水害リスクを減らした獅子とは!?埼玉県三郷市・戸ヶ崎香取神社の獅子舞を見てきた

2022年7月3日、埼玉県三郷市戸ヶ崎の香取神社例大祭)で三匹獅子舞を見てきた。戸ヶ崎といえば獅子舞が盛んな地域で、一日中ぶっ通しで朝から晩まで3日間、獅子舞をする。なぜこんなに盛んなの?という疑問とともに、最終日の様子を振り返っていきたい。

コロナ禍で見られた新しい祭りの形

今回伺った香取神社例大祭においては1日5庭となっていた。普段であれば、間髪入れずに朝9時から夜の8時まで踊り続けるようだが、今回は間に時間を設けることで獅子をアルコール消毒するというお話をちらっと聞いた。コロナ禍において、担い手が代わる代わる中に入る獅子舞は難しく、消毒の時間を必要としているようだ。イレギュラーな開催であったが、非常に盛り上がりのある祭りだった。

三匹獅子舞の演目数について

一見すると、普通の三匹獅子舞である。大獅子、中獅子、女獅子の3頭が太鼓を叩きながら踊る。獅子舞の演目は全部で9庭あり、花廻り、笹廻り、飛びがっこう、弓がかり、橋がかり、帰りがっこう、綱渡り、烏のぞき、刀がかりという名前がつけられている。また、この9庭は富士登山の道中を表しており、その通り富士山は9合目までしかない。富士講の影響が色濃く残っている証拠と言えるだろう。

また、庭を省略する場合は、庭数は必ず「奇数」と決まっている。例えば、時間的に2庭しかできないときは2庭目を省略して3庭目を行う。これは恐らく陰陽五行説における奇数を陽、偶数を陰とする考え方に起因するものだろう。

非常に興味深かったのが、以前は唄があったが、今は無くなってしまったそうだ。なぜなら聞き覚えるならいいが、他人に教えるとその人は死んでしまうという恐ろしい伝承があったからだ。この事実をどう考えたら良いだろうか?唄に秘められた言葉に相当な呪力があったのか、もしくは教えるのが大変だったから冗談で言ったのか。解釈が非常に難しく謎深い。

個人の生死が祭りに影響を及ぼす

祭り直前に身内の不幸があれば参加を遠慮するほか、子供が生まれた家では、男児21日、女児33日以内の時も遠慮するという。この数字にどのような意味があるのかは定かではない。人の生死という重要ごとがあるときは、それに向き合うべきという話なのだろう。以前、2018年にインド奥地のパキスタンにも近いダーという名の村に行ったとき、花の民という民族が3年に一度のお祭りをやっておりそれを見学させていただいたことがあった。子供が生まれても誰かが死んでも祭りはやらないという。個人の参加の可否が決まるどころか、村の祭りの実施の可否自体が個人の生死によって左右されるというわけだ。人口が少ない村とはいえ、3年に一度の祭りの開催を個人の生死が左右するというのは非常に興味深く、もしかすると日本も昔はそうだったかもしれないが、それが徐々に弱まってきているのではないかと推測する。

三匹獅子舞の由来「角兵衛の謎」

戸ヶ崎の獅子舞の始まりは、天正十年(1582年)に角兵衛の末孫を召して獅子舞の奉納をしたところ凶事が去ったため、村人が獅子舞を習って奉納するようになったとのこと。角兵衛に関しては以下のブログでも書いたが、三匹獅子舞のことを調べていると、とにかくよく登場する人物だ。水害のため獅子舞を一度休んだことがあったそうだが、伝染病が入ってきてしまったので、その後は太平洋戦争の時でも続けたという。

ina-tabi.hatenablog.com

洪水を防ぐ神としての獅子

また、洪水を防いでくれる存在として獅子がモチーフになる話も伝承されており、こちらも紹介しておきたい。文化4年(1807年)6月に二郷半領用水が増水した時に、水本との境のところにある桜堤を切らねば、戸ヶ崎が大変なことになるという事態となった。堤を切るということは、ある土地に水を溢れさせることで、下流の水害リスクを減らすという行為である。当然、不都合を被る人々が出てくる。ここに堤を切られては困る人々と、堤を切りたい戸ヶ崎の人々との監視合戦が始まるのだ。一計を案じた戸ヶ崎の人々は闇夜に小舟に松明をつけて、3頭の獅子頭も乗せて漕いで行くと、相手方が逃げたので桜堤を切ることができたそうである。この時の太刀で桜堤を切る場面を演じたのが、刀がかりという演目となった。村境における対立において、一種の神がかり的な行為によって、事態を収束させる獅子舞の役割が浮き彫りになるというわけだ。

この話について、さらに踏み込んで書きたい。柳田國男柳田國男全集18』(筑摩書房 1990年)に登場する「獅子舞考」には興味深い内容が書かれている。喜多村信節(きたむらのぶよ)著『筠庭雑考(いんていざっこう)』という江戸時代の書物に『四神地名録』を引用する形で述べられていることには、江戸東郊二合半(こなから)領戸ケ崎村において、宝永元年(1704年)の洪水の際に、水練が達者なものが獅子頭を被って川向こうに泳いでいくと隣村の水を防いでいた村民が大蛇が来たと思い逃げてしまった。そこで水練が達者なものが堤を切って、自村の災難を免れたとある。つまり、文化4年の増水より約100年前にも実は増水が起こり、獅子の登場によって堤を切ることができたという似た話が伝わっていたのだ。それに加えてこの獅子は大蛇を表し、水の神の意向として堤が切られたという物語を語るべく、獅子を登場させた可能性も見えてきて興味深かった。

 

参考文献

柳田國男柳田國男全集18』(筑摩書房 1990年)
三郷市史編さん委員会『三郷市史 第九巻 別編 民俗編』(平成3年3月)