獅子頭を埋める習俗を埼玉県吉見町や東松山市にて研究

日本各地に、獅子頭を土の中に埋める風習がある。この風習はどうして広まったのかということが以前から気になっていた。厄払いの一種ではあろうが、なぜ、舞ではなく埋めることによって厄を払ったのかがとても気にかかるのだ。

 Google Mapで獅子頭と検索したところ、関東圏では埼玉県吉見町というところに、「獅子封じ塚」なるものがあるらしい。きちんと立て札が立っていて、「数百年前にここに獅子頭を埋めました」と書かれているが、誰が建てたのかは不明である。ポンポン山公園という公共の公園の敷地内にあるとのこと。

 GoogleMapの写真をよく確認したところ、公園の看板に「公園施設についての連絡先」として吉見町の「まち整備課都市計画係」のお電話番号が掲載されていた。ここにお電話をしてみることにした。色々な部署の方に聞いていただいたようだが、結局、獅子封じ塚に関することをご存知の方はいないようだ。「地域のご高齢の方に聞いてみるしかないかもしれません。」とのこと。それでもご丁寧に対応していただき、本当にありがたい。実際に現地に行って、周辺でヒアリングを進めていくしかないようだ。

 この獅子封じ塚近くには、獅子塚神社という神社もあるらしい。それを含めて考えれば、獅子塚文化圏なるものが埼玉県吉見町から東松山市にかけて広がっていた可能性がある。それを考慮に入れて、北鴻巣駅あたりから東松山駅までの約16kmを歩き、獅子塚文化圏の謎を紐解くこととする(2021年2月21日に実施)。

 

①獅子封じ塚周辺の様子

獅子封じ塚は、ポンポン山公園の入り口の場所にあった。ポンポン山公園は、頂上付近の土を踏み鳴らすと、ポンポンという音がすることからこの名前がついたそうだ。地形上地下に空洞化小さな隙間のようなものがあるのかもしれない。ポンポン山公園の敷地は、一部高負彦根(たかおひこね)神社の社殿にもなっている。吉見町では最も古い神社のようで、710年には創建したと伝わる。この神社の鳥居脇に獅子封じ塚があるというわけだ。この関係性を考えると、神聖な場所に獅子を封じることによって、厄を鎮めるという意図が見えてくる。

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獅子封じ塚の立て札に書いてあった内容をここに引用しておこう。

昔、高生郷(現在の田中)には、獅子舞いの古い行事がありました。今から、数百年前ごろの旧暦六月の某日、悪疫退散のため獅子頭を冠り、戸毎を訪問する行事が行われておりました。しかし、ある年、痢病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人たちは、これは産土神のお咎めではないかと恐れ、獅子舞を境内に埋没し、その上に、柊(昭和十二年に大柊は、県指定文化財となるが、現在は二代目)を植えて、獅子封じをしました。それ以来、痢病もおさまり、平和になったと言われています。

※痢病・・・腹痛や下痢の激しい伝染病の類。

産土神・・・その生まれた土地を守護する神、鎮守の神。

※高負彦根神社の三鉾・・・湊石(御神体)、大柊、菊水(湧水)

 この立て札は誰が書いたものかを吉見町の「まち整備課都市計画係」の方に尋ねたがご存知ないそう。この立て札を見ていると、様々な疑問が浮かんでくる。まず、なぜ悪疫退散のために、獅子頭を埋めねばならなかったのかということだ。獅子頭といっても、地域の人にとっては結構高価な買い物であった場合も多い。それを簡単に埋めてしまうという意図について知りたいのだ。獅子というのは、厄を食べてくれる一方で、厄そのものであり獅子殺しの対象とされることもある。その負の側面を強調した行為として、獅子頭を埋め厄を鎮めるということなのかもしれない。ただ、これは完全に個人的な推測の域を出ない。そして、「数百年前」とはいつ頃で、周辺でも当たり前のように行われていたことなのか。それらが明らかになれば獅子塚文化圏の謎も解けるであろう。

 以下の写真が、獅子封じ塚を裏側から見た様子である。看板を写さずにとって、その構成物を純粋に眺めてみる。木は4本植わっており、そのうち1本が先ほど看板の文章に出てきた柊(ひいらぎ)である。獅子封じ塚は石によって360度囲まれており、たまに丸く穴が空いた石がある。

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 周りを囲む構成物としては、他に石柱が2つあった。どちらも基礎となる平らな石の上に尖った石を乗せておいてある。刻まれた文字を解読することはできない。道祖神とかその類のものであろうか。

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ポンポン山公園や高負彦根神社にくる地域の方々にも獅子封じ塚について「何かご存知のことはありませんか?」というような風に尋ねてみたが、その存在自体気に留めたこともないというような返事で、詳細を知る者はいなかった。

②獅子塚稲荷神社周辺の様子

次に訪れたのは、東松山市の獅子塚稲荷神社だ。獅子封じにまつわる記述を見たわけでもないのだが、おそらくこの神社名から察するに獅子封じと関係の深い神社だと思われる。ただ、行ってみたところで、何かがわかるわけでもなかった。社殿は工事中で、中に何が祀られているかわからないが、比較的新しそうな印象を受ける。神社の両脇には、丸く刈り込まれた木が数本植わっており、周りは農地や茅場、まばらな家ばかりだった。梅の木に花が咲いており、印象的だった。

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 東松山市立図書館での文献調査

それでは最後の頼みの綱としてよく利用する図書館へ。こういう場所に行けば、大抵のことは解決する場合が多い。実際に獅子塚文化圏に関する記述はあるのだろうか。

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以下、読んだ内容をまとめておく。

・倉林正次, 『埼玉県民俗芸能史』, 1970年, 錦正社

この本の中で、「臨時に獅子舞を行う場合」として、2パターンの獅子舞の形態を紹介している。それが「雨乞い」と「悪魔払い(疫病除け)」である。まずは、雨乞いについて。埼玉県内には、獅子舞が出ると雨が降ると言われている地域がいくつかあり、頭が竜の形をしているから雨を呼ぶのだという。埼玉の獅子頭は獅子型と竜型に大別され、後者に関する話だ。利根川水系の地域では、竜頭が洪水の時に流れてきたとか、流木で作ったとかいう伝説も数多いという。この雨乞いが伝わる地域として、埼玉県春日部市銚子口、北川辺町児玉郡大里郡熊谷市石原、児玉町東小平東松山市神戸、加須市飯積などがある。飯積は、栃木県野本町や茨城県猿島郡などに雨乞いの応援に行ったこともあるそう。この雨乞い獅子の特徴としては、沼に獅子頭を沈めて祈祷したり、獅子を擦って辻々を廻ったり、雨乞いの歌(悪魔払いの歌)を伝ったり、東方より雨が降るように笛を吹いたりするようだ。

 それでは、もう一方の悪魔払い(疫病除け)についても見ていきたい。火伏せの獅子といって、火から家を守ってくれるような獅子がいるそうで、これは東北の権現様の話にもよく似ていると思う。また、コレラなどの伝染病や病気が流行った時には、各戸を獅子頭を持って練り歩くということをしたようだ。舞を神社や家の庭先で舞う場合もあもあるとのこと。これらの形態の獅子を持つ地域は、埼玉県越谷市下間久里、東松山市野本・神戸、白岡町小久喜、深谷市柏合、北足立郡上尾市平方、加須市樋遣川・飯積などである。ここでは、祈祷、辻固め、辻斬りなどの行事などとして開催される。以上のような「雨乞い」や「悪魔払い(疫病除け)」に近い考え方として、今回の獅子封じのような考え方も起こったのだろうと推測ができる。

 ちなみに、獅子舞起源説に関して、興味深い話がある。源氏の武将を起源としたものが多く見られるのだ。例えば、源頼義、義家、義光などが安倍氏を討った前九年の役後三年の役の時に、長期化する戦いの中で士気を高めるために獅子舞が始まったという説が埼玉県羽生市中手子林に伝わる。また、北川辺町飯積の獅子頭漂着譚としては、源義経の乳母が獅子頭と一緒に流れてきたとか、コウガケ(手足の甲を日光や埃から守る布)の笹竜胆は牛若丸の定紋だとか、大八車は弁慶の紋をかたどるとか、そういう話も伝わっている。

それでは、次に今回訪れた獅子封じ塚がある「吉見町田甲」と、獅子塚稲荷神社がある「東松山市東平」の獅子舞についてみていこう。

・吉見町町史編さん委員会, 『吉見町史上巻』, 1978年, 吉見町

吉見町田甲の獅子舞に関する記述はない。高負彦根神社の御祭神は高負比古命で、大宮氷川神社に伝わる『武蔵国系図』によれば、武蔵国造家の遠祖神である五十根彦(いねひこ)命と同一神であり、出雲建子(いずもたけこ)の孫の身狭耳命の子である。ちなみに高負はたけぶと読むことができ、雄叫びをする猛々しさを意味する。実際に、『日本書紀』の記述には、五十根彦命が荒々しいことを想定した記述がある。吉見町という大きなくくりで考えれば、獅子舞は奉納のものと水祝儀のものがあった。1788年に前河内村からの役所への願上書に水祝儀の記述が出てくるが、獅子舞が農業の束の間の娯楽として行われ、それが度々遊興の一種として禁令の対象とされていたというのだ。今、民俗芸能を継承しようという動きとは真逆で非常に興味深い。

東松山市教育委員会事務局市史編さん課,『東松山市史. 資料編 第5巻 (民俗編) 編』, 1983年,東松山市出版

東松山市東平では、大正時代中頃まで獅子舞を実施していた。伝右エ門さんという人物が最後の獅子舞の担い手であったという。獅子舞の最中にダイノコボ(男根)を振り回すシーンがあり、女子を騒がせたそうだ。あんまりしつこくてもダメで、真面目過ぎてもダメ、その塩梅が難しい役を務めたそうだ。そのダイノコボに当たると、「蚕が当たる」と喜んだとされる。小正月に削り花、まゆ玉などとともに、ダイノコボ(男根)、ショウノコボ(女のもの)などを作ったことが関係しているのではないかとのこと。獅子封じや獅子塚、獅子塚稲荷神社に関する記述はない。

まとめ

あれこれと調べてみたが結論から言えば、獅子頭を穴に埋めるという行為がなぜ行われたのかについて直接的に知ることはできず、間接的にいくつか近い事例を見つけることができた。手応えはさほど大きくはないものの、少なからず「雨乞い」や「悪魔払い(疫病除け)」系統の獅子の延長に、獅子頭を穴に埋めるという行為の存在を見て取ることができた。獅子塚文化圏なるものがもしあるとすれば、その世界観についてもっと知っていきたい。

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ps. 日本全国や海外という話で言えば、いくつか獅子頭を埋めるという行為についてわかっていることがあり、参考までに共有しておく。ここで語られるのは、仏教における「供養」を意味する獅子の存在だ。荒ぶる死霊を百獣の王・獅子の呪力で払い除けるという考え方である。『中華全国民俗誌』(下篇巻二)によれば、中国山東省では死人が出た時に親族や友人が獅子を作って棺の前で舞踏するという風習がある。同様に、日本各地でも供養に絡めて様々な奇習が存在する。葬礼の先頭に獅子頭を捧げて歩く風習が東北に見られたり、捕獲した鹿などの霊魂動物を供養すべく獅子頭を埋めて獅子塚を作り「霊地」としたり、除災を目的に獅子頭を焼いてしまったり。天皇が六十六カ国に獅子頭を埋めたなどという伝説すらある。これらの仏教における供養の意味での寺院を舞台とした話が、神社へと獅子舞の実施が移行するようになった時に、仏祭獅子から雨乞い獅子への変化が見られるのだ。寺院から神社への移行とは、すなわち渡来系の獅子舞が固有の芸能に神仏習合の考え方で附会したと考えるのが良いだろう。かなり漠然とした話ではあるが、先ほどの雨乞いの獅子ともここで話が繋がる。「中山太郎, 『獅子舞雑考』, 青空文庫POD, 2015年」や、「石倉敏明, 田附勝『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』, 淡交社, 2015年」などの文献には、それにまつわる話が掲載されている。

 

ps.2021年3月21日追記

獅子封じ塚の看板に「産土神のお咎め」とあるのは、外来の獅子舞に対してではないかというご意見もいただきました。そのお咎めを受けて、獅子頭を埋めたというわけです。確かに、江戸時代の復古神道などの流れの中で、奈良時代以降に流入した大陸関連の芸能に抵抗感がある人々がいたという可能性は無きにしも非ずですね。