北海道十勝で開拓とアイヌについて考えた

2022年2月25~26日の日程で北海道の浦幌町帯広市に滞在した。開拓民がどのような新しい文化をこれらの土地にもたらし、その土地に古くから根付いていたアイヌ文化とはどのような摩擦がおこったのかについて知りたくなった。これらについて考えることは、北海道全土について考えるばかりか、オーストラリアにおけるイギリス人とアボリジニとの関係性にも繋がるお話であるようにも思える。つまり、世界的な視野で捉えられる文化の交換や更新についてのお話である。

漂着獅子頭の話

2011年7月14日に浦幌町の昆布海岸に漂着した。大陸系(南方系)の獅子頭だ。取っ手の部分にHの文字があり、おそらく平成に入ってからの獅子頭であろう。その他に5~10文字が書かれているようだが、かすれてどれも判別できるような状況ではない。サイズは縦22cm横20cm奥行き20cmほどで立方体に近く、小さいので舞うものであれば子供獅子、舞わないものであれば飾り獅子であろう。造りからすると寄せ木造りの名古屋型で、全国的に流通している形態であり、宇津型なのでおでこにコブがある。また、鼻の下に金と黒の模様が見られる。海に数ヶ月さらされたのにあまり塗料が剥げていないことから、しっかりとした純正の漆塗りであることが伺える。噛み合わせの作りが簡素なため、祭礼で使うものというよりはおそらく飾り獅子か子供が遊ぶためのものである可能性は高い。故郷は東日本大震災津波の影響を受けた東北から千葉県にかけてである。このエリアで、寄木造りの名古屋型の獅子舞を継承している地域というのは、おそらくそう多くはない。調べれば地域を特定することまでできる可能性がある。それにしても、どこから流れてきてこの獅子頭が浦幌に漂着したのだろうか?この道筋をたどるロマンは尽きるものではない。もし元の持ち主が生きていらっしゃるのであればぜひ探したい。文化の交換や交流というのは、このようなきっかけで始まるのかもしれない。

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浦幌開拓獅子舞

浦幌町に現存する獅子舞は富山県氷見市由来のものだけで、石川県津幡町由来のものもあったが、それは今途絶えている。氷見市由来の獅子舞は能登獅子と加賀獅子の折衷のような形態の獅子舞であることが伺える。お囃子の音色に関しては、能登半島羽咋市中能登町で以前拝見した獅子舞と全く同じものでびっくりした。また、鉦、太鼓、笛という楽器構成も能登でよく見られるものだ。獅子の蚊帳の中に入る人数が4人ということは、加賀獅子の百足獅子の形態と被る。獅子に対峙する棒振りがいて鉢巻きをしている様子は加賀獅子の獅子殺しのようである。昔はこれが天狗だったそうで、能登獅子から加賀獅子への変遷と見て良いだろう。ご祝儀をもらったときの掛け声も加賀や能登で見られるものだ。ご祝儀を口に咥えながら舞ったり、蚊帳の上を棒振りが飛び越える仕草はユニークに感じられた。この獅子舞の始まりは1902年(明治35年)だが、古い獅子頭については、箕を組み合わせ、カボチャをくりぬいて耳を作り、目鼻を墨色具で描くまたは芋をくりぬくなどして作ったというから驚きである。ぜひ実物を見たかったが、当時の写真は残っていない。これに感動した大工が2年後にワタドロ(ドロノキ)を用いて獅子頭を製作したようで、この素材は中部地方までしか生息しない木であり大陸系獅子頭では珍しい。東北のしし踊りでは後ろ髪のようなカンナガラに用いられる木である。軽軟である点ではメリットが大きいが、工作機の切刃がすぐに磨耗しやすいことから、根から泥を吸い込む奇怪な性質を持つ木と言われ恐れられたという逸話を持つ。浦幌町町立博物館に展示されている開拓獅子舞の獅子頭は氷見獅子由来にしては睨みがなく雄壮な顔というよりはのっぺりとしたかわいらしい顔をしている。土地性がもし反映されているとすれば、これは北海道というおおらかな土地が産み出した芸術と言っても良いかもしれない。さて、なぜ開拓獅子舞が盛んになったのか?ということである。富山や石川の人々が集団で浦幌に移住してきたのには、まず本土での貧しさがあり、土地を求めて移住してきたという背景があり、開拓には相当な苦労があっただろう。その中でその開拓をした先人たちを敬い、故郷を偲ぶ気持ちがこの獅子舞を根付かせたということだ。富山の故郷の獅子舞よりも、浦幌の獅子舞の方が古い形態を残しているとも言われており、故郷を偲ぶ気持ちが逆に伝統文化の保存と継承に繋がっているという事実は非常に興味深い。ただし、開拓からもう2~3世代を経て、開拓当時の人はなかなか生きてはいないのが現状だ。この先、獅子舞という文化を故郷を偲ぶという文脈で継承していくべきかは疑問が残る。獅子舞が盛り上がる新しい転換点やムーブメントを通した開拓のアップデートと新しい形での地域の繋がりを創出するような役割がこれからの開拓獅子舞には必要になるかもしれない。そこには地域の深くに眠る大地と呼応するような何か土地のリズムのようなものを呼び覚ましていくような必要性があるのかもしれないが、それについてまだ明確な答えを出すことは難しい。

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イオマンテ

帯広百年記念館や浦幌町立博物館で非常に興味深かったのが、アイヌイオマンテの展示だった。自分達のために犠牲になった生きとし生けるものたちは神(カムイ)からの贈り物であり、命をいただいたからには肉体と魂を切り離して、魂の部分をたくさんのお土産と共に、再び神(カムイ)の国に返さなくてはならない。この時のお土産を渡すという考え方は、あちらの世界にいっても生活に困らないようにと人間の葬儀のときにお土産をつける発想と同じものであろう。この儀式の際には「また私たちの元に戻ってきてくれますように」という願いと共に送り返す。縄文時代から続縄文文化、擦文文化を経て、鎌倉時代から室町時代以降にアイヌ文化は形成された。自然資源と対等に対峙し、必要以上の資源を搾取しないその精神性が受け継がれてきたのだ。これはロシアから南下してきた北方文化の名残りであり、鹿をかたどった石物を彫り鎮魂したような精神性の延長上にあるもので、東北のしし踊りによる供養と鎮魂にも繋がっていくような話である。個人的に熊送りはイオマンテのみと思っていたが、その熊送りにも山で仕留めたものを送る場合はオプニカと言い、仔熊を飼育してから送る場合をイオマンテと言うため、2種類の送り方があることを知った。そして、熊だけでなく鹿の角やキタキツネやオットセイの骨、エゾバイやサラガイなどの貝殻、サケやタラやヒラメなど魚類の骨など様々な生活のために犠牲になっていただく生きとし生けるものたちを神(カムイ)の国に送ることを知り、その世界観の奥深さを知ることができた。これらは「送り場」という場所を介して送られるらしい。

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いずれにしても、明治時代の開拓民は貧しさによって故郷を離れ、資本主義的な富の蓄積を求めて広大な北海道に向かった。そして、その団結のために旋回系芸能にあたる獅子舞が必要だった。しかし、人口減少時代の今となっては、鉄道や電気ガス水道などのインフラを広大な土地に敷いた一方で、それを財政的に維持するのが困難になっているのが現状である。その反面、土地の歴史的な文脈を受け継いできたアイヌの生活文化は土地の自然資源を何倍にも増やし貯蓄しようという発想ではなく、あくまでも対等関係を築くことを目指したが、それは開拓によって駆逐されてしまった。同時にイオマンテなどの跳躍系芸能にあたるしし踊りにも繋がるような生活文化も野蛮なものとして禁止されてしまったのだ。一方で、文化保護政策によって生活文化の真正性とは別のところで、土地の文脈を伝えるものとしてアイヌ文化は保護されている。札幌近辺の鉄道では、「イランカラプテ」という放送が流れ、この土地はアイヌの土地だったんだよと言わんばかりの人々を呼び覚ます声が聞こえる。これからは開拓とアイヌのバランスをどう考えるのか、または第3の文化を必要としているのか。その辺りについて熟考していきたい。