角兵衛獅子はなぜ全国に流行したの?新潟県月潟という小さな村から始まった!涙と苦労の物語

新潟県月潟の「角兵衛獅子」の歴史は非常に興味深い。貧困や恨みといった辛さをバネにして、最強の芸能集団を作り上げ天下を取った。しかし、時代の趨勢により芸能の技術指導が体罰と認識されるようになり完全に衰退してしまった。今では「保存会」によってその形態を今に伝えている。この角兵衛獅子の栄枯盛衰の物語は私たちに何を語りかけてくれるのだろうか?

2022年月潟まつりで拝見した角兵衛獅子

貧困と仇討ち

まずは角兵衛獅子の始まりについて。新潟県月潟といえば、信濃川とその支流の中ノ口川という大河に近く沼地であった上に、川の氾濫により作物がなぎ倒され飢餓に苦しむことも多かった。それゆえ、芸能を副業として諸国を巡業して歩き、資金を稼ぐようになったようだ。

その一方で、常陸国、水戸の住人で角兵衛という人物が月潟村に移り住んだが、何者かが殺害してしまった。角兵衛は殺される時に相手の足指を噛み切ったという。残された角兵衛の息子の角内・角助は大衆の中で逆立ちすることを思いつき「あんよ(足)を上にして、あんよの指のないものを気をつけて見れ」と言って、親父の仇を探し出そうとしたという話がある。

以上2つの角兵衛獅子の由来を知り思ったのが、月潟一帯は貧困がはびこり、非常に物騒な場所だったのだということ。では、そもそも角兵衛獅子の発想は何をヒントとして創作されたのだろうか?

三匹獅子と神楽獅子を基盤に成立した軽業芸

角兵衛獅子の形態を見ると1人立ちであることから、関東から東北地方に分布する三匹獅子舞に似ていることは想像に難しくない。ただし、新潟県月潟周辺に三匹獅子舞の分布が少ないこと、『絵本御伽品鏡』(享保15年・1730年)に書かれた獅子の蚊帳が神楽系であることなどから、獅子神楽を源流として三匹獅子舞の要素を取り入れながら角兵衛獅子が成立したとする説もある(小湊米吉『角兵衛獅子-その歴史を探る』(2000年9月)』)。この説では軽業芸や全国巡業という形態は伊勢太神楽の本家を受け継ぐものであり、そこに三頭立ての獅子舞という三匹獅子舞の要素を取り入れた結果、角兵衛獅子が誕生したとしており、当時としては大変珍しい芸風だったのではないかとのこと。

例えば愛媛の継ぎ獅子を見ると、伊勢太神楽をルーツとしてアクロバティックさに磨きがかかったようだし、そこに子どもが乗っかるという芸風はどこか角兵衛獅子と似た雰囲気を感じる。三匹獅子舞ではなくとも伊勢太神楽には後方の担い手が胴体を絞って1人立ちになることもあるため、一概に三匹獅子舞の要素を取り入れたかどうかは定かではない。

一方で、「角兵衛獅子」といえば、埼玉の秩父に浦山の獅子舞というものがあり、そこに伝わる獅子舞の起源も興味深い。1245年、後嵯峨天皇の勅令を受けた下総の角兵衛という人物が角兵衛獅子という獅子舞を考案したようで、それを全国に広めたとのこと。「浦山の獅子舞」もその正統な直伝を受け、伝わったという。これもいわゆる「角兵衛獅子」であり、完全な三匹獅子舞の形態を今に残している。浦山に伝わる角兵衛と、月潟の角兵衛はもしや同一人物であろうか?年代は被らないものの、何か関連性があると思えてならない。もしかすると、角兵衛という人物は実在していたのかもしれないが、好き勝手に源義経の免許状なるものが出回る時代である。後付け的に、巡業地を拡大するための護符として「角兵衛」の名が用いられたと考えられなくもない。

角兵衛獅子は「子ども」を主役にして成立(江戸時代中期)

月潟の角兵衛獅子の誕生は、江戸中期の享保2年(1717年)であり、そこから明治時代にかけての150年間、大流行の時代を迎える。この段階ではすでに、獅子を舞うことで生計を立てていた芸人が存在しており、江戸に出る際に「何か強いインパクトが必要だった」ため、最終的には「子どもが獅子を演じる」という切り札を使ったのだ。曲芸や軽業芸などの見所が満載な伊勢太神楽が全国ですでに流行している時代で、なかなか相手にされなかったので、子ども芸に転換したとも考えられる。その後は関東地方や東北地方にまで、巡業地を広げることができた。

子どもの指導が「虐待」と認識された(明治時代)

日本各地だけでなく海外公演なども行なっていた角兵衛獅子は、明治期になり徐々に活動を制限されることとなる。明治7年8月3日に東京府明治11年7月6日に新潟県が角兵衛獅子の禁止を発表した。新潟県立文書館の資料には「学校に通う年齢の児童が勉学に励まず、粗野の芸を習わせて、体を極度に屈伸して健康を害す」などという内容が記されている。東京府は獅子業者に対して、新潟県は県民に対して布達を出した。明治27年の時点では依然として人気は根強く70人の親方がいたというが、日露戦争後の西洋的なサーカスの進出などに押されたことも相まって、大正元年には親方3人、子ども8人という状況となった。そして、大正6年には消滅に至った。

この背景にあるのが、まず明治時代の義務教育の整備や、法律に基本的人権が盛り込まれたこと、庶民生活が向上したこと、産業構造の変化などが挙げられるだろう。また、幼童を芸人として育てしかも至難の曲芸を身につけさせるというのはまさに人体の極限を目指す行為であって、これらに対して社会的批判が出てきたということであろう。江戸時代に「かわいらしい子ども芸」とされていたものが、明治維新後に「かわいそうな子ども芸」となったのは、どこか西欧文化流入と日本古来の生活文化の衰退という構図が見え隠れしているように思う。

伝統文化の保存と復活を目指す運動(昭和時代)

昭和初期といえば郷土教育が活発化しだし、角兵衛獅子に対する見方も可哀想から可愛いに転換していった時期でもあった。一度消滅した角兵衛獅子だが、昭和8年に復活することとなる。その契機となったのが、新潟電鉄敷設に功労のあった奥山亀蔵という人物の登場である。角兵衛獅子の衰退を惜しみ、まずは料亭の芸妓に着目して獅子舞の型を取り入れることを提案し、様々な人に掛け合うようになった。批判は多く飛び交ったものの、昭和11年6月には月潟の白山神社で初公開を行い、その年の夏には日比谷公会堂新潟県人会総会での披露も行なっている。

ここから保存会の活動が開始した。昭和34年には青柳良太郎村長は月潟東小学校に掛け合い、江部保治校長の理解も得て、男女13名の児童が獅子舞の稽古に参加するようになった。つまり、ここで教育機関の理解も得られ、公演は全国に広がり、昭和47年には弥彦観光ホテルにて天皇・皇后両陛下の御前で演舞も行うに至った。平成25年4月15日には新潟市無形民俗文化財に指定された。

時代が変われば芸能に対する見方が大きく変わる。そのことを非常に実感するエピソードだ。明治に壊した民俗文化を昭和に保存して復興するという大きな流れは、角兵衛獅子に限らず、民俗学の分野を学ぶとわかるように明らかなことである。

月潟まつりに行ってきた

2022年6月26日、実際に月潟まつりで角兵衛獅子を拝見してきた。月潟小学校長の言葉により、現在は「郷土芸能を伝え受け継ぐものとして、礼儀作法や言葉遣いに気をつけること、お金はあげないこと、勉強に差し障りがないこと、学校は休んで出演しないこと、お酒の出る席には出演しないことを条件に実施している」とのこと。厳しい指導はなく、子供達が一人一人役割を自覚しながらも思い思いに楽しんでいるようだ。上演演目はフルバージョンで、舞い込み、金の鯱鉾(しゃちほこ)、かにの横ばい、乱菊、青海波、水車、俵転し、獅子頭をつけた水車、人馬、唐子人形お馬乗りという演舞が行われた。

獅子舞というよりは大道芸という感覚に近く、そこに五穀豊穣や商売繁盛など祈りという要素はほとんど感じられなかった。素晴らしい芸を見せることにとことん磨きをかけてきたようにも思える。舞台に立つ子供達は古風なアイドルに見えた。人々は素晴らしい芸が飛び出すと拍手喝采し、やんややんやと会場は熱気に包まれた。担い手の子供達は入場も退場も素早く、専用車で送り迎えされていた。やはり芸能人だ。素晴らしい技芸を身につけることで、賞賛されるというかつての姿は戻っているのかもしれない。子供がかわいそうという明治期の眼差し・風潮は少なくとも一見した限りではなくなっているように思われた。

参考文献

小湊米吉『角兵衛獅子-その歴史を探る』(2000年9月)

新潟市産業振興課パンフレット『角兵衛獅子の由来』