文化伝播に必要な要素とは?山代大田楽を見て、獅子舞の始まりを思い浮かべた

石川県加賀市山代温泉で行われた山代大田楽を見てきた。2021年10月30~31日のそれぞれ20時から21時の日程で実施され、久しぶりに人が集まるお祭りの活気を感じられた。また、10月31日には14時から山代大田楽のトップ・わざおぎ塾長の上出さんにもお話を伺うこともできた。今年で10年、塾長を務められてきた上出さんは山代大田楽26年の歩みについて、まちづくりの観点を中心にお話を聞かせていただいた。

▼山代大田楽は服部神社から始まる

f:id:ina-tabi:20211101173621j:plain

山代大田楽は、山代温泉の開湯1300年祭のタイミングで始まった。1回だけ演舞するのイメージだったが、それをずっと続けようということで、現在で26年目になる。初めは8人くらいのスタートで、あとは東京の人が来て演舞を行なった。今でも、加賀市の人だけでなく金沢の人など様々な人が踊り手として通う。過去には、大田楽に出るために三重県からわざわざ仕事を辞めて家を借り、1ヵ月間練習に参加した人もいる。大田楽自体では中学生から還暦の人までが関わっており、これは昔からの地域住民の義務感によって実施されている場合とは担い手のモチベーションが異なる。還暦の人でも激しい踊りをどんどんこなす。元々、芸能に興味がある人が集まると、年齢の差を超えて集まることができるというわけだ。卒業というものがあったとしても、何かしら関われる仕組みも必要かもしれない。このお話を伺っていて思い出したのが、獅子舞の場合は青年団、壮年団という年齢制限の線引きをしながら担い手を集めることが多く、とかく若い人を担い手にしたがるという傾向がある。ただ、それを撤廃する形で年齢制限をなくす画期的な仕組みが獅子舞保存会という組織の誕生で、それによって獅子舞という芸能の愛好家によって地域の獅子舞が受け継がれていく仕組みを取り入れているところもある。この話と大田楽の仕組みとがリンクするように思えて、この点は大きな学びとなった。

最初は必ずしも地元の人が関わるという芸能ではなかったが、最近は中学1年生が学校行事の一部に組み込む形で踊り手として参加するようになっている。土地の芸能ではないがどのように土地に根付くところまで実現できたのだろうか?大田楽はまだまだ山代の人でも知らない人が多いということと、若い人に受け継いでほしいという想いから、学校の授業の一環として山代大田楽を行うことになった。また、高校、大学へと成長する中で、外に出たとしてもまた山代温泉に戻ってきてくれたらという思いもあった。祭りのためなら会社を休んでも出ますという人が能登には多い印象で、そういう人は小さい頃から祭りに携わってきた経験がある場合も多い。そのように地元愛を育むような場として、大田楽が機能すればという思いもある。

大田楽を通して大人も子供も世代を超えた繋がりが生まれ、挨拶ができる関係性ができることを目指している。市外で演舞したときに観客が山代大田楽の人に挨拶され(礼儀正しいことに)驚き、「なんという町の方ですか?」と問い合わせがいったこともあるほどだ。「人が喋っているときに喋らない」など、礼儀を重要視していることが、芸能が続いていく秘訣でもある。ただ単に芸能をしているだけではダメで、それを観光客や地元の方とどのような関係性を作っていくかが重要なのだ。祭りの時だけでなく、旅館の宴会場などで踊るときもある。昔は、知らない人に声をかけるとか、挨拶するとか、事件事故に巻き込まれやすくそういうのが、なかなかご時世的にできない時期もあったが、それでは子供がどこか元気がないようにも見えてしまった。旅館でも玄関前に立っていると挨拶してくれる人がいるように、そういうコミュニケーションが大事で、まちづくりは人づくりということを意識している。

▼獅子に噛んでもらう地元民

f:id:ina-tabi:20211101173838j:plain

また、大田楽の担い手は礼儀とともに、その踊りの質にも厳しい。「下手な人がいると一緒に踊りたくない」というくらいに皆真剣に行っている。それが見にくる人にとっては、「すごいなあ」という反応を示す人もいれば「私にはちょっとできない」と感じる人もいて色々だが、とにかく真剣であるというのが担い手には求められていることだ。

大田楽は元々、音楽家と振り付け家が協働で創始して、1990年に東京日枝神社で実施したことに始まる。大田楽は田楽をアレンジしてできた芸能で、昔は収穫感謝の祈りの要素も強かったであろう田楽という芸能が、今では賑やかしの要素も強くなっている。山代大田楽は1995年から実施されており、予算は山代温泉観光協会が出す形で、道具に関しては大田楽の公演等を管理をしている特定非営利活動法人のACT.JTから借りることで運営が成り立っている。道具の保管は静岡の伊東で行っており、日本全国の大田楽が演舞する時に、ここから貸し出しという形になる。現在、日本全国では、東京、伊東、高崎、新潟、京都、山代、などに「わざおぎ」という大田楽の拠点があり、その中でも天皇の即位の時に全国の選抜メンバーが呼ばれたときに山代のメンバーが多かったことから、かなり山代にはレベルの高い踊り手が多いとも言える。地方にわざおぎができる時は、踊りを教える方々が直接来ることで、大田楽の踊り方を教えてもらえる流れだ。この話を伺っていて、多くの獅子舞にも共通して言えることだと感じた。江戸時代の鳥取藩が広めた麒麟獅子がその好例であろう。熱意ある藩主が獅子舞を城の中に留めるのではなく、外で民衆に浸透させる形で広めたいと考え、獅子舞を教える役職を作り、各地域に派遣したことで「お殿様の特別な芸能」としての意識が薄れ、それが広まっていったという歴史がある。ここから学べることは、やはり熱意あるリーダーの存在があって初めて、個性ある地域の郷土芸能が根付いているということだ。

いつも服部神社前で踊るというのが例年の動きだったが、今回は服部神社から温泉通りまでを歩くという流れで行われた。観客席を設けないことで、密を防ぐということだろう。まず、先頭を歩いたのが王舞(おうのまい)で、その後ろを歩くのが黄色と萌黄色の獅子である。黄色の方が雄で尖った角を持ち、緑色の方が雌で擬宝珠のような角を持つ。獅子は睨みの感じや獅子頭の形からして、中国から奈良時代に伝わった伎楽の獅子面に似たような形である。その獅子の後ろに歩く笛を吹いている人々が楽隊で、その次の笹を持っている方は市民参加で出てきている湯掛け(わらべ)の役割を担う。また、傘をかぶる人を総田楽と呼ぶ。それにしても、コロナ禍でこのような賑わいも久しく見かけなかったが、活気が感じられる演舞を取材できてよかった。大田楽の広がりを見ていると、日本全国で最も数の多い獅子舞という民俗芸能の始まりはどのようであったろう?と思い浮かべることにも繋がったので、それがとりわけ大きな収穫だった。

▼王舞、獅子、楽隊と続く行列

f:id:ina-tabi:20211101172245j:plain