宮城県村田町の鬼伝説から考える民話の両義性

鬼伝説について調べるために、宮城県村田町を訪れた。

JR大河原駅から徒歩2時間。休日はバスがないとのことで、ひたすら歩いた。道中、歴史ある馬頭観音道祖神などの石仏が多数現れ、ここは古代日本と接続できる場所であるという実感を持った。

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ここで、なぜ村田町を訪れようと思ったのか、動機について触れておきたい。2021年7月に京都大江山の「日本の鬼の交流博物館」に行った時、大江山の鬼退治に参加した渡辺綱が、別の経緯で、鬼を追って宮城県村田町に来ていたことを知った。それで、その鬼伝説について深く知りたいと思い、2021年8月8日に村田町を訪れたのだ。その鬼伝説の顛末を、「村田歴史みらい館」の展示文章を引用してご紹介する。

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 むかし。京都の朱雀大路の南のはしに、羅生門という2階立ての大きな門があったんだど。

 この門には、わるい鬼がいて人々をくるしめていたんだどや。

 そのころ、渡辺の綱という強いさむらいが、この、わるい鬼をたいじに一人で羅生門にいって、鬼とはげしくたたかったすえ、鬼の右うでをかたなで切りおとしたんだど。鬼は、右うでをおいたまま、いのちからがらにげてしまったんだど。

 渡辺の綱は、切りとったうでを石でつくった長持にかくし、にげた鬼をさがしに各地をさがし歩いたんだど。んだげんども、なかなか見つけることができず、とうとう遠いうばがふところの里まで、家来十人とやってきたんだど。

 鬼は、渡辺の綱が、この、うばがふところまで、おっかけてきたということをきいて、なんとか、切りとられたかたうでを、とりかえさねば、と思ったんだど。そして、いろいろかんがえたあげぐ、渡辺の綱の、おばにあたるというばけることにしたんだど。

 おばにばけた鬼は、渡辺の綱どこさいって、『おめえさん、いま、せけんでひょうばんになっている、鬼の右うでを持っているんだってな、どういううでが、ちょこっと、みせてけろ。』とたのんだんだど。渡辺の綱は、おばがらのたのみなので、ことわらんねぐなって、石の長持のふたを、少しあけだんだどなれ、そしたら、おばの口は、たちまち大きくさけ、あたまにはつのがはえ、赤いつらをした鬼に変わったんだど。そして、アッというまに、その右うでをつかむと、いろりの自在かぎをつたわって、上にのぼり、天じょうのけむだしから外ににげていったんどなれ。渡辺の綱は、かたなをぬいて、すぐに追っかけたんだど。鬼は、あわてて川をこえようとして、すべってしまったんだど。んだげっども、そばにあった石に左手をついて立ちあがり、またにげていったんだど。渡辺の綱は、たいへんくやしがったが、どうしようもなかったんだど。

 そこで、うばがふところの人々は、ここまで鬼をさがしにきたのに、またとりにがした渡辺の綱のきもちを思い、その時から、家々では、いろりの自在かぎと、やねのけむだしをつけなくなったんだど。

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物語が意味するところ

まず、この話の真相は明らかにされていない。事実なのか、そうでないのか。この話を読み替えると、朝廷(渡辺綱)と豪族(鬼)の対立の話にも思えてくる。片腕を取られながらも京都から宮城まで鬼が逃げたという設定は少し疑問が残るので、これは例え話かもしれない。それなら鬼が片腕を取り返すというのは、ある意味有力な家臣が人質になっていたので、それを取り返したという風に考えることもできるだろう。民話は様々な想像力を掻き立てるのが面白い。

また、この物語に出てくる「うばがふところ」とは村田町の中の地域名のことで、渡辺綱の故郷でもない?のに、おばがいるというのは少し不自然である。渡辺綱のおばはなぜこの場所にいたのだろうか、そして、渡辺綱はなぜおばを鬼だと見破れなかったのか。疑問は尽きない。どういうわけだか、今ではこの地に「渡辺」という姓の家系が多いようだ。実際、現地で「渡辺商店」と書かれた看板を発見した。ある言い伝えによれば、明治21年の方が子供の頃、渡辺姓は7戸だったようだが、大正14年発行の柴田郡誌には戸数13戸と記されていたようだ。

村田歴史みらい館の鬼のミイラについて

町の中心部にも近い、村田歴史みらい館。ここには、「鬼のミイラ」が展示されている。頭と腕のみが残されており、鬼と書かれた木箱に保管されている。上から透明なガラスがはめ込まれており、そこから覗くことができる。木箱の横にはお賽銭箱も設置されている。このミイラが本物かは分からないが、江戸時代ごろに上方(江戸か大阪)あたりで購入したもののようで、村田町で作られたわけではないらしい。昔は商売道具や客寄せとしてミイラを用いることが日本各地で行われていたようだが、村田町の鬼のミイラがどのような目的をもって保管されていたのかはよく分かっていない。このミイラが発見された場所は商家の倉庫だったという。また、渡辺綱の鬼退治伝説との関わりも不明である。

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民話の里·ふるさとおとぎ苑の演出

村田歴史みらい館から徒歩で50分のところに、おとぎ苑という場所があり、民家内に「渡辺綱がおばに化けた鬼に腕を取り返され、逃げられるシーン」を再現したものがある。この民家は近くの村から移築したもののようだが、屋根の煙だしがないため、後世に煙だしが作られなくなったという上記引用の民話と内容は合致する。ただし、シーンを忠実に再現しようと思ったのか、無くなったはずの囲炉裏の自在鉤は取り付けられていた。以前はロボットのお婆さんが渡辺綱と鬼の話をかたり、最後に襖を開けるとその決闘シーンが見られるという大がかりな演出が行われたそうだが、今は営業時間が短くなり、ロボットのお婆さんもしゃべらなくなってしまったという。受付の方はこの施設が作られて初めて、渡辺綱と鬼の物語を知ったそうだ。年々語り手が少なくなっているのかもしれない。

手掛け石から考える民話の両義性

おとぎ苑近くに、手掛け石と呼ばれる石が祀られている。上記に引用した文章では、鬼が川を渡ろうとして滑った時に手をついた石となっている。ただ、実はこれは町誌や観光パンフレットなどの公的な文書に記された内容のようである。実際に姥ヶ懐に伝わる話によれば、渡辺綱が幼いときに、その姥が飲み水を確保するために子守沢に出かけた時に、手をついた石とされている。その後、渡辺綱が京都で活躍をしたのち、この石を移動し、姥神様の御神体として祀ったようだ。この話によれば「鬼の手掛石」ではなく「姥の手掛石」と言い伝えられており、宮城縣『宮城縣史23(資料篇1)』昭和29(1954)年に掲載されている「風土記御用書出」によれば、貞保2(1685)年には既に姥ヶ懐の名石として、「姥ヶ手掛石」という記載があり、右手の指跡と記されている。

これらの事実を踏まえると、言い伝えによっては鬼と渡辺綱との関係性が逆転する場合があり、鬼の善悪両義的な側面を思わずにはいられない。これに加えて、姥ヶ懐では節分の日に「鬼は内、福は内」という掛け声をかけるそうだが、この理由についても鬼に関して両義的な解釈ができる。つまり、渡辺綱が鬼を退治しようとした際に、囲炉裏の自在鉤を登って鬼が外に出てしまったので家の中で退治できなかったから「鬼は内」なのか、それとも単に鬼が福をもたらすと考えて「鬼は内」なのか。疑問は募るばかりである。

鬼伝説が生まれる秘境

姥ヶ懐というエリアはどうも古代の臭いがする。地域にある神社のご神体が洞窟だったり、樹木だったりして拝殿がないのだ。また、手掛け石の近くには大きな石棒まで立っていた。これは道祖神の祖形であろう。牛石と名付けられた石もあって、「食後にすぐに横になると牛になる」という教訓的な話が伝わっており、つまり怠け者を戒める話も残されていた。これは、なまはげの話とも似たような構造をもっている。いずれにしても、昔から中央と隔絶された秘境として生活が営まれてきたからこそ、古代信仰を端々に見てとれるのだろう。このような秘境にこそ、鬼の伝説が生まれる素地があったということかもしれない。

 

取材の終盤において、明るい空は一変してどす黒く曇り、大地に向けて大雨が降り注いだ。村田にはまだまだ人智及ばぬ奥深い世界があり、物事を一面的に捉える人間を戒めるような雰囲気が漂っていた。ずぶ濡れになりながら村田町役場にたどり着き、仙台駅行きのバスに乗り、帰路についた。

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