天候をコントロールしたという欲望、その先に「水止舞」は生まれた

2022年7月10日13時に訪れたのが、厳正寺(ごんしょうじ)の水止舞だ。水止と書いてシシと読む。とても珍しい獅子舞だ。形態としては明らかに三匹獅子舞なのだが、これが龍と一対なのがまた面白い。なぜ龍と獅子舞が対になるかというと、多摩川デルタ沿いの水害に悩まされてきた地域における「天候をコントロールしたい」という欲望によるものだ。

水止舞誕生の由来

水止舞の始まりは今から700年前、後醍醐天皇の頃の住職・法密上人の時代に遡る。法密上人は文永4年(1267年)に北条茂候の子として生まれ、18歳に高野山真言密教を学び、厳正寺二世を継いだ。元享元年(1321年)54歳の時に、武蔵国が大干魃(かんばつ)に襲われた。雨乞の祈祷をお願いされた法密上人は再三辞退したものの、結局、これを引き受けることとなる。その時に行ったのが、まず稲荷明神の社を立てること、藁で龍神の形を作ること、7日の祈祷ののちに舟を浮かべて龍神を沖に沈めることだった。その後に仏前で謝恩読経すると、旱天(かんてん・降雨なく日照りが続くこと)だったのに急遽、慈雨(じう・恵みの雨)が降り出して、民衆は大いに喜んだ。

しかし、2年後の元享3年(1323年)の3月3日から数十日間、雨が降り止まずに田畑はことごとく海となったため、他国への移住が急増した。法密上人はその恨みを買い、再び祈祷をすることを決めた。今度は三頭の龍像を彫り「水止(しし)」と呼び、仏前で浄土三部経をとなえ、地域の人々に水止の龍像を被らせて舞わせ、笛太鼓を叩かせて法螺貝を吹かせた。すると、武蔵国一円が日光輝くばかりに晴れ渡ったという。この出来事をきっかけとして仏様への感謝の舞を奉納し現在に至っている。(参考:水止舞 フライヤー, 水止舞保存協力会, 2022)

雨をコントロールする身体性

以上のエピソードから、「雨が降らなすぎてもダメだし、雨が降りすぎてもダメ」という人間の欲望が、水止舞という民俗芸能を生み出したことがわかる。日本全国を見渡せば、龍は雨を降らせるという思想があり、例えば埼玉県の獅子舞は獅子型と龍型に大別されて、「龍頭型と言われているものは雨を降らせる」と言われている。一方、石川県羽咋郡宝達志水町では、かつて祭りの日が晴れて欲しいからということで生み出された「晴天獅子」なる獅子頭に出会ったことがある。これは龍のような形をしていたわけではなく、少なからず晴れさせるというニュアンスが含まれているのだろう。天気予報がない昔の人々にとって安心をもたらすのは祈祷であり、それが精神の安定をもたらしていたと思うと興味深い。また、雨を降らせることと、雨を止めることにまつわる儀式の一連の流れを上述のように確かめていくのはとても面白い。雨を降らせる際にはただひたすら祈りを捧げて龍を水に流したのに対して、雨を止める際にはひたすら舞った。この身体的な行為が雨という善悪両義的存在に向き合うための行為であったというわけだ。

なぜ突如として舞うという行為が始まったのか?

上記の水止舞のエピソードについて、まだまだ興味深いポイントがある。それは、成立年についてだ。なぜ、雨を降らすために登場しなかった獅子が、雨を止ますために突如として登場したのだろうか。三匹獅子舞の創始は、関東一円に伝わっている「大日本獅子舞来由」あるいは「大日本獅子舞之由来」が示す通り、1245年3月節句の頃、後嵯峨天皇の治世に空から獅子の首が3頭分、降ってきたことから始まる。これは吉兆ということで、角兵衛と弟の角助・角内に踊らせ、ここを起点として関東に広まったということだ。おそらく、13世紀~14世紀は関東一円の三匹獅子舞創世期であったはず。芸能のプロが飯を食うために秘伝書(車の運転免許証と同じようなもの)を作り広めたが、これはもしかしたら嘘の内容だったかもしれない。それはそうと、基本的には各村がこの秘伝書をもらい、認めてもらえるように舞い方を習得してそれを継承する運営システムを築き上げるベく必死になった。秘伝書がもらえれば、お墨付きとなり、他と差別化される。だから、この秘伝書の内容は他言無用である。まるで、これさえ持っていれば、自分の価値がどんどん上がっていくという風にして、秘伝書は権威づけのために珍重されたのだ。秘伝書を渡すことが芸能者の生活の糧を作り、それが天皇家の治世を天下泰平のものに保つために貢献していたかもしれないという視点も必要である。このような時代背景のもと、作られた水止舞にはどれだけこの謎深い芸能プロ集団の手が加わっていたものか知りたいところだ。

水止舞を現地で見てきた

スタート地点は厳正寺から150メートルほどの場所にある、狭い路地である。まずブオーと法螺貝を吹く人間が藁に包まれて人に担がれ、水をぶっかけられながら進んでいく。狭い路地に大量の見物客...当然、周りの人も水をかぶることになるが御構い無し。「濡れてもすぐ乾くから大丈夫でしょ」と見物たちもなんだか呑気だ。カメラがびしょ濡れになりながらも必死で龍の動きに食らいついていく。

水を龍にかける意味は、「暴れる龍を懲らしめるため」と言われることもあれば、「龍神を元気付けるため」と言われることもある。そのため、龍が吹く法螺貝の音色は、悲しい音色に聞こえることもあれば、高らかな雄叫びに聞こえることもあるのだ。ちなみに、水止舞保存協会によれば、これは後者が正しいとフライヤーに書いてあった、確かに雨を降らすのがここでいう龍神で、後に来る獅子舞が雨を止めるのならば、この解釈が正しいのかもしれない。先ほどの「雨が降らなすぎてもダメだし、雨が降りすぎてもダメ」という解釈に当てはめると、善悪両義的な雨の姿がさらに鮮明に浮かび上がってくる。

龍が通り過ぎると、三匹獅子舞が太鼓を叩きながら登場して、これまた厳正寺を目指す。龍も獅子舞も目的地は厳正寺の舞台の上。まず龍が到着すると藁が解かれて舞台をぐるりと囲むように置かれる。そこに三匹獅子舞(赤い面の雌獅子, 黒い面の若獅子と雄獅子)、花籠2人、奉納笛と唄が入場して、演舞が行われるという流れだ。舞い方は以下の6種類だった。

(一)雌獅子の舞(女水止舞)
(二)初めての出会いが表現された「出羽の舞(出舞, 大水止・若水止の舞)」
(三)三匹が仲良く舞う「大若女・水止舞(トーヒャロ)」
(四)施餓鬼に関する「コホホーンの舞」
(五)雌獅子を奪い合う「雌獅子かくしの舞」
(六)仲良く三匹が踊る

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