つく舞とは何か?カエルが柱をよじ登る意味とは?その秘密に迫る

2022年7月24日18時から茨城県龍ケ崎市でつく舞を見てきた。つく舞とは何か?を参考文献を参照して述べたのち、当日の様子を振り返る。

つく舞の由来

柳田國男によれば、つく舞の「ツク」とは柱のことで、澪標(みおつくし)の「ツク」と同義であるとする。澪標とは水の筋のことで、船が通るときの航路を「澪」とするとその印である標識の棒のことであり、標(つくし)は高い柱の意味があるのでそれを「つく柱」と呼ぶようになった。これが、今日のつく舞に使われる高い柱のことである。柱を立てる習慣は日本全国にあり、その代表的な例が諏訪大社御柱だ。柱は神を祀るときの標識で、柱の上で曲芸を披露するようになったのは後世の話のようである。

また、蜘蛛舞がクモを見立てた動きをするように、つく舞はキツツキの動きを見立てたものだと説いたのが、古谷津順郎氏だ。中世の代表的な百科辞典である『壒嚢鈔(あいのうしょう)』を読み解き、啄木(きつつき)を寺啄(てらつつき)と書いてこれがツクマイに転化したというのだ。

つく舞の伝来経路

なんとルーツは西域の都盧(とろ)と言われる場所にあり、これはパルティアとシリアの国境、ユーフラテス川の上流にある隊商の集まる地「ドウラ・ユーロポス」のドウラを漢字表記した名前である。これが中国の漢の武帝の頃に「都盧尋橦(とろじんどう)」という曲芸として唐に伝わり、竹竿に登る遊戯としてとても人気があった。今でも、中国の雲南省では、ミャオ族やヤオ族によって伝承されている。都盧尋橦は日本の正倉院に保管されている散楽図にも大男の頭の上に立てた竿の上で子供が曲芸をするような姿で描かれている。日本には奈良時代に散楽として伝わり、担い手は散楽戸の職を得て雅楽寮に入れられた。東大寺大仏の開眼式典に出席したほか、782年まで継続されたがその後は官の保護から外れ、民間に流布することとなる。また『日本民俗事典』によれば、中国から日本へ奈良時代に伝来した散楽雑戯の流れを汲む中世に成立した蜘蛛舞という芸能が、寺社の境内に勧進されるようになり、室町時代から江戸時代にかけて仮小屋で見世物として披露されるようになった。つく舞はこの影響を多分に受けている。

現在のつく舞

近年関東でつく舞が実施されているのは、龍ヶ崎、野田、多古、旭の4箇所。つく舞が撞舞と漢字表記される場合もあれば、しいかご舞(多古)や陰陽法(旭)などと呼ばれる場合もある。龍ヶ崎や野田は雨乞い祈願を行うため雨蛙が登場する。一方で、同じ雨乞いでも旭は獅子が登場するし、多古は獅子・鹿・マンジュウが登場したのち江戸の山王社の影響で水神的側面を持つ猿が柱をよじ登るため、その姿は一様でない。いずれも祇園信仰と結びつき、雨乞いをはじめとした水に関わる信仰に結びついているのは興味深いところだ。この中でも、登場役柄が少なくてシンプルな龍ヶ崎の撞舞が最も古い形を今に伝えているとも言われる。

龍ヶ崎撞舞の歴史

茨城県龍ヶ崎では、つく舞を撞舞と表記する。その起源は約400年以上前に遡るとも言われ、文献では中村国香『房総志科続編』(天保3年・1832年)、清宮秀堅『下総国旧事考』(弘化2年・1845年)などにその様子が記されており、筑波から伝わった舞いだとか、中国の鞦韆(ぶらんこ)のようなものとか、竿登りの遊戯(軽業)などと記している。また、舞男が被る雨蛙の面の後頭部に垂らした布に「天王町 安政二年 六月吉日」と書かれており、1855年が最も古い物的証拠として遡れる年数である。昔は船頭が帆柱を使って演じていたが、それが徐々にとび職へと担い手が移行していった。一時戦時中に途絶えたことがあったが、昭和25年に復活して現在に至る。

龍ヶ崎撞舞の様子

撞舞で使用する柱(撞柱)は8間(14メートル)ほどであり、この柱は龍の体を型どったものだ。この撞柱に登るのがとび職の選ばれし舞男が雨蛙に扮し、一人の演技を大勢の観衆が見つめるというスタイルである。舞男はまずお祓いを受けてから、四方払いと言って矢を東西南北に放ち、横木で仰向けになり扇子を広げ、円座で逆立ちをし、綱を伝ってスルスルと降り綱を掴んでぐるぐると回ってみせる。ちなみに、雨蛙の前方に垂れている赤い布は舌を表し、後方に垂れている布はウロコを表す。


龍ヶ崎撞舞の意味

柱の最も高いところに設置される横木の一方には鉄製の轡を2個、もう一方には麻の房を垂らす。これは馬を模しており、「天馬空を行き、馬上で雨蛙が舞う」と言われる。また、つく柱は龍が雨蛙を飲み込む様子を表しており、飲もうとすると龍の口に轡がはめられているので飲み込むことができない。それに苛立った龍が天に昇り雨を降らせるので、つく舞は雨乞いの神事と言われている。昔、雨蛙が落下することもあり、不浄な場所だからということで次の年にはつく柱を前方に移動することもあったが、明治以降はそのような事故は発生していない。

龍ヶ崎撞舞の運営形態

つく舞の舞台設置などの準備は、以前は龍ヶ崎市根町の方々が集まってやっていたが、現在は撞舞保存会の依頼によりとび職組合に任されている。本来であれば舞男は1人のみだが、途中で練習に参加することになった人がいて、結局2人でできるため近年、本番は2人で行うようにしている(これはおそらく、担い手育成の意味があるだろう)。引退年齢は決まっておらず、今現役の人の年齢が満53歳と45歳だ。立候補ではなく基本的には紹介で、舞男が決まる。とび職の中でもできそうな人とできなさそうな人がいるので、その適性を見極めながら舞男を選ぶ。夏になると、本番の1ヶ月半前から市役所の敷地につく柱を立てて練習を行う。練習回数は年間を通しても7回程度で、それほど多くはない。2022年は6月5日、12日、26日、7月3日、10日、17日、22日に練習を行った。7月3日、10日、17日は練習用の柱を使って行い、22日は本番の撞柱での練習を行ったらしい。祭り前は熱を出すわけにもいかないので、健康に配慮して生活を送っているという。

平成14年3月14日の読売新聞茨城南部版によれば、龍ヶ崎の撞舞の芸能継承に関する記事が掲載された。撞舞の運営は龍ヶ崎市中心市街地にある8地区が一年ごとに輪番制で担当することになっており、その費用は1回につき約150万円かかる。通常は八坂神社の「八坂割」という氏子たちへの割り当てや積立金で賄うそうだが、例年不足するため50万円前後を担当区が負担することになっているという。それに加えて担当区は撞舞の練習に人員を10名ほど出さねばならず、出費と人員を出すことが苦しいため撞舞実施は困難であるという決断が出された。結局、龍ヶ崎市も参加して実行委員会を設立。この年に結局開催されたかは定かでないものの、この400年続く撞舞という芸能を継承していくことには難しさがあるようだ。ただし、その反面ではやりがいを感じられるということは事実だろう。

 

参考文献

龍ケ崎市編さん委員会『龍ヶ崎市史 民俗編』(1993年3月)

龍ヶ崎市歴史民俗資料館『企画展 「利根川流域のつく舞」』(1994年6月)