天に近づき大豊作へと祈る、愛知県豊明市「大脇梯子獅子」

2024年10月13日、念願の梯子(はしご)獅子を見ることができた。梯子獅子とは、祭礼の際に大型の櫓を組み、そこに向かう梯子をかけて、梯子を登って天に届かんとする獅子舞の形態のひとつであり、愛知県、千葉県、和歌山県など太平洋沿岸部で数多く受け継がれている獅子舞の形態である。今回は梯子獅子のメッカとも言える愛知県で受け継がれる、豊明市の大脇梯子獅子を拝見した時の様子を振り返る。

豊明駅から徒歩20分程度で、大脇神明社にたどり着いた。神明社なので、伊勢系統の神社であり、実際に行われる獅子舞も伊勢由来のものであろう。周囲は田んぼや畑が広がっており、交通インフラ技術の結晶である高速道路が歪な不調和感を醸しながらも横を掠めている。そのような場所で、大脇梯子獅子は人力の限界に挑まんとしているわけである。

大脇梯子獅子は13時に開始して20時20分までと続いた。長丁場である。当日のスケジュールは以下のようであった。思ったよりさまざまな演目があった。梯子獅子は合計7回の演舞で、波打ち、藤下がり、子供獅子は2回、たねまきは1回実施された。そのほかにも剣の舞など、伊勢大神楽の影響を色濃く残すような演目も多数あり、余興的な演目が非常に多く行われ、江戸時代以降の芸能の大衆化を強く感じさせるような場であった。

 

まつりばやし

立ち舞

梯子獅子(藤下がり)

歌舞

梯子獅子(子供獅子)

剣の舞

梯子獅子(波打ち)

歌舞(剣呑み)

吊し竹

(休憩)

はやし太鼓

立ち舞

歌舞(三人がえり)

梯子獅子(波打ち)

六人おかめ

剣の舞

梯子獅子(子供獅子)

一人おかめ

梯子獅子(藤下がり)

歌舞(猿つり)

保存会演技者一同挨拶

梯子獅子(たねまき)

天狗の山遊び

吊し竹

一本竹

 

実際に梯子獅子を拝見してみて感じたのは、高さへのワクワク感とスリル、その共有という感覚だった。リズミカルなテンポの良い足捌きの所作が行われてから、肩車をして徐々に梯子獅子は梯子を上り始める。最初は意気揚々と登っているのだが、途中片手片足を離す場面がある。その瞬間の太鼓はダダダダダダと何かを畳み掛けるようであり、危機を知らせるようにも思える。一気にスリルが伝わってきて、観衆側が冷や汗をかく。梯子を上り終えて櫓の上に立つと、足場が数本しかない櫓の上でゆさゆさ揺らしたり、ダランと少し身を乗り出してみたりする。そこでのあれこれが終わると、最後は大木に乗って下にすべり降りて終了となる。

一連の流れは、多くの人が子どもの頃に木登りをしたいと思ったことがあるように、あるいは鳥になって高くから眺めてみたいと思ったように人間の本性に忠実だと思う。一方でそれに挑む担い手の勇姿と危機という代償、それらを背負う姿に人々は感動する。そして、木にまたがって滑り降りる感覚は、諏訪の御柱祭を思い出す。実際は関連性があるかはわからないが、もしあれば面白い。柱や櫓はおそらく神の依代だ。そこに対する賑わせという感覚はあるかもしれないと思った。

最後の挨拶では「今年は小学生の子どもが快く頑張っています。お母さんがた、保存会に入れよと背中を叩いてくれたらと思います。」という話があった。こんなに人数がいるように思えるが、やはり子どもが不足しているという実感のようだ。やはりでもこういう技能が求められる芸能は、向き不向きがあるだろうし、どこか担い手が必然的に決まってくるような節もあるのではと思った。そういう意味で「入れよ」という言葉が出てきたのかも知れないとも思ったのだ。

大脇梯子獅子の起源

約400年前に愛知郡大秋村(名古屋市中村区大秋町)から伝えられたといわれる。大脇神明社の境内にはその由来に関する石碑も建っていた。一本竹や吊し竹が文久年間(1861年1864年)に加えられ、昭和42年には愛知県無形民俗文化財に指定された。

はしごを登る獅子舞といえば、全国的に千葉県や和歌山県兵庫県などに伝えられており、愛知県は朝倉梯子獅子を筆頭に、梯子獅子のメッカでもある。朝倉では戦国時代、豊臣秀吉の時代(慶長年間)に梯子を刺股のようにして田畑を荒らす猪を生け取りにして退治したら翌年猪のご加護で大豊作になったことが起源になって、この獅子舞が生まれたと言われているが、大脇梯子獅子もこれと起源を同じくするわけではないものの、おそらく同じ系統であろう。

 

 

 



Column

星を背負った男〜大脇梯子獅子の英雄譚

高鳴る心臓を一度天に捧げ、そして星となり、あるいは冥界の鬼となり、10m以上ある竹の先に立つ。度胸という言葉では物足りない。それを遥かに超え、神に近づく者は恐れを知らない。選ばれし者はすべてのメディアを凌駕するようにただ寡黙に何かを発し続けている。日本の中のひとつの地域の村祭りとという小さな世界の片隅のはずなのに、世界の中心はここにあるように思え、震えが止まらない。選ばれし者の背中にはぼんやりとした薄暗い光が後光のように煌めき、その背後には天照大明神の文字が見え、さらにその背後には月や星が煌めき、それら全てを背負って男はそこに立っている。

僕は2024年10月13日、愛知県豊明市の大脇梯子獅子を訪れ、その余興的な演目であり最終演目である「一本竹」に偶然にも出会ってしまった。獅子舞が終わったらもういいかと帰ろうと思ってたのに、この余興的な演目に魅せられ、なぜこれが最終演目であるかを同時に理解した。この演目は、およそ10mほどの1本の竹に1人の若い男が登り、そしてその頂点でさまざまな技を繰り出すという非常に危険で死と隣り合わせの技芸である。これは会場アナウンスによれば「みなさまの厄を祓います」とのことだったので厄祓いの祈りが込められているようだが、真相は不明だ。竹といえば、農機具の箕がよく獅子頭に用いられたり、ささらという楽器の素材になったり、呪術的な植物として芸能との関わりも深い。そこら辺に注目していきたいところだ。

竹の頂点で選ばれし男は足袋を履き始めた。さあ、これからが始まりだ。横にいた地元の方が子どもに教え込むように、ぼそっと呟いた。「神様に届くように祈りを込めるから、足袋を履くんだよ」。多くの人は呼吸を止め、固唾を飲んで見守るしかない。「自分が竹の上にいるわけでもないのに緊張してきた」という声が口々に聞こえる。

竹先で坐禅を組んだり、足を引っ掛けて宙返りをするように逆さまになったり、片手片足を離して扇子を広げ大の字を描いたり、さまざまな技が目にも止まらぬ速さで繰り出される。どれもあまりにも人間離れしすぎている。神か鬼の仕業なのではないかと思えてくる。それらの一挙手一投足全てに悲鳴や驚きがあがる。観衆は500人を超えるだろうか。村に住む人々が総出でそれを見守っているように見える。そして村の外から訪れている人もいるようだ。

世界の全ての視線は1人の人物に注がれている。竹の下で囃し立てる人々、太鼓のテンポ、マイク持ちの囃子役、それら全てが完璧だった。途中、マイクが一時的に途絶えた時、「あ、どのピースもなくてはならなかったんだ」って思った。伝統は着実に継承されそこには継承のための叡智が詰まっていた。

おそらく体格が良いので竹の揺れも半端なかったはずだ。しかし足取りは勇み立ち、最後の竹から降りる瞬間は顔が地面につきそうなほどの急降下だった。あの勢いはなかなか真似できまい。本当に死ぬ一歩手前まで、自らの身を差し出してこそできる技だと思った。取り繕った完成品は何かから逃げて出来上がったでたらめ品なのかもしれない。実は世の中の大半のものがそういうものなんじゃないかと思えてきた。これを超えるものを自分は作れるだろうか。自らの中途半端な生き方を恥じるくらい、本性がむき出しになってきた。

一本竹が終わってから降りてきた勇者に3人の女性が花束を渡した。この日のことは遠く後世まで語り継がれるだろうし、この男に惚れた女は数知れずだろう。度胸や勇気についてまざまざと見せつけられた。

第3者として客観的な視点に立ち、何かを盗むように、話題を探し続ける記者やカメラマンのような存在がどこか醜く思えてきてしまう。それは圧倒的な主体性を持った人物を目の当たりにしたからだろう。自分は中心ではなく周辺にいる。そんな感覚が恐ろしいまでの偏見を許容させるのだ。

花束が渡されて胴上げが済んだら、「今年のお祭りはここで終了です」という風な放送が入った。それでぞろぞろと観衆たちは月明かりの下を歩き重い思いの帰路へとついた。鳥居を出る時に、「今回の人は体格が良かったし、竹が大きく揺れていた。今までで1番良かったんじゃないか」などと話しているのを聞いた。

担い手たちに話を聞いたわけではないから、あまり客観的には確信めいたことは言えないけれど、僕は少なくとも言葉に表せないくらいの衝撃を感じた。僕はここで文章で書き残すことがおこがましいくらいの素晴らしい緊迫した数十分だった。田んぼ道や川沿いを歩き、男前な盛り盛りなラーメンを食べて帰路についた。

 

参考文献

牧野由佳, 愛知県知多半島・朝倉の梯子獅子関係資料『梯子獅子の解説』, 総研大文化科学研究 第17号(2021)

http://www.bunka.soken.ac.jp/journal_bunka/17_02_makino/makino.pdf