古来の風格を纒う獅子は、1400年の歳月を今に伝える。2024年4月22日、大阪府大阪市四天王寺の天王寺舞楽を観た。大陸系の中で日本最古の獅子とも言われ、その始まりは聖徳太子の時代に遡る。この獅子の起源をより明確に知りたいという思いもあり、現地を訪れた。今回は背景知識を過去の文献を参考にしながら振り返ることをメインに書かせていただこう。
舞楽の起源「伎楽」の伝来
『新撰姓氏録』によれば、欽明天皇のころ(6世紀中頃)、大伴狭手彦が朝鮮に使いとして派遣された時、和薬使主(やまとのくすしのおみ。650年に孝徳天皇に牛乳を献じて和薬使主の姓を賜った善那使主の父親・智聡の誤り?雅亮会『天王寺舞楽』を参照)によって「伎楽調度一具」が伝えられたとある。しかしここで定かなのは道具が伝わったことであり、楽舞が伝えられたかは不明である。
ここから時代は下り、日本書紀によれば、612年に味摩之(みまし)が百済から帰化し、呉国に学んだ伎楽に長けていたことから、桜井(現在の飛鳥豊浦の向原寺)に住ませて、少年へ伝習させたとなっている。『教訓抄』所引の古記によると、大和国橘寺、山城国太秦寺とともに、摂津国四天王寺にもこの味摩之が寄せ置かれたとある。人々は当時、この伎楽を学ぼうといういう意欲は少なく、学んでもなかなか上達しないという状況が続いた。そこでこの技を伝習するために、課役(割り当てられた仕事)を免ずることや、仏教の供養や法会において伎楽を積極的に導入したことなどから徐々に広まり始めた。
701年に雅楽寮が設置された際は、伎楽が四天王寺と大安寺で寺院の楽として保存されることとなった。この時、伎楽以外にも久米舞や五節舞などの楽舞や歌謡も一緒に伝習された。ただ時代の移り変わりで伎楽は舞楽への流れは止められなかった。伎楽の上演記録としては、1181年4月8日の南都禅定院にて行われたとされる。その後、1299年11月に東大寺で伎楽会が開催された時には、内容が舞楽楽人に向けて伝えられていたため、すでにこの100年のうちに伎楽の形骸化が起こっていたと考えられる。ただし四天王寺の獅子の曲は今でも伎楽の時の名残をとどめており、これは多くが途絶えてしまった伎楽の一部を残す貴重な例である。
そもそも雅楽と舞楽の違いは?
ここで、舞楽の話をする前に、雅楽と舞楽の違いについて触れておこう。雅楽は外来の楽舞およびこれらの音楽や舞を手本として日本で作られた楽舞のことで、雅楽の中でも楽器のみで演奏することを「管弦」、舞を伴うと「舞楽」と呼ぶ。舞楽の中でも中国大陸に由来するものを左舞として赤・紫・金といった装束を身に纏い、朝鮮半島に由来するものを右舞として緑・黄・銀といった装束を身に纏う。ちなみに天王寺舞楽の獅子は右舞とされ、左舞は菩薩である。
天王寺舞楽とは?
ここからが本題の天王寺舞楽についてだ。これは聖徳太子の命日に行われる法要で、1400年の歴史がある。現在は4月22日に行われているが、かつては旧暦2月22日に行われていた。聖徳太子がいた時は法華会と呼ばれていたが、死後は聖霊会と言われ現在に至る。「聖徳太子傳記」に記されていることには、612年に味摩之(みまし)が伝えた伎楽を習ったのが、上記の少年たちであり、そこには側近の秦河勝の息子5名、孫3名、秦河満の息子2名、孫3名がいた。さらに四天王寺に32名の楽人を置いたとも言われている。これが後に四天王寺で舞楽や伎楽の演奏を担当した楽家につながる。
雅楽や舞楽の演奏を担当した楽家と楽人の組織を「天王寺楽所(がくそ)」と呼ぶ。天王寺楽所は後世においても、聖徳太子の時代に伎楽を学んだ秦河勝の子孫たちの末裔であると考えており、秦姓の楽人は東儀、林、薗(その)、岡の四家に分かれて、共に四天王寺に奉仕した。天王寺楽所という演奏家集団は7世紀半ばには既に存在していたと考えられるが、正式な記録は12世紀の平安時代になってからとも言われている。
平安末期には三方楽所の制が定められて、北京楽所(京都)、南京楽所(奈良)、天王寺楽所(大阪)の3つが朝廷の御用達となって朝廷の庇護を受けていた。ただし、天王寺楽所のみ京都から遠く辺境であったため、朝廷における力は他の2つに比べて弱かったとされ、逆に民衆支持のもとで栄えてきたという経緯がある。民衆にわかりやすい舞楽を心がけてきたとも言える。
天王寺舞楽特有の表現として小野功龍は「舞の線の太さと勇壮さ、スケールの大きさ」を挙げており、これは天王寺の石舞台が大きいことや参詣客が遠巻きに鑑賞するという舞台環境が作り出した特徴である。また東儀俊美はメリハリの良さという特質を挙げている。また、小野真龍は根本精神に大乗仏教があるとしており、聖徳太子の御霊を供養するだけでなく、石舞台上を浄土として、多くの民衆に仏縁を結ばせその縁を深める意味があるという。
さらに伎楽の系譜を受け継いでいるため、パントマイム的な芸能であったとも言われており、古来近世以前はやや下品と考える者もいたようだ。その表現として年老いた翁が鼻を手でかむという表現をリアルに演じたり、胡徳楽では酔っ払ってふらふらしたり、従者が盗み酒をしたり、かわらけ(杯)をポーンと四天王寺の六時堂前の池に投げたりなどの演出があった。これらの特徴からして、京都や奈良の楽人からすれば癖のある舞であり、自分たちの方が格の高い舞だという印象を持っていた。ただし天王寺舞楽は創建以来の反骨精神があり、応仁の乱の際に京都や奈良が焦土となった時に、天王寺楽所の楽人が大活躍して復興に努めたなどの素晴らしいエピソードも残されている。江戸時代以降は高尚な趣味として取り上げられることも多くなった雅楽。それをを教えるのが天王寺舞楽という構図もあったようだ。
菩薩と獅子、その役割とは?
さてここから獅子舞研究者として、獅子に触れていきたいと思う。天王寺舞楽の獅子は現在、菩薩とセットで演じられる。どちらも舞楽の中盤で演じられる演目だ。現在では舞いの伝承が失われてしまっているため、簡単な所作にとどまる。どちらも推古天皇の時代に伝来した伎楽が源流となっている。
菩薩と獅子の共通する所作は「大輪小輪(おおわこわ)」である。菩薩も獅子も2対で1組とされており、石舞台へと登って降りてを2回繰り返し、石舞台上では2重の輪を描くような動きが行われる。これは四天王寺独特の舞台構造を利用して創作された演出でもあり、四天王寺のみで行われている。また、菩薩と獅子は平安初期ごろまではそれぞれが独立した舞いが行われていたが、平安末期にはその舞いが断絶したものの、天王寺舞楽においては供養舞の一部に見事に組み込まれたという形だ。
またこの伴奏は笛と打楽器で構成されており、13世紀成立の雅楽の専門書『教訓抄』には四天王寺と住吉大社独自の曲を演奏しており、本来の獅子の曲より面白いというような内容が書かれている。つまり都の雅楽とは異なる形で伝承が保存されてきたというわけだ。
獅子は後世、三味線音楽や歌舞伎、舞踊に取り入れられ広く普及した獅子舞の原型であり、大陸系獅子舞の最も古い原型である。天王寺舞楽における獅子の役割は何か。それは仏教世界における祓い清めの精神に通ずる。2頭の獅子は本坊を出て左と右に分かれて石舞台で合流し、そして六時堂へと至る聖霊会の道行の先頭で露払いを行う。また後ほど石舞台の上での舞楽では法要の場を清めるという役割を担う。
こんな獣の舞いもある!蘇莫者について
四天王寺では蘇莫者(そまくしゃ)の舞というものがある。それは褌脱(こたつ)舞であり、褌脱とは動物の骨肉を抜いた皮袋を帽子として被った舞い方のことである。猿や蛙といった動物をモチーフににしたモノマネ演技であり、鳥獣戯画の主人公にもなるようなユーモアがあった。しかし、演技者からみれば、好ましいものではなくて自然に忌避されることになった。しかし、四天王寺にはそれが伝承されている。この舞いの起源には中央アジア・サマルカンドが考えられ、そこから古代中国を経由して日本に入ってきたようだ。動物をモチーフにしている点では、獅子にも通じる何かがあるかもしれないと思い、ここで簡単に触れておく。
天王寺舞楽の伝承の秘訣!
吉田兼好著『徒然草』によれば、「何事も辺土は賤しくかたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に耻ぢず」とあり、兼好が天王寺楽人にそのわけを訪ねたという。そうしたら、「天王寺の音楽がすぐれているわけは、春秋の彼岸の中日頃の黄鐘調(おうしきちょう)の引導鐘の音に調子を合わせて正しいピッチで練習をしているから」ということらしい。四季ある日本において、お彼岸は比較的標準温度の気候であり、最も正しいリズムを刻んでいるというのだ。気温が低ければ音速は遅くなり、暖かければ早くなると言われている。鎌倉時代には既に科学的錬磨が行われていたことには感銘を受ける限りだ。
また江戸時代、楽人町という寺領があり、ここに楽人が一堂に居住していた。しかし、江戸時代の宝暦の頃に、楽人町から楽人が離脱して、舞楽の伝流を自由な形で行う動きが強まった。つまり寺院楽や宮廷楽から民衆の楽へと転換することで、舞楽伝流への意欲を高めることになったとも言われている。このようにどこまでも民衆に近いのが天王寺舞楽であり、そこには担い手による隠れた伝承のコツ、工夫があったわけだ。
ps. 和歌山県三面獅子との関連性
今年2月に訪れた顯國神社の三面獅子はやはり、この天王寺舞楽にも近い舞楽や伎楽の系譜を受け継いでいると思う。獅子頭が黒色であること、太鼓のリズム、面の形の観点で、和歌山県の三面獅子と四天王寺の舞楽の獅子は非常に共通点があると思った。江戸時代以前の記録はないが、中世に祭りの先導役と厄祓いを主として担った「行道獅子」に似たような形態を持つ獅子だ。またオニは天狗あるいは伎楽の鼻高面、ワニは伎楽の崑崙にも似ているように思えるが関連性を示す資料は見当たらない。ここについてはさらに深く調査していきたいものだ。
参考文献
南谷美保『四天王寺聖霊会の舞楽 増補版』東方出版, 2008年8月
小野摂龍「天王寺舞楽と雅亮会の歩み」, 『大阪春秋 第8巻 第3号 通巻25号』大阪春秋社, 1980年9月
小野真龍「天王寺舞楽〜浪速に残る最古の古典芸能」, 『やそしま 第十二号』(公財)関西・大阪21世紀協会, 2018年12月
南谷美保「秦姓の舞ー天王寺舞楽と天王寺楽人のお話ー」,『和 Communication 四天王寺 第770号』 四天王寺 2015年10月
中田文花「絵で見る四天王寺聖霊会 第7回 国指定重要無形民俗文化財 「聖霊会の舞楽」(天王寺舞楽)の歴史」, 『和 Communication 四天王寺 第774号』四天王寺 2016年6月