青森県八戸市・鮫神楽は民衆に開かれた神楽!治外法権的な土地性が産みだしたハイブリッド獅子舞

2024年8月14日、黒石市上十川獅子踊りを見てから速攻で50分歩き続けて、黒石駅前からバスに乗った。そして新青森駅に到着。バスのおじさんが「千円札しか両替できないよ」とのことだったが、小銭があまりなくしかもお札は5千円という旅中あるあるの現象が発生。事情を説明すると「そしたらある分だけの小銭でいいよ」とのこと。めちゃゆるい感じでその寛容さに助けられた。新青森駅はゴテゴテのねぷた推しだった。弘前から青森にたどり着くと、ねぶたがねぷたに呼び方が変化することに気づいた。あいかわらずねぷたは推していくみたいだ。駅構内には数々のねぷたの山車が飾られていた。それから新青森駅からしばし1駅分のみ新幹線に乗って、八戸駅に到着。そこから在来線で鮫駅に辿り着いた。

事前に鮫神楽の方とTwitterでやり取りしていたことには「鮫町のどこかでやっているから探してください」という話だったが、ネット上の記事や投稿など見ていると、基本的には浮木寺の墓地で開催しているようだ。というわけで浮木寺まで歩いてやってきたが、果たして墓地はなく人もまばらだ。またしても迷子。境内に突入して、住職のご家族と遭遇できたので聞いてみると、「さめ保育園の近くに墓地があります。今ちょうどやっている頃かな」とのこと。またしても出遅れたか!さめ保育園までは徒歩12分の道のり。またひたすら早足で歩いてやっと鐘の音を頼りに現地に辿り着いた。

墓獅子は感情を伝染させる

そこで見られたのはたった2回の墓獅子。2回目が終わった後は雨なので中止となってしまったので、本当に10分であっという間だった。しかし、この短い時間に非常に多くのことを学んだ。普段であれば14と15日の2日間、12時半から16時で実施するところを1日目の14日は13時半までしかできなかった。またもや勿体無いことをした。もう夜には帰らねばならない。でも、絶対に確実に僕は良いものを見れた自信がある。
それは雨の中で立ち尽くしてお墓と墓獅子を見つめるお婆さんの姿だった。故人は誰なのか、誰に手を合わせているかはわからない。雨に打たれても手を合わせ続ける姿は、自分が傘をさしていることにどこか後ろめたささえ感じるような強い意志のようなものを感じた。そこから少し若い男の人が傘を持ってきて、おばあさんを傘の中に入れてあげていた。心と心の交流が鮫神楽の墓獅子の風景を作っていた。
そう、墓獅子の演舞はどこか遠くにいる祖先の作った舞いではなく近くにいたはずのリアルな故人を悼む心があるから、どこまでも感情がありのままなんだと思う。そしてその感情は伝染する。墓獅子を見ていると俯いて震える表情、そして激しい感情が込み上げてくる歯打ち。それら全てがどこまでもリアルにすっと入っていける。伝統でありながら、目の前にあるお墓とそれを守り継ぐ人がいるからこの演舞はとても生き生きしているのだ。


墓獅子の由来

僕は墓獅子というのは今まで見たことがなかったから、その由来が知りたいと思っていた。八戸市立図書館で資料を探ってみた。実際に墓獅子は、山伏神楽の1演目としてさまざまな神楽で守り継がれてきた。だから、墓獅子の歴史は山伏神楽神楽の歴史でもある。同時に近年ではこの風習はかなり衰えていると考えられる。鮫神楽のようにしっかり墓獅子の風習を受け継いでいるところは少ない。いくつかの文献で墓獅子と権現舞は陰と陽で対をなすものであるとの記述を見た。これは鮫神楽の研究家である阿部達氏の説である。墓獅子が舞われる時は墓に向かいうつ伏せになって浮き沈みするような仕草もあり、妖気が漂うもので陰にふさわしい瞬間でもある。こう考えると、陰陽五行を考慮の上で演舞が組み込まれた可能性がある。鮫神楽だけではなく、鵜鳥神楽や三つ目内獅子踊りなどでも墓獅子があるようだ。主に北東北の風習であろう。ただし、この墓獅子の起源は神仏習合にあり、神楽という神道文化の中に、お盆にお寺のお墓で獅子を舞うという文化が残ったのは神仏習合神仏混淆)があったからという見方もある。そして、仏教を伝えた中国大陸の文化であることも明白だ。
中山太郎の『獅子舞雑考』という本では、「中華全国民俗志」(下篇巻二)、山東省喪礼の条を紹介し、「山東省(往古の呉国の在りしところで、我国と最も深い通商関係を有していた国である)では、死人があると、その親族や友人が、獅子を作って送り、霊を啓ヒラくに先だち、棺前で舞踏するのであるが、その目的が、凶霊を退ける信仰に由来していることは明白である。(中略)中道等氏の本誌前号に記された、奥州の墓獅子の供養は、啓霊前に行われた獅子舞の延長とも、または獅子舞の地方的分化とも見られるのであって」としている。ここまで見た時にこの文献での墓獅子は葬い的なものであり、慰霊とは違う気もしているので少し趣旨が違うかもしれないが、今回の墓獅子のルーツにも近い可能性はある。もともと王様などの権力者の墓の守護獣として獅子がいたこともあるわけだから、シルクロード文化の一端として納得できる。とここまで推測したところで、墓獅子文化はなかなか文献資料が少ないことがわかった。そこで、鮫神楽の起源についても迫っていこう。

鮫神楽の始まり、山伏はなぜ幻の神楽を手放したのか?

鮫神楽の成立背景について、鮫にて長年研究する石田實氏の説を参考にするならば、元禄以降、鮫は八戸藩の物資を輸出入する港であったことから、東廻りと西廻りの航路の接触点として、日本海側の山伏神楽系の民俗芸能(番楽)との関連と、上方江戸との関連があり、また盛岡藩の陸中海岸の神楽、下北の能舞、早池峯山麓の神楽にも近い位置に存在する。また、その神楽文化の根底には鮫独特の市民社会があり、芸能を寛容に受容してきたとされる。
鮫神楽の特徴は民衆のための神楽である。神事芸能の要素がありながら、人を楽しませることに重きをおいた神楽であり「人をよろこばせることによって神をよろこばせる」という言葉を残した村次郎氏という鮫町在住の詩人もいる。山伏が霞場を敷いて厳格な伝統の継承を行うよりももっと自由な民衆に開かれた神楽なのだ。それは鮫という地域が開かれた港であったことが大きく関わっている。つまり、治外法権的な場所であり、山伏たちが自分達の持ち場として霞場を定めることができない土地だったというわけである。逆に言えばいくつかの山伏神楽が並行して舞いにくるくらいの自由な土地だったと考えられ、以上の村氏の説によると「山間部は家が点在しているでしょう。鮫のような海岸部は家が密集していますから修験者にとってかせぎ場所だったろうと思います」という。その中の神楽集団が元になって、鮫神楽は成立したのだろう。
さて、この流れで行くと、山間部の神楽集団が神楽を手放し、それを鮫が受容したというのが初期段階の起源として有力な説とも考えられる。神楽を手放した、あるいは手放さざるを得なかった理由とはなんだったのか。経済的な理由だろうか、それとも...。狙いは定かではない。現存する最古の物的証拠としては、文化14年(1817年)と墨書書きがある獅子頭がある。この段階ではすでに鮫神楽が舞われていたということだろう。また伝承としては宝暦年間(1751~1764年)に金比羅宮が火事で焼けて、そこに浄土宗浮木寺が建てられ、その浮木寺の墓地こそが、現在の墓獅子になっているわけだが、その時に焼けた金比羅宮は「坂の下の坂本家」の守り神になっており、神楽道具の保管場所の堂がその側にある。またその金比羅宮ではいつの頃か湯立神楽が開催されていたという。手がかりになるようなならないような、そのような情報ばかりだ。
鮫神楽の成立には歌舞伎からの影響があったと考えられ、天保年間には鮫に遊女屋が12軒もあり三味線を弾いていたそうで、太鼓の音も鳴り響いていた。芝居歌舞伎の中から、音楽的な要素が鮫神楽に取り込まれた。この当時の藩船の船頭・佐藤連平という人物が鮫神楽の演目に歌舞伎を応用してその音楽を取り入れ変化をもたらした人物だとも考えられている。またうみねこが集まる蕪島があることから、この甲高い鳴き声が影響を及ぼしているのではないかという人もいるようだが、ここまでは実際にどうなのかわからない。
鮫神楽の演目を改めて振り返ると、神楽十二番は番楽、鳥舞、三番叟、翁舞、信夫 太郎、小獅子、三宝荒神、機織、鐘巻となっている。全ての演目が五拍子で作られているのは特徴的だ。

鮫神楽を終えて

さて、あっという間の鮫神楽取材ののち、八戸ポータルミュージアムはっちの「からくり獅子舞時計」の一斉歯打ちを見ることができた。念願の初対面、シュールすぎる歯打ちの光景にずっと見入っていた。毎時、時計と共に時を刻む獅子たちは厄祓いの心強い味方に思えた。それにしても全てのからくり獅子にプログラムを仕掛ける面白さ、これはプログラミングが発達した現代ならではの獅子舞に対する向き合い方だなと思った。

それから八戸市立図書館で文献を調べた後、帰り道を歩いている時にほとんどの家の前で、お皿に何やら紙や枝を入れてそれに火を灯している光景が見られた。これはお盆の何かの風習だろうか。家族でその火が灯るのを見守る光景もあれば、老人が椅子を外に出して自分の家の灯火をただただ見つめる静かな光景も見られた。これはなんだったのだろうか、謎は尽きない。

参考文献
阿部達『鮫の神楽旋律集』(平成元年10月, 北方社工房)
阿部達『文化財シリーズNo.16 鮫の神楽』(昭和50年3月, 八戸市教育委員会
工藤英寿『ふるさとの芸能』(昭和50年10月, 津軽書房)