五穀豊穣をもたらす古の呪術!?岐阜県関市「どうじゃこう」農業の獅子舞の系譜を考える

箕獅子から見る農耕の獅子舞の原点は、里山に暮らし身近なところに潜む魔物と格闘する人間の暮らしだったのかもしれない。

2024年4月21日、岐阜県関市の「どうじゃこう」と呼ばれる謎深い民俗行事を訪れた。獅子舞というべきか、獅子概念を呪術に消化した芸能という方が良いかもしれない。その特異性には驚き、そして底知れぬ奥深さを感じずにいられないのだ。

この行事に関心を持ったきっかけは、2024年1月に三重県伊勢市の箕獅子を取材したところ、岐阜県にも同様に箕を使った民俗行事が今でも受け継がれており、かつ三重の場合は所作が残っていないが、このどうじゃこうの箕獅子は所作が受け継がれているという。これは文化伝播と意味でも、箕獅子の底流を流れる系譜を知ることができるかも知れない。そのような想いから、この地を訪れた。

箕獅子

どうじゃこうの流れ

神事芸能が始まるのは14時ごろからで、その後のどうじゃこう は15時からだった。どうじゃこうは7番までの構成である。第1番四方浄め、第2番薙刀振り、第3番棒振り、第4番宝獅子、第5番箕獅子、第6番童子やこう、第7番豊年踊り(千秋楽)の流れだ。  

厳粛な薙刀振りの後に形を崩した棒振り、厳粛な宝獅子の後にユーモラスで暴れ回る箕獅子、という風に聖と俗の対比構造になっており、前者が静粛に後者が狂言的なユーモラスを含んで行われる。箕獅子は非常に観客からの注目度も高く、竹箕に和紙を貼った頭と、菰筵(こもむしろ)ともいう藁を縦横に編んだ胴幕によって構成される異形の風貌である。最後の豊年踊りは常盤町が囃し方として「さがりば」を奏し、福槌、鍵、松笠、宝珠などの神宝や国家安泰や五穀豊穣などの文字を描いた色とりどりの紙製の宝笠を頭の上に乗せて踊る。

宝獅子

箕獅子が餅を食べる

童子やこうとは何か?古の呪術の存在

第6番の「童子やこう」が特異的であることから、この神事芸能の総称として「どうじゃこう」と呼ばれる。熊手に向けて通された紐を伝うように木箱(舟)が担い手たちによって動かされていく。その木箱の中には童子(猿)の人形2体と松明の火。その火が熊手のひのきの葉に燃え移るまで、続けられる。その行為は「どうじゃこうなりけり、自在なりけり」の掛け声のもとで行われる。小雨が降っているためか、なかなか火がひのきの葉に燃え移らない。それが燃え移ると歓声が上がり、滑車は逆にその木箱は熊手から離れて担い手たちの元に戻される。この時に火傷に注意で、消火は砂利に潜り込ませるようにして行われた。

関市教育委員会『関市史民俗編』によれば、「熊手(深山)を野獣(あるいは魔物)から守るために野獣(獅子)に餅を与え、野獣が満腹して油断しているすきに乗じて山に火を放ち、これを退治することによって五穀豊穣、国家安泰を招くこと」とされている。すなわち野山や田畑を荒らす魔物に餅を与えて、油断している隙に山に火をかけて退治することを示している。これは春日神社『春日神社 どうじやこう 民俗重要文化財パンフレット』によれば、童子童女が夜道を安全に行き交いできるようにという願いが込められている。また、岐阜県小中学校校長会『ふるさとの行事』によれば、掛け声の「自在なりけり」が作物の豊作が望めることを意味して、作物を荒らすどうじ(猿)あるいは悪い神の追放という意味を持つという。解釈が正反対なのが面白いところだ。

童子やこう」を漢字で表現すると「童子夜行」であり、夜に深山に火をつけに行くことを意味する。「やこう」は焼くことと夜に行われる祭りの意味が考えられる。昔は夜の行事だった可能性があるが、安政4年(1857年)に関役所が出した『申渡之覚』によれば、「一、午の刻童子やかふ」とあり、正午の行事であったことが伺える。

点火する際に、松明とともに木箱に入ってる人形2体は、童子(「童子童女」とも考えられる)であり、猿とも言われている。童子とともに箱には日月を象る太鼓状のものがあることから、天日月の霊験を自在に発揮することから護法童子とも考えられ、修験道との関わりが推測される。童子は土、猿面は金とすれば、五行における土生金に該当して固くて丸いもの、すなわちお米の五穀豊穣を導く祈りともされる。

さて、燃え残った熊手の残骸は厄除けとして、持ち帰ることができる。「焼けぼっくいで菌付かず」とされており、厄除けや養蚕豊穣を願う呪具となる。僕自身も最後に竹をいただくことができた。担い手に詳しく話を伺ったところ「家の神棚などに飾っておくのが正しく、魔除けになる」と聞いた。また角形の小さなお餅を3ついただいた。


どうじゃこうの起源は?

このどうじゃこうの起源は大和にあるというが、これはいくつかの神事芸能のことであり、「童子やこう」自体ではないと考えられている。童子やこうの担い手(参与者)は長谷川家(相川町)と常盤町などの氏子であり、長谷川家は室町時代末期に榑木(くれき)という材木の販売権を持った家柄でこの田楽系芸能である「童子やこう」を保護する者であった。ただしその大元は鍛冶屋ではないとも考えられる。なぜなら田楽系芸能であるからだ。第7番豊年踊りに用いられる笏拍子の一枚に「天文六丁酉正月吉日破損したるにつき新調」との墨書があり、天文六(1537年)以前から行われていたことが伺える。またどうじゃこうが行われる春日神社の始まりは、鎌倉末期に惣鍛冶職が一党の氏神として奈良の春日大社の分霊を祀ったことに由来するという。

どうじゃこうを訪問して感じたこと

実際にこの芸能を見て心を動かされたことをいくつか紹介する。まずは宝獅子が舞っている時に餅を食べさせられ、その時に双方の力が強すぎたのか、宝獅子の舌が壊れて外れてしまった。「あ〜あ!」という表情の担い手はそそくさと宝獅子との対峙をやめた。そして間も無く宝獅子は裏へと引っ込んでいった(退場した)ように見えた。
また宝獅子と箕獅子を見学していた子どもが「あ!あれは人間だよ!だって足が出てるもん」と騒いでいた。大人からしたら民俗芸能であるからには、それに入るのは人間であるのが当たり前というありきたりな発想になりがちだが、子どもからすれば「よくわからない妖怪の類の正体はなんなのか?」という不思議がまずあって、それが人間であるという確証を得ようとしているという風に思えたのである。
あとは蛇足であるが、どうじゃこうの前に見た天狗の舞とひょっとこか何かの舞がものすごく格好良かった。震え悶え大地を揺り動かそうとする力、それこそが豊穣であるというものすごい壮大な世界観が眼前に広がってきたような感覚になった。これは岩手県の黒森神楽の山の神を見た時と少し感覚が似ていたが、そこと結びつけるのはまだ直感的な域を出ないものであり確証はない。


日本全国に広がる箕獅子の系譜

このどうじゃこうを訪れて、中世の田楽の匂いが色濃く感じられた。箕獅子は中世田楽の流れを伝えているのか。はたまたその裏側に修験道も見え隠れする。まだまだわからないことがたくさんある。佐渡のたかみ獅子など、まだまだ日本全国には箕を使った獅子頭がたくさん存在する。竹細工をする放浪民の集団、サンカとの関わりもあるだろう。それらをもっと調査してその根元にある問いである「なぜ獅子舞の元を辿ると箕という農具を使うことになるのか?」を突き詰めたい。

参考文献
関市教育委員会『関市史民俗編』1996年3月
地域社会研究会『地域社会通巻34号』1996年3月
岐阜県小中学校校長会『ふるさとの行事』財団法人岐阜県校長会館, 1999年11月
清水昭男岐阜県の祭りから』一つ葉文庫, 1996年1月
吉岡勲『生きている民俗探訪』第一法規出版株式会社, 1978年9月
春日神社『春日神社 どうじやこう 民俗重要文化財パンフレット』