コミュニティについて考えてみた!

コミュニティは、何らかの共通項を持った人々の集まりのことだろう。その共通項は地域なのか、何かのテーマなのか、目的に対して個々人が切磋琢磨していくものなのか。アニメおたくであるというニッチなコミュニティもあれば、日本人という広い括りのコミュニティもありうる。今回は、本当にコミュニティというものが存在するべきなのか?について考えてみたい。

 

そもそも、コミュニティという括りは歴史的に見ても多くの縛りを生んできた。村人総出で屋根の吹き替えを手伝わされたり、村人たちが必要な道路を整備したり、という感じだ。そこには、個人の自由よりも、コミュニティとしての所属が求められてきた。

 

大事なのは、信頼しあえる1対1の人間関係であって、コミュニティとしての人間関係は別物かもしれない。コミュニティというのは、形上うまく機能しているように見えるが、中には価値観が合う人もいれば、合わない人もいる。そこに我慢が生じる。仕事では上司と部下という縦関係や、立場というものが自分の素が出せない原因ともなる。地域の自治会も無理に存続しようとしてやりたいことを我慢してまでも参画する人がいる。つまり、ウソをつかなくてはいけない時がある。閉鎖的なコミュニティであればあるほど、そこに所属すれば我慢しなくてはいけなくなる。

 

そういう人が好むのが銭湯やバーであるときもある。特にコミュニケーションは取らないけど、人が集まっているところに行くと自分を解放したり、自由を得られるような感覚になる。解放的で、寛容で、でもドライな関係性が日常を豊かにするということだ。一種のユートピアが断続的に日常に組み込まれているというのが、大多数の社会人の現状だろう。

 

先日お会いした世田谷で場づくりをしている方の話がまさにリンクする。地域コミュニティに対して、しがらみは求めない。だから、排他的で濃ゆいつながりというのもなければ、寛容的で誰でも受け入れて何でもお世話してくれるみたいな神のようなコミュニティもない。あるのは、寛容的で誰でも入れるんだけど、しっぽり飲んで、たまに隣に座った人と軽く会話するというようなドライなコミュニティであると語っていた。それで、意気投合すればそこでの人間関係が続いて行くという感じ。他者に対して、濃ゆく干渉せずに、個人の裁量に委ねるというゆるいコミュニティが、世田谷という都会の目と鼻の先にある立地とマッチしたのかもしれない。僕が活動している日野市は、もう少しコミュニティとしてのドライさは少なく、どっぷり地域に浸かる人も多いようには思う。

 

それで、コミュニティとしてのドライな関係性を追求した先には、1対1の人間個人としての関係性がある。それで、本来であれば動き回れる「強い個人」というものがあれば、コミュニティなんてなくても自分で人間関係作って、自己実現できちゃってハッピーなんだと思う。でも、SNSというツールが広がり、人間関係作りやすくなった今でも、孤食、引きこもり、孤独死といった問題に直面するのは、個人的には日本人が個人で動くのに適していないからだと思う。いままで歴史的にも、藩や村単位で物事が取り決めされて来た土壌があって、コミュニティというものなくして、どう動いて良いかわからないというのが現状だと思う。

 

地域コミュニティというのは、身近で人間関係をつくる手助けをするというくらいのものなのではないか。こちらから何かを無理に提供することもなく、囲い込むこともなく、温泉の泡が湧き出てくるように自由になにかイベントやサークルやつながりができればよいはずだ。場所にとらわれたり、お金にとらわれたり、していては本当の信頼関係は築けない。出たり入ったり、流動性や自由が確保されるほうがいい。人付き合いで、無条件に贈与しあえる関係性をつくるのに、コミュニティが役立てばいいなと最近は感じている。暮らしの中に、友人づきあいのコミュニティを作ろうとすると独立採算が成り立たないのは、ここに所以があるのかもしれない。

 

 

 

 

参考メモ。

f:id:ina-tabi:20180409124603j:image

 

参考文献。

gendai.ismedia.jp