【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材2日目 宮町 片野町 高尾町 深田町

7月2日

本日は石川県加賀市橋立地区の4つの町の獅子舞を取材させていただいた。橋立町公民館長の吉野さんにご紹介いただき、各町の区長さんなどにお会いすることができた。その時に伺ったお話を以下に記す。

①宮町 

区長の大宮昭弘さんにお話を伺った。宮町の獅子は橋立3町とも違う。獅子頭の制作を鶴来に頼んだら、なぜか越前国三国で作られて送られてきた。塗り師と彫刻師が別々の人間である。練習用の獅子舞は暴れ獅子により、太鼓に忠実に走ると必ずどこかにぶつかるので、獅子頭がどんどん壊れ耳が紛失した。舞い方は寝獅子で一見ゆったりとした印象を持つ方もいるだろうが、太鼓の指示によって獅子が左右に激しく動くこともある。どこから獅子舞を習ったのか、当時の人は生きてないので詳細はわからないが、鶴来から習ったとも言われている。

 

蚊帳の中に入る人の数は決まっていない。その時にいる人が入ることになっている。青年団のみで獅子舞を運営していた時は人手が足りず、55~6年前ごろに3人しかいなくなった時もあった。その時は獅子舞の中に入る人が1人しかいなかったため、体に尻尾を括り付けて獅子頭を持って演じていた。つまり、人手不足の1人獅子である。今は青年団がほとんどおらず、45~6歳までのベテラン含めた壮年団が獅子舞の運営主体となり、人手を確保している。

 

祭りの本番は9月25.26日である。本来、橋立地区は田んぼの収穫の関係もあり、25日に祭りを行う決まりだったが、他の多くの地域は日程をずらしてしまった。宮町のみ日程をずらさずに祭りを行なっている。獅子舞はまず1日目に町内を舞い、2日目に「お礼参り」と題して、もう一度同じルートを舞う。その意図としては、田んぼの関係で留守にしている家も多いのと、町内の家があまり多くないため2回回っても大きな負担にはならないことに由来している。ご祝儀の額は統一して、一軒につき5000円と決まっており、役員のみ高めの金額を払う。

 

獅子舞の性別は雌獅子であり、男のみが演じることができる。獅子頭を持って、若い女の子を追っかけたこともあった。昔は獅子舞をしっかり練習する習慣があったため、型がしっかりとしていたが、今では稽古をしなくなったので、少し舞い方が乱れてきている。昔は練習は2週間みっちりと夜やっていたが、最近は3日間くらいやる。皆ベテランなので練習をしなくてもすでに舞い方を知っているのだ。ただし、昨年はコロナ禍でも獅子舞を通常通り行なった。獅子舞を継続したいという意思は強いようだ。

 

宮町の神社(式内宮村岩部神社)にはとても特殊ないわれがある。高尾町にも遥拝所があり、宮町と高尾町と大聖寺の菅生石部神社の3地点を結んだ場所に神社が建てられた。昔はその延長上に小松の串茶屋(の神社?)もあった。宮町の起源がこの神社であり、その御神体は岩である。拝所の裏に岩が祀られており、それを覗くことは禁止されている。その岩は田尻町から人が押して歩いて持ってきたものだが、宮町に入った瞬間突然重くなり動かなくなってしまった。そこで、この地に岩を安置したと言われている。神殿の代わりに岩がある場所というのはとても珍しい。朝鮮の人が屋根材を持って行ってしまったという言い伝えもある。また、この神社には変わった狛犬がいる。阿吽の位置が神社から見て、左が吽、右が阿であり、この配置は通常と逆位置である。また、狛犬が微笑んでいて表情まで珍しく、口開きが絶妙すぎて虫が寝床にちょうど良いのか巣を作っている。また、手水鉢というものが境内にあり、これに溜まった雨水で目を洗うと目が良くなると言われる。神社の名前の一部である「式内」は格式が高い神社であることを示す。

 

▼式内宮村岩部神社

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②片野町 

上河崎から獅子舞を習った。獅子頭を鶴来で何回も修理に出した。お祭りは毎年、9月11日に準備を行い、12日に本番の秋祭り・祭礼を行う。神社から始まり、一軒ずつ回って、最後に神社で終わるという流れである。笛はなく、太鼓に合わせて獅子が舞う。獅子の中には3人入る。中に入っている人は外が見えないので、いろいろなところに頭をぶつけてしまうことがあり、それをサポートしなくてはならない。

 

▼片野町の獅子頭

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③高尾町 

獅子頭は昭和60年に鶴来の知田さんが彫ったものと、富山の井波で大島さんという方が彫ったものの2つがある。井波の獅子頭の毛は黄色で、外人さんのようでとても変わっている。また、この 2つの獅子頭はどちらもお歯黒である。金の上に黒色を塗ったか、金がはげて黒が出てきたのか。何れにしても歯が黒い獅子頭というのはそう多くはない。2~3年くらい前まで獅子舞をしていたが、各家を回るという形式の獅子舞は現在、途絶えてしまっている。コロナがきっかけではなく、担い手不足が原因とのことで、青年団は3~4人ほどしかいなくなってしまった。若い人がいても青年団に興味を示す人がいなくなってしまったという現状もあるようだ。昔は農業の人が町内に多かったが、今では小松などへ勤め人(サラリーマン)として働きに出る人も多くなった。

 

今、祭りの日は公民館でビンゴゲームをやるのと、神社での奉納をやる。太鼓に合わせて獅子舞が舞っていた時もあったが、昔の獅子舞はもっと賑やかで、笛もあったかもしれない。春にもお盆の彼岸にも獅子舞を行なっていたと言われている。獅子舞の舞い方は1種類のみだった。ご祝儀の額によって舞い方を変えることはしない。しかし、なぜか同じ演目を1つの家につき3回舞うという習慣があった。もしかすると、演目を短いと感じていた心理の表れかもしれない。また、町内と周りの地域を比べると、とりわけ太鼓の叩き方が違うと感じるそうだ。つまり、高尾の獅子舞の個性は太鼓の音に表れていたのかもしれない。

 

▼撮影の様子

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④深田(ふかた)町

OBの木村俊一郎さんにお話を伺った。雌獅子の獅子頭を使っていたが、5年前くらいに田尻町などに対抗するため(憧れがあったため)に、雄獅子の獅子頭に変えた。浅野太鼓に頼んで太鼓を張り替える時に、獅子頭も50万円くらいで発注した。小松基地の関連で降りる防衛庁の予算で獅子頭を購入したそうだ。この獅子頭は、別所町のものとデザインがそっくりである。太鼓は長持ちするので、明治時代に作ったものを今でも使っている。

 

獅子舞は大聖寺のどこかの町から習ったと言われており、明治時代頃の話のようだ。この地域に伝わる獅子舞には棒振りがいて、六尺と刀の2つがある。雌獅子から雄獅子に変わったものの、舞い方自体は変化しなかった。棒振りはいるが獅子殺しの舞ではなく、獅子舞をどちらかというと楽しませるような舞いをしている。

 

今、獅子舞の担い手は5~6人で行なっている。青年団であるかないかに関わらず蚊帳に入ることができ、子供含めて最大10人くらい入れる。祭りの日は9月16~17日でやっていたが、最近はその前後の祝日に合わせて行うようになった。舞い方は3つあり、全部で50軒を回る。2日間、朝8時頃から夕方6時頃まで行う。ご祝儀の額によって舞い方や回数を変えることはしない。ご祝儀は5000円が目安となっている。祭りが終わったら昔は盆踊りのような夜の踊りがあった。越中風門(おわら)踊りと佐渡おけさの2つの曲が流れた。佐渡おけさが流れるということは北前船での交易がもしかしたら関係しているかもしれない。獅子舞はお宮さんと鏡池に行ってから、各家を回る。

 

鏡池とは斎藤別当実盛が篠原の戦いで戦死する前に白髪を染めた時に使った鏡を沈めた池と言われ、地域の方々にとっては飲料水として使われていた(「深田の水瓶」と呼ぶ)。今ではあまり綺麗でないので、飲めなくなってしまったようだ。今でもコイがこの池を泳いでいるが、このコイが浮いてきたら毒が入っている目印になるので、浮いていなかったら飲むことができるという指標になっていたと考えられる。

 

元々町の信仰の中心である白山神社は笠伏山の上にあったが、明治時代に政府のお触れで麓に移されてしまった。今では山の上に遺構(基礎の部分)が残るのみである。この地域は前田の殿様に由来する旗が伝えられている。また、深田町やその周辺には、福井のお寺の門徒が多数移住してきたと言われている。その由来は江戸時代頃?に福井の殿様が孕み女(解任した女性)を生かしておけば後継ぎ争いに繋がるという考えを持っていたため、それを恐れて逃げてきた人間がたくさんいたようである。また、福井の陶器関連の職人を引っ張ってきたという話もあるようだ。この移住の話と獅子舞の由来との関連性はあまりよくわかっていない。

 

鏡池

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