岐阜県岐南町で行われた「岐南地芝居公演」に伺ってきた。岐阜県といえば、地芝居や獅子芝居といったいわゆる魅せる演劇的な芝居ものが発達した地域である。その歴史や背景、現状の伝統継承の姿など多角的に迫っていきたい。
岐阜県の獅子舞の特徴
まず岐阜県の獅子舞の概観としては、東海と北陸、あるいは東日本と西日本の文化の結節点であり、全国の獅子舞の縮図的な年代と分布の多様性を持つことを特徴とする。流刑人の多い佐渡は民俗芸能のるつぼであり、石川県加賀市は山から海まで多様な地形と生業が存在する点で民俗芸能のるつぼと言え、このような多様性&るつぼ論は巷に溢れすぎているようにも思うが、一応、岐阜県の1つの特徴として触れておこう。
岐阜県に存在する獅子舞の形態といえば、郡上郡北部や大野郡西部で見られる近畿系の「大神楽」「大獅子」や、武儀郡や加茂郡で見られる「神楽獅子」、近江から美濃山系を越えて流入した「伊勢大神楽」、飛騨で見られる伎楽獅子の行進後に行われた系譜に始まる「曲獅子」、またこれも飛騨を中心に伝承される獅子を成獣とみなさず田畑を荒らす害獣とみなすという我が国本来の田遊び系に端を発する北陸文化圏の「獅子殺し」などである。また美濃地方の代神楽系の分布の多さは多くの人々の往来を意味しており、戦国武将が美濃制圧に躍起になったように、この地域は人や物の流れの重要拠点であることが読み取れる。
また、岐阜県岐阜市とその近郊では、明治維新以降、獅子舞禁止令なるものが存在し、局所的に獅子舞が存在しない。例えば、各務郡(第三十番中学区)では「祭礼の歌舞妙得伎は冗費」とされ、山県郡(第三十三番中学区)では「風紀を乱す」として、各中学区取締から小区宛てに「獅子舞禁止」が通達された。
獅子芝居の始まり
神楽獅子の獅子頭には男獅子と女獅子の2種類があり、男獅子による舞は全国的に存在するものの、女獅子というのは嫁獅子の系譜であり、江戸時代の後期に始まったのでそう古いものではない。女獅子といえば、男性のかぶき者を女性として表現した出雲阿国の「かぶきおどり」を連想させる。どこか奇をてらい観る者を現実世界と芝居の世界で倒錯させるような魅力が存在するのかもしれない。女獅子というのも男性が演じるのと違ってどことなく優雅であり、滑らかな動きなどが魅力であると個人的には思う。
獅子芝居とは神前で疫病退散の祓いのために舞う神楽獅子(獅子神楽)の後に、獅子が女形になって演じるもので「神楽芝居」とも言われ、歌舞伎芝居の外題(歌舞伎芝居の題名のこと)を演じるという特徴がある。この獅子芝居に使われる獅子頭の特徴としては、耳が立っており白髪がないことである。獅子芝居(嫁獅子)の始まりは寛政年間(1789~1801年)に三河の岩蔵・岩治・作蔵の3人が原型を考え出し、天保年間(1830~1844年)に三河の寿作と諸桑(現海部郡)の龍介(市川竜介の記述もあり)がその3人から嫁獅子を習い、さらに広められたと考えられる。愛知県西部の江南市(布袋町今市場ほか)、東部の小坂井町院内(のち浦郡市形原町金平)が尾張の2大中心地となった。
獅子芝居における獅子は観客にとってどのような存在なのだろうか?通常獅子頭といえば、力強さやたくましさ、荒々しさを表現した有形物である。ところが、獅子芝居においては「人」に扮するために獅子頭を被るという性格上、緊張感や恐怖心、あるいは逆におかしみや嘲笑といった相反する感情を呼び起こすものとなる。獅子芝居における獅子頭をかぶる人は女性役であり、男性が求めてやまない広くて深い愛を秘めた女性像となっている。また現代の舞台美術が知識人を対象としているのに対して、獅子芝居は民衆に広く開かれたものであることも注目すべきである。これは社会に遍満する諸要素を知的記号として処理する手法をとると考えられがちな現代の舞台美術に対して、獅子芝居は物語の要素を単純化して劇的な起伏を激しくするとともに主人公の心の有り様を繰り返し述べることに重きを置いておりそれは感性の鈍化ではなくむしろ深さの提示とも考えられている。現代の飽き易さがむしろ芝居を遠ざけているようであるが、良質で伝統的な深みのあるエッセンスを現代の舞台美術に取り入れていくことも試行錯誤されていくべきとも感じる。
伏屋の獅子芝居
今回拝見した伏屋の獅子芝居は尾張の嫁獅子系のもので、幕末に前述の諸桑の龍介から伏屋の東五郎が習い伝えたものである。元々は神前に納める神楽獅子から発生し、祓うことが主体となって五穀豊穣・村内安全を祈願して氏神の白山神社に奉納されてきた舞いに芝居が統合された形である。初期の頃、農耕に明け暮れる村人にとって獅子芝居は唯一の娯楽といっても良いものだった。
伏屋の獅子舞は伊勢神宮の御神木の川狩りの際の奉送迎、京都東本願寺の本堂改築の地築きでの神楽奉納、名古屋汎太平洋博覧会余興などに出演。昭和32(1957)年には犬山成田山での全国獅子舞大会に優勝、昭和47(1972)年に岐南町重要無形文化財に指定、また同年にNHKテレビ放映など、全国規模で活躍してきた獅子舞団体である。また、この昭和47(1972)年には、同時に伏屋獅子舞保存会が設立された。
獅子芝居衰退と活性化の動き
現在は後継者難であり、その背景には組織形態の変化というのが原因としてある。元々1897年まで存在した伏屋村があった頃、熟練者たちが「旭組」と称して獅子舞の活動を行なっており、その旭組の存立基盤として若連(後の青年団であり、伏屋では獅子組と呼んだ)の芸能活動があった。つまり、旭組の人々が師匠となり若連に獅子舞や獅子芝居の演技指導を行なっていたのだ。この芸能活動が鍛錬を必要とするものであったため、青少年が立派な大人になるための通過儀礼として考えられてきた背景がある。伏屋村が周辺の地域と合併した後もこの活動は続いたが、昭和30(1955)年代になるとその伝統は途絶えた。そこから、この昭和47(1972)年の伏屋獅子舞保存会設立への流れに繋がっていく。組織形態の変化は社会情勢の変化でもあって、地域行事の衰退と個人主義の台頭のみならず、大人としての通過儀礼を地域で作っていこうという考え方は徐々に薄れていったことも大いに関係していることだろう。
ちなみに、このあと触れる地芝居の文脈でも昭和30年代というのは1つのターニングポイントとなっている。これは昭和10年代の太平洋戦争による上演中止、昭和20年代には娯楽として映画やテレビの発達、昭和30年代には高度経済成長期に突入して人口の都市流入が活発化した。これらの背景により、地方の獅子芝居や地芝居が衰退したことは明らかであり、これは他の民俗芸能全般に言える現象であろう。これらの衰退を抑えるため、「全国地芝居連絡協議会」の発足や「全国地芝居サミット」の開催、「全国芝居小屋連絡協議会」の発足など全国組織や幕の内弁当的な大イベントを仕掛けることで盛り上げを図っており、この動きもその他民俗芸能と同じような傾向である。ただし、このような大きな組織やイベントが立ち上がることで、芸能の平準化や各固有の土地から湧き上がるような本質性が薄れるようにも思われ、個人的には違う方法も模索していかねばならないと感じている。
岐阜と愛知は「地芝居王国」
村芝居は地芝居とも言い、村人が演ずる芝居なので、都市文化に見られるプロの技とも異なる地域に根付いた芸能とも言える。地芝居は地域住民が演ずる芝居であり、地域に根付いた存在だ。地元の人々が演じることから「地」の字をつけて、「地芝居」と呼ばれている。その中には、地歌舞伎、人形浄瑠璃、能狂言、獅子芝居など様々な芸能が含まれる。素人の演技ではあるが、振り付けや化粧、衣装など全部自分たちで準備を行い、観客を感動させる芝居づくりは本格的である。また、観客も演者に向かって声を掛ける「大向こう」やご祝儀として紙の包みを客席から投げ入れる「おひねり」があり、参加型となっていることは特筆すべき特徴である。
安田文吉・安田徳子『ひだ・みの 地芝居の魅力』(2009年3月, 岐阜新聞社)によれば、地芝居団体は全国に約200あると言われており、岐阜県が最も多く30団体を有する。次が愛知県で17団体であり、合わせると47団体ということで、全国の4分の1を占めることになる。これは獅子舞が石川県と富山県という加賀藩領域に固まっていることと似ており、獅子舞の場合は約8000の獅子舞団体がある一方で、そのうち約2000(約4分の1)は富山県と石川県が占めている。この芸能における愛知県と岐阜県の関係性は、石川県と富山県の関係性に似ているようにも思われる。ちなみに地芝居団体は全国に約200あると言われている一方で、地芝居の舞台は廃絶したものを含めると全国で2000棟近く存在しており、都市芸能の舞台と区別するために「農村舞台」「野舞台」などと呼ぶこともある。また、地芝居の舞台が全てこの「農村舞台」「野舞台」というわけではなく、例えば岐阜県南西部の西濃では曳山の上で上演が行われるので、一概に地芝居の普及数として考えることは難しい。また、日本全国の地歌舞伎保存会の2割が岐阜県に集中しているという事実もある。
地芝居最古の記録
さて、地芝居の歴史は江戸時代の宝永3(1706)年に行われた岐阜県の上呂にある久津八幡宮祭礼における上演が記録としては最も古い。この神社には「祭礼日記」なるものが存在しており、この頃に元々、元和元(1615)年に疫病退散を目的に演舞が始まった獅子舞があり、それが宝永3(1706)年の祭礼日記には、獅子舞に続いて「羅生門」という狂言が奉納されていたと記されている。これに使った鬼面が2つと駒形と呼ぶ馬の作り物も伝わっているそうだ。つまり、獅子舞に加えて娯楽性の高い狂言としての地芝居が取り入れられていったというわけだ。
都市で人気の歌舞伎というものを遠く離れた場所でも楽しみたいという思いから発達したのが地芝居であり、役者を都市から呼んできて歌舞伎を楽しむ「買芝居」は容易なことではなかった。近郷に住む旅役者に稽古をしてもらって、自分たちで演じることができるようになれば、毎度「買芝居」をしなくても済むというわけである。江戸時代に地芝居は原則禁止とされてきたが、祭礼の奉納芸あるいはお盆の行事などは例外的に許されてきた。つまり、旅役者から習ったものを自分の地域の行事などと絡めてアレンジして定着させた歴史があるのだ。
さらに、岐阜の中でも東濃地域が17団体と多く、かつて尾張藩領だった場所は芸事に寛容だったという歴史がある。また愛知県では旗本領であった東三河が規制のゆるい地域だった。そのような土地柄も影響して、愛知県や岐阜県には「地芝居王国」と言われるまでに地芝居が定着したのだ。
岐阜県における歌舞伎の最古の記録
ちなみに地芝居の記録ではなく、歌舞伎の記録として岐阜県内で最も古いのは天和3(1683)年、宿村(現在の瑞浪市宿町)の岩屋観音のご開帳の際に、尾張から歌舞伎の一座がやってきて余興として興行したことだという。これは歌舞伎が始まって80年後のことであり、現在の瑞浪市が山間部であることからもわかるように、100年足らずで田舎まで来ていた事実は興味深い。さらにこの上演から23年後には上呂の久津八幡宮にて地芝居が上演されている。都市から地方都市に一座がたち、田舎までの浸透するのは早かったのだ。それに加えて、岐阜では山村での上演記録が最古であることから、田舎での歌舞伎の浸透数が異様に高い地芝居王国としての性格の一端を垣間見ることができる。
そもそも歌舞伎の始まりとは?
1603年に徳川家康が征夷大将軍になったのは歴史上の大きな出来事であるが、その直後に京都では出雲阿国という人物が初めて「かぶきおどり」なるものを踊り始めた。当時京都の街では異様に派手な格好をして歩き回り喧嘩をふっかける「かぶき者」が多かったが、彼らの多くは3年前の関ヶ原の戦いで敗北した西軍ゆかりの武将たちが腕の見せ所を失い、やり場のない鬱憤を晴らそうとする行為であった。さまよい歩く彼らの反抗には、怪しくも悲しい魅力があり、出雲阿国はこれに注目した。このかぶき者の様子を演じるのみならず、阿国という女性が男性の様を演じるという男女入れ替わりの倒錯した魅力を加え、「かぶきおどり」を創造して人気を博したのである。
歌舞伎の地方伝播
遊女や若衆など阿国の芸を真似る者が多く現れたほか、阿国自身も京都だけではなく清洲や桑名、家康の住む駿府やゴールドラッシュで沸いている佐渡まで巡業したとも言われている。これが一時的には歌舞伎ブームを起こすこととなった。ただし、阿国が作った女役者の歌舞伎は長く続かず禁止されてしまい、男役者ばかりで演じる「野郎歌舞伎」が生まれて、今日の歌舞伎の原型となった。これは「おどり」から「物真似」への転換でもあって、能や狂言など先行芸能に学びその演劇性も高めていくことで江戸幕府の禁止令を乗り越えていったのだ。まずは江戸、京都、大阪で人気となった歌舞伎は地方へ伝播し、3つの都市の公許を得た「大芝居」が伝播したほか、理由づけがしっかりしたものであれば100日上演の許可が出るといったこともあったようだ。ちなみにこの3都市の次に歌舞伎の流入が早かったのが名古屋であり、東西文化流入の最も進んだ中間点とも言える場所だったと言える。
参考文献
安田文吉・安田徳子『ひだ・みの 地芝居の魅力』(2009年3月, 岐阜新聞社)
岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1999年3月)
岐阜女子大学地域文化研究所『岐阜県の地芝居ガイドブック』(2009年3月)
岐阜女子大学(代表者:持田諒)『岐阜県地芝居研究調査 岐阜県の地芝居を育む人と風土』(2009年)
岐南町歴史民俗資料館『民俗資料集VI』(1990年2月)