外山鹿踊を見て土地を想像して、大パレードの意義を考える。岩手県北上みちのく芸能まつりにて

2024年8月3日、夕方に新幹線に乗って、岩手県北上市にたどり着いた。北上・みちのく芸能まつりに出演する外山鹿踊の演舞を拝見するためである。なかなか見られる機会はないから是非きてくださいとのこと。今回はお披露目のための重要なイベントのようだ。

思いの矛先は山深い土地

外山鹿踊の演舞を拝見して感じたことは、とにかく演舞が激しいということだった。山仕事に従事する人々が継承するこの舞いは、カンナガラが非常に激しく揺らされ、シシに魂が乗り移ったかのように見える場面がいくつかある。とりわけ女鹿ぐるいの演目で、雄鹿が雌鹿を取り合う時に、所作は最高潮に激しくなり、その場の空気が一点に集中するような独特の空気感が生まれる。勇ましいと同時におどろおどろしいものを見たような感覚になるのだ。この踊りは北上駅前の大通りでは理解しきれないところもあると思った。いつも練習したり祭りをしたりしている拠点の釜石市鵜住居には、鹿や熊ががたくさんいるのだ。山と生きる人々の芸能であることという意識を保たねばならないと思う。

演舞終了後に担い手の川﨑さんから「外山鹿踊について」という資料と鹿の角のアクセサリーをいただいた。その資料にはこの鹿踊の歴史が事細かに書かれていた。歴史はそこまで古くはないが、そこには大きな情熱を傾けた人々の存在があった。

昭和29年旧暦8月15日、八幡神社例祭で外山鹿踊は初めて舞われた。当時外山には13戸しかなく、非常に少ない地域住民によって始められた。当時は電気が通っておらず、マツ根や灯油のランプによって明かりをとっており、灯油は配給制だったため非常に貴重で、夕食を済ませてあたりが暗くなるとそのまま寝るという生活を送っていたらしい。そのような簡素な暮らしの中で、芸能は大きな娯楽であり、楽しみであったことは想像に難くない。

外山鹿踊の誕生には周辺地域の人々との山仕事を通じた交流や婚姻関係などの結びつきがあったものと思われる。とりわけ近在の丹内神楽や田郷鹿踊の担い手との結びつきは強く、外山鹿踊が始まるまではこのような芸能に頼んで舞い踊りを依頼してきた経緯があるようだ。その中で公演後に鹿踊の真似をして盛り上がる者が現れるなど芸能への機運が高まり、田郷鹿踊に師匠依頼をして練習に励んだそうだ。当時は車が一般的に普及しておらず、自転車で峠を越えて習いに行くなど大変な苦労があったようだ。そのような情熱もあって、約100年前に外山鹿踊は始まったのである。

100団体以上が集う芸能フェス

さて、東北地方はパレードが多いなとつくづく感じる。青森ねぶた祭秋田竿燈まつり福島わらじまつり、盛岡さんさ踊り山形花笠まつりなどである。その中にあって、北上・みちのく芸能まつりは大通りのパレードだけでも100団体以上出ている(半分以上獅子舞系の芸能)。全国でもこれほど民俗芸能団体が集ってる祭りってあまりないだろう。このような大パレードが行われるまつりは、東北の地方都市が駅前に大通りを建設するというまちづくりのハードの部分も大きく影響しているように思う。

それにしても、北上では取材2回目だったこともあって、外山鹿踊以外は何を観て良いか分からずであたふたしていた。大通りパレードは盛り上がりはものすごいし、経済効果は莫大だろうし、芸能団体同士が繋がることでそれぞれの「継承」を考えることにも繋がる。そもそも場があるというだけで芸能団体にとっては継承に繋がる側面があり、4年に1度の祭りで演舞する団体などは、毎年出られる場がほしいというのは言うまでもない。戦後の芸能の復活に貢献してきた意味では、非常に大きな影響力のあるお祭りである。一方でもっとひとつひとつの芸能を消費せずに、しっかり団体を知ってもらい、演舞そのものや背景含めて知ってもらえるようなやり方もあるようにも感じる。だから、あくまでも関心の入り口作りに貢献している祭りのような気もしている。イベントには良し悪しあるけれども、何はともあれその規模感からしてすごい頑張っているお祭りだと思う。さてこれからの時代に必要な獅子舞大集合的な祭りは何か?とふと考えてみたくなった。