未来の獅子舞とは?祝祭論から読みとく

2021年6月11日、NHKテレビ「ズームバック×オチアイ」で放送されたテーマが祝祭論だった。考えてみれば、2020年以降で祭りに参加したり見たりする機会は急激に減った。これからの祭りはどうなっていくのだろうか。日本で最も数の多い民俗芸能である獅子舞の今後についても考えていくべきである。そのヒントを得たいと思いこの番組を観た。まずは、この番組の内容の要約を以下に記し、それを元に獅子舞の未来について考えたことを書いておきたい。

 

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なぜ祝祭を求めるのか?

2020年に止まってしまった祝祭。祝祭=非日常、よろこばしい場所であり結婚式はやらないけど、結婚式写真は撮りたいという人が増えているのが現状である。考えてもみれば、38年前に祭りの転換点があった。御輿を作る会社が1年間に1億円を売り上げ、年間100台売れる時代となったのだ。その背景にあったのが、ベットタウンなどの人工密集地の拡大と、面識のない人々が同居する地域の存在だった。親子の連帯、近所の連帯のために、御輿の需要がどんどん高まった。そこには、祭りの「人と人とを繋ぐ」という役割が求められていた。盆踊りで増えている歌詞の研究というものがあり、「手を繋ぐ、村づくり、ふるさと、ふれあい。」という言葉が急増した時期でもあった。

 

現在、お祭りに行かないで育つ子供が増えると、将来的にお祭りにいきたい人は少なくなる。ただし、コロナ時代の人類に人が繋がる場がなくなったわけではない。コミケ、ロックフェスなどの祝祭は広がっている。他者との繋がりの中に、自分とは何者か?とアイデンティティを確認する意味は今なお存在しているのだ。それであれば、デジタルの日を作るというのはどうだろうか。何かの日を作ることで、永遠にその日はやってくる。共時性、すなわちサイクルする祝日の考え方である。『天空の城 ラピュタ』が放送されるときに、「バルス祭り」が起こり人々に一体感が生まれるのと同じことだ。デジタルには土地と場所がない、でも日にちは作れる。また、祝祭=リアル+デジタルと考えれば、コロナ禍にはリアル、すなわち身体性がないと言える。身体のヌードを撮り始めたのには理由がある。人の身体を思い浮かべることが減ったからだ。裸性と祭りは似ている。

 

現在、飲食店は夜の営業自粛が求められている。オンライン飲み会は、ハードの問題であまり進んでいないが、20年後にはうまくいくかも知れない。1920年アメリカでは、禁酒法が13年続いた。工場労働者の酒の密売が対等してきたと同時に、特許件数も減ったと言われる。すなわちコロナ禍では、インフォーマルでのあたらしい繋がり、新しいアイデアに触れる時間が減っているということだ。サードプレイスがあることは、アイデアに触れることでもある。身体性、つまり人がいることでなにか満たされるというのも事実だ。この危機が去ったとき、人と過ごす欲求は一気に増えていくだろう。密を求めることは人間の本能である。この夏は、海水浴場に人が集まるだろう。コロナ禍でやり残したことは、くだらないことをやることである。

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以上が、番組の内容の要約である。まずコロナ禍において祭日を作りたがる心理というのはなるほどと感じた。実際、2021年4月4日にtwitterを中心に#シシの日が流行ったのは記憶に新しい。獅子舞を思い返す日があれば、獅子舞が実際に中止になってしまっても思い出して盛り上がることくらいはできるのだ。日にちを決めておけば土地も場所もなくても思い出せる。せめてそういう感覚を残しておきたいってことかもしれない。

 

考えてもみれば、獣の頭が獅子頭になったのは、古代の人々の大発明だったと思う。毎回動物を調教するなり保存するなりして動物の生身の肉体を通して祀り事をする必要がなくなり再現性も高くなったからだ。大陸系獅子舞の中国以東の伝来経路を考えれば世界最強の動物(ライオン)が身近にいなかったので外部化せざるを得なかったからとも言える。またこれにより想像して見えないものを具現化する芸術的表現力が開花して、一種の比喩的で物語的な教訓の提示が行われるようになった。人が健康的に過ごすにはどうしたら良いのか?などと疑問が募る中で理解できない自然に立ち向かうべく科学で解決できないものをパフォーマンスとして伝承したということになる。しかし、徐々に身体性は薄れ、自然から遠ざかり、当初の祈りや自然と一体化するといった目的は形骸化の一途を辿った。徐々に外部化・周縁化している意味では人身御供も同じプロセスが言えるわけで人間→動物→モノという過程を辿ることと似ている。形骸化した先に最後の砦として残るのが、日本において獅子舞を次の世代へと繋ぐ最も母数が大きい集団である「地域」の存在なのかもしれない。形骸化が進みすぎて本質的には理解が進まない獅子舞という芸能を「やるのが義務」「かっこいい」「みんなで集めれて楽しい」など様々な動機で継承しているのが現状だ。

 

この延長上に、コロナ禍の私たちがいる。未来の獅子舞・獅子頭はどのような姿形をしているのだろうか?やはり個人が獅子舞にも似た3Dの動物を、ゲームのようにボタンで簡単に動かしはじめるというのは想像に難くない。実際に、パフォーマンスとして芸能集団が演じている獅子舞を除いて、地域コミュニティの文脈に依拠すれば、獅子舞の簡略化が非常に目立つ。でも結局効率を求めると遊びの部分がなくなりつまらなくなる。詰まる所、最後の砦は土地と戸籍があることなのだと思う。ここに「地域コミュニティ」が存在する意義があり、いわゆる趣味人が集まる「テーマ型コミュニティ」の割合が圧倒的に増えている中で、地域で一体感を持って獅子舞を伝承していく所以であろう。

 

私は石川県のある町で、神社もお寺もない新興住宅街に獅子舞が継承される姿を見た。そこで演じられていたのはよく見る加賀獅子の形態であったが、何かが違う。開会式が行われるのは公民館であり、そこに他地域の宮司がきて神棚を作りお神酒をあげる。レンタル宮司のような発想かもしれない。獅子舞を語り継ぐメンバーはスタウォーズの格好をしている人もおり、獅子舞の休憩中にはプールに飛び込む。獅子舞の祭りの後はピエロが芸を演じる。祭りの屋台はおしゃれなキーマカレーが登場する。結局「楽しさ」とはなんだろうか?という追求があった先に、生まれたのがこれである。獅子舞は非営利的であり、娯楽的であり、非日常の行事でもある。楽しい遊びが世の中に溢れかえる今、それら全てを競合として考え、獅子舞も少しずつ変化していかねばならない時が来ているようにも思う。

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神社はないのに鳥居はある、祭りをやるときに突如として神域を作るという発想

 

 人口減少時代に、他地域から担い手が駆けつけるという地域も増えている。地元の人だけが地域住民ではない。そこを訪れる人も地域の人口としてカウントするべきである。そういう風に他の地域の人に助けを求めることも必要だ。そういう意味では、石川県加賀市青年団が2人、後全員が他地域から駆けつけるという場合もある。大阪やら金沢やら遠方から駆けつける人もいるようだ。そう考えたときに、「地域ってなんだろう。その土地を離れても地域に属しているの?」という話になる。リモートワークが進む中で、オフィスに通わない会社員が出るのと同じように、地域のリモート化も急速に進んでいるというわけである。この場合、地域とは土地に根ざす人々によって成り立つのではなく、関係人口によって成り立つということになる。現に住民が1-2人しかいないのに、たくさんの人が訪れるから廃村にならない村もある。例えば、岐阜県本巣市の越波や石川県加賀市大土などの地域である。これぞ未来の地域モデルの1つと言えるだろう。このような事例から分かるように、日本の獅子舞の継承は今まで以上に地域の継承と密接に繋がっていることを意識せねばならない時代が来るだろう。