コロナ禍で考えたい、疫病を他村に送る風流の民俗史 〜柳田國男全集18より

古来、日本人は疫病に対してどのように対処してきたのか。そのような疑問を抱えながら獅子舞研究をしていて、掛け踊り由来の獅子舞についても学びたくなった。そこで、柳田國男柳田國男全集18』(1990年、ちくま文庫)の中の「掛け踊」の内容をまとめてみた。

近世に大流行した「俄(にわか)」は俄狂言である

・安永5(1776)年8月、江戸吉原に俄(20加)の戯が大いに流行した。

・大阪に始まって江戸に伝来したことになっている。

・明和5(1768)年作の清田絢『孔雀楼筆記』に30年前に俄が始まったとある。

・しかし俄にはもっと古い形式があり、近世に流行した「俄」は「俄狂言」と言うべきであろう。

俄狂言の特徴は相応自分の者が裸体に絵の具を塗って、奇異な出で立ちで大道を歩き、声を掛けられれば馬鹿げた芸をするというもので、今宮・祇園・御霊の祭日にはこの催しが多かった。

・俄かの本意は「即席頓作の軽妙を味わい楽しむこと」である。つまり、俄かに思い立つことが俄の始まりということであり、非常に単純なことだ。

 

俄の起源は「俄踊り」であった

・俄は元々俄踊りであり、単調な足拍子だけだった。近世の人々はこれに興味を示さず、俄狂言やら座敷俄やらを作り出したと考えられる。ただし、最初から一貫しているのは「あっと言わせたい」という精神だった。

・俄踊りは菅江真澄遊覧記27によれば、南秋田郡の某村において、7月13日の晩に「他村へ越えて来た、ひけとるな、節が揃わぬ御免なれ」「にわかおどりを掛けられた、足が揃わぬ御免なれ」という掛け合い歌があった。これは陸中遠野郷などの獅子踊りでも同様の事例が見られた。

・『日次記事』7月の条によれば、14日から晦日に到るまで、夜に大人子供が行列して知り合いの家を回り踊躍したことを懸踊といった。掛けられた家は踊りをしてこれに報いた。これは村から村へと踊り込むことを掛け踊りと言ったことと同じである。

・江戸時代に民俗研究をした喜多村氏は風流は物を飾って観物にすることと考えていたため、「風流と掛け踊りは異なる」という見解を示した。しかし、室町時代以後に踊りを風流というようになり、それ以前にも2つの組に分れて意匠趣向を競う遊びを風流と称していたことから、風流と掛け踊りを同一視することができる。

 

掛け踊りの多様性

・必ずしも隣接する2つの村同士の交渉だけではなかったことがわかっている。

・甲村から乙村へ踊りを掛けた際、乙村は甲村へ踊りを掛けるだけでなく、新たに丙村にも踊りを掛ける。丙村は丁村へ、丁村は戊村へと次々に掛けて行くことが普通だった。これは駿州の風流踊りの事例を見ても明らかなことである。

・江戸時代初期に2~3度大流行を見せた伊勢踊り(神跳 かみおどり)がその好例である。元和元年3月の頃、駿州府中辺の賑わいは激しかった。『山本豊久私記』によれば、「伊勢大神宮の飛ばせ給う」と申し立て、踊りはやし風流を尽くし、禰宜御祓を先に立てて、奥州まで踊り送ったとある。また、このようにしない国は飢饉疫病があるとも言われた。この理由として、事触(おしゃべり)な乞食禰宜が唐人に頼み、花火を飛ばせてみせるので、驚きはやし立てる(ざるを得ない)状況になるからである。これは公儀にお忍びで行った側面もあり、その点では御陰参りや御札降りと同じような内情がありそうだ。この時は伊勢信仰と結びついた形だが、神踊りの神は必ずしも一定するものではなかった。

・天文年中は江戸で祇園踊りが流行り、永禄10年の駿河国の風流は八幡村より踊り始めたとあり、貞享2年の遠州秋葉祭は江戸まで着いて禁止されたなど様々な話が残っている。

・いずれも不意に不思議な効力を示すようになった流行神を村送りした例が多数あり、鉦鼓踊躍によりこれを伝播した。

・『人類学雑誌』には平安朝初期の設楽神以来、久しい沿革あるものだ。

・悪徒の類もいたようで、「鹿島の事触」がその一例だ。諸国に虫害疫病が発生した時に、鹿島の神輿と称して遠国まで伝送し、摂州その他に祠を残して、鹿島踊りという踊りを伝えた者がいた。しかし、常陸の本社ではその事を知らず、相手にする者がいないのに託宣を行い、走り回る物貰いの類だったとのこと。この類には住吉踊りや鞍馬願人などがいた。

・送られる神の到達先、すなわち追却の任として鹿島が機能していた。奥羽地方で疫病を送る境の藁人形を「草仁王1名鹿島人形」と称したことからも想像できる(郷土研究2巻275頁)。

・つまり送るという行為が重要で、盆の聖霊祭やら獅子舞やら下宮御頭神事の疫神送りなどと同様で、凶神を一地に置いておかないという考え方である。

阿波国の虫送りの際に、実盛の人形を村次に土佐まで送ったのも同じ趣旨(郷土研究2巻144頁)。

・越後中部では事件が片付いて安心したことを「神輿を送った」と『風俗誌』に書かれている。

・出羽庄内では季節に構わず鉦太鼓で疫病神を送ることを「ボウ送り」と言った(齶田の苅寝、9月21日条)。ボウは兇神のことである。こう考えると、7月15日がボンと呼ばれるのは盂蘭盆会の略語とする説も疑う余地がある。

・地方相互の了解を持って、右から追うてきた神は左に送るのが良いだろうと言われたが、卒爾(予期していないこと)によって踊りを掛け返すという行為が始まったのだろう。

・「俄じゃ俄じゃ」「えらいやっちゃえらいやっちゃ」などの囃の詞は、「なもでやなもでや」「なンまんだぶなンまんだぶ」という念仏踊りや「おやもさおやもさ」という鹿島踊りと同じ足拍子を踏ませる。踊りの風流の趣旨は忘れられているがその片鱗を見ることができ、厄払い法の多様さを垣間見ることができる。