雨が降らねば切腹する壮絶さ、なぜ獅子頭は苔で作られた?雨乞いの真相に迫る

獅子頭はなぜ、苔で作られたのか?

その一風変わった獅子頭が最近、千葉県千葉市の聖宝寺で発見された。明治時代に雨乞いで使われた獅子頭とのこと。

レトロで美しい旧生浜町役場庁舎を管理するNPO法人ちば・生浜歴史調査会の15周年を記念して行われた「椎名崎の雨乞い・雨降りガッコ展」という展示で、この獅子頭が公開された。その噂をTwitterで知り、獅子頭の魅力に惹かれて、早速、現地に行ってみることにした。

旧生浜町と雨乞い行事

生浜町は生実町と浜野町の生と浜をとってつけられた地域名である。元々、半農半漁の地域で東京湾と山とに接している。今回、千葉市有形文化財で90年前に作られた旧生浜町役場跡で展示が行われ取材をさせていただいた。椎名崎町から見て山側の隣町である、椎名崎町の獅子頭が展示されていた。ここでは今から130年前、明治27年まで雨乞いのお祭りが行われていた。それに関する祭り道具が発見されたとのことで、それにまつわる展示である。

展示が開催された背景

近年、椎名崎町にある真言宗の聖宝寺のお寺の庫裏に獅子頭がしまってあったのが発見された。ミカン箱数個にしまわれており、埃まみれだったので、捨てる可能性もあったとのこと。実は素晴らしい宝物が出てきたことを後々知ることになるのである。

この獅子頭が出てくる十数年前、地元の椎名小学校の創立140周年の時に、古老から「子供の頃に雨乞いがうちの庭先に来た」という話が出てきてものの、道具が見つからなかった。そこで、泣く泣く道具から舞い方から全てを一から作り上げて、オリジナルの舞いを創作したという。郷土の慣習の再演で郷土愛を目的としたものであった。それから十数年の時が経ち、獅子頭が発見されたことは、当時の関係職員が大いに喜んだのであった。

今回の展示は、この椎名小学校の件同様に郷土愛を目的として、NPO法人ちば・生浜歴史調査会が企画したもので、団体の15周年の記念すべき展示でもある。

獅子頭とのご対面

獅子頭の特徴としては、雨乞いのために水の象徴としての龍を模したものであろう。また目が蛇の目のデザインであることから、富山県や石川県などの獅子頭に見られる蛇信仰との共通性も垣間見られる。雄には角と耳があり、雌には耳のみが取り付けられており、取り外しも可能な状態だ。顔の木材は杉板で、松の苔を貼り付け、鼻髭は「ウゴ」と呼ばれる海藻が使われている。また、雄獅子には角と角の間に、宝珠があり、梵字で何か書かれた跡がある。また、雨降りガッコの祭礼行列には獅子舞の他に、山伏、天狗(猿田彦)、鉄棒、拍子木、警護、神主、笛、歌唄いなど様々な役の人々が参列したとされ、その道具も展示されていた。

それにしても、どうして獅子頭に苔が生えているのか?これは大いに謎であるが、NPOの方にお話を伺うと「獅子頭が作られた時から生えていたでしょう」とのこと。確かに湿気が多いところで後々自生したとも考えにくい。かなりきれいに手入れされたような生え方をしている。NPoの方は「龍の髭や鱗のような模様にしたかったのでは?」という推測もされていた。個人的には苔というのはやはり瑞々しい環境で育つわけだから、雨が必要なわけで雨乞いの願いとともに苔がつくのも理にかなっていると思った。ただ、真相は結局よくわからない。

そして、この獅子頭を見る限り、雄雌一対の獅子である。雄は幕が青くて、雌は幕が赤い。雌の幕の方は展示することが叶わなかったそうだが、そのような違いがあることがわかった。今となってはトイレが男は青、女は赤となっているし、少し前まではランドセルもこの構成が当たり前だった。唐獅子系だとこの雄雌一対の獅子頭というのがよく見られる。例えば、その典型として山形県酒田市獅子頭は雄雌一対で彫り、飾るというのが当たり前である。しかし、関東地方では三匹獅子舞が広域に渡って広がっており、雄雌一対というのはほとんどない。だから謎が深いのだ。通常、三匹獅子舞では雄2頭が雌1頭取り合うという演目が多く見られるが、どうやら今回の獅子舞では雄龍が霧の中に居る雌龍を探して、探し当てた時に歓喜するという内容のようだ。最後のシーンでは、雲が出てきて雨が降ってきて「もう帰ろう」という場面で終わる。関東地方を中心に分布する三匹獅子舞や東北地方を中心に分布するしし踊りとも歌の内容は少しずつ似た箇所がある。

雨乞いは実現されたのか

水道が整備されていない時代において、雨が降ることは農作物の生育や普段の日常生活に欠かせない水を確保するという観点から重要なことだった。

元々、この雨乞いに使われた獅子頭は「箱を開けて虫干しをするだけでも雨が降る」と言われており、それを身につけて踊ることはさらにその効力を高めるものであったことが推測できる。まず雨乞いを始めるプロセスとしては、この地域では水田が干上がるほどに雨が降らないという状況がまずあって、そこで村中で話し合い、雨乞い祭りの実施を決めるという流れだったようだ。雨乞いの祭りが始まると、7日間の「みそぎ」の行として斉戒沐浴(さいかいもくよく)をして身を浄め、祭り当日に雨乞い祈願の舞いをするという。その祈願の舞いは明治27年には椎名神社境内、椎名崎区長宅、白旗神社、高梨家で行われ、高梨家ではお酒などを飲んだとされる。つまり、この年には、町内全域にわたる門付けが行われておらず、明治27年以降、雨乞いは虫干しを少し行う程度だったという。

また、 雨乞い祭りをしても雨が降らないときは、 神主が切腹したという話も残っているというから、雨がどれほど人々に望まれていたのかがわかる。実際に明治27年の天気が現在まで記録として残っているという。どこまで雨が降らなければ、神主は責められたのかという視点も重要なポイントである。雨乞いの祭りが行われたとされる明治27年は、6月の降水量が16.2ミリ、7月は5.9ミリだったそうだ。特に7月8~22日までは降水がなかったとされ、非常に苦しい生活を強いられていたことだろう。雨乞いのための獅子頭の虫干しが行われたのは7月20日、21日だったが、それでも雨が降らなかった。そこで、ついに23日に千葉県警察署に雨乞い祭りの許可を得て、27日と28日に舞を奉納したという流れである。おそらく警察に許可を届け出た23日には一発目の雨が降ったと思われるが、その後、舞いの奉納をしたという流れだったのだろう。

貴重な獅子舞に気づいてほしい

今回の展示を担当されたのはNPO法人ちば・生浜歴史調査会の方々だ。専門的な知識がない中で、獅子舞の作りを明らかにするべく設計図を描いたり、展示方法が直射日光に当たらないようにする配慮などその保存方法についても試行錯誤されているのが印象的だった。地域の方々は大したことがないとよく言うけれど、この獅子舞に関しては本当にものすごく珍しく個性的で魅力的だと感じた。まだまだ確認できていない資料も埋もれているとのことで、この獅子舞の研究が進展していくことを楽しみにしたい。

参考文献

貝塚博物館紀要 第2号 昭和42年度

椎名崎の雨乞い・雨降りガッコ展 パンフレット