【2021年12月】岩手県虎舞・権現舞取材 1日目 遠野市・大船渡市・釜石市

来年の寅年に向けて、虎舞の記事を書くこととなり、急遽3日間の日程で岩手県での滞在が決まった。ここでは虎舞を中心に根っこは獅子舞と同じと言われる神楽の権現舞やゴンゲンサマを含めて岩手県の民俗芸能の取材を行ってきた。

 

2021年12月4日

午前 岩手県遠野市の散策 

遠野博物館の企画展「遠野物語と呪術 第二幕」を拝見して、ゴンゲンサマを見ることができた。このゴンゲンサマは中山家蔵で「中山権現」とも呼ばれるとのこと。また、山伏神楽などの神楽衆が奉ずる獅子頭であり、火伏せや疫病除けの神として信仰されるなどの権現様の説明書きが書かれていた。呪術の文脈でいえば、権現様の祈りは呪術にあたるのだろうか。『金枝篇』を著したフレイザーによれば、呪術には類感呪術感染呪術がある。類感呪術は、類似のものの本体に危害を加えることで実際の犠牲者に危害を加える行為であり、藁人形を思い浮かべるとわかりやすい。思えば、獅子頭というのは自然の総体でありながら動物の模倣と捉えることもでき、それによって厄を払うということは、類感呪術的側面を持つ存在と捉えることもできそうである。一方で、感染呪術とは呪いたい対象の一部を入手してそれに呪いをかけると呪いが作動するというもので、髪の毛などに対し呪いをかけるという場合によく使われる。獅子頭も動物の毛が使われている場合もあり、少なからず感染呪術的側面もあると言えるだろう。

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また、たまたま立ち寄った伊豆権現(伊豆神社)の鳥居の横に書かれた説明書きが大変興味深い内容だった。そこには「伊豆神社御神体獅子頭」と書かれている。その御神体のありかについては明示されていなかったものの、その獅子頭の由などが書かれていた。伊豆神社は元々大同年間(806~810年)に早池峰山を開いた始閣藤蔵が厚く信仰した神社であり、早池峰神社の親神とも言われているので、神社の歴史は相当古いことが伺える。そこに伝わる御神体獅子頭というのは制作年代・制作人物ともに不明であるが、材質は桐で、その形は伎楽の獅子面に類似し、仕上げは漆塗りで、その上には金箔が貼られた状態であるようだ。その獅子頭というのをぜひ見てみたいものだが、どこにあるかもわからず、森の中に佇む厳かな社をただ参拝しそこを後にした。

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15:00~ 門中組(かどなかぐみ)虎舞

門中組振興会 顧問の新沼利雄さんにお話を伺った。三陸芸能短期留学に昨年参加した繋がりで紹介していただいた。門中組虎舞には、伝承館がある。ここは練習場にもなる。ずらりと並べられた写真の数々。その中には、集合写真の顔が誰かを示した紙まで一緒に几帳面に飾っていた。そして、3体の展示された虎舞の道具たち。非常に迫力と熱意溢れる空間と感じた。また、のれんや置物など虎舞のグッズも多数展示されており、これは団体独自で製作したものである。一部の暖簾は花代をいただいたときにその気持ちとして、お礼として、グッズを渡すようにしている。現在の虎頭と胴体の上には、古い虎頭や獅子頭も透明なケースに入って展示されていた。伝承館のシャッターには、虎舞の原寸大の写真が2体分プリントされたものが貼ってある。ボコボコのところは切りはりしてうまく貼っている。これは、「避難場所」などのサインのような看板を作っている会社に頼んで作ってもらった。伝承館の外壁には、津波がここまできましたという印がつけられていたのが印象的だった。目の前に広がるのは、防波堤で固められた海。津波の影響によってこの地域が大きな影響を受け、大震災を境に状況が一変したことがよくわかる。それにしても普段は遊び場であったであろう海は、人に脅威をもたらす存在として防がねばならないという感覚に変わったのだろうか。そのコンクリートブロックの無機質な様子はどこか物悲しい過去を語っているようだった。

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門中組は2つの地域(門の浜と小中井)からなり、公民館も2つある。公民館とは別に門中組虎舞としての活動場所が必要ということになり、伝承館が作られた。「昔から伝えられてきた地域の伝統文化を伝えていきたい」とのこと。最近は1ヶ月通える範囲の人々を受け入れるというスタンスに変えた。人手不足を補うため、地域外の方々でも担い手になれるということに決まったのだ(今まででもコンテンポラリーダンス関係の方が北海道などから訪れた事もあったが、完全な担い手として地域外から募集をかけるのは今回が初めての試みだ)。普段練習は伝承館で行っており、一度やり方を覚えた人は3~4日前から参加すれば本番に間に合う。ただし、始めてやる人は少なくとも1ヶ月前から練習をしなくてはならない。笛と太鼓は女性でも参加することができ、他の役は男が務める。メンバーは30人ほどいるが、なかなか出てこれない人もいる。フルメンバーで15人、そこから交代する人が10人は必要で、それでも20人くらいの時があるので人数が足りないという実感がある。昔のように、勝手に親が子に強制する事もできない時代なので、一番重要なのはやる気になる人をどれだけ増やせるかということになる。わかめ取りの期間や、仕事のある平日の日中は依頼があっても断らねばならない。皆、仕事がある中で、祭りを実施している。中学生から50歳代まで所属しており、50歳代でも元気に虎頭を持つことがある。中学生は学校の授業などでやることはなく、学校とは分けて行われている。基本的に部活優先の中で、こちらにも参加してくれる人もいるという感じだ。なぜ中学生から担い手にするのかといえば、高校、大学と外に出ていても、帰ってきたときに舞うことができるからだ。小さい頃から虎舞に触れておくことは、次世代の担い手が出てくるという意味で、とても重要な経験となる。郷土芸能といえば少なからず、マイナーな世界なので、どうやってそこを広げていくのか、担い手の確保は非常に重要なテーマだ。

芸能祭で披露されたビデオを見せていただいた。「サイボウフリ」が1人で前に立ち扇子を振るなかで、3体同時に2人立ちの虎が舞うという構成である。太鼓も複数を同時に叩き、披露する場によって個数が異なる。面白いのが、何度も中の人が交代をするということであり、これは演者がとても疲れるので、それに配慮するためだ。股の上に立つなど虎の前後の人の掛け合いが見ものである。基本的に虎が前後に水平的な動きをすることは少なく、立つ位置は定点で行われる。演目数は4つである。Youtube でも見られるようになっている。

お祭りは熊野神社の式年大祭ということで4年に1回、10月のどこかの日程で行われる(昔4年に1回ではなかった)。今年がその年だったが、虎舞いはできず神事のみとなった。今回のみ祭りでの披露では8年1回という感じになってしまった。祭りと言えば、結婚して子供が生まれると参加してくれる人もいる。地域に住み始めると、顔を出しにくるという感じの場合もある。祭りの日は神社に行ってから港で舞い、船に乗っても舞う。豪華客船飛鳥Ⅱの上で舞った事もある。また、お正月に舞う事もする。

祭り以外はイベントで呼ばれた時に舞いに行く。東日本大震災の年には11月に静岡まで舞いにいった。また、震災のときは、仮設住宅や復興祭などで舞うこともあった。その当時のことが、岩手日報で報道され、その記事が残っている。復興していく町と共に、虎舞の披露は大きな希望となった。震災のときは扉が流されるなど伝承館もめちゃくちゃになってしまったが、なぜか虎舞の道具は流されなかった。「神様が残しておいてくれたのかもしれない」とのこと。雨で浸水したときに胴体がびしゃびしゃになってしまったことがあったが、今では木をくんで高い位置に虎頭と胴体を保管・展示しているため、備えは万全である。

虎の頭は赤いものを使っていた。虎の顔よりは獅子頭権現舞に近いようなデザインである。これは伊達藩由来のものらしい。北に行けば行くほど、虎舞の頭は黄色のものが多い。門中組虎舞の場合は、もともと獅子頭があり、それが虎舞にどこかのタイミングで変化したと見るべきだろう。虎頭は張り子で作られており、桐の木に紙が貼られておりとても軽い。片手で持てるように作られている。虎頭を作ったのは地域の大工さんだ。大工さんなら皆作れるわけではない。やはり、思いのある人がこのような虎舞の道具を作っている。

内陸側は県の無形文化財が多いが、海側はあまり文化財指定がまだまだ少ない。虎舞の県の文化財指定の第1号が門中組虎舞だった。周辺には、陸前高田にハシゴ虎舞をするところ(根岬梯子虎舞)もある。虎舞団体を集めて全国虎舞大会を作ろうという企画があったが、補助金がつかなかった。NPOである必要があったようだが、そのようなどの組織形態をとるのかも実現に重要な要素だろう。

昭和33年9月13日 門中振興会の文書によれば、門中組虎舞の起源は鎌倉時代にまで遡る。鎌倉幕府北条時頼の時代のある夜、一隻の船が賑々しく囃す笛や太鼓の音とともに、泊里浜に漂着した。その船の中には、諸仏体と祭器、楽器等が満載で、庶民はただ驚くばかりだった。地域の熊野神社には年代作者不明の獅子頭があり、これは虎舞の原型になった「型取り獅子舞」の形式と思われる。この獅子頭で獅子舞を奉納すれば、悪魔払いや五穀豊穣、浜は大漁疑いなしということになったようだ。現在の舞の形式は、明治時代に「虎舞の天才」と仰がれた佐々木寅五郎氏の振り付けによるものである。この振り付けの構成は、「地舞」「腰舞」「頭舞(首舞)」の3つが主となる。「地舞」は虎が獲物を求めて右に左に首を振って進む様子であり、「腰舞」は藪や林を通り抜けてふと小高い丘に差し掛かり前方を眺めると遥か彼方に獲物と思しきものを発見して奮然と睨む様子であり、「頭舞(首舞)」は獲物を追い焦り狂った虎が岩山に突立ち上り身の危険をも忘れて狂乱する様子である。佐々木寅五郎氏の振り付けを後世に伝える弟子たちが5名ほどおり、その結果、現在までその伝統が受け継がれているという流れだ。

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少なからず、自分ができることは何か。自分が担い手でもなく、ただ書くだけで終わる傍観者なのではないか。厳しくもその裏に温かみのある新沼さんの口調から、僕に強く訴えかけてきているような気がした。少なからず、地域外でも担い手を募集されていること、Youtubeで虎舞が観れることの案内はオマツリジャパンの記事で書かせていただこうと感じている。あとは、虎舞を見せ合う全国大会のような場があるとなお良い。「それらをあなた方が企画するべき」というお言葉をいただいた。そのような場をどうにか作れたらと強く感じた。とても充実した取材で、これほどまでに郷土芸能にのめり込む地域の方がいることに驚いた。この思いにぜひ応えたいという気持ちにもなった。

門中組虎舞の映像(出典:Japanese folk performing arts 東北文映研ライブラリー映像館)

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17:30~ 鵜住居(うのすまい)虎舞

鵜住居青年会の小原正人さんにお話を伺った。消防署の間借りされているスペースで虎舞の道具を持ってきていただき、お話を伺った。祭りの日は鵜住神社の例大祭がある旧暦の8月15日に例大祭を行う。大漁祈願と五穀豊穣の願いが込められている。その他地域の繋がりで様々なイベントに出掛けており、年間20回ほどの回数をこなしている。とりわけ、ラグビーワールドカップの時に鵜住居で試合が行われたので、かなり多くの回数をこなした。基本的にイベントの出演依頼が来るときは、釜石市の虎舞連合会(市役所の観光課)を通して話がくるようになっている。市の指定を受けていてもいなくてもこの連合会に入ることができ、現在は7団体が加入している状況だ。他の団体との違いの中で鵜住居青年会の一番の特色は、虎舞の団体が手踊りを継承しているということである。

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虎頭を使った演目は主に3つある。それが矢車、跳ね虎、笹ばみという3つで、各団体呼び方は違っても少しずつ違う演じ方をする。手踊りや様々な踊りがあり、それは全部踊れることを目指すよりは専門的に各々が分担したものを覚えていくことになる。ただし、虎舞の演目だけは全員が踊れるようにする。手踊りに関してはオリジナルの演目を持ち、虎舞の演目に関しては他の地域とも名前自体は同じものを演じている。

練習はお祭りの1ヶ月くらい前から実施し、また大きなイベントで呼ばれたときも2-3週間くらい前から週1-2回行うようにしている。時間は19-21時で仕事終わりに参加できる日程で行う。高校生までは青年会の会員ではないので、当日に来れるか?などと聞いてもし来れそうなら呼ぶというような場合も多い。地域外から来る人もいて、震災の関係で地域外に引っ越さざるを得なかった人もいる。

東日本震災のときは津波で流されて道具が全く無くなってしまった。会員も大体が家や家族が流されてしまっていて、虎舞をしているどころではなくなってしまっていた。それでも残さなくてはいけないということで、様々な方の支援や補助金で復興した。震災があったのが3月で、その年の9-10月頃には茨城県日立市の秋祭りに呼ばれて、道具は完璧でなくても演じることができるまで回復した。避難所や仮設住宅で舞うときもあり、小正月や元旦には仮設住宅を区画ごとに回った。町内を歩くことができない状態で、神社のみで奉納を終えるということもあった。

昔と今とでは少しずつ踊り方が変わりつつある。年号まではわからないが、江戸時代中期ごろから虎舞を実施していると思われる。太鼓は明治11年の太鼓が残っている。また、青年会の先輩のお墓から笛が見つかってその笛に名前が書いてあり、その名前を家系図で辿ったところ江戸時代中期まで遡ることができた。虎舞は直接的には上閉伊郡の方から、あるいは両石町から伝わったと言われている。大本の系統は、山田町のものと考えられている。山田町に前川(吉里吉里)善兵衛さんという豪商が船で航海している中で知った芸能を地元の方々に教えてそれが虎舞として根付いたということのようだ。

担い手は現在、年下が25人くらいいる。必要な最低人数は笛1人、太鼓1人、頭踊り2人、ぼうげという囃子役の人が複数人で約10人は少なくとも必要になる。青年会員になるのは高校を卒業した18から19歳くらいから。小学生はお化粧をして着物を着て虎を囃し立てる役をして、中学生から頭踊りを覚えるという流れだ。

虎頭はどこかに委託して作るわけではなく町内で作る。完成までには、かなりの日数がかかる。5年に1回くらい新調するが、少しずつ直しながら使っている。各団体で幕の模様も虎頭のデザインも異なる。こういう風に作ってほしいと頼む場合もあれば、作り手の個性が強く反映される場合もある。そのため、時代によってデザインがどんどん変わっている。現在、使える虎頭は4頭あり、そのうち角打ちで家々を回る小さいサイズのものが2体、イベントなど舞台でで演舞するものが2体という感じで保管している。虎は1体につき2人で演じる。鵜住居虎舞は釜石の芸能フェスティバルや鵜住居神社の例大祭などで見ることができる。

 

鵜住居虎舞の映像(出典:Japanese folk performing arts 東北文映研ライブラリー映像館)

 

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以下、鵜住居虎舞の資料(町民が作成·保管, 年月日不明)より
○芸能の由来
鵜住居虎舞は、太神楽の拍子を取り入れたようにも思われる趣を持ち、虎頭を使った踊りは優雅な舞であることから「雌虎」と称されており、手踊りが数多く伝承されているのが特徴です。地元の鵜住神社に奉納する舞であり、鵜住神社例大祭には御神輿のお供役として参加しています。昭和初期に銅版が巻いてある横笛が発見され、その笛には「己之松」の銘が刻まれており、言い伝えなどにより江戸時代末期の物と推測され、江戸時代中期頃に岩手県上閉伊郡より伝わったとされています。また、現存する太鼓には「明治11年」の号が記されています。昭和 26 年頃までは「鵜住居若者會」が継承し、その後「鵜住居青年会」が保存継承活動を続けております。

○各演目の解説
◦通り囃子 ・・・お祭りの際に、神社仏閣などにお参りする際に囃される。演目の始まりと終わりに囃される。
◦矢 車(遊び虎)・・・虎頭を使った舞。端午の節句の鯉のぼりの上で元気よく回る矢車に太鼓のバチさばきが似ているところから名づけられた。別名を遊び虎と称し、春麗らかな日差しを浴びて無心に遊び戯れている虎のゆったりとした優雅な表情を踊りにしたもの。
◦跳 ね 虎 ・・・遊び戯れていた虎も季節が変わり、秋になると狩猟シーズンを迎え、猟師(マタギ)に追われ、ついに傷つき荒れ狂う様を踊りにしたもの。
◦笹 喰 み ・・・虎の武器である牙を、硬い竹で磨く様子を踊りにしたもの。
◦手 踊 り ・・・当日の人員によって決定します。
◦甚 句(傘甚句)・・・昔ながらの素朴で縁起の良いめでたい手踊り。踊りの最後に必ず踊られます。

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p.s. 

今回、鵜住居虎舞をご紹介いただいた川崎さんに別の視点から、鵜住居虎舞のことを教えていただいた。しし踊りの担い手から見ると歴史が古いように思えるとのこと。また、中学校3年生が虎舞を演じているとのことで、女子が手踊りで男子が虎の舞いを行う。中学校の文化祭(学習発表会)で披露する機会がある。ここ10年の話だ。しし踊りと違って、虎舞は衣装を揃えるのが難しくない。しし踊りといえば、きつくて厳しいというようなイメージも少なからずあり、踊りの難易度も高く、衣装の着付けも時間がかかるという印象がある。ただ、遠野市とかだと、しし踊りを学校の授業で実施するので、授業で行うのは不可能な話ではない。遠野にも虎舞があるものの、圧倒的にしし踊りの方が影響力が強い。海の虎舞、山のしし踊りという感じである。また、虎舞の南北という考え方もあり、北は吉里吉里善兵衛の伝えた豪商が船によって伝えた虎舞がある一方で、南は伊達藩の虎舞が北上して伝わってきて、もしかするとその境目が岩手県釜石市唐丹(とうに)という地域かもしれないとのこと。山田町では大沢地区という場所があり、虎舞の掛け声が「オーサワ、オッサオーサ」という掛け声があり、その語源は大沢という場所の地名が由来になっている。それゆえ、山田町の方から虎舞が周辺に伝播していったということはほぼ間違いがないだろう。

紫波町では3団体の民俗芸能団体のイベントがあったときに、芸能団体のカードがもらえた。200円出すと1枚カードがもらえる。500円だと3枚セットでもらえる。セットの場合は額縁にしてもらえるとか。寄付の垣根の高さがあるものの、カードであれば全然垣根を感じることなく、寄付ができる。それをしかも自治体が推進している取り組みで実施しているのが特に強調すべきポイントだ。これによって購入者は「良いことをしている」というという感覚を得ることもできる。また、自分の推しを作ることができるという点も良いだろう。市の職員を巻き込めば、ふるさと納税の返礼品のような形に転換していける可能性もある。とても可能性のある取り組みだ。

個人的には、能登半島中能登町のお守り化した獅子舞カードの事例を見たり、花札を作ってみたら?と勧められたこともあったので、似たことを考えたことはあった。ただ、改めてカードによる寄付文化を作っていくという話を聞いていて、やっぱりお祭りには新しい寄付文化が必要だよなと思えてきた。クラウドファンディングをやろうにも、地域の祭りに対して熱い想いを持っているお年寄りにはよくわからない..と思われてしまったり、手数料が引かれるくらいなら満額を手渡しで寄付したいというニーズもかなり高いように思われる。その中で、カードを作ることによる寄付文化が根づけば、自治体単位でも県単位でも獅子舞という芸能単位でも何かしら良いムーブメントが起こせるように思う。あとは、たくさん買ってくれるとか、上乗せで寄付してくれるとか、そういう動きがないとあまり大きなお金にならないので、その点をどう解消していくのかが重要である。