鹿ん舞は地域のアイドルか、素朴な原始信仰か。山に囲まれた静岡の町で、唯一無二の演舞を拝見した

静岡の山深きところ、川根本町にて受け継がれる舞いに関心があった。それは一目見てキュートで原始的、ともいうべきか。現代に適合するようなアイドル感がありながら、原始舞踏の本質さえも突きつけてくるような素晴らしい舞いと想像する。このような舞いは全国数多の芸能あれど、なかなか存在しないジャンルなのではないか。

その名も鹿ん舞。一連の芸能の総称を「徳山の盆踊」と言い、その中の一部をこう呼ぶらしい。

この舞いについては昔から知っていた。しかし、インターネットでわずかな情報を得ていたにすぎない。鹿といえば東北にしし踊りがあるが、あれはもっと抽象化されていて、芸能として大成されている感がある。それに比べれば、鹿ん舞は素朴、かつ人間の生活から湧き出るように権力の届かないところで継承されてきた予感がある。作物を荒らす鹿などの獣を追い払い、豊作を願う動物仮装の風流踊だそうだ。ユネスコ無形文化遺産に登録されており、京都の六斎念仏など数々の有名な風流踊とともに注目を集める存在になりつつあるが、まだまだ知らない人は多い。

昨年にこの鹿ん舞を訪れる予定だったが台風で1日ずれてしまって無念にもいけなかったという経験がある。今回も青森の取材の次の日ということで超弾丸スケジュールだったが、なんとしてでも訪れたいと思い、それが実現した。東静岡のニコニコレンタカーが夜の23時までレンタル可能ということをネット検索で知って、「これなら行ける!」という判断になった。そう、徳山の盆踊は夜が最も熱いのだ。その夜を見ずして、何を見る?次の日のことも考えないといけないけど、なるべく夜更かししておきたい。それでうまく予定が組めたので、僕は8月15日、お盆の日に、静岡県川根本町に向かった。

さて、15時に東静岡駅付近でレンタカーを借りて、川根本町の徳山浅間神社に向かう。静岡市周辺は基本的に一方通行の道が多くけっこう道が混雑していたので郵便局に寄ろうとしたらかなり消耗した。マックスバリュでパンを調達したのち、山道に突入。362号線をひたすら進む。急斜面が多くて45度超えてるんちゃうか?という斜面や、180度くらいうねる道ばかりで対向車を恐れ、そしてもたもたしてんじゃねえと後ろの車に急かされている気がして、気が気でいられなかった。途中景色がめちゃ綺麗な場所があってそこで景色を堪能することにしたので後ろの車を先に行ってもらうことにも成功した。それくらい山奥深い場所なのだということをこれでもかというくらい思い知らされて、辿り着いたのは山と山の谷にある小さな町だった。

あらかじめコミュニティ防災センターに車を停めて良いことをネットの記載で確認ができていたので、ここに安心して停めさせてもらった。神社まで徒歩10分のところである。防災センターに入ってみると、地域のご婦人たちが何やら準備をしていて「資料が欲しいんです」と尋ねてみたが「いま町の重役が皆神社の方でね」というので何も収穫は得られなかったが、笑顔で僕を街に受け入れてくれた感じがした。防災センターの換気扇が止まらないらしくて、「これをどうするのか教えてくれんか?」と頼みにされたが全くわからずスイッチというスイッチを全部押したが無駄だった。役に立つことはできなかったが面白い経験ができた。よくよく玄関近くの本棚を見ると鹿ん舞の古文書を記した額縁の中の文章を発見。そこには『鹿ん舞いの由来』(昭和32年7月に地域の長老に聞いた内容を上林利介・小林清の両名が作成した文章)として、このような内容が書かれていた。

明治25年作成の社寺の明細帳において、元亀年間(1570~1573年)のいずれかの年において、4~6月に長雨が続いて、種子を蒔いても出来が悪く、少しできた作物も獣に食い荒らされてしまうという状況だった。人々は愛宕地蔵の広場に集まり、獣から作物をどのように守るかを話していたが、なかなか話がまとまることはなかった。そこで旅のお坊さんが話を聞いてくれて、このような提案があった。「新しい竹、竹の皮、グゾのツルを持ってくる。それからまず竹を乾かして籠を作り、その籠に竹の皮を貼り付けて、それにグゾのツルを巻きつける。そして、焚き火をして黒くなった炭で獣の顔を描いて、それを頭に被って愛宕地蔵の広場で舞う。この時、子どもがたくさん産まれ、作物もたくさん取れて村が豊かになってほしいと願う」。このような流れで演舞を執り行う助言を受けて、毎年を舞いを行うようになった。

当時のお囃子は「チャッチャコ チャリコ チャッチャコチャーホリヤ チャッチャコ チャラリコ チャッチャコ チャーホリヤ チャッチャコ チャラリコ チャッチャコチャリ チャッチャコ チャラリコチャーリ チャーリホウリアンンハイ」と口ずさんだ。それゆえチャッチャコ舞いと呼ばれた。明治の終わり頃、「チャッチャコ舞いの衆も浅間神社に来て一緒にやらんか」と誘いを受けて、それまで7月30日に舞っていたのを8月15日に変更して、浅間神社の祭礼に登場することになった。そこで、愛宕地蔵に寄ってから浅間神社に向かう流れができ、地蔵様は仏教ということで神事ができないゆえに神社参道に入る前に花火で清めてから神社に入るという決まりも作られた(昭和32年資料によればこの花火のしきたりを今でも守っているとの記述があったが、確かに後ほど鹿ん舞が参道に入る前にボーンという花火らしき音が遠くで数発聞こえたような気がする)。

それからコミュニティ防災センターを出て神社境内に向かってみると、途中で道行(みちゆき)をしている鹿ん舞の一団に出会えた。道行を終えてから境内での徳山の盆踊の流れのようだ。演舞の流れとしてはヒーヤイ、狂言、鹿ん舞がまだらになってさまざまな演目が展開される。最後の「ひきは」でくるくると演者側になって踊る感じがやっぱりこれも盆踊りかとつくづく実感させられる流れだった。

さて、実際に鹿ん舞を見て感じたことを振り返ろう。道行はまだ日が暮れていない時間で、カメラのフラッシュがないから素朴で良かった。夜になるとカメラマンがフラッシュしまくるので、なんか神秘的な雰囲気に合ってなくてあまりそれが気にかかった。僕もそういうことには気をつけたいと身を引き締めた。あとは小中学生が真剣に懸命に向き合う姿が良かった。踊り自体が鹿の飛び跳ねるような所作があるのでこれがとても楽しげで元気であるという印象だ。腕と太ももを酷使する部活のトレーニングみたいな感じの舞いなので、大人からしたらなかなかできる人は少ないだろう。それから腕でバトンのような棒を回すスピードが段違いに早い。これは非常に踊り慣れた者でないとできない技だと思った。

小中学生男子は鹿ん舞の一方で、小中学生女子はヒーヤイという狂言をする。原始的な舞の一方で京都の優雅な雅な感じも伝わってくるという感じで、同時に「これって青春だよな」という感じが印象深かった。それぞれ同級生が活躍してる晴れ姿見れるのだ。それから大きな藁を持って「これから鹿ん舞が始まるぞ」といって回る「露払い」の体験を休憩時間にしていた。小中学生男子がこれに関してはプロなわけだが、そういう人だけでなくて友達と小中学生女子が2人で参加したり、海外のインバウンド(もう地域に住んでいる?)の外国の方もわずかにいて喜んでいた。

あとは神社の狛犬がいるところに鹿ん舞の像が立ってることが面白いと思った。やはり鹿ん舞は地域の誇りなのだ。しっかり被り物の布まで着せられた像がとても象徴的なものに思えてきた。それから神社の拝殿に飾られていた雄1頭、雌2頭の合計3頭の鹿頭はどうぞ記念撮影でもしてくださいというふうに触って良いようになっていた。「親しみやすさ」が大事な舞であるからこそ、1000年の伝統は続いてきたのかもしれない。そして、この鹿の頭はおそらくは動物仮装の最も原始的なものを今に伝えていて、本当の鹿の頭を身につけていた古代日本人の踊りさえも想起させるようなものだった。

今回、意外にも大きな注目が集まったのは花火だったように思う。打ち上げ花火が18時台から行われておりまだ明るい時から花火をしている光景はかなりシュールだった。明るい時の花火はあまり迫力がなく、情報が他にありすぎて遠近感も分かりすぎてるからロマンチックじゃないんだなどと思っていたものの、前述の古文書の話にあるようにこれは花火が祓い清めの役割をしているとも考えれば印象は変わる。それから何度も徳山の盆踊の休憩中に、花火が打ち上げられた。面白かったのは、途中に神社の拝殿の目の前で導線から大量の花火が垂れ下がった状態から、それらが「ババババババ」といきなり火を吹き始めた時だった。この発想には驚いた。神社の目の前に横一列に多量の花火が燃え上がり、「これ境内でやって大丈夫か?」という思いの一方で「面白いし迫力満点だからもっとやってほしい!」という思いになってきた。もはやここまで来ると応援しまくりたい気分になった。

帰りがけに見られた最後の連続花火は、夜空を照らしてて美しいという言葉では片付けられないほどの印象深さがあり、都市部で見る花火とは何かが違っていた。皆無言で花火の鳴る方角を見ていて、花火以外の音は何も聞こえない。言葉を発することや足音を立てることが罪な風に思われて、その空間の空気に押されて自分がいなくなって、その空気に溶け込んで。そういう素晴らしい時間だったんだ。

帰りの車は非常に難しい道だった。暗闇を細い道が続いていく。車の外に出れば、僕は非常に弱い存在なんだろうなという思いが常に離れることはない。暗い山道をレンタカー(軽)で走らせ、ぐねぐね道は対向車に注意して向かう。そして途中、僕は奇跡的に一頭のカモシカに出会った。こちらの方を向いてきて目が合った。その目を鋭く光らせていた。川根本町から眺められる山々には、無数の鹿がいるに違いない。そんなことを感じながら、僕は鹿ん舞を振り返った。ああ、この鹿たちが作物を荒らしていたんだな。でもそのおかげで鹿ん舞という類を見ない芸能も生まれたんだな。このような振り返りができる幸せを噛みしめ、その物語のつながりと、土地の出合いに大きく感謝した。