【2021年12月】岩手県虎舞・権現舞取材 3日目 葛巻町

2021年12月6日

ゴンゲンサマ(獅子舞)についてお話を伺うべく、葛巻町に向かった。今回は美術家の増子博子さんのご案内で町内の様々な場所を巡り、地域の方々とお話をすることができた。葛巻町岩手県盛岡市の北東部に位置し、電車が通っていない山間部に位置する。人口は約5000人だが昔は15000人ほどいたと言われ、人口減少が進みつつある。この地にはゴンゲンサマという獅子頭があり、神社(祠)に安置されている。今回は葛巻町の古川戸と鷹巣のものを拝見することができた。どちらも現在、舞われているものではなく、神社ともいうべき祠に安置されているという状況だ。この地域では、地域の大事なものがこの祠の中に安置されている。木彫りグマや人型の御神体、サンゴの石など様々であり、そのうち一つとしてゴンゲンサマが安置されているのだ。日本全国の獅子舞取材の中でも類例の少ないこのゴンゲンサマの信仰形態について、おそらく調査研究もあまり進んでおらず、未知への好奇心とともにこの地を訪れた。

 

葛巻町は酪農が盛んで牧草地や餌置き場をよく見る。

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車で葛巻町まで送っていただく道中、増子さんに木彫りグマの話を伺った。木彫りグマが流行ったのが昭和30~40年代で、大阪万博東京オリンピックの頃に鉄道網が発達した。個人旅行や女性の一人旅が増えて、観光客のお土産として木彫りグマの需要が高まったという背景がある。戦後で自分のマイホームを持ち始めて、自分の家にモノを飾るという時代的な背景のもとで人気が激増した。アイヌ文化のお土産ということで木彫りグマが増えていった。元々は100年前に北海道に「徳川農場」という開拓農場ができてから、冬場の農閑期の収入源としてスイスから持ってきたお土産の木彫りグマをみんなで彫ろうという話が出てきたのが始まり。スイスから発想を得たというのは非常に興味深い。そのスイスから発想を得た北海道の木彫りグマが大ヒットして、それを自分も作ってみようというのが葛巻町の木彫りグマである。葛巻町の木彫りグマは北海道のものと違い、山葡萄を咥えてたり、ツキノワグマの模様があったり、地域特有の形で定着していった。地域に溶け込んでいく過程が面白いとのこと。なるほど、木彫りグマを通して地域の特色も見えてきそうである。

 

▼cafeやどり木には木彫りグマがたくさんいる

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そのほかにも面白い話がたくさん聞けた。「最近はクルミをカラスが車の前に置いてくる。それでクルミを割らせるんですよ」とのこと。なるほど、カラスはとても賢い。人間が車を使って便利な思いをしているなら「カラスもとことんそれを利用させてもらいます」という感じだろうか。一見、自然の脅威を超越せんという車が、実は自然と対話するきっかけにもなるなんて、とても不思議な感覚に思えた。また「座敷わらしも出るんです」とのこと。地域の家に5歳くらいの男の子の霊が出てきたらしい。以前、その座敷わらしを信じなかった男の人が泊まったら、ホウキではく音とか足でバタバタする音が聞こえてきて寝れなかったようだ。本当かどうかわからないが、想像力が豊かになってしまうのだろうか。葛巻には天然痘が流行って作られた、珍しい優しい女神様(エモンバサマ)もいる。まずはゴンゲンサマに限らず、とにかく信仰が多様であるという印象を持つことができた。

 

12:30~ 葛巻町古川戸

では、本題のゴンゲンサマについて。今回、1件目のゴンゲンサマは葛巻町の古川戸という場所にある熊野神社(別名:クマドウサマ)にて、拝見することができた。鳥居をくぐり山を少し登るとそこには小さな祠。中に御神体などとともに、ゴンゲンサマが安置されていた。この地域では、祠に上がりゴンゲンサマを拝むときは地域の方々の許可が必要だ。許可を取り参拝させていただいたのちに、この祠を別当代理として管理する服部義男さんに馬場トワさん宅でお話を伺うことができた。

 

▼古川戸の熊野神社に安置されているゴンゲンサマ

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稲村:ゴンゲンサマはいつぐらいまでお祭りで使っていましたか?

服部さん:よくわからないが、その辺のことは遠藤ひろきさんたちが管理してきた。遠藤さんはマメとかアワとかヒエとかの収穫を部落の人に手伝ってもらって、収穫祭みたいな感じで12月12日の山の神の日に感謝の祈りを捧げていた。このときは餅をついたりご馳走を出してくれたりした。旧暦の6月15日は作付けが終わって体を休めるときで、いっぱいご馳走になって、お祝いをした。お正月もやったので、それ含めると1年に3回、ゴンゲンサマのいる祠の前でお祝いが行われた。

増子さん:ゴンゲンサマは色がついていたのですか?

服部さん:昔はもっと綺麗だった気がする(一同笑)

稲村:ゴンゲンサマを使って舞うことはありましたか?

服部さん:その記憶はないけれど、いっぱい飲んだらやったんでないかなと思いますけども(一同笑)。お酒でもお茶でもないどぶろくみたいなものを飲んでいたんだと思う。

服部さん:そもそもの始まりは、他の熊野神社のゴンゲンサマを分けてもらったのだと思うけどもさ。

稲村:ゴンゲンサマを彫った人は誰かわかりますか?

服部さん:それはわからねえ。

増子さん:藤岡先生という88歳の方含む葛巻町文化財保護委員が書いた『葛巻の神々』という本には、年代不詳・作者不明と書かれていました。

稲村:ゴンゲンサマを(地域の方々に)お披露目する機会は今はありますか?

服部さん:今はない。

馬場さん:お父さんばっかり掃除するから(笑)

稲村:先ほど祠を見てきたらお酒がたくさん置いてありましたが、神様にお供えするお酒はどのようなものを選ぶのですか?

服部さん:日本酒であればなんでも。

馬場さん:服部さんがお供えしてくれてます。誰も行かなくても。

稲村:いつも(祠の)お掃除を定期的にされているのですか?

服部さん:6月の前と、正月にやる。お正月は竹か松かの飾りをつけ、しめ縄も作る。鳥居は自分で1人で作った。ちょうど良い栗の木があってそれが2本倒れていたから、それを使った。森林組合で働いていたときだから、昭和63年くらいの話だ。

一同:すごい!

 

▼手作りで作られた熊野神社の鳥居

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服部さん:昔は中学校を卒業すると、農閑期の11月から3月まで出稼ぎに行ってて、埼玉、神奈川、東京などで働いてた。12月の山の神のお祭りをしていたのは出稼ぎ文化が始まる前の話だ。出稼ぎでは刑務所に行って御赦免になって戻ってきたような人たちと鳶職の仕事をしていたが、皆人っこは良かった。仕事をやる中で高いところに登っていると、危険を伴う仕事とか自分ではどうにもならないような時には神様に頼るしかない。50メートルの仕事をしているときは、目線より下を見るなと言われてきた。そのようなこともあって、出稼ぎが始まる前の小学生まではこの部落にいた。

馬場さん:お正月は服部さんの家でご馳走になった。6月はシートを敷いて、祠の周りでご飯を食べていた。

稲村:6月は祠の前で食べる食べ物は決まっているのですか?

服部さん:決まっているわけではなく、手っ取りばやくまずは煮しめとかな。

稲村:神様にお供えする食べ物もあったのですか?

服部さん:昔はあったけども、それをわかっている人は亡くなったので記憶にねえや。

稲村:昔はこの地域でどういう遊びをしていたんですか?

服部さん:マスを飛ぶとか、メンコをしてカードを集めるとか..。夏は川が溜まり場で、泳いだ後、近くに岩に腹をつけるとあったかかった。

増子さん:確かに岩にお腹をつければ、あったまるもんね(一同笑)

稲村:神社には昔から興味があったのですか?

服部さん:どうにもならないときは拝むしかなかった。

増子さん:この辺には拝み様(イタコ)っていたんですか?

服部さん:それはいねえんだなす。子供ながらにおっかねえもんだと思っていた。年寄りから聞いたが、悪さすればイタコくるなどと言われていた。

増子さん:昔は八卦おきという占いの人もいたんですか?

服部さん:それは知らんが、一番記憶に残っているのが、ベコ(馬)の神様だ。お札を持って、遠野の方から来た人がまじないを唱えていた。目の神様もいた。

服部さん:各部落に一軒ずつ旦那さん(地主)がいた。何にも持たない人が畑を借りて小作となった。

稲村:この地域の方は普段作物として何を作っているのですか?

服部さん:農作物といえば、稗、麦、粟、豆、荏胡麻..。稗は春、麦は夏~冬で植えていく。麦を刈り取れば蕎麦ができる。今年は粟はキロ300円幾らかで、稲積みはキロ530円だった。

 

14:00~ バロンにてお昼

cafeやどり木の熊谷由美さんにお話を伺った。バロンの名物料理・アラモンタンをいただき、白ご飯までつけてもらった。常に腹をすかせている自分にとっては、大変ありがたいサービスだった。葛巻町の高校には、郷土芸能部がある。体育祭でも神楽を舞うという場合が多い。神楽の様々な演目のひとつで権現舞というものがある。ただ「権現舞」と言うのは高校でのみで、多くの人は一括りに「神楽」と言う。高校で神楽を舞うようになったのはそんなに古い話ではない。山村留学で来た生徒がよく神楽を習っている。神社で実際に行なっているものと、高校で行なっているものとで指導の仕方も舞い方も異なっている。葛巻の中で、秋分の日の秋祭りは4地域に分かれており、そこで神社の権現舞を披露する。また、この時に4地域のうち1つである新町組というところでは、手作りの虎頭を持って家を巡る。この虎頭は普段、雑貨屋さんに保管されている。『葛巻の神々』の本を見せていただいた。

 

葛巻の神々』に記されたゴンゲンサマの情報

真山神社葛巻・平船)・・・1体あり(1736年 平舟新五兵衛さん発注, 鈴木助十郎制作)

・山の神神社(只見)・・・石のゴンゲンサマあり

熊野神社(冬部・名前端)・・・2体あり

熊野神社葛巻・古川戸)・・・1体あり

・〇〇神社・・・3体あり(内一つが、1714年 施主 立花新三良, 別当 立花円生坊の墨書)

 

16:00~ 葛巻町鷹ノ巣

神社に保管されたゴンゲンサマがあるということで、車で連れて行っていただいた。このゴンゲンサマにはある逸話が残されている。地域の方の話によれば、少し上の方にある神社からコロコロと転がってきて、今の場所にたどり着いたという。転がってきたのは何かの拍子に自然にというよりは、ゴンゲンサマの意思で「こちらに行きたいから」ということで転がってきたようだ。だから元の神社に戻すことはなく、今の神社に安置された。今の神社は水の神様が祀られている場所で、権現様とともにサンゴの石が祀られている。周囲には川や牛小屋があり、牛の声が夕暮れ時に響き渡っていた。

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今回の葛巻町滞在の最後の数時間は、cafeやどり木にて滞在しバスを待った。薪ストーブのある暮らしが印象的だった。バス1本で盛岡まで行ける一方で、秘境感漂うのが葛巻町の魅力だ。都市祭礼に近づけば近づくほど、祭りとその拠点となる神社が豪華に賑やかになっていく。秘められてきた祭り事が明るみに出て、規模が大きくなって祭り道具も華美な装飾が目立つようになる。しかし、葛巻町は山や雪により地理的にも隔離された場所にあり、都市祭礼の文化圏にも組み込まれてこなかったのだろう。この町独自の素朴な信仰形態が今なお、ささやかに細く長く受け継がれているのがとても魅力的に思えた。情報網も交通網も発達した今、地理的な辺境はなくなりつつあるが、心の辺境だけでもこの地に残ってほしいと想いながら、葛巻を後にした。