新型コロナウイルスの流行が続くなか、悪疫退散の本質について問い直したいと思い、2021年3月福島県田村市のお人形様を見て回り資料の収集を行った。
お人形様は地域の守り神であり、悪魔払いのため村境に作られる人形道祖神の一種。疫病などの災いが入ってこないように祀られたものだ。昔は福島県の三春町からいわき市に通じる道を磐城街道と呼び、この街道沿いに立てられた三春町芹ヶ沢、船引町屋形、朴橋、堀越、滝根町広瀬(一説には船引町光大寺)にあるお人形様を磐城街道の「五人形様」と読んでいた。現在あるのが4体で、屋形、堀越、朴橋(ほおのきばし)の3体と、船引(ふねひき)駅構内に作られたもの1体である。一番古いものが屋形のお人形様で、文政五年(1808年)だ。どれも体長が4メートルにもなる大型の人形道祖神といえる。腰に大きな刀、手に薙刀を持ち、鬼のような形相をしている。毎年各地区でお衣替えと称して衣装替えと化粧直しの祭礼を行う。古風な祭りの形態を示すと同時に、神様の心象を表現したものと言える。各地区の衣替えと祭礼の日程、及び現地を訪れて得られた情報は以下の通りだ。
船越のお人形様
毎年4月の第2日曜日に衣替えを行う。衣替えの主体は氏子になっているヤシキと呼ばれる地縁組織の人達が材料を持ち寄って作り替える。祭礼は明石神社にあわせて、5月4日である。明石神社の由来は801年の坂上田村麻呂の戦勝祈願で、お人形様が立てられた起源は定かではない。明治40年にお衣替えや祭礼が断絶して、おそらく明治38年の大飢饉に由来するものだろうと考えられている。神社から150m西の場所の畑の中にお人形様の跡が残っており、平成4年に明石神社の境内にて復元された。他の3つのお人形様と異なるのが、屋根がついていてお参りの鈴と紐が取り付けられていることだ。
朴橋のお人形様
毎年4月の第2日曜日に衣替えと祭礼を行う。起源としては、古い面や幟(のぼり)にあった安政元(1854)年の銘から少なくともそれ以前に存在していたことが伺える。顔の色調や信仰内容は屋形のお人形様とほとんど変わらないが、口元は小さく金歯で頬ひげもなくさっぱりとしている。一説によれば、女性を模しているともいわれる。幟には、「奉納 久比毘古命(くいびこのみこと)」と書かれており、古事記によれば「久比毘古命は今に山田の曾富謄(そほど)という」とある。曾富謄とは案山子(かかし)に与えられた神の名のことだ。現地を訪れて見て感じたのは目の威力の凄まじさと静寂に包まれた環境の素朴さだった。このお人形様の後ろには、黄色い内部が露出している切り株があり神秘を感じた。
屋形のお人形様
毎年4月の第2日曜日に衣替えと祭礼を行う。昔は旧暦の3月15日に実施していた。朴橋とともに忌みがかりの家は参加を遠慮するが、屋形ではそれに加えて出産の赤不浄だと参加が難しい。起源としては、幟に文化15(1818)年、古い面に文化5(1808)年旧3月15日と記されていることから少なくともそれ以前には存在していたと考えられる。屋形公園内に西向きに立てられている。ご祭神は幟に「天由布都々神(あめのゆふつつのかみ)」であり、「由布都々」は金星のことである。この星に関わりのある「須佐之男命(すさのおのみこと)」のことだろうと言われている。一説によれば、男性を模していると言われる。実際に現地を訪れてみて、後ろ側から年記銘の書かれた内部の木を見ることができた。また、お人形様の製作に使われたと思われる竹かごが置かれていた。このお人形様の手前に紐と木で鳥居のようなものが作られており、神域を意識した。
船引駅のお人形様
屋形、朴橋、堀越の各お人形様保存会が合同で「船引町お人形様保存会連絡協議会」を組織し、夏と冬の2回衣替えを行う。お人形様の維持は、交通安全や観光に寄与することなどから、JR 船引駅、船引駅友の会、芦沢屋形お人形様保存会有志、船引町観光協会、船引町商工会が会員となってはじまり、平成元年12月から設置している。
お人形様観光化の現状
各場所を訪れてみて、訪問者は自分しか見かけなかったのと、お賽銭を入れている感じはなかった。お土産に関しても田村市のホームページには豊富に記載があるが、アンテナショップなどお土産を取りまとめる場所がなく観光客向けへの提供を積極的には進められていない。お人形様パンについては、5つ以上を事前に注文した場合のみ作るなど、常時作っていないものもある。予想以上に観光化は進んでいない印象で、船引駅構内のお店をアンテナショップのように活用するのもありだと感じた。ただ、個人的には素朴な暮らしの中にある風習として細々と続いた方が、観光により本質が失われるよりもずっと良いと思う。
Ps. 悪魔はらいの獅子頭
民俗芸能とは別の文脈で、船引には悪魔払いの獅子があるという。とりわけ阿武隈川沿いの東側の地域、田村町·西田町(郡山市)、三春町に多く、船引町には芦沢·七郷地区に見られる。年の初めに家の中の悪魔を追い払うという意味で正月中に行われるものが多い。また、芸能を演じる必要がなく、獅子頭を単にもって歩くことで呪力を発揮することから、子供達が担い手になる場合が多くある。また、青年団や若者組によって行われるところも存在する。船引町堀越の井堀地区では、獅子頭が脱落して獅子の採物の幣束が代わりにお祓いして回る。また、田村市歴史民俗資料館の方によれば、(獅子頭との関連性は定かではないが)辻つまり村境に幣束を立てるという習わしがある村もある。船引町では、本郷、上区、石沢などで獅子頭を持つ悪魔払いが行われている。椚山は明治期に断絶した。これらの獅子の起源は太神楽で演じられる「悪魔はらい」から取り入れた行事だろう。
船引の芸能としての獅子舞の起源は、貞観八(866)年に坂上田村麻呂が常陸国の鹿島大神宮より遷座した鹿島神社にて三匹獅子舞が奉納された時だという。これが本当であれば、日本全国の獅子舞の歴史からしてもかなり早い時期に獅子舞をしていたことになるためとても興味深い。その後は中絶して江戸時代に悪病と大飢饉に見舞われ獅子舞を奉納しようということになり、文化7(1810)年に会津の七兵衛から新しく舞いを伝授され、音曲は田村郡菅谷村の人を招いて教えてもらい獅子舞を復活したという。非常に興味深いのは、お人形様が作られ始めた時期と目的が獅子舞の復活とかなり近しいということ。秋田で2021年2月に人形道祖神を取材した時に、獅子舞と人形道祖神の分布は重なるという興味深いお話をちらっと伺ったのだが、その時の話が立証されたような気がする。
Ps.地蔵尊や祠の謎
3体のお人形様を徒歩で見て回る際に、見慣れない物をいくつか発見した。まずは、木の幹に立てられた幣束。地蔵尊の文字が微かに見られる。地蔵尊と言えば、お墓に向かう手前の道に地蔵尊と書かれた木札も乱立していた。その他、至るところに小さな祠があり、大きな神社というのが少ない代わりに身近に小さな拝む場所を設けているというところに、自然崇拝と原始的な祈りを感じた。
参考文献
萩原秀三郎『境と辻の神』東京美術 1988年