を伺う機会を得た。立町の曳山は頂点に「壽」の文字が堂々と掲げられ、真っ赤な法被をまとう担い手たちによって動き練り歩く。

立町の曳山行事の担い手である方にお話を伺った。立町の曳山の歴史は今年で300年になるという。つまり、江戸時代の1721年に曳山が始まったということだ。上山という曳山の上段に当たる部分が300年取り替えなしできている。鏡板は1803年制作と古い。上から下まで全部変えれば漆が一番高くて2~3億円はかかる。木はケヤキや杉を使っている。車輪はとりわけ大きいため、一木で材料を確保できるところがなかなかない。今回はコロナの影響で午前中のみ町内をまわり、蔵に入れる。普段から蔵の中の曳山を展示することはなく、祭り以外は大晦日と正月のみお披露目の機会がある。昔は商店街が100軒近くあったが、その3分の1に減ってしまった。曳山を運営するには各町50人くらいの人手が必要で、現在その人数は確保できている。祭り以外の日は昔は曳山をばらして神社のところに保管していたが、怪我するとかの危険もあり今では専用の倉庫に保管している。立町は倉庫を作るために町で購入したのだが、そのために何十年も積み立てもしてきたようだ。曳山にはご祝儀の制度もある。曳山の途中で雨が降った時にはビニールをかけて濡れてしまうのを防ぐ。

▼立町の曳山

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放生津八幡宮前では、射水市新湊博物館学芸員の松山充宏さんにお話を伺った。江戸時代に曳山が始まったが、富山県では1609年の高岡御車山の曳山が最も古く、次に古いのが今回の放生津の曳山である。元々、室町時代の神輿渡御の行列があり、それに曳山が加わるという形で約350年前に始まった。町が新しくできた訳ではなく、昔からの祭礼に曳山が乗っかる形で始まったものが、現在祭礼のメインになっているという位置付けである。300年前には大阪に加賀藩の年貢米を持っていくための公共事業を請け負う積み出し港として栄え、大商人が数多く住んだ。その人々が曳山を作ったわけだが、寄り周り波という高波によって放生津八幡宮の社殿が流失したことがあり、再建した時に各町の共有財産として曳山が作られるようになったという背景もある。放生津の曳山は京都の祇園祭と同様にくじ引きで各町の曳山の行列の順番を決めるということが行われており、約350年前に始まった曳山は、約300年前にはこのくじ引きで行列の順番が決まるなど現在とほぼ同じ形になっていた。コロナ禍で今回は行列を作らず、曳山は神社でのお祓いの後、密を回避するため行列を作らず各町での練り歩きが始まるという流れとなった。朝から夜まで曳山が町内を練り歩くというのは県内でも唯一と言って良いほどで、この練り歩きを短縮するのは従来とは大きく異なるやり方でもある。

曳山という有形の文化だけでなく、そこに宿る行為の部分である無形文化を、どのように次の世代に伝えていくのかというのが焦点となった。今年、放生津の曳山は国の無形民俗文化財に指定されたこともあり、その点は十分に検討する必要があったというわけだ。また、射水市新型コロナウイルスのワクチン接種率も高かったことも今回実施できた背景の1つでもあった。また、曳山はある意味、町の自治力の象徴でもあり、祭りをどのように運営していくのかは各町の判断に委ねらていることでもある。今回は13町の曳山のうち2町は、町の判断で曳山の練り歩きが中止となっている。ただ、格納庫での曳山の展示は行われており、形が違うにしても13町全ての町が今回の祭礼に参加しているというわけである。神輿は2基で南回りと北回りで分けて渡御を行い、曳山に先駆けて神社を出発して30自治会以上を回る形で実施しており、この形は例年通り実施されている。ちなみに、今年は本神輿が南回りなので、そちらに行道獅子が付いて先祓いをしている。

▼放生津八幡宮前の曳山

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11:00~ 射水市新湊博物館の放生津まつりの展示を見る

博物館の展示では、新湊曳山祭りの成り立ちや特色について、やや俯瞰的な視点を得ることができた。放生津の曳山は放生津八幡宮境内の動かない「築山」を車輪をつけて動くようにした形態とも言われ、江戸時代前期に古新町で作られたのが始まり。現在、放生津には13町13本の曳山があり、県内最多の数を誇る。この背景には、町の経済力や世話方の苦労などがあり、現在に至るまで継承されている。

この放生津八幡宮の祭礼の特色として、八幡宮周辺の本町に加え、近郊農村にまで領域がまたがる出町(散町)が参加しているということが挙げられる。学芸員の松山さんもインタビューの時におっしゃっていたが、この祭りでは八幡宮の氏子の領域だけでなく、その外側にある様々な神社のエリアまで曳山が練り歩いていくそうだ。これが可能なのは、放生津八幡宮が地域の中心的な存在としてあり、その周辺の神社も比較的八幡神と近い神々(住吉神など)をお祀りしていて大友社家などの関係者が兼務している場合も多いとお話をされていた。今回の博物館展示でも、解説文に「出町には、本町と同様に海に関わる生業に携わる住民が多く、生活圏も本町と一体となっていました。」と書かれており、信仰に伴う生業の部分も本町と出町には共通性が見られるようだ。つまり、ここでは「八幡信仰圏」なるものが放生津八幡宮の祭礼を機に立ち上がってくるというわけである。

また、放生津の地域を中心とした「曳山文化圏」なるものが存在することにも大きな関心を持った。現在、富山県には24地域で「山・鉾・屋台行事」が存在し、高岡御車山と放生津の曳山の2種類に分けられる。その大きな違いは、「曳山の飾り付けの手すりの数」にあるようで、曳山を上中下に高さで分けた時に、上山のみに手すりがついているのが高岡御車山。一方で、上山、中山、下山に分けてつけられているのが、放生津である。放生津の曳山は江戸時代に加賀藩の規制が及ばない作り方だったらしく、それを参考にしたのが、富山県氷見、伏木、海老江、四方という4地域だった。これらは全て富山湾に面し、海上交通で交流のあった地域同士だったので、まさに「放生津文化圏」ができていたというわけである。

射水市新湊博物館

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富山県南砺市井波

15:00~ 獅子頭職人·今井幸太郎さんにお会いする

加賀市の獅子が多く作られている井波の獅子頭制作の現場には、以前からぜひ伺いたいと考えていた。なぜ加賀市獅子頭は井波で作られるのだろう?その魅力とは?という疑問の元、井波彫刻総合会館にお電話したところ、今井幸太郎さんという方をご紹介いただいた。私自身も以前、獅子頭の裏に「今井幸太郎さん」のお名前が彫られている獅子頭加賀市内で拝見したことがあり、お会いできて本当に良かった。奥様もお茶を出していただいたり、獅子頭に関するメモや資料を見せてくださったりと本当に素晴らしいおもてなしをしていただいた。また、「ここまで見る人はなかなかいない」という工房の獅子頭の展示室まで見せていただいたり、車で井波彫刻総合会館まで送っていただいたりと大変お世話になった。ここでは、今井さんから伺ったお話を中心に振り返る。

現在井波では、祭礼で使う獅子頭を彫る職人さんは少なく、昔は飾り獅子の職人さんが多かった。現在は井波彫刻は住宅事情で欄間を彫る職人が少なくなりつつある。祭礼獅子の特徴は強く軽く作らねばいけない。厚みの調整、加減をどうするのかが難しい。現在井波で専業で獅子頭の制作をされているところは、3~4軒ほどしかない。今井さんの他には、荒井さん、山崎さんなどの方も獅子頭を彫っている。

現在、今井さんは祖父の代から3代目で工房の後を継がれており、御三方とも同じ名前で獅子頭の制作をされてきた。工房自体は約100年の歴史があり、初代は井波彫刻の加茂蕃山さんの弟子となり、そこから独立する形で獅子頭制作を始めた。現在3代目の今井さんは2年ほどサラリーマンを経験して工房に帰ってきて、24歳から獅子頭の制作をしている。今、66歳なのでもう40年以上獅子頭を彫っていることになる。日本全国の獅子頭の制作を依頼された経験があり、富山、石川だけでなく、新潟、長野、三重、北海道などの獅子頭も彫っている。北海道などは富山の人が移住して始めた獅子舞が多く、その点では富山型の獅子舞が伝承された土地だ。以前獅子頭制作を頼んだ工房にまた頼むという場合や、ホームページを見てくれて問い合わせが来るという場合などで、制作の依頼が来る。獅子頭制作が難しかった案件としては、公民館が火事で無くなってしまって、写真1~3枚程度と図面を見て作らねばならなかったことがあり、細かいところがわからなかったので制作に苦労したことがあった。舞いを見なくても彫らなくてはいけないこともある。

また、獅子頭意外にも獅子舞に使う烏帽子を掘っていたこともあり、それは獅子頭と違って和紙を使うこともあり漆の塗り方なども異なる。現在、烏帽子の製作はしていない。また、飾り獅子と祭礼獅子でも塗りの行程が異なり、祭礼の獅子は3倍くらいは塗って漆の層を厚くしないといけない。年間で祭礼の獅子を10個くらい作ったこともあるが、平均的には年3~4つを作ることが多い。やはり漆を塗って乾かさねばならないので発注から1年間くらいは制作期間として見ておかねばならない。半年で彫れないことはないが、漆屋さんを急がせてしまうことにもなるし、漆が乾かない状態で渡すとかぶれてしまう危険もある。1年あれば、いくつかの仕事を並行しながらも回していける。漆を塗る前に一回、発注してくれた町の人に状態を確認してもらう。「ほお、こんな感じで彫ってくれたんや」と言って、実際に持って回して、白木の状態の獅子を見ることもないので必ず写真を撮って、帰っていく。若い人の感性で、先代のものから獅子頭の色を変えたいということもあるが、そういうことは滅多にない。ただ昔の獅子頭を見るとたまに下地が現れており獅子頭の色を変えたことが見て取れるものに出会うこともある。

今まで石川県加賀市獅子頭は祖父の代からいくつも彫っている。ただ、戦前の資料、図面に関しては焼けてしまったのかあまり見つからない。残っているもののほとんどは昭和20年以降のものだ。橋立地区の小塩町の獅子頭は5~6年前に制作した。今回制作したのは3体目だ。平成のはじめの16kgの獅子頭を参考に制作した。実際に獅子舞を実施している様子も小塩町に見に行って、最後の神社での奉納の舞いで地を這うように舞っていたのが印象的だった。制作する時のポイントとしては、激しい歯打ちに耐えうるように作るということに配慮した。歯はきちんと彫るけれども、その上に鉄板をつけて丈夫に作った。生地は桐なのでケヤキなどに比べれば軽くて弱い材木で、厚く彫らないと耐久性を確保するのが難しい。その分重くなってしまうがその辺は小塩町の方は気にしていないようで、とにかく「丈夫で壊れないものを」ということで注文を受けた。「あんたらの獅子舞は壊すように舞っとるがな」と笑い合っていたことを覚えている。桐の木はできるだけ根っこに近くて、目の粗いものを使うことを意識した。生育環境としては粘り強いような木を使っていた。

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また、小塩町以外にも加賀市内の獅子頭を彫ったご経験があり、図面が残っているものを書き出したメモを見せていただいた。その時の制作年と町名は以下の通りだ。

・江沼郡上野 26

加賀市黒瀬町 30

・山代20区 24 H11

・山中桂木團 26

・片山津 富塚 27

加賀市大聖寺東横町 39

加賀市小塩町 H3 H21

 

※数字のみはおそらく昭和◯年のことで、Hは平成を表す。ただ一部、昭和と平成が混在している可能性がある。

※2 加賀市大聖寺東横町は現在獅子舞をしておらず獅子頭もないと地域の方がおっしゃっていたのだが、昭和39年には少なくとも獅子頭があったようだ。これは加賀市の獅子舞研究の大きな一歩と言える。このように、現在獅子舞が行われておらず、獅子頭も残っていない地域のことについてどのように調査を行なっていくのかは今後の僕の課題とも言える。

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獅子頭は修理の際に、塗り師の方が漆を塗ってしまって、元の製作者のお名前や制作年代がわからなくなることもあり、その上に塗り師の名前だけが書かれるということもある。また、古い獅子頭は練習用になりそれが壊れたら捨ててしまうことも多いので、その中で、メモを残しておくことが必要になってくる。

獅子頭の制作には通常、彫り師と塗り師と獅子頭の毛を扱う人の3人が関わることが多い。獅子頭の毛は今井さんの場合、最初石川や富山の人とやりとりしていたが、ご高齢で亡くなってしまってからは大阪の人から買うようにしていて、馬の毛をいつも仕入れている。獅子頭につき1つしか毛を使わないので、大きな需要があるわけではなく特殊な仕事で、本業は何をされているのかわからない。木材は富山県や石川県の桐材を買ってくる。比較的短期間で太る木で、娘が生まれたら桐の木を植えて嫁に行ったらその木で箪笥を作るという話もあるくらいだ。獅子頭の金額は横幅の長さや大きさによって変わり、それは太い材料や多くの漆を使うことが値段が上がることの要因だ。1尺3寸になると150万円くらいで、小塩町の1尺8寸の獅子頭だと250万円くらいだった。

獅子頭のオス・メスに関しては様々な説があり、朱と黒があると朱がメスで黒がオスとなる。ただ、同じ朱でもオスメスがある場合もあり、それはよく見てもわからないこともある。また、地域の言い伝えで舞い方によってオスメスがあることもあり、また角がある場合がオスで角がない場合はメスと分けられることもある。また、歯の本数に関して、普通左右対称で3~4本が左右にある場合が多いが、これが奇数で真ん中に歯がある頭は歴史が古いと言われている。石川県羽咋郡宝達志水町敷波の獅子頭を現在彫っているが、これは珍しく歯の本数が奇数である。奇数の歯というのは生物上あり得ないので、なぜそうなったかはわからない。何処かのタイミングで、奇数ではなく偶数の配列になった。これは現在跡を継いでおられる今井さんが祖父に聞いたことだという。

獅子頭に関して、技術のアップデートも進んでいる。角がとれやすかったので中にネジを取り付けてキュッと閉めてパットを当てるという金具の技術レベルの改良が行われているのだ。外見を変えるということはやらないようにしている。また、今井さんの獅子頭の工房には、飾り獅子で全面真っ赤、真っ黒とか、龍の顔をした獅子頭とか、芸術的な作品も見られた。単純に発注を受ける獅子頭だけでなく、様々な獅子頭作りに挑戦されている。獅子頭の業界は伝統継承の意味合いが強いものの、常に創作に対する強い意欲を持たれているようにも感じた。

 

▼今井さんが制作された獅子頭の数々

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16:30~ 井波彫刻総合会館の展示を見る

最後に訪れたのは、井波彫刻総合会館。井波彫刻の全体像を見られる場所はここだろうと思い、今回訪問した。事務局長の崎田宗孝さんに限りある時間の中で、館内外をご案内いただいた。実際に訪れてみると、面白い獅子舞関連の展示品やグッズが数多くあり、エンターテイメント性に溢れる場所だと感じた。グッズは獅子ガチャや獅シール、獅子ストラップ、その他様々だ。極めつけは、獅子のギターである。金沢の金箔やら高岡の漆やらが使われたこだわりの1品だ。展示内には、内観の柱のあちこちにリスなどの小動物の彫刻が潜んでいて、そのような遊び心も楽しめた。また、総合会館の周辺には、獅子にカラフルな色がつけられた彫刻や、獅子が刀を加えて総合会館への道順を指し示すような展示もあった。言われないとわからない、でも言われたら「ああ、そうだったのか!」と納得する面白さ。こういう細かい遊び心が散りばめられており、獅子好きとしては見せ方としてなるほどと思わせられることも多かった。また、この総合会館に併設して道の駅や井波彫刻の工房がずらりと並んでおり、トイレ休憩やお昼に道の駅に訪れた人が井波彫刻や獅子頭について興味を持つきっかけにも繋がると感じた。

 

▼刀の方角が館内の入り口を指し示す

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