飛騨高山エリアの獅子舞文化に興味を持った。発端は毎年5月10日に行われる飛騨側の北アルプス開山祭である播隆祭で鶏芸(とりげい)と呼ばれる芸能と獅子舞がセットで披露されるということを聞いたからだ。鶏芸とは鳥の羽を頭にくっ付けて踊る芸能らしいが、この様相がまるで関東の三匹獅子舞そっくりに見えてきた。この鶏芸なる芸能は獅子舞との関連性が深く、その歴史を紐解くことに繋がるかもしれないと直感的に感じた。そこで、5月10日の本番に合わせて、飛騨高山を訪れた。
日程は以下の通りである。
5月9日
10:00-11:30 飛騨古川まつり館
11:30-12:00 飛騨の匠文化館
14:30-16:00 千光寺(両面宿儺)
18:00-18:30 うま宮(食事処)
19:00-20:00 高山市図書館
5月10日
10:00-11:15 奥飛騨温泉郷村上神社 播隆際
13:30-14:30 高山市図書館
16:00-17:00下呂の狛犬博物館(すでに閉館)
飛騨高山の獅子舞
高山市図書館でわかったこと。高橋秀雄他『岐阜県の祭礼行事』(おうふう,1992年)によれば、岐阜県の多くの獅子舞(とりわけ美濃)は伊勢大神楽がもとになっており、一部飛騨では獅子退治の金蔵獅子などが入ってくる。一般には獅子の神格性による悪魔払いが行われるのだが、金蔵獅子は「金蔵」が獅子を退治するという珍しい筋書きである。男神の金蔵と女神のお亀が様々な滑稽な演技を繰り広げた末に獅子が退治されるというのだ。これは害獣を退治するという志向の強さが芸能に反映された形だろう。獅子退治という意味では、天狗が獅子を退治する天狗獅子もあるようだ。また、前獅子と後獅子とが肩車の状態で演じたり碁盤の上に乗ったりする曲芸的な小雀獅子などもある。
金蔵獅子に関して、中村健吉『両面宿儺 飛騨の国におけるその存在とその意味』(平成5年)によれば、701年という大宝年間に新羅の僧・隆観が伝え今に至る。日本三大曲獅子の1つと呼ばれているようで、獅子舞が大陸から伎楽の形で百済から伝わったのが612年だから、それから100年足らずで飛騨の地にまで獅子舞が伝わっていたことが非常に驚きである。百済の滅亡が660年で新羅の朝鮮半島統一が676年だとすれば、百済の獅子舞文化も新羅へと移行しているはずだ。加えて、文武天皇時代(683-707年)に飛ぶような素晴らしい馬が生まれて献上した国として「飛騨」という名前が誕生したことからして、中央との交流も活発であったことがうかがえる。何はともあれ、飛騨の獅子舞はとにかく歴史が古いということは確かだ。
また、ふるさと神岡を語る会『神岡の獅子』(2008年)によれば、高山市の隣の神岡の獅子舞の分布が事細かに調べられており、大部分は富山県との境の猪谷などから江戸から明治時代に伝えられたことがわかった。なぜ高山側との交流が極端に少なかったのか、疑問が残る。
ところで飛騨の匠文化館では、飛騨の匠に関する展示をみた。ここで、獅子頭が展示されていてはっとした。飛騨の地には木材が豊富にあり、腕のたつ職人もいて獅子頭という工芸が成立している。祭りあるところに職人ありとはこの事。まさに産業と祭りが連動している様を実感することができた。飛騨の匠は柱ごとに自分の印を刻み、誇りとしていたようだ。ひとつとして同じ印はない。誇り高き技術から工芸がどんどん発展していったことがわかる。
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鶏芸と獅子舞の関係性とは
飛騨古川まつり館で古川祭の展示を見ていて、闘鶏楽と獅子舞が並んで飾られていた。鶏芸は地方の中心地(飛騨古川等)で行われる祭礼においてやや形が変わり、「闘鶏楽(鶏闘楽)」として今に伝えられていることがわかった。鉦と太鼓でリズムを奏でて、御神霊を慰めるもののようだ。スタッフの方によれば、鶏は平和の象徴というようなイメージがあるというお話をされていた。また、この地域の獅子舞に関して、胴体部分の呼び方がカヤでも幌でもなく「油単」であったことに興味を持った。油単といえば、箪笥(たんす)や長持などにおおいかぶせる布を思い浮かべる方も多いと思うが、なぜこのような名前になったのだろうか。疑問はつきない。油単の模様が鶏のトサカに見えるのは僕だけだろうか。さらに興味深いのが、鶏芸で使われる山鳥の雄の羽を「シャゴマ」と呼ぶのだが、石川県加賀市橋立で見た金沢方面から伝わった獅子殺しの獅子舞では獅子と対峙する舞い手が「シャガ(シャンガ)」と呼ばれる毛を付ける。羽と毛と言うことで素材は違うものの名前が類似しており、双方に何らかの関連性があるだろう。
高山市図書館でわかったこと。高橋秀雄他『岐阜県の祭礼行事』(おうふう,1992年)によれば、闘鶏楽の起源について、建久2年に源頼朝の鶴岡八幡宮への遷座に際して、京の伶人(音楽を奏する人)である多好方に宮人の曲を唱えさせたところ、この恩賞として建久4年に飛騨国荒木郷の地頭職に任じられたことに始まる。鉦と太鼓を打つ芸であるが、頭にシャゴマという山鳥の羽をつけることから、鶏闘楽とか闘鶏楽とか鳥毛打ちなどと呼ばれるようだ。
北アルプスの開山祭「播隆祭」で鶏芸を取材
北アルプスの開山祭である播隆祭を取材させていただいた。これは自然に対する敬意や登山の無事を願い行われるもので、地域の若連中、観光協会、村連中、山岳関係者などの出席のもと行われた。普段であれば観光客含め200人ほどが集まるお祭りだが、今回は新型コロナの影響により、地域の方々を中心に少人数で開催。メディア関係者は20人ほどが集まった。
祭りの流れとしては午前10時に開始。宮司入場に始まり、播隆碑の御開帳や、玉串奉奠などが行われた。播隆碑だけでなく、その後ろにそびえ立つ山々にも敬意を払い、玉串を左右に揺らしているのが印象的だった。その後に宮司が退場したあと、鶏芸、獅子舞(へんべとり)、小学10名による若太鼓が行われ、一通りの行事が終了。玉串奉奠がやや簡略化されたことにより、午前11時過ぎにはお祭りが終了した。獅子舞は獅子が蛇を食べる動作があったのがとても印象的で飛び跳ねるなど激しい動作が多く見られた。
終了後に奥飛騨温泉郷観光協会の方に鶏芸の由来について調べていただいていた文書のコピーを頂いた。そこには、村上天皇(在位 946-967)が鶏芸を伝えたと書いてあった。あまりに古い歴史に驚いた。940年の平将門の乱が終わった後、平穏な人生を送っていた村上天皇は、政治にはあまり関わらず文化面での貢献を多数行ったとのこと。村上天皇が福地(村上神社近くの温泉街)を訪れたときに、「鶏芸·へんベとり·ぼたん獅子」を伝えたようだ。福地にはその名残として、「天皇泉」があり、村上天皇を祀ったと言われる「村上神社」は大字福地字村上にある。いまは、大字村上に位置するということである。なるほど、村上神社の村上とは、村上天皇だったのか。それにしてもこの地の鶏芸・獅子舞の歴史は特筆すべきほど古い。都から一見遠く北アルプス麓の秘境の地·村上に平安中期にはすでに鶏芸・獅子舞が伝わっていたとはびっくりである。
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両面宿儺から獅子舞を考える
高山市図書館でわかったこと。中村健吉『両面宿儺 飛騨の国におけるその存在とその意味』(平成5年)という本を読んだ。そこで、以下の内容が書いてあった。両面宿儺の両面とはすなわち、大和朝廷から嫌われ災厄をもたらすと考えられた一方で、飛騨では民衆を助けた英雄になっているということ。このことから、自ずと獅子舞との共通点が見出だせる。獅子舞も獅子が災厄をもたらす場合と、厄を祓う場合とがある。前者は飛騨地方においては、金蔵獅子、天狗獅子、数河獅子などだ。後者の場合は数多くあり、今回播隆祭で見たへんべえとりという獅子舞もその一種だろう。これは何か両面宿儺との共通性があるかもしれない。
両面宿儺というのは、考えてみれば非常に興味深い存在だ。飛騨の中では、「両面宿儺」が出てくるのは、丹生川村という場所のみ。村内には千光寺の他にも、宿儺が作ったとされる「善久寺」や、宿儺が手下とともに住んでいた「宿儺窟」などの史跡が残されている。地形からして鍾乳洞や水の清らかさ、動物の豊富さなどの観点からしても狩猟民族が住むには適した場所。縄文から脈々と続く暮らしの中に、この宿儺というリーダーが誕生したと思われる。この地で語り継がれてきた伝説は、日本の国誌とも言える日本書紀に登場するのだが、なぜ農耕に適さず都の社寺仏閣に職人が駆り出されるという産業形成からしてあまり重要とみなされてこなかったこの土地が、宿儺の一件で特筆するほどに取り上げられたのか。それは、難波根子武振熊と大和朝廷の武勇を誇示するために引き合いに出されるほどに、宿儺が強い勢力であったことを示しているとも言えるだろう。飛騨史学会『飛騨史学 第6巻』(1985年)によれば、宿儺の乱以前に飛騨に古墳は存在しなかったようで、飛騨の人物が中央の文献に初めて登場したのがこの宿儺だった。宿儺以前と以後では、飛騨の歴史の捉え方が大きく異なってくる。
両面宿儺は漫画・アニメ「呪術廻戦」に出てくるキャラクターとしてもお馴染みだ。『日本書紀』仁徳天皇65年の条では、以下のように書かれている。「六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊(なにわねこたけふるくまのみこと)を遣わしてこれを誅した。」つまり、とにかく異形の神である。科学的には実際にそのような2つの身体を持った人間が生まれうるという話もあるが、これは精神性を身体的に描写したのかもしれないし真相はわからない。
千光寺で両面宿儺の石像を観る
両面宿儺の石像は、宿儺堂にて土日祝日のみ公開されている。両面宿儺の石像は暗い土蔵の建物の中に神聖な雰囲気で立っており、その文字通り顔が前後に2つと手足が4本ずつと異形であった。手の形が裏面だけ仏様に似た様相だった。この像を左回りに回るよう順路が設定されていた。タイのお寺に行った時にも左回りで仏像を拝んだことを思い出した。御朱印やらお守りも販売されていて、やはり「呪術廻戦」の影響もあり認知も高まっているように見える一方で、山奥という立地からか商業の波に雰囲気を飲まれるということもなく、厳かな雰囲気を保っているようにも感じた。
それから9日には高山市街で夜ご飯として飛騨牛肉入りのうどんを頂いた。大盛りご飯と、漬物4種類まで頂きとてもおいしかった。ご飯はふっくらしていて美味しく、漬物は地の野菜を使用しており、有名な赤かぶなどが使われていた。うどんに入っていた卵が3Lと規格外のもので、大きめで黄身の味は食べたことのない味だった。印象的だったのが店内に飾られていた干からびたカボチャ。振るとマラカスのように音が鳴る。これが、どこか両面宿儺に見えてきて、ちょっとびっくりした。(夏に収穫できる細長い「宿儺かぼちゃ」というものがあるそうで、もしかするとこの品種かもしれない。)
両面宿儺から鶏芸を考える
中村健吉『両面宿儺 飛騨の国におけるその存在とその意味』(平成5年)にはまだまだ興味深い内容が書かれている。両面宿儺と似ている伝説で、北アルプスの反対側に位置する信州安曇野には異形の鬼·八面大王の伝説がある。時代設定は両面宿儺が377年に対して、八面大王が800年ごろと食い違っているものの、先程のべた両面性を有するストーリーがあるなどの共通点も数多く伝わっているのだ。この話を読んで僕が特に着目したのが、「討伐に尽力する存在」として前者が「八幡宮と鳩」、後者が「観音様と山鳥の羽」とある。これは個人的に今までの話の流れからいくと、鶏芸の被り物の鳥毛を連想させる。これも何か共通性があるかもしれない。ここで獅子舞と鶏芸と両面宿儺の信仰がトライアングルで結ばれた。相互に様々な関わり合いを持ち、発展・継承されてきたということかもしれない。
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狛犬から獅子舞を考える
なぜか飛騨では狛犬の話をよく聞く。狛犬研究をされていた上杉千郷さんの影響だろうか。しかし、合掌村の狛犬博物館にいこうとしたが、受付まで来て、「もう7年くらい前に無くなりました」とのこと。なぜ狛犬博物館は消えたのか?獅子舞との関係性が深い狛犬のことを調べようと思っていたのに..。昨日飛騨古川に行ったときにも狛犬博物館がなくなったと言っていた。なぜ狛犬博物館は消えていくのだろうか。下呂の方は、受付の方曰く賃料が高かったのかな?ともお話しされていた。今では、合掌村の一角の萬古庵に一部残されているのみだそうだ。それで、下呂に何かしら爪痕を残したいと思い、駅前の酒屋で「飛騨のどぶ」というどぶろくを飲んだ。どぶろくは神前に供えられるにごり酒で、とても美味しく味わった。一時期は酒税法の関連で禁止になったこともあったそうだが、飛騨の地では脈々と濁り酒が作られている。このお酒はおそらく稲作伝来の同時に作り初めた日本でもかなり古い部類のお酒である。という感じで、飛騨における狛犬と獅子舞の関係性を考えるにはまだ材料が少ない。
飛騨獅子舞考と今後の検討課題
飛騨の獅子舞を概観してみて、とにかく古いという印象を強く感じた。また、狩猟民族とのつながりを感じさせる鶏芸や両面宿儺という存在と、早期に中央から伝えられた獅子舞。これらを相対的に考えることで、獅子舞をはじめとする芸能の古層が明らかになるということが分かった。今後の検討課題としては、鶏芸が獅子舞に変化したりまたその逆パターンがあったりしたらそれはぜひ取材してみたい。大陸から伎楽としての獅子舞が伝来する前のシシといえば、狩猟習俗と密接に関わっていたことは言うまでもなく、それならば鶏芸のように山鳥の羽を頭につけて踊るような芸能が獅子舞文化を受け入れる土壌となった、あるいはその原型の一つとなった可能性だってあり得るわけだ。そこをまずはより取材を重ねて探求していきたい。また、両面宿儺と類似している八面大王と山鳥の羽との関係性も興味深いので、八面大王に関しても調査を進めていきたい。
最後にコロナ禍において、今回取材をするべきか否かの判断は迷ったが、自分が取材をすることで、少しでも地域の方が芸能を続けるモチベーションに繋がり地域の大事な精神的支柱を担う祭りが伝承されていくのであればそれは嬉しいことだ。コロナ禍で2年も祭りができなくて存続の危機に瀕している祭りは多い。この中で祭りを行う勇気に賛同したいし、自分も取材することで応えたい。それが今の心境である。