2024年10月14日、静岡県掛川市で行われた掛川大祭(かけがわおおまつり)を訪れた。この祭りには非常に思い入れがあり、絶対に訪れたいと思っていた。なぜなら、「日本で最も大きな獅子舞」とも言われる獅子舞が演舞されるからである。
ここで中日新聞の2024年10月14日の報道を参照させていただこう。「大獅子は、幅と奥行きがともに1・8メートル、重さ220キロの獅子頭に、幅15メートル、長さ25メートルの母衣を付け、総勢100~200人で操る。」とある。香川県三木町の獅子舞と良い勝負で、まさに日本最大級である。それに加えて、この獅子舞は3年に一度しか現れない。その分レア度もある獅子舞でさらに近年はコロナ禍で登場しなかったこともあり、コロナ明けで6年ぶりの実施となった。実際に現地を訪れて感じたことをここで共有しよう。
仁藤の大獅子を追いかけた
前泊は浜松だった。駅前のネットカフェで仮眠して朝5時台には浜松駅に向かった。浜松の清々しいくらいに巨大な駅やホテル群を眺めながら洗練された空気を吸った。朝焼けを見ながら鉄道で進む。掛川駅に着き30分くらい待っていたら掛川茶を売りにしたカフェが空いたので、そこで軽食をとりパソコンで軽く作業をしてから、朝9時には仁藤町の大獅子が開始される会所についた。獅子頭がドーンと置かれており、その周囲には竹を持つ人々。その竹を内側から押すように胴体を広げて、大獅子が動き出した。本当に爽快感あふれる大迫力の獅子舞だ。
母衣の内側の人は外が見られないので、外側を囲む赤旗が電柱や家などにぶつからないように母衣を押しながら誘導をする。赤旗と白旗が交差する部分が獅子の向かう方向である。門付けを一軒一軒するときも、家の前で赤と白を交差させてその前で舞う。基本的に舞い方としては道をグネグネと蛇行するように行い、交差点に差し掛かると、ぐるぐると回転させて、胴幕をピンと貼った状態でキープする。何で大獅子はこんな舞い方するんですかと運営本部で尋ねたら「芸の見せ方的にこうなるんだよ」とのこと。くるくる回って退場する流れで、魅せるという意識が強いようだった。
獅子舞の内側には最低でも40人が入り、内側から竹で獅子の胴体を押すようにして膨らみを出している。その周りの人数と合わせると、合計100〜200人となり、胴体も多少の人数調整をしながら進んでいる。獅子舞の担い手にお話を聞いてみたら、「各町内の会所があって、そこで挨拶して舞う際に、お酒やおつまみの接待はあるが、ご祝儀をいただくというわけでもないです。昔から大獅子は3年に一度の頻度でやっているが、これは毎年やると続きません。人件費にお金がかかり、担い手に1日1万円出すんで、それが40人くらいいます。中に入る人が40人であとは外で持っている人という感じなんです。ホロの中に入る人は調整できるんですよ、大阪万博の時など、イベントの時はサイズを大きくしてきました。」とのこと。
また竹法螺吹きがボーボーと力強く吹く響きは担い手によれば「大獅子の鳴き声だよ」と教えてくれた。大獅子の他に子獅子というものもあり、一見見分けがつかないほどにデザインが似ている。子獅子しかみたことがなくてサイズ感がわからない人は、子獅子でも十分に大きいので、大獅子だと勘違いするだろう。
午前9時から始まった獅子舞は、お昼の休憩を挟み、15時25分からのお祭り広場での演舞を経て、仁藤町に帰ってきてその町のお寺で松明の火を焚いてその前で演舞して終わるという流れのようである。このお寺での舞は「千秋楽の舞い」といい、大獅子の歯取りを行い、男の戦場と化すらしい。獲得した歯は魔除けとして各家の入り口に貼っておくという。さらに夜は屋台が中心街で集まり、すれ違うときは『徹花』『外交(折衝)』と言った所作を行い、「お互い無事に屋台がすれ違えました」という意思疎通を行う。しかし非常に夜は荒れるようである。「昨日は何の合図もなく直進した屋台があって、大喧嘩になって収拾がつかなくなった」という話をお祭り広場での演舞会場のアナウンスの雑談できいた。
僕自身はその後に兵庫県での毛獅子の訪問を控えていたため、お祭り広場での演舞前に15時過ぎには引き上げてしまったが、半日間の練り歩きにところどころついて歩くことができ、改めてその迫力に感動しっぱなしだった。掛川大祭には昼の顔と夜の顔があるとのことで、夜のお祭りの雰囲気はより荒々しくなるらしい。今度は夜の顔も見てみたいものだ。
掛川大祭の起源
掛川大祭年版本部作成『掛川大祭 掛川大祭天守閣開門三十周年』(令和6年9月1日)によれば、この祭りの起源は、延享3(1746年)を示す紺屋町の太鼓の書き付けが最も古い資料となっており、この年には少なくとも実施されていたと考えられる。古文書『問屋問答』では寛延3(1750)年から宝暦年間(1751〜1764年)の箇所に、龍尾神社、神明宮、利神社の3社で合同で祭りが行われていたことが記されている。神社合同の祭りというのは、江戸時代では非常に珍しい事例のようである。時代を経て、戦後に市街地拡大などの影響から、龍尾神社、神明宮、利神社だけではなく、池辺神社、白山神社、津島神社、貴船神社を加えて、以上7社の氏子41町による大規模祭りへと変貌を遂げた。掛川大祭の特徴は、屋台38台が登場する曳山祭礼でありながら、獅子舞文化、曳山文化、花柳文化の渾然一体となったところにあるという。
仁藤の大獅子の起源
幕末に仁藤町に現存する天然寺の中興の名僧である帆譽覚存上人(はんにょかくぞんしょうにん)が伊勢国を僧侶が錫杖(しゃくじょう)を持って各地を巡り教えを広めていた際に、偶然にも現在の白子町(鈴鹿市白子町)で一間(1m80cm)四方もある大きな獅子頭を大八車に乗せてそれに短い母衣(ほろ・背面からの流れ矢を防御した武装)をつけて町内を引き回しておりこれに感銘を受けたように「この動かざる大獅子を動かしたならば、さぞ興深きものにならん」と語って、さまざまな職人の試行錯誤の末に実現した。現在、鈴鹿市白子町で大獅子を検索してもネット上では出てこない。あの地域は伊奈冨神社(いのうじんじゃ)の獅子舞の系統があるから大変古い歴史的な獅子舞があると思うが、これは獅子頭がそこまで大きいものでもない。どの獅子舞のことを言っているのか謎は残る。
優美な格闘の獅子「かんからまち」
瓦町の獅子舞は「かんからまち」、または「かんから獅子舞」とも呼ばれる。お祭り広場で14日の12時半から15分ほどの演舞が行われた。「周辺の店舗やお宅の皆様にお願いをいたします。このかんからまちは大変神格化された舞いです。神様を見下ろすような対応となりますので、2階以上からの観覧はおやめください」という風なアナウンスが入ったのはとても印象的だった。
道路の上に畳を敷いてその上で演舞を行うというもので、お城の中でも草鞋を履いて土足で待ったと言われるほど、掛川城に信頼をおかれた獅子舞である。構成としては雄獅子2頭、雌獅子1頭であり、雌獅子を隠す舞いとされている。武道のキビキビとした動きが取り入れられていると思ったし、儀式性の高い洗練された獅子舞だと感じた。側転の所作が非常に技術を必要とし、大変珍しい所作とのことだった。
かんから獅子舞の起源は、明応(1492〜1501年)あるいは文亀(1501〜1504年)の頃に、今川氏の老臣朝比奈備中守泰煕が掛川城築城後に城主となった際に、龍尾神社に獅子頭を備え奉納舞を行ったことに由来する。御殿の中まで草鞋を履いたまま上がって舞うことができたという逸話もあり、非常に格式高い獅子舞だ。
この「かんからまち」は三匹獅子舞の形態ではあるが、実は岩手県遠野市の駒木鹿子踊りの起源になったと言われている。三匹獅子舞としし踊りは非常に近い関係性であることを再確認した。以前、2020年に岩手県遠野市に取材に出かけたときにもこの話を聞いて、あまりにも遠くから伝わっているものだから驚いた。遠野の人はお伊勢参りや金毘羅参りなどで西に行く風習があり、静岡の掛川で見たものを遠野に持ち帰ったという説があるという話を現地で聞いたのだ。掛川ではそこまで詳しい話は聞かなかったが、基本的に伝えた町よりも伝えられた町の方が、伝承が残るのは当たり前である。これぞ祖先を敬うという考え方の現れかもしれない。
「かんからまち」の演目としては「雌(女)獅子隠し」「花幌」「花笠」がある。一方、駒木鹿子踊りには「鹿酒盛り」「女鹿狂い」「一庭」「柱がかり」「門がかり」「庭ほめ」「引き羽」と言った演目が見られる。このうち「女鹿狂い」と「雌(女)獅子隠し」は似たような演目である。
ジェンダーレスな紺屋町の獅子舞
まずは紺屋町の会所を見つけて中にいる方に頼んで、古い飾られている獅子頭を撮影させていただいた。お酒が大量にまわりを取り囲っており、販売するくらいに余るようだ。「お酒は飲まないからね、若い衆は。これは古い獅子頭で、今番台に乗せられて町を回っているのは新しい獅子頭の方だよ」とのこと。獅子舞の写真を見せていただいた。どうやら、ここの獅子舞は3匹獅子舞によく見られる顔つきをしているように思うが、2人立ちの伎楽由来の構成をしているのが大変珍しいと思った。「ええ、一人立ちじゃないの!」と内心とても驚いたのだ。普段獅子頭はお城に保管されているが、祭りの日に町にくるということのようだ。13日のお祭り広場と、14日の20時ごろに紺屋町で実施されるようだ。ちょうど他の取材と被っており、この獅子舞を見ることは叶わなかった。これは1年に1度見られるのでまたの機会にしたい。
・・・
それから「紺屋町の獅子舞の歴史は、和菓子の萩野屋さんが詳しいよ」とのことでアポ無しでお店にお話を伺いに行った。
ーーこんにちは、獅子舞の調査をしておりまして...木獅子の由来が知りたいです。
萩野屋さん:獅子頭は鼻が長いほど古い、新しいのは短いと言われています。紺屋町の獅子頭は一番古い獅子頭で鼻が長いですね。これは500年前に作られたものです。宝珠の玉があるでしょ、これはメスを表しています。そして角があるのはオスですね。雌獅子と雄獅子で一体になるとよく言いますが、ひとつの獅子頭でそれが完成されているめでたい、ありがたい獅子頭なんです。
ーーええ、それは知らなかったです(驚)。元から獅子頭は一頭だったんですか?
萩野屋さん:お城には3つあったうちの1つと言われていますが、どうみてもこれ1頭で3頭分が完成されていたんじゃないかとも思っています。三匹獅子舞だったとも言われていますが、実際はよくわからないです。
ーー舞いはどこから伝わったんですか?
萩野屋さん:舞いは伊勢の方から伝えられたとも言われていますが、よくわかっていません。2人以上がなかに入る形式の獅子舞で、紺屋町の場合は3人入りますね。祓い獅子と言われているので、あまり芸能化されていない単純な動きではあります。三代余興(大獅子、奴、かんから)に入っていないのは、お祓いの意味があるからですね。木獅子の呼び名がついたのは近年のことで、紙で作られた大獅子などと区分けするために呼ばれ始めたようです。
「その他、掛川の山側にあるトンべ(現在の桜木)の獅子舞は、占いの獅子舞と言われています。(何かの)破け具合で吉凶を占うものもあります」とのこと。獅子舞の多様性を感じさせる、非常に興味深いインタビューとなった。
・・・
他には文献によれば、紺屋町の逸話として、太鼓のたたき比べが江戸時代に行われた時に他の町を圧倒したため、何者かの短刀によって中央部を2寸ほど切られて、修理に出したものの、同じような音が出せなくなってしまったという話が残されている。(望月康久家古文書より)
この紺屋町の獅子舞の起源は先ほどのかんから獅子舞と同様に、朝比奈備中守泰煕が掛川城築城(1505年)ごろに、城中に安置した獅子頭のうち1頭と伝えられている。平成8年には掛川市有形民俗文化財第一号に指定された。舞い方は城中に土足で舞い上がることを許された「掛川宿鎮護大祓の舞」であり、四方に鉾を立てて、笛や太鼓の音色に合わせて天地人の3段の高さで舞う。
獅子舞が息づくまち、掛川
さて、このように掛川は大祭を中心として、獅子舞文化あふれるまちなのだ。掛川といえば掛川駅から掛川城に至るまでの一本道を中心として、城下町が綺麗に整備されて、その一本道の一角をお祭り広場として整備してそれを中心に掛川大祭を展開している。まちづくりや都市設計の観点から、人が集まりやすく大きな祭り開催に適している構造をしているのが掛川の特徴とも言えるだろう。江戸時代から複数の神社が協力して祭りを始め、今日のような大規模祭りに発展した。しかしながら、その出し物は平準化せずに、個性あふれる形で息づいていることも見所のひとつだと思う。掛川の獅子舞はまだ回りきれていないこともあるので、これからも良きタイミングに足を運んでみたい。
参考文献