凧がケンカする理由とは?世界凧博物館で考えた、獅子舞との共通点「村境でぶつかり合う」真意

先日、滋賀県東近江市の「世界凧博物館 東近江大凧会館」を訪れた。世界の凧、約600点が展示され、その様は圧巻であった。展示で特に気になったのが、ケンカ凧の存在である。これは村境で衝突する獅子舞の話と通じるものがあると直感し、意外な気づきをもたらしたことから、この記事を書こうという衝動に駆られた。

東近江大凧会館

100畳の巨大な東近江大凧

隣村同士、凧はケンカするものだ

滋賀県東近江市の東近江大凧、静岡県浜松市の浜松凧まつり、新潟県三条市の三条六角凧、愛媛県五十崎町の五十崎大凧合戦(いずれも5月に開催)、あるいは韓国の合戦凧をはじめとした世界中の凧の数々をみても、凧同士をケンカさせて相手の糸を切り合うという行為が見られる。

なぜ、合戦凧が生まれたのだろうか?五十崎大凧合戦の場合はかなり詳細な伝承が伝わっている。江戸時代、5月5日の男子の出生の初節句の祝いで、一族郎党の中で凧揚げを実施していたようだ。しかしある日、風のいたずらで他の凧と糸がもつれ合い、しまいにこれが凧合戦なるものに発展したという。明治時代には村同士の凧合戦になっており、五十崎町と天神村が小田川を挟んで陣を構えて向かい合い、男児の名前、家号の頭文字、商号などを掲げて争いあった。争点は「カガリ」と呼ばれる糸に仕込んだ刃物で相手の凧を切り合うという勇壮さにあるそうだ。

節句の家族的な凧揚げ行事が地域行事に発展したという流れや、凧合戦が始まった背景に関しては、概ね似たような伝承が全国各地にあるように思う。

凧がケンカする背景は、鬱憤ばらしにあり

この合戦凧をする背景として、村民の「鬱憤ばらし」であることは大方間違いない。これは大きな括りでいうと、祭りの機能といっても良いかもしれない。三条六角凧の場合は、わかりやすく日頃のストレスを晴らすために凧合戦を始めるようになったなどと伝承が伝わっている。これは、柳田國男の『獅子舞考』(『柳田國男全集18』,筑摩書房,1990年)にあるように、村同士の喧嘩あるいは鬱憤ばらしとして、獅子舞が村境で激突して時折耳がもげてしまうことがあったという話と似ている。

現代の憂さ晴らしは、TwitterをはじめとしたSNSでかなり手軽に行われているように思うが、昔はそのようなはけ口があったわけではない。まして江戸時代といえば洪水や飢饉、大地震など度重なる災害に翻弄されながらも、安定しない農作物の収量やそこからくる人々の貧しさを前提として考えれば、我々が当たり前だと感じる娯楽が贅沢と考える人も多かったはず。江戸幕府の質素倹約の方針に逆らって、日頃の鬱憤を晴らしたかった人々もたくさんいただろう。

軍事的な衝突を避けるためだった!?鬱憤ばらしの真実

この鬱憤ばらしはおそらく、軍事的な衝突を避ける民衆の知恵だった可能性がある。

民俗芸能の分布は村境に集中するということを以前、以下の記事で書いた。その理由として隣村から情報を得て、民俗芸能のトレンドなるものを把握しながらも、自らの地域内で独自の芸能としてアップデートしていくのに合理的であったからと考えられる。

一方でこれは、民俗芸能の核心部を隣村に教えてはならないという地域的アイデンティティとのせめぎあいの上に成り立つものである。常葉学園短大講師吉川裕子氏『民俗芸能における鹿踊』によれば、遠州の奥地にある西浦田楽について、団体の中での役割がそれぞれ決められており、それを隣の人に教えないという歴史的風習があったという。これは東近江大凧の起源と似たものがある。東近江大凧は3つの村(中野・芝原・金屋)の大凧技術の競い合いが発端となり、技術を他村に漏らさない秘密主義と大凧を短年で燃やす文化を作り出したそうだ。

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この話を聞いて忍者がスパイとして活躍する戦乱の世で、情報戦によってのし上がっていく戦国大名を思い浮かべるのは僕だけであろうか。自分たちの村の最高の祭りの形を表現して鬱憤を晴らしていくという行為は、ある意味、他村との争いあるいは喧嘩において芸能分野での勝利に他ならない。もしくは、それが芸能の伝播という形で他村の精神的根幹を染め上げる行為だったかもしれない。

 

そう考えると、鬱憤ばらしは軍事的な衝突を擬似的に体験し、祭りというユーモアによって解消していくような意味合いさえも感じざるを得ないのである。発想を変えれば、ガチな喧嘩をするんじゃなくて、ルールに則った格闘技や相撲やらスポーツを地域間で行っているイメージだ。この解消法が戦乱の世を教訓として立ち上がった江戸幕府という長寿政権のもとで、数多く実践されていたと考えると感慨深い。祭りは人と人とを和解させる平和に貢献する手段とも言えそうだ。