職人から見た祭りの姿とは?工芸品が盛んな石川県金沢市に行ってきた

獅子舞の蚊帳を作る職人は祭りをどのように捉えているのだろうか?石川県は能登キリコ、金沢の百万石祭りなど、祭り文化が盛んな土地である。これを下支えしてきたのは、江戸時代に加賀前田藩が奨励してきた工芸品文化と経済的な豊かさだ。

今回は工芸品の文化の中でも、獅子舞の蚊帳に着目して、2022年4月7日に取材を行った記録をお届けする。今回訪問させていただいたのは、奥田染物さんだ。基本的には奥田染物の万行さんに車での送迎や奥田染物の活動紹介、工場見学など多岐にわたってお世話になった。

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実は前日の4月6日に石川県加賀市大聖寺で西野呉服店さんにお会いして、蚊帳の話を少し伺っていた。興味深かったのが、武家文化の金沢は公家文化の京都に比べてより簡素なデザインが流行しており、虫食い跡を描くこともあるという話を伺っており驚いた。その一方で金沢といえば金箔の産地だし、派手な祭礼行事も多い。そこら辺のバランスのようなものが気になっていた。あとは、西野呉服店さんは問屋さんとして注文を受けたら京都や金沢などに発注し、自分のところで物作りはしないが、それが祭りの担い手や職人にとってどのような恩恵をもたらしているのかは気になるところだ。大聖寺であれば染物職人がいないので、そういう意味では注文相談できる気軽な問屋さんは必要だし、仕事が職人にもどんどん回っていくことにも繋がっている。一方で、蚊帳作りのオリジナリティをどこまで引き出せるのかという話でもある。さあ、こだわりの蚊帳職人の世界を覗いてみよう。

金沢の祭りが豪華な理由とは?工芸文化が支える祭り

奥田染物は金沢市の郊外にあり、中心部の商業地帯に比べると田園風景が広がっているような場所に位置する。まずは、奥田染物が考える祭り文化について、その大枠を社長の奥田さんにお話を伺った。

奥田さん:世の中は進歩していく中で、人間の精神活動の根源をなすものが伝統文化だと思います。伝統芸能、お茶など様々な文化がありますが、その中の一つとして加賀友禅があります。加賀友禅の友禅作家であり、染物の加賀染めを合わせて伝承してきました。加賀友禅は着物に集中した方は多いですが、色付けに着目してものづくりをしてきました。お祭りだと衣装などを見てみると、型染め、手染め色々ありますが、どちらが来ても対応できます。石川県で一番の一級技能賞をいただき、現代の名工としても表彰いただきました。伝統という言葉は、当事者はそのようなことなど意識していません。生活の一部としてただそこにあるからです。だから、その時代に便利なものを工夫して作り出さねばならないのです。

稲村:加賀友禅の最近のトレンドはどのようでしょうか?

奥田さん:ものづくりはまず人間性です。加賀友禅の場合はそれに加えて、色と技法が大事になります。色やデザインは時代に応じて変わっていきます。最近はインクジェットも普及していますね。

稲村:京都は公家文化なので、きらびやかな着物を着ることが多いです。一方で、金沢は武家文化なので自然のありのままを表現しますので、花に虫食い模様を描くこともあるそうです。そういう違いも加賀友禅の個性として現れてきそうですね。

奥田さん:加賀前田藩以降に、加賀友禅は盛んになりました。加賀藩外様大名ですから、幕府からはいつ反逆するか睨まれるのを避けるために、文化工芸に対して力を入れるようになりました。この文化工芸は質素なデザインのものでした。それで全国から名工を呼んできましたし、地元の職人との刺激し合う中で、文化の土壌ができました。その伝統を歴代の藩主が受け継いできたのです。一方で、自然に恵まれ、雨が多く、家の中でのコツコツとものを作るような仕事が多くなりました。つまり、歴史と気候の両方があって金沢には工芸文化が根付いたのです。ただ、今では家にいるとテレビなどたくさんの娯楽や、やることがあります。一方で昔はご飯を食べて、寝て、仕事をしてという生活が普通でした。手間暇かけて作ったものが良いものとして残っています。

稲村:そういえば、加賀獅子の始まりについて、加賀藩外様大名ゆえに軍事費にお金をつけると幕府に睨まれるために、文化奨励政策にお金を使うようになった流れで、武芸鍛錬の獅子舞を始めたという話もあります。つまり、表立って軍事訓練をするのではなく、民衆のコミュニティの中で武芸鍛錬をするという形に変わったということかもしれません。

稲村:着物は日常的に着る人は少なくなってきましたが、お祝い事の時に着る人も多くなっていますよね。

奥田さん:普段着、式服、余所行きなど、着る服が変わります。余所行きは相手を尊敬するために良いものを着ていくとか、感謝の気持ちとか、そういう発想です。神様にお願いしにいくので、神社に少し良い服を着ていきますよね。最近は馴れ合いで服を気にしなくなっていますが。

稲村:最近は個性を重視した服装にするとか、制服を撤廃したりする動きもありますね。自衛隊は制服を着ると悪いことはできないとか、リラックスしたいから私服にするとか..。

蚊帳の貸し出しをするという発想はどこから?

コカコーラ社の綾鷹では、伝統工芸の柄を使ったペットボトルカバーにして売上金の一部を若者の職人支援に活用している。これに応募して見事助成を獲得して、コロナ禍でも密にならない小さい蚊帳を製作するようだ。万行さんとプロジェクトリーダーの奥田雅子さんにお話を伺った。

万行さん:コロナ禍で祭りの担い手さん達と話していた時に、「中止になりました」という声をよく聴きました。お祭りが中止になると、担い手が育ちません。小学生から中学生の世代で祭りに携わったことがない人も増えていくでしょう。新興住宅街であればなおさらで、人口が増えても祭りの認知度が上がらないということもあります。(ご祝儀の)「花をうつ」という言葉を知らない人も多いです。

町の祭りはできていませんが、金沢市文化財保護課が窓口になっている獅子舞保存協会が窓口となり、イベントを開催するために各団体に声がけが来ることもあります(※後ほど追記)。お披露目できることが嬉しいという思いもありますが、コロナ禍においてイベントで獅子舞を披露するとなると獅子舞に10人ほど必要なことも多く、ホテルなどで人数が原因で中止になったイベントもありました。過去には「芳斎」という民泊で獅子舞を演じて普及していこうという活動をされている団体では、蚊帳を横に掛けておいて、獅子頭だけ動かしていることもあったようです。

蚊帳ありで考えていくと、蚊帳が小さければダイナミックさは欠けますが、担い手との対話の中で人数が削減できて実現できるイベントもあるのではと気づいたのです。小さい蚊帳でもたくさんの方に見ていただきたいし、実際に小さい蚊帳でやっている地域も県内にありますので、加賀獅子の蚊帳の大きさをひとまず置いといて、獅子舞をたくさんの方に見ていただき応援していただきたいという思いで小さい蚊帳を作りました。

稲村:蚊帳のデザインはどのように決めたのですか?加賀獅子のオーソドックスな蚊帳のデザインみたいなものがあるんでしょうか?多くの団体に貸し出すとなると、その分、デザインにも配慮する必要がありそうですよね。

奥田さん:(私は綾鷹のプロジェクトのリーダーをしている染物職人です。綾鷹のプロジェクトは5人でやっており、若手50歳以下でチームを組んでいます。)今までやってきた中から、牡丹の花などある程度デザインは決まってきます。蚊帳は1年に1回新調があるかないかなのですが、近年は7~8つの時もあります。コロナ禍で作り変えの時期なのかもしれません。加賀友禅の花では迫力が欠けるので、通常は迫力のある花を意識して描きます。ただ、今回は少し小さいサイズの蚊帳なので、色のぼかしも入れながら少し加賀友禅の特徴も混ぜて作っています。

加賀友禅のデザイン

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▼今回制作中の蚊帳のデザイン

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稲村加賀友禅は控えめなデザインが特徴的ですが、なぜ加賀獅子の蚊帳は派手で力強い装飾になったのでしょう?

万行さん:加賀前田藩のお殿様向けに、ハレの場として派手に作ったのが始まりですよね。

稲村:蚊帳の中に入れる人は何人くらいの想定ですか?

万行さん:今は2人~3人を想定して作っています。

稲村:10人の獅子が2人になったとして、舞い方は変化しないのでしょうか?

万行さん:加賀や能登など、2人立ちのところもありますよね。獅子舞を広めるためのものという認識なので、金沢市だけではなく様々な地域の方に使っていただけたらと考えています。

稲村:蚊帳職人さんにとってお祭りはどういう印象ですか?

奥田さん:お祭りは身近ですね。あ、うちが染めたやつだなと思うこともあります。自分がこうした方が良いと思っていても、実際に舞うところを見た時に「あ、そういうことだったのか」と納得することもあります。全て手作業で祭り道具が作られていますし、何十年も受け継がれるものとして向き合い作っています。機能性も考えながら、その絵柄の意味を考えることもあります。

万行さん:見せ場に牡丹を配置するとか、各町内の要望を聞きながら作っています。

蚊帳にもオスメスがあるんです。渦巻きの違いを見てください。町内でオスメスがある場合もありますし、隣の町内と一対でオスメスの場合もあります。

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万行さん:蚊帳に自分の孫の名前を入れて、街に寄付するという場合もあります。これが会社名の時もあります。こういうのは作った人の名前ではなく、贈る人の名前を入れる場合が多いですね。

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万行さん:花の位置は尋ねることにしています。花は見える場所に持っていかねばなりません。花はパーンと開いているものもあれば、今から開こうとしているような花もあります。親子獅子の場合、子供の蚊帳はぼかさずに黄緑や緑を使って、大人の蚊帳は熟練した雰囲気で作りました。問屋さん経由だとなかなかお客さんとの対話ができませんが、直接お客さんと対話することで、生まれるデザインもあります。

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万行さん:なぜ獅子に牡丹かはご存知ですか?もともと百獣の王のライオンが獅子ですよね。百獣の王でも苦手なものがあって、それは寄生虫なんです。体内に入ってきて肉を蝕みます。流石に百獣の王でも勝てません。その寄生虫が苦手なものが牡丹の朝露でして。獅子が牡丹の里にいて牡丹に守られているというわけなのです。

加賀獅子の蚊帳はおめでたいものなので加賀友禅の特徴である虫食いを入れることは稀ですが、せっかくなので加賀友禅の特徴を入れて欲しいと言われて蚊帳にも虫食いの跡を入れたことがあります。

稲村:加賀獅子の中には花棒というのが登場して獅子を誘導して最後に獅子殺しをするという演目もありますが、この花はもしかしたら牡丹のことかもしれないですよね。

祭りの担い手とともに、職人も育成する

稲村:石川には何軒くらい獅子の蚊帳を作っている職人がいらっしゃるのですか?

万行さん:いま、私たちの他に3軒くらいですね。能登に引越しされた玉作さんと、金沢の平木屋さんが2軒です。伝統的な素材を扱う染物屋さんはもう少ないです。

稲村:そう考えると獅子舞が盛んな石川県ですが、職人は少なく、祭り道具を一手に担っていくような存在になりつつあるのですね。

万行さん:京都や北海道などに発注する場合もあるようですが、それは絵柄を真似して作ってもらうという形になってしまいます。そういう意味で、石川県の染物をしている人は加賀獅子と地域に対する思い入れがあります。祭りの担い手とともに、染物職人の担い手も育成するという意味で、今回、綾鷹の若手支援に応募させていただきました。100件の応募があった中で、22件の採択があり、50万円の助成をいただきました。4月末までに蚊帳を1つ完成させ、5月以降に祭り団体に使っていただきます(綾鷹は、The Coca-Cola Companyの登録商標です)。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000620.000001735.html

万行さん:作った蚊帳は今まで使ったことのない色も使用しました。葉が紅葉した加賀友禅的な表現もこのように取り入れています。これからさらに製作を進めて4月中に仕上げます。

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蚊帳はどのように貸し出すのか?

万行さん:1団体に使っていただいたら、その次の団体とかし出すという風に順々に貸し出す予定です。小学校4年生が社会科の授業で地域のことを学ぶという回で地域の獅子舞の紹介があるようで、小さい蚊帳があると見せやすいからということで、今回貸出を予定している団体さんもあります。地元のまつりでは本物のものを使いますが、小さい蚊帳を貸し出す場合はイベントごとや子供達への紹介など、その他の催しで身軽に持って行ってもらうために、今回貸出を行います。また、獅子頭の工房をされている方が、獅子頭と一緒に見本として色々な方に見ていただくときに小さな蚊帳があると持ち運びも便利で持っていけるとも言っていただきました。

まだ蚊帳は完成していませんが、現在、すでに2団体への貸出が決まっている状況です。友人の結婚式のためなど、これから様々なアイデアが生まれてくれば良いと思っています。綾鷹からご支援いただいたものですので、お金はいただかずに使っていただけたらと考えています。

稲村:貸出期間とかはあるのですか?

万行さん:期間は特にはなくて、個別で連絡を取り合い、空いている時に貸し出すようなイメージです。今のところはお問い合わせが数多くあるわけではないので、そこまでスケジュールをきっかり決める必要はなさそうです。まず、コロナ禍でもイベントを開催するという条件があって初めて蚊帳を貸し出すということになりますよね。

奥田染物で聞いた!ものづくりのこだわりと祭りへの思い

染物職人の現場を知るべく、今度は万行さんに工場を案内していただいた。

万行さん加賀友禅の技法で、獅子の蚊帳を製作しています。加賀友禅の餅糊を使って、蚊帳を製作しているので、技法をそのまま使っていることになります。餅の粉を練って作ったものが餅糊で。水につけると柔らかくなって、ほっておいて乾くと固くなるのです。そういう性質を利用して作っています。

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万行さん:水は白山の地下水、つまり伏流水を使っています。金沢には染物屋さんがたくさんあるのですが、環境汚染や土壌の問題が50年前に出てきました。それで、昭和47年に協同組合を立ち上げて、みんなで作ったものを洗ったり干したりということを始めました。白山から川に交わらない地下を流れてくる水が年中あって豊富なのです。前は30軒ほどでしたが、今では5軒ほどになりました。

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万行さん:染め物工場の周りには、お豆腐屋さん、化粧品工場、カット野菜のお店などもあり、皆、白山の伏流水の恩恵を受けています。

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金沢市役所が窓口に!獅子舞を普及

万行さんに「加賀獅子保存協会」をご紹介いただき、電話インタビューを実施した。金沢市文化財保護課の中にあり、金沢市内の各地域で活動されている加賀獅子をより地域の外に広めていくとともに連携していくような動きも見られる。これは富山県の小矢部や高岡などでも開催される獅子舞共演会的な動きとも重なるもので、コロナ禍になる前には獅子舞の共演会を開催したり、百万石祭りに登場する獅子舞を抽選で選んだりということをしていたようだ。コロナ禍では獅子頭の展示会を金沢駅構内で開催するなど、展示にも力を入れているという。

基本的には金沢市内の獅子舞団体はほぼ入会するのが当たり前になっていて、1年で1万円の年会費を払うこととなっている。このような行政が窓口となって獅子舞の魅力を発信していこうという動きは、岩手県釜石市の虎舞連合会と同じような動きにも思える。ただ、こちらの場合は窓口が観光課になっているのが異なる。虎舞が地域イベントなどに呼ばれ、地元の祭り以外でも活躍していく場面が作られるという意味で、普及に大きな役割を担う組織と言えるだろう。

厄を祓ったがゆえに祓われる、創作獅子舞の革新的ストーリー

奥田染物で働く方が獅子舞の担い手もされていた。「今日の20時から練習をしますよ」と教えていただき、津幡町川尻の井上公民館に伺い、偶然にも獅子舞練習を拝見する機会を得た。会場にたどり着くと、蚊帳1人、獅子1人、太鼓1人、棒振り1人、笛1人の合計5人で練習をされていた。20~40代まで年齢層も様々だ。出番の有無に関わらず、一年中、毎週練習をしているという。

町内の同期でお揃いの法被をオリジナルで作るようで、世代ごとに法被の柄が違うらしい。また、町内のリーダーを取れる人は厄年の人で、その人の名前が獅子舞の青年団の名前になる。町名ではなく、人名で団体ができるというのは興味深い。般若、龍虎、鯉、芸妓、狐など図案は本当に様々だ。デザインはバージョンアップしている。ただ、近年は担い手不足で、何年かまとめて作っているようだ。

今回練習をされていたのは、町内の祭りで披露する獅子舞ではなく、地域のお正月のイベントなどで披露する創作の獅子舞だ。ああ、なるほど。こういう機会があるから、小さい蚊帳を作ろうという発想も生まれてくるのだと思った。

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創作の獅子舞は、醫師神社(くすし神社)に伝わる伝説と、獅子舞を組み合わせたようだ。お面も何もかも全部手作りという。簡単なあらすじとしては獅子が村のために疫病などの厄を払ってくれたが、厄を祓い過ぎた獅子が暴れ獅子になってしまい、最後に剣士によって聖なる刃で退治されるという流れだ。元の話は疫病が村で流行った際に、村人が田んぼを耕していたらキコロ像という人形が出てきて、それに鍬が当たって血が出て、それを奉納して祭りをしたら疫病が払われたという言い伝えがあった。これを獅子舞の邪気払いと合わせて話を作ることで、「僕らの中でもすんなりいったんです」とのこと。

加賀獅子の伝統的なデザインで獅子舞が始まるが、獅子が暴れ獅子になった途端、蚊帳は反転する。そして、食欲(青)、色欲(赤)、金欲(黄)の3体が描かれた蚊帳が現れるのだ。これは蚊帳が小さいからこそできる技であり、蚊帳を反転させるという発想とそれを体現できる技術が素晴らしい。

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これには加賀特有の獅子殺しと、頭を噛むなどの仕草に見られる獅子が厄払いをする性質を同じストーリーの中で表現した点でかなり革新的である。獅子は厄払いをするのに、なぜ厄として払われる場合もあるのか?という矛盾を解決する試みでもあるわけだ。普通の祭礼行事ではどちらかの役割しか担わないか、もしくは分離独立した形で獅子殺しの舞いなのになぜか祭り終わりに頭を噛んでくれるという場合が多い。そういう意味では、より獅子舞に対する理解を促進するような獅子舞なのだ。

獅子舞の蚊帳にまつわる奥深い世界

考えてもみれば、蚊帳の世界は奥深い。普段獅子舞をしていると獅子頭や舞い方の方ばかりに注目しがちだ。蚊帳はどちらかというと裏方である。しかし、蚊帳が獅子頭を上回らんばかりに、デザインには様々な工夫が凝らされているし、使い手にとってより良い蚊帳とは何かが常に追及されている。金沢ならではのものづくりの技術が花開いたからこそ、金沢の祭り文化は発達したとも言える。奥田染物の蚊帳作りを始め、この業界の今後の展開に注目していきたい。

【2022年4月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺錦町・塩屋町(追加)

2022年4月5~6日の日程で加賀市に滞在した。獅子舞取材を振り返る。

4月5日
11:00~ 大聖寺錦町

荒木実さんにお話を伺った。錦町(にしきまち)の獅子舞は、昭和3年の御大典記念の時に即位の祝賀ムードの中、国、県、町などの予算が下りて始められた。これは明治維新後に全国に神社が作られたのと動きとしては似ている。天皇の力が強く、国の命令が絶対の時代であり、戦争に向かって各町内がまとまっていくような意図もあったかもしれない。東北の方に獅子舞の取材に行くと、村境から疫病が入ってくるなど境界地点に厄が宿っているということで村人同士が喧嘩のように獅子舞を繰り広げてきた地域もあるが、これは紛争を平和的にユーモアに昇華して解決する手段だった。しかし、今回の話を伺っていて、実は獅子舞が戦争に向けて国家の統制や秩序を作り出すために利用されていた側面もあるのではないかという風にも思えてきて、それは新しい気づきであり十分に考えていかねばならないテーマと感じた。

桜まつりの獅子舞はほとんどこの昭和天皇の御大典記念の時期以降に始まっただろう。錦町に獅子舞を伝えたのが下福田だ。その頃、錦町は穴虫という名前だった。神様が加賀神明宮から水森神社に神輿が移動するときに、神様を賑わすという喜びの表現の意味で、獅子舞が行われた。これは神輿についていく形ではなく、あくまでも町内で別に行う。昔は桜まつりは2年に1回で、神輿が通るルートの町内が獅子舞を出すという考え方の時もあった。錦町の獅子舞は雌獅子には獅子殺しがつかず、雄獅子にのみ獅子殺しがつくという形で発展していった。その後、獅子舞は10年もしないうちに一時断絶してしまった。

いまから約50年前に青年団が発足して、獅子舞が復活した。再び下福田の人にお酒を飲みながらも習った。この時復活した獅子舞は基本的には太鼓と獅子で行う獅子舞だが、備品として槍や笛など昔のものが残っていたので、昔は少し違う獅子舞をしていたかもしれない。太鼓や獅子などの備品は使える状態で残っていたので、金銭面で発足に問題はなかった。約45年前に高度成長期で働きに出る人が多くなり仕事が休めない人も出てきて中学生が獅子舞の担い手として参加しだして、そこから大人と中学生で2チームができた。その後、大人が指導役で中学生が担い手になる時期もあったが、現在は大人と中学生で2チームに戻った。

演目の数はいつも立ち獅子と寝獅子で、これは一連の流れの中で行うため、1つの演目と考えて良い。当時から比べるとどんどん舞い方は簡略化されており、太鼓が特に変わった感じる。「テレスコテン」というリズムで獅子頭を回すが、その時の動作が少し短くなった。これは世帯数が多くなったのと、飲み会の時間を長くしたいなどの考えがあった。他の町内が3分舞っている横で、錦町の獅子舞が1分半の獅子舞をした時もあって「乞食獅子」と呼ばれた。バタバタと獅子舞をして蚊帳が破れてしまって、男の手で塗って修復したので縫い目が荒くて、それが舞うものだから「また穴虫の乞食獅子が来たわ」と楽しそうに賑やかす人もいた。「それではいかんわ」という話をする人もいて、演目の動作を長くして、しっかりと指導をする時代もあった。

担い手の数は今30人ほどいるが、実際に町内にいて稼働しているのは5~6人だ。この人数で錦町180世帯を、4月のさくら祭りの2日間をつかって回る。世帯数が多いのでご祝儀の金額は2~3000円が平均で、それでも十分運営していける。親子三世代の獅子舞が余興として獅子舞を演じたこともあったが、基本的には青年団が実施してきた。錦町には龍笛という能関係の笛の名手である林さんという方がいて、獅子舞を一本橋町に教えたそうだが、錦町の獅子舞には特に関わっていなかったようだ。近年は獅子舞に参加してくれた子供にバイト代を渡す。中学生、高校生、大学生で金額は変えている。最初はバイトと言えども、獅子舞に愛着を持ってくれるきっかけになればと考えてバイト代を渡している。青年団に入っている人にはバイト代を渡さず、基本的には飲み会でお金を使う。大聖寺は町ごとに神社があるわけではなく盆踊りはしないため、獅子舞が終わったらすぐに飲み会に出かけた。打ち上げでは加賀市内の料亭に行って、コンパニオンを呼んで飲むような日常的にはできないことをした。昔は打ち上げがやりたくて獅子舞をしていた人もいたし、祈りの気持ちも強い人もいた。今は継続しなければという義務感もあり、参加してくれる人も多い。

獅子舞は基本的には桜まつりの時だけだが、結婚式でも行うこともある。青年団長が数年前にがんで亡くなったときに、獅子舞を舞って送ってほしいという遺言があったので、葬儀の時に獅子舞をしたことがあった。基本的に獅子舞はお祝いの時にやるので、葬儀の時にも賑やかな獅子舞をそのまま披露した。

獅子頭白山市の鶴来で作ってもらった。今は3代目で、形は初代と変わっていない。太鼓は松任の浅野太鼓に頼んでいる。

コロナ禍では3年間獅子舞ができていないのが現状だ。名簿を回して丸がついたところだけ回っていくことも考えたし、後継者を育てるためにも獅子舞をやるべきという意見はあった。ただ、獅子舞はお神輿に乗っている神様を賑わす存在でもあるため、お神輿が出ないのに獅子舞をするというのは趣旨が違うということで、結局獅子舞はできていない。天の岩戸の神話と同じで、獅子舞は御隠れになった神様を賑やかして楽しませて、俗世の世に出てきてもらうような存在として考えている。

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14:00~塩屋町

獅子舞を現役でされている熊岡さんにお話を伺った。

祭りの日が楽しみで、中学生の時から「早く祭りの日が来れば良いのに」「一生続けばいいのに」と感じてきた。獅子舞は重たいし、酔っ払いの先輩がいたら後輩がテンション上げていかないといけないしで、辛いこと厳しいこともたくさんあるのだが、楽しいこともたくさんあった。中学生の時は祭りの前日に親の許可をもらって、公民館に泊まれるのも楽しかった。貸切の部屋でジュースもお菓子も食べ放題で、大人の世界を覗き見するような感覚でもあった。ファンタとコーラを混ぜて、そこにマヨネーズを入れて、じゃんけんで負けたら一気飲みということもしていた。また、とんがりコーンを食べさせられたら、とんがった部分にわさびが入っていて、とても辛い思いをしたこともあった。また、前日にあわら温泉にも出かけた年もある。祭りの日は朝5時~5時半くらいから神社の奉納に始まるが、3時半くらいから寝ようとした仲間に「もう3時半やぞ」とちょっかいを出したり、寝ている人にマジックで落書きをしたり、寝ずに祭りを開始する年もあった。

祭りの始まりの時は、お神酒を飲み、獅子頭にお酒を吹きかけ、法被着て二礼二拍手一礼をして獅子を舞い、「さあ行こう」という流れで出発する。東と西で雄獅子と雌獅子に分かれて舞うが、メンバー発表は公民館の黒板に書かれているので、そこで確認する。朝の集合に遅れた人は「連チャン要員」として迎える。雄獅子と雌獅子だと雄獅子の方が重いので、午前と午後で入れ替え負担は平等にする。舞い方はご祝儀によって変わるが、雌獅子と雄獅子で変わることはない。小雨くらいであれば獅子はやるが、雨で濡れた蚊帳は重くて操作がしにくいし水たまりに浸からないように気をつけねばならない。途中、蚊帳を絞ったり、乾燥機をかけたりする年もあった。

まずは獅子舞が回る家、回らない家はどのように決めていくのかという話。獅子舞は喪中の人の家は回らず、喪に服している人は法被を着ない、鳥居をくぐらないなどの諸々の決まりがある家もある。また、親戚関係は場合によっては祭りに顔を出さない。塩屋町の家を一軒一軒回るときに、クリアファイルに地図を入れておいて、その地図にマーカーで印をつけておき、「そこの家は喪中やぞ」と声を掛け合ったりする。ただ、快い人は「祝儀だけでももらって」とお金を渡してくれる場合があったり、形だけでもお礼として少し獅子舞をする場合がある。また、商売しているお店や金比羅神社、鹿島の森など町内じゃなくても回る。鹿島の森では正装をした人がいて、その場所の太鼓を使うので、鹿島の森だけ違う音の太鼓をたたく。秋の祭りの時に最後の神社の奉納で行う「あげ獅子」まで時間がある時、バス停のロータリーのところで、獅子舞で遊ぶ。ドンドンドンとワンフレーズの動作で何度も繰り返したり、バスに一瞬乗って少しだけ獅子舞をしたりということもある。漁船パレードが秋に開かれ、港祭りと呼ばれていたものが秋の例大祭になった。太鼓は船の上に乗せて大漁旗がはためく中、パレードをする。この船には獅子舞はのせない。これは10月の大聖寺の十万石祭りの時期に行う。

獅子舞の寝る行為のところは「チャリ」という呼び名がつけられている。「チャリあるぞ」というと、祝儀が1万円くらいの場合だ。太鼓に対して獅子の動きのアプローチの動作が2パターンあり、「両チャリ」というと祝儀が3万円くらいの場合にやる。肩で合図したりABCで合図したりなどで何の演目をするかを伝えていく。祝儀をどこからいくらもらったという書き出しはしない。500円玉の時もあれば、おばあちゃん1人の場合は商品券を渡してくれる時もある。

高校生以下で獅子舞の担い手として参加してくれた場合は、飲み会に参加できないため、寿司折りやお金を渡す。大人は飲み会でコンパニオンを呼んだり、昼間に回ったスナックで夜にどんちゃん騒ぎをすることもあった。春は当日に打ち上げ、秋は一ヶ月も経たないうちにどこかのお店を貸し切りにしてコンパニオンを呼ぶか、公民館でピザを頼んで獅子頭の新調に向けて節約をするという流れだった。昔はソフトコンパニオンを呼ぶ事もあったが、今は普通のお酒を注いでもらうコンパニオンを呼ぶくらいで、おとなしくなった印象だ。喧嘩もしなくなった印象がある。世代なりの楽しみ方で、獅子舞は受け継がれている。

日本全国でも珍しい?お湯を撒く!箱根・湯立獅子舞を見てきた

箱根仙石原に伝わる湯立獅子舞は、日本全国でも珍しい湯立の形式を持つ獅子舞だ。先日、国選択無形民俗文化財にも指定された。この神事の珍しさに着目しながら、先日取材させていただいたときの様子を振り返りたい。

湯立獅子舞の由来

箱根仙石原諏訪神社境内にある湯立神楽の碑には以下のような内容が書かれていた。

諏訪神社に伝わる湯立神楽の起源は、安永5(1776)年、甲斐国郡内下吉田村富士吉田市下吉田)の住人である萱沼儀兵衛が伝えたことに始まる。国家安泰、家内安全、五穀豊穣、悪疫退散などを祈願して、地域住民の精神の拠り所となり、厳格に秘伝された民俗芸能だ。宮舞、平舞、劔の舞、行の舞、宮巡りの舞、釜巡りの舞、四方固めの舞の7種類が奉納され、大釜の熱湯を神楽の法力によって冷まし、氏子の頭に振りかけ無病息災を祈る神事である。獅子が人に代わってその行をするのは全国的にも稀な価値を有している。

湯立神楽を獅子が演ずるから湯立獅子舞と呼ばれるようになったのだろう。元々は御殿場の方で獅子舞を遊び覚えた若者たちの集団がいて、若者組の分裂を恐れた長老や村役人たちがそれを却下。追及を逃れるためにその若者たちは箱根に湯治に出かけ、疫病に苦しむ箱根・仙石原の人々に獅子舞を教えた。それもあってか、長老や村役人たちと若者が仲直り。若者たちは村掟を守るようになったというめでたい話もある。湯立獅子舞が根付いた背景には、周辺の村との交流と疫病の流行もあったように思われる(箱根町教育委員会生涯学習課(2021)『箱根の湯立獅子舞』)。

それにしても、行をやる獅子というのもなかなか見たことはない。途中、担い手の男たちが境内の池の中に足を浸し、池の真ん中にある紙垂と注連縄によって囲まれた島を取り囲むというシーンがあったが、これはまさしく修験者の行のように思われた。

獅子舞の構成から感じたこと

実際に仙石原諏訪神社で3月27日12時から15時半の日程で開催された湯立獅子舞を拝見してきた。一見して、これは伊勢太神楽の影響があるのではないかと思った。獅子頭面は権九郎であり、胴幕を絞って胴体に巻き付けるような仕草も見られたからだ。

7種類の舞いはそれぞれ違うものの、基本的な構成は似ていた。胴幕ありの2人立ち→胴幕を巻き付けた一人立ち→胴幕ありの2人立ちという3部構成になっていて、最後の2人立ちは獅子が荒ぶるように激しい動きが目立った。

獅子頭の雄と雌について

また、獅子舞は基本的には1頭での演舞だったが2頭おり、そのうち1頭は祭壇に置かれるか、軒下に置かれているような場面が多かった。この演舞しない獅子についても気になったので聞いてみた。「これは雄獅子と雌獅子(で一対)ということでしょうか?」と尋ねたところ、そうではないらしい。仙石原の諏訪神社にいるのは全て雌獅子で、7月に湯立獅子舞を行う宮城野の方に雄獅子がいるという。この雄と雌が逆という説もあるらしい。

全体を通して考えてみるに、地域行事というよりは神社の氏子に向けられた神事が、箱根という土地柄で一般向けにも徐々に公開されるようになったようにも思える。運営組織は湯立神楽の保存会である一方、メディア関連の対応は箱根神社宮司さんが取りまとめていらした。ただ、神事のあり方は今も昔も変わっておらず、かなり厳粛に伝承されているようにも思える。とりわけ宮巡りの舞は、注連縄と紙垂を着用した報道関係者と氏子しか見られないもので、今回は取材者の立場だったので、かろうじてこれを見せていただいた。とても貴重な経験だった。

 

 

7年に1度の大祭!獅子舞が大集結!飯田お練りまつりの盛り上がりの秘訣とは?

7年に1度というのは諏訪大社例大祭との関わりがある。その希少性から祭りの盛り上がりは半端なく、コロナ禍であるにも関わらず、大勢の来客が見られた。基本的には目玉となるのが、獅子舞の練り歩きと門付けである。

実際に現地で獅子舞を見てきた。その様子がこちら。

東野大獅子

一色獅子舞

民俗芸能サロンの祭り展示


飯田の獅子舞の源流とは?

飯田の巨大な獅子舞をひと目見たとき、まず浮かんだのは大蛇だ。ウネウネとした巨体をくねらせるような動きもまるで蛇そっくりである。

さらに言えば、おそらくこの蛇は出雲の信仰にも関わるヤマタノオロチだ。出雲と諏訪は民族的に近い系統なので、諏訪祭祀圏でもある飯田にヤマタノオロチの信仰が存在するのも頷ける。ちなみに801年に坂上田村麻呂が飯田郷を諏訪大社に寄進して以来、大宮諏訪神社をはじめとする飯田の寺社は諏訪神を祀ることが多い。さらに飯田の南には西三河があり、ここに伝わる花祭りには実際にヤマタノオロチが登場するものもある。花祭りにおいて、獅子舞とヤマタノオロチは同じ役割をする。それ故にヤマタノオロチがある地域には獅子舞がなく、獅子舞がある地域にヤマタノオロチがないという場合もある。これが融合した形態こそ、飯田の獅子舞と言えるだろう。

この蛇信仰の系統は北上して飛騨でへんべえとりの小蛇退治の獅子舞に、そのさらに北の富山県の百足獅子の系統にも繋がり、更にそこから北陸を東に遡り東北へと続く蛇やら龍やらの進行経路が見えてきた。以上は多くの私見を含んでいるが、これが本当であれば壮大な物語である。

お練りまつりの始まり

慶安4(1651)年に飯田藩主の脇坂安元が諏訪大宮神社の社殿を大きく改築し、それを祝って翌年3月1日に祝賀祭を開催したのが、お練りまつりの起源とされる。

正徳5(1715)年、安平路から風越山にかけて大きな山崩れが起き、大水が飯田を襲った。いわゆる「未(ひつじ)満水」とよばれるこの大水害の際に、住民が大宮諏訪神社に集まって祈願したところ町は難を逃れたという。中断しがちだったお練りまつりを定期的に実施するようになったのはこの時だったと言われている。

この時は4年に1度(2年に一度という説もあり)だったが、享保19(1734)年の大祭ののちに、諏訪社本宮に合わせて7年目ごとに開催するようになった。

飯田の華やかな獅子舞を支える経済基盤

今に至るまでお練りまつりはどのように発展していったのだろうか。まず、ターニングポイントとして押さえておくべきは、寛政6(1794)年から城下の18町が幟(はた)屋台、囃子屋台、本屋台を競って建造して、豪快に曳き回すのが名物になったということ。これは尾張三河地方の祭礼の影響を受けたと考えられており、この祭りを支えたのは中馬交易などで栄えた飯田の商人たちの財力だったと言われている。

次なるターニングポイントが戦後の昭和22(1947)年だ。戦後まもなくのこの年に市街地のほとんどが焼け野原となる飯田大火が発生し、古い屋台のほとんどが焼けてしまったという。その3年後の昭和25(1950)年から飯田商工会議所が立ち上がり、奉賛会を組織。飯田の中心市街地のみならず周辺地域の芸能を巻き込みながら、お練りまつりが復興された。この時、飯田の農村部には、明治期以降に養蚕で経済力をつけた人々が多く住んでおり、各神社の春祭りに屋台獅子や籠獅子などの大型獅子が演じられていた。それらがそのままお練りまつりに登場するようになり、現在の獅子舞を中心としたお練りまつりが成立した。

ここで疑問となるのがなぜ信仰圏が近い諏訪ではあまり獅子舞が盛んでない一方で、飯田では獅子舞が盛んなのか?ということだ。ここからは個人的な推測になるが、三河という獅子舞が全国に伝播することになった起点になる地域が近くに存在していたこと、そして、飯田がこれらの地域との交易によって富を築いていたことなどが挙げられるだろう。実際、明治期以降に名古屋方面に獅子頭制作を発注していた地域もあるようだ。

大獅子の練り歩きが可能な空間と寛容性

実際に祭りを見物していて、とにかく獅子頭も胴体も大きいという印象を持った。なぜ胴体が大きくなるかというと、太鼓と木組みが胴体の中に入り、大きな胴体を持ち上げているのだ。笛は外側になっているが、鳴らしものを胴体の中に組み込むという発想は演劇におけるバックミュージックの発想だろう。もしこれが正しければ、石川県の巨大な加賀獅子とも通じる思想だ。

胴体が巨大であるということは、それを通すだけの道路空間が必須ということであり、中心の商店街で獅子舞が通れない空間はない。それどころか2頭の巨大獅子がすれ違う場面すら見られた。当然、歩道は歩けないので車道を歩くことになるわけだが、獅子が通っているときに車は獅子に道を譲るのが鉄則である。車に乗っている人は基本的に獅子に注目してせかせかせず、祭りの雰囲気を楽しむのだ。

獅子頭民主化が進んでいる

獅子頭は15万円から50万円と全国的に見ればそれほど高価ではない。ただし、かなり大きな幌や太鼓、衣装などを加味すれば、道具を揃えるのもかなり大変だ。

また、この地域には遊具として獅子頭が出回る文化もあり、飾るための獅子もある。獅子頭づくりはクオリティを求めない代わりにたくさんの作り手がいるという意味での民主化が進んでおり、この傾向は茨城県石岡市山形県酒田市にも類似しているように思われる。段ボールで作った獅子舞であれば3000円程度の安価な値段で手に入るので、手作り感を追求すれば、富山県氷見市の段ボール獅子頭を作る文化にも通じるところがある。

飯田市内でお祭り用具を販売されている片桐屋さんによれば、「この飾り用の獅子頭は中国で作っています。ただし、今回舞っているお練りまつりの獅子頭飯田市の人が作っている場合が多いです。うちでは祭りの法被や鉢巻きを作っています。」とのこと。飾り用の獅子は海外で作ってもらう場合もあるようだ。

また、獅子舞の担い手を18年している方によれば、「獅子頭は飛騨高山や仏壇づくりが有名な北信地域などに発注することもありますよ。」とのこと。獅子頭づくりの地域が周辺に点在しているというのも素晴らしい。

担い手を集める秘訣は保存会

さらに言えば、飯田の獅子舞を運営するのは、基本的に獅子舞保存会の場合が多い。保存会はほぼ年齢に関係なく入会できるのが良い。青年団や若者組、若連中などであれば年齢が限定されてしまうし、なかなか大学に行って一時期地域外に出た人が戻ってきたときの受け皿にもなりにくい。人口減少時代に、多くの人を巻き込むためには、やはり保存会という形態はとても理想的である。飯田の場合は獅子が巨大なこともあり、1地域につき40~50人の担い手がいるのが普通で、全国的に言えばとても多いと言える。それ故に担い手不足解消を考えるにはこの地域に学ぶことも多い。

獅子舞の担い手を18年している方によれば、「参加団体は色々変わってきました。伝統的なところも現代的なところもあります。新しく獅子舞を最近作ったところもあり獅子舞が盛り上がっています。うちの団体は担い手が40~50人です。町内の若い人は声かければ入ってくれる人は入ってくれますね。壮年団や青年団が舞手を請け負っていて、卒業した人が笛を務めたりして多世代が関わっています。4月9~10日は地域の各家を回る春祭りをします。」とのこと。保存会でなくても地域が一体となって、獅子舞に関わるような体制が整っているようにも思える。

 

そのほかにも、街中に祭りの写真を展示・紹介する民俗芸能サロンがあったり、飯田駅の待合室にお練りまつりの写真が展示されていたり、飯田駅の観光案内所がお練りまつりの窓口になっていたりと様々な工夫が満載で、街全体がまつりを応援しているように思えた。コロナ禍でもこれだけの盛り上がりが作れるのは素晴らしい。これに関しては、新型コロナウイルス対策のためにアルコール消毒と検温ができるテントを町の中の各所に設置して、あとはご自由にというスタンスがどこか見物客の自主性を重んじているように思えて、今の時代ならではの素晴らしい開催方法のようにも思えた。

<参考文献>

飯田商工会議所『令和4年飯田お練りまつり公式ガイドブック』2022年3月

小林経広 ほか編『目で見る信州の祭り大百科』1988年12月, 郷土出版社

飯田はシシの霊地か!?獅子塚を巡りその信仰について考えた

飯田周辺にはなぜか「獅子塚」と名のつく古墳が多い。今回は伊那八幡駅から下車して、水佐代獅子塚古墳、羽場獅子塚古墳、御射山獅子塚古墳の3箇所を巡ってみた。これらは典型的な豪族のお墓のような気もするのだが、なぜ、「獅子塚」なのだろうか。日本全国の獅子塚の由来からすれば、獅子(シシ)を埋めることで村境の厄を取り除くような役割をしていた可能性はある。ただし、かなり多義的であるため、個別に見ていく必要性はある。これを機に獅子の新たな素顔に出会えるかもしれない。

水佐代獅子塚古墳

この古墳の名前は「みさしろ」と読む。5世紀後半に作られたようで、墳丘の高さが60mで後円部に石室があったとされる。過去の調査によれば、円筒埴輪、刀、鉾、鉄鏃などが見つかったという。また、特徴的なものとして、地域の人々から「おたちふの桜」と呼ばれるエドヒガン桜が植えられている。胸高周囲5.3m、樹高約17mの古い巨木だ。この古墳には登れるようになっているが、桜の周囲の立ち入りは禁止されている。僕が訪れた時は、隣の家の人が外でタバコを吸いながら、じっとこちらを眺めていた。その圧力に屈しまいと上まで登ってみたが、あまり下手なことはできないと思い、すぐに降りてきた。この隣の家の人、もしかしたらこの古墳に相当思い入れがあるのかもしれない。

羽場獅子塚古墳

この古墳は上溝公園の一角にある。こんもりした山になっており、大量の木が植わっているなか、頂点には石積みの上に築かれた祠が設置されている。また、この祠の横には同じくらいの高さの石灯籠もある。この小山の麓には詩が書かれた石碑があったが、かなり解読が難しかった。公園内にはトイレと滑り台が2つあるほかに遊具はなく、広い空間が広がっている。この古墳の北側には水路と天竜川の支流がある。この川こそが、何か境界性を帯びており、この境界性が獅子を埋めるという厄払い行為につながっているとも推測できた。ただし、これはあくまでも推測の域を出ない。

御射山獅子塚古墳

御射山といえば、諏訪にある神社の名前と重なる。その名の通り、狩りに関わる神事が行われる霊地である。飯田は諏訪と信仰圏が近いので、あの御射山と何か繋がりがあるのだろうか。立て札によれば、5世紀末~6世紀に作られた前方後円墳で、茶柄山古墳群のなかで最大の古墳であり、国指定史跡でもある。全長58m、後円部径約26m、前方部幅約45m、高さ8~9mである。この古墳に埋葬された人物は、馬匹(ばひつ)生産の指導者的な立場にあったと言われている。この頃、馬は輸送交通手段として普及しており、ヤマト政権とは馬を介してつながっていたと言われる。馬を埋葬した古墳も周辺にあるが、これを馬頭観音として祀らずに、仏教伝来以前のシシという形で祀ったのがこの地の「獅子塚」という名前の由来かもしれない。

さて、僕の推測は正しいものかどうなのか。真実はわからないが、飯田には「獅子塚」が日本全国的に見てもかなり数が多い。その真相を突き止めたいものだ。

 

 

獅子舞生息可能性都市~名古屋編~(基礎調査版)

名古屋といえば、日本全国の獅子舞界において非常に重要な場所である。

日本全国に獅子頭が量産されるきっかけを作った「名古屋型の獅子頭」が生まれた場所だからだ。寄木づくりで残材を有効活用して軽くて安価な獅子頭作りに成功した。それに加え、日本最古の年記銘月獅子頭が存在するのも名古屋近くの愛西市だ。

しかし、獅子頭作りは盛んなのに、肝心の獅子舞はあまり数が多いとはいえない。伊勢という江戸時代以降の獅子舞伝播の中心地があったにも関わらず、なぜだろうか?今回は名古屋という場所の獅子舞生息可能性を見抜いていきたい。

名古屋市中心部の獅子舞生息可能性

さて、ここで名古屋の獅子舞生息可能性について調べていこう。 

まずは以下のように、名古屋市内を緑の線で囲った。その中でも名古屋市の西側は住宅街であり、すでにいくつか獅子舞が生息している。また、名古屋市の東側は閑静な住宅街であり、西に比べると獅子舞が少ない。

名古屋駅西側の中心市街地はVの字の形をしており、JR線に挟まれた谷のような商業地である。北には名古屋城があり、この城下町として発展した。このエリアは獅子舞が生息しておらず、からくりや山車などが多い。実際にこのエリアで獅子舞の生息可能性はどのようであるかについて見ていきたい。

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今回は2022年3月25日に名古屋駅を起点としてVの字の商業地を歩き回り、獅子舞のルートを考えてみた。

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名古屋の中心部に獅子舞が存在するとしたら、名古屋高速2号東山線を境に、南北にエリアを分けて考えねばならない。南側は神社と商店街、北側はオフィスと公園ということで、町の傾向は大きく異なる。しかし、実際に歩いてみると不思議なことに、どちらも獅子舞的価値観をほのかに感じるエリアだったので、両エリアの根底にある価値観には共通した部分があるように感じられた。

多分、名古屋に住む当事者たちは完全に異質なエリア同士と思っているだろう。獅子舞によってこの両エリアを結びつけることが、名古屋市という街の新たな可能性を見出すとともに、「名古屋とはどういう街なのか?」の答えにつながるのではと感じている。以下、名古屋の獅子舞生息可能性について、各場所の解説をしておきたい。

<北側エリア>

若宮八幡社

北側エリアは閑静なオフィス街や公園が広がっている。ひときわ格式が高い神社が、この名古屋総鎮守である若宮八幡社だ。愛知県は総じて八幡信仰が盛んに見られるように思われる。その中で名古屋の総鎮守である神社である若宮八幡社でもし獅子舞が実施されれば、名古屋の中心市街地の獅子舞として成り立つのも納得できる。

白川公園名古屋市美術館

若宮八幡社の周辺は比較的閑静であるが、白川公園という大きな公園がある。その中には、現代美術を鑑賞できる名古屋市美術館名古屋市科学館などがあり、市民の憩いの場になっている。この地において、獅子舞をやるとするならば広々と舞うことができるし、家族連れにも評判が良いだろう。

下園公園

人々の憩いの場、水の上に浮かぶ島に、喫煙者たちが集いたむろしている。オフィス街の中にあって、唯一のオアシスとでも言おうか。一方で、一人でお昼ご飯を食べている人も多い。いわゆるお一人様が、この場に来て想い想いのお昼を過ごしているというわけだ。空間的には広々としており獅子舞を見てもらえる可能性も大きい。公園に訪れた人を巻き込んで、共に獅子舞をすれば、新しい出会いが生まれるかもしれない。

瀧定名古屋株式会社

名古屋の都市景観賞を受賞したオフィス。玄関前に森のような雑木林のような景観が広がっている。作られた自然とはいえ、都会の中におけるどこかタイムスリップした空白地帯のような感覚があり面白い。玄関までのアプローチも長いので、獅子舞が舞う場所も十分にある。

大通公園

先日、獅子舞生息可能性を確かめた札幌同様に、名古屋にも大通公園がある。札幌の大通公園は東西に伸びるが、名古屋の場合は南北に伸びていることに特徴がある。どちらも火防線の目的で作られ、テレビ塔がトレードマークになっているのが共通している。札幌の大通公園ができたのが1911年で、それに対して名古屋のができたのは1963年だ。50年ほどの開きがある。名古屋の大通公園の歴史は浅く、実際現地を見ていて若い人が多く集っていると感じた。カフェのテラスや芝生、ベンチなどが数多くあり、このような場所から獅子舞を見てもらえる可能性も高い。担い手確保のためにも、若者向けに舞場の1つとして考えておくのが良いだろう。時折、ミストが放射されているので涼しいし、こういうところで獅子舞をしたら幻想的になりそうだ。

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f:id:ina-tabi:20220330183342j:plain<南側エリア>

YABATON SHOP

名古屋名物の矢場とん味噌カツ。その食べられる前の丸々と太った豚のキャラクター(ぶーちゃん)が、中庭にドカンと置かれている。まるで銅像のようだ。矢場とんのお店では通常、店の壁面に埋め込むようにぶーちゃんが置かれている場合もあり狭そうだが、ここでは中庭の大きなスペースにどかーんと置いている。YABATON SHOPがアンテナショップであることを考慮の上、このような置き方をしているのだろう。本社脇にアンテナショップがあることを踏まえるとここが情報発信のハブであり中枢である。獅子舞に置き換えてみれば神社のような存在であろう。であるならば、ぶーちゃんは神聖なモニュメントだ。

f:id:ina-tabi:20220330183616j:plain三輪神社

この神社にはウサギが大量に生息する。「なでうさぎ」という石像を撫でると、幸せが訪れるという。絵馬は全部ウサギだ。手水舎ら切り株やらにもウサギの人形がたくさん置かれている。都市空間の余白という考え方には、単なる空間的なものではなく、とにかくぶっ飛んでいる雰囲気が余白のようなものにつながることもある。この場所だったら、獅子舞の演舞というある意味ゲリラ的な行為を受け止める余力があるようにも思わせてくれるのだ。

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万松寺

大須新天地通りの一角にあり、大量のお店に囲われているのがこの万松寺という存在だ。賑やかな場所にある上に、一見すると現代的な建築のお寺なので、最近に作られたのかなと思ったが、よく調べてみるとこのお寺の起源は500年前に遡るらしい。このお寺を開基したのは織田信長の父・信秀であり、信秀の供養を行ったのもこのお寺のようである。大須新天地通りの中核として、この場所で獅子舞を実施すれば、かなり多くの人に獅子舞を見てもらえるように思う。そして、獅子舞が新しくできたとしても、その新しさを許容してくれる人がきっといるに違いない。

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仁王門通

大須仁王門通や東仁王門通りなどがある。これらの通りは道幅が広く、まず獅子舞の空間的生息可能性が高い。道端には大量のダンボールが積まれている。これだけの段ボールを道端に置いておけるだけの余白が存在するのだ。それに加え、祈りの精神が今も変わらず息づいている。この「箪笥のばあば」は古くから伝わる箪笥の守り神のようだ。着るものが高価だった時から、各家の着物を守る神として信仰されてきたようだ。この体を触ると、「着るものには困らない」という。

大須観音と富士浅間神社

名古屋高速2号東山線の南側は、北側に比べると商業が活発であり賑やかな印象だ。大須の商店街をメインに考えるならば、信仰の中心となる寺社は大須観音と富士浅間神社になるだろう。敷地面積からしても、ここが一番広くて観客も集まりやすい。話題性もある。だから、これらの寺社を帰着点として獅子舞を考えてみるのが良いかもしれない。

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北側と南側を接続するバスケット広場

ここからは大須商店街から少し離れて名古屋全体を俯瞰してみたい。大須観音と富士浅間神社からそこまで離れていないところに、名古屋総鎮守として名高い若宮八幡社がある。名古屋中心部の神社といえば、若宮八幡社という意識も強い。ただし、名古屋高速2号東山線というかなり道幅の広い道路が通っており、これは大須商店街とは少しエリア的に異なる印象は強い。ただし、ここがうまく接続すれば、名古屋独自の地域的な境界を超えた新しい獅子舞の形が成立するかもしれない。名古屋高速2号東山線の高架下には、地域の若者たちが集うバスケコートなどもあり、このような憩いの場の存在が獅子舞の越境に対する可能性を示唆しているようにも思われる。

獅子舞生息の視点①寺社の数が多い

総じて見るに、名古屋は寺社の数が非常に多い。一度獅子舞をやるにしても、これだけ多くの寺社を検討範囲に入れようと思えてくる都市は他になかなか存在しない。それだけ祈りの数と種類が豊富であることが名古屋の中心部の特徴と言えるだろう。

愛知県は寺社数で日本トップのようだ。この背景としては奈良・平安時代以前に自然信仰が根付いていたからとか、江戸時代に尾張徳川家が浄土宗を中心として信仰を保護していたからとか、様々な説が飛び交っているが真相は定かではない。

獅子舞生息の視点②道路幅が広い

また、名古屋の特徴として道路の幅が広いことが挙げられる。片道4車線というのが当たり前だ。これは戦後の復興計画により大きな道路整備することになった背景がある。地域の土地面積に占める道路の割合を示す道路率は名古屋が全国1位だ。

この道路幅があることにより、「地域の境界性」が強調されていると感じる。つまり、道路を渡り向こう岸に行くには地下道やら歩道橋などを長い時間かけて渡る必要があり、信号も少なくなりがちだ。だから名古屋の地域区分は面白くて、賑わっている地域があると思えば、道路を渡った瞬間に閑静なオフィス街に突入するということもよくあるように感じられる。

この反面で、交通の利便性が向上するため、市民の経済活動はより発展するし、防災面では救急車や消防車の緊急出動が容易になる。また、火災の延焼も防げる。それに加え、地震による建物の倒壊があっても、通行止めのリスクを減らせる。おそらく地域的な境界の分断が起こる一方で、経済活動や防災の観点からは優れた都市設計になっているのだ。

 

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ここからは名古屋市鶴舞図書館で調べた文献史料をもとに、現在の名古屋市内に現存する獅子舞に関する史料を色々と探ってみた。

名古屋市内に獅子舞は少ない

愛知県教育委員会『愛知県の民俗芸能』平成26年3月31日によれば、名古屋市内の民俗芸能は断絶4,中断1を含めて54団体が確認されており、その中でも獅子舞は2つのみである。どちらも港区南陽町の神明社で10月第1日曜日に開催される祭礼に登場するもので、茶屋後男獅子と七反野男獅子という名前がつけられている。この内、七反野男獅子は中断している状態である。

また、愛知県教育委員会『愛知の民俗芸能』平成元年3月31日によれば、もともと名古屋市内には男獅子と嫁獅子という2つの系統の獅子があった。以前、南陽町には25の集落があってそのほとんどで男獅子が演じられていたとされる。ただし、その起源をはじめとする全容は不明である。寛政年間である1789~1801年に海部郡七宝村字徳実から海部郡東南部や名古屋市港区方面に、徳実流男獅子の形態が伝わったことは記録に残されている。また、嫁獅子に関しては、嫁獅子四座が存在し、その中に港本宮町の獅子が含まれていたとされる。神楽系の獅子であり、獅子頭を着けるのが女性の主役であったことから、こう名付けられた。

獅子舞などは名古屋駅の西側に分布

獅子系芸能はより名古屋駅より西側に多く、中心市街地である東側にはもっぱら山車やからくりなどが登場する大規模祭礼が多く、練り歩きが祭りのメインであることが伺える。

これは、住人の所得的なものとも深い関わりを持っていると考えられ、名古屋駅より西側地域は木曽川揖斐川長良川などの川の反乱に長い間悩ませられてきたこともあってから、土地の価格が東側地域に比べて5分の1以下だったこともある。

それゆえ、名古屋城下のまちづくりはとりわけ東側地域に発展した。享保6年(1731年)に藩主の徳川宗春が名古屋に入ってから芸能の奨励策が進められ、商売も繁盛していった。諸国から旅芸人が集められ芝居見物や山車の盛行により賑わいを見せた。名古屋駅より東側の市街地周辺にも獅子神楽は多数伝承されたはずではあるが、現在は行われておらず、やはりからくり人形や山車の方が目立つように思われる。また、都市化の進行や第二次世界大戦中の戦災、昭和34年の伊勢湾台風などの要因により、多くの民俗芸能が消滅したと言われている。

愛知の獅子舞の源流

愛知県教育委員会『あいちの民俗芸能』平成3年1月21日によれば、愛知県内における獅子舞の生息域をベルト上に拾っていくと、海部郡、名古屋市港区、知多半島、西三河豊橋市という風な繋がりが見られ、ここから推測すると、より海側の地域に多く分布しているようにも思われる。

愛知の獅子舞の大本の源流は、元々伊勢から伝わった御頭神事であろう。これは江戸時代以前に伝わったものであり、伊勢大神楽が全国的な伝播を見せる前の形である。愛知県史編さん委員会『愛知県史』平成20年3月31日によれば、尾張で唯一伝わる御頭神事は永正14年(1517年)、伊勢の箕曲大社の神主が山田の八社に伝えたとされる獅子頭の1つが伝来した南知多町篠島のオジンジキ様である。オジンジキ様とは獅子頭のことだと言われているが、これが正月3日から4日にかけて八王子社から神明神社に渡御する。オジンジキ様は全体をオグシと呼ばれる紙垂で覆われているのでその姿は謎に包まれており、オジンジキ様を持つ人の体も半分はオグシで隠れる。持つ人は3人おり、皆オジンジキ様に息がかからないように紙で口を覆う。あくまでも「オジンジキ様は見てはならない」と伝えられている。

獅子頭の在銘で言えば、この南知多町篠島のものよりも古い獅子頭が愛知県内には存在する。中でも中世の年記銘がある愛西市日置八幡宮と星大明社の獅子頭は特筆して古い。1252年の刻銘がある日置八幡宮獅子頭は、日本最古の年記銘であり、破損が多く修理が繰り返されていることから口の開閉など歯打ちの所作が行われていたことが伺える。また、獅子あやし鬼神面が保存されていることから、伊勢地方の御頭神事的な行事が行われていた可能性がある。また、星大明社の獅子頭は右手で鎹(かすがい・鉄の握り手)を持ち、左手で下顎の穴の空いている中央を持つことが推測でき、これは行道獅子ではなくて曲芸的な獅子舞の先駆的な存在であったことを物語っている。

名古屋型の獅子頭は日本全国に!

無形文化の獅子舞に対して、有形文化である獅子頭の資料は格段に少ない。『伝統産業実態調査報告書』昭和54年3月 名古屋市 P.45によれば、獅子頭の材料の大本である材木調達は、名古屋城築城の際に、加藤清正が堀川上流にある西区木挽町、材木町で製材を行ったことに始まる。木曽山脈や飛騨地方から木曽川を通って良材が運ばれ、桑名からは堀川に運ばれ、そこから西区の方までたどり着いたという。

名古屋市史 産業編』大正4年 名古屋市 P.190によれば、この材木は下級武士が仏具を作るのに使われ、それと同時に獅子頭づくりも盛んになった。つまり、仏具の職人が獅子頭も作った。明治時代以降は、問屋制家内工業が発達して仕事の分業化と専門性が増したことから、賃金が低廉した一方で人的資源が増加して、家具職人から良質で安価な残材を大量に手にすることができた。これにより獅子頭も残材を貼り合わせて安価な寄木造りにより量産される傾向が生まれ、これは高価で一木造りを基本とする北陸の加賀獅子とは真逆であるとも言える。この名古屋型の獅子頭は日本全国に向けても量産され広がりを見せた一方で、作者不明のものも多く出回っているという特徴もある。

縦横無尽に駆け回る!会津の彼岸獅子を追ってきた

福島県会津若松市で行われる春を祝う獅子舞である「彼岸獅子」なるものを拝見してきた。

春のお彼岸と言えば先祖供養の意味があり、雪解けと生命の息吹、喜びを感じる季節であることは確かだ。

ただ、なぜこのお彼岸の七日間を中心として、この地域に獅子舞が根付いたのかは定かではない。疫病避けと結び付いて天正2年(1574年)に踊ったという話もあるので、もしかすると初期段階において疫病避けと彼岸が同時に語られていた可能性がある。

それでは、彼岸獅子がいつから始まったのか?ということについてまず考えていきたい。

彼岸獅子は伝来と伝承を分けて考える

まずこの彼岸獅子の由来を考える上で、伝来時期と伝承時期を分けて考えねばならないということを強調しておきたい。つまり、獅子が初めて舞われた後にしばらくそれを継承することがなく、後になって獅子舞が継承され出したと考えることができるのだ。

では、文献上で初めて獅子舞が行われた記録として、天喜4(1056)年に前九年の役の時、源頼義・義家が安倍一族を撃つにあたり、長引く戦いの中で家臣の士気を高めるために行ったという説がある。

ただし、今日につながる会津の彼岸獅子の伝承の源流を辿ると、江戸時代の寛永年間(1624~43年)に下野国(現・栃木県)の古橋角(覚)太夫が喜多方に移り住み、下柴地域の菩提山安楽寺を中心として獅子舞の伝授したのが始まりだ。それが今日の彼岸獅子の演舞に繋がったとも言われている。

これが、前九年の役の時代のものとどれだけ似通っていたのかはよくわからない。

彼岸獅子に武士の血あり!?敵陣を突破して争いを避ける

この彼岸獅子を伝承してきたのはどの様な人々だったのだろうか?獅子舞といえば、身分の低い人々が旅芸人の形で諸国を巡業して回った興行的な獅子舞も存在する。ただ、会津地方の獅子は全くそんなことはなく、もっぱら担い手になったのは農家の長男である。また、村の青年会や若連中の様な組織を作り、そこに所属する若者たちが受け継いできた。

獅子舞に出ることは成人式に出ることと同じ様な感覚で、もし仲違いの様なものがあれば村八分と勘違いされて焦った親たちは酒を持って息子とともに謝りに行き、仲直りさせるということもあったという。それくらい獅子舞に参加することは大事で格式が高いことであり、かつ地域に住むことと同義であったことがうかがえる。

また、下級藩士たちの支援もあった様で、武道の型みたいなものが仕込まれた獅子舞の動きもある様だ。それゆえ、獅子の担い手たちのプライドも相当高かったらしく、街に出ると隣町の獅子との喧嘩も絶えなかった。その喧嘩の始まりは、弓舞の時に弓を立ててあるのが見える位置に獅子が来たことが合図となって、引き起こされる場合が多かった。弓舞というのは獅子が弓の周囲を舞いながら、最終的には弓を潜るのが最大の見せ場となるのだが、「弓を潜るのは俺だ!」と言わんばかりによそ者が来ると喧嘩になるということかもしれない。昭和初期までは、この様な獅子同士の喧嘩の光景も見られたと言う。

そういえば、会津戦争の際に、城主松平容保の家老である山川大蔵が、田島方面の守備に行っていたのを急遽呼び戻された際に、小松獅子を連れて「通り囃子」を奏し、あっけにとられている敵兵たちの攻撃を避けることができたという話がある。つまり、争い事を平和的に避ける様な役割を担っていたと言うこともできる。ちなみに、民俗芸能が藩境に集中したのは軍事的な争いを平和的に解決するためであったと言う話を聞いた岩手県北上市の時の話と通じるところがある。

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彼岸獅子を見てきた

さて、今回は2022年3月21日に行われた天寧獅子保存会による彼岸獅子を拝見してきた。

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祭りの流れは以下のようであった。

10:30-11:00 鶴ヶ城にて演舞(庭入、弊舞、弓舞、袖舞の4演目)

12:00-12:30 阿弥陀寺にて演舞(庭入、弊舞、弓舞、袖舞の4演目)

12:30-13:00 七日町通りの3店舗、渋川問屋、七日町菓坊、ろうそく販売のほしばんで演舞(庭入のみ)

お昼休憩→飯盛山方面に門付け→16:30くらいに終了。

実際に演舞を拝見してみると、まさに太鼓踊り系の3匹獅子舞という風だった。首の振り方がカクカクとしており、これは鳥の動きだと思った。とりわけ鶏舞という芸能があるが、あれにも近い気がする。この地の獅子舞は鶏と何らかの関係性があるのではないかと直感的に思った。

また、弊舞は現在、弊舞小僧というキャラクターが登場する。昔は子供がやっており、この役に選ばれることが大変な名誉であったという。15年前以来、子供がやっておらず、現状では人手が不足しており「ひょっとこ」がそのポジションについているとのこと。注目を集め人を笑わせる存在..。子供とひょっとこというのはどこか役割意識が似ているのかもしれない。

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獅子舞の多様なあり方

注目すべきポイントは、以上の祭りの流れからもわかるように、観客がいる中で見せ場を作る一方で、地域に向き合うという姿勢を大事にその両立を実現しているということ。

12:30までの行程においては、カメラマンや報道関係者、祭り好きの人々が輪を作るように人垣をなし、その演舞を楽しむ。僕もそのうちの一人として、今回、この彼岸獅子を取材させていただいた。

一方で、12:30からは「さあ、取材が終わったからお昼でも食べに行こうか」と思っていたら、なんと、まだ演舞をしているではないか。今まではお城やお寺などの会場に人を集めて演舞する形式だったが、この時間帯からは七日市通りのお店を何軒か順番に門付けして回っていたのだ。太鼓と笛の音が明るいストリートに響き渡っていた。

つまり、ここからは宣伝を全くしないで、地域とのお付き合いの中で順々に門付けをしていくというわけだ。門付けする家は、歩道を目一杯まで使ってその空間で踊る場合と、店の中に入って踊る場合の2つのパターンがあった。また、歩道を使って踊る場合、店の中から店主が見ていなくても踊っている場合があった。それを見ていた沿道の人は「店の中の人、見ていないじゃないか!」と驚く声も上がっていた。

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門付けが3軒終了し、獅子役の人々は衣装をとってオフモードに。裏路地にスタスタと歩いて行ってしまい、これから食事にでも出かけるようだ。帰りがけに話を聞いてみると、「お昼食べてきます!そのあとは山(飯森山)の方に向かって踊っていきますよ」とのこと。

それから僕はその場をあとにして、お昼を食べて福島県立博物館に行き、さざえ堂に向かっているときに、再び彼岸獅子に遭遇した。16時前くらいのことである。飯森山の前のお土産やさん・松良に立ち寄って演舞しているところを見かけたのだが、その時にはもう沿道の観客がいなくなっていて、完全にお店の人と獅子たちのみのコミュニケーションが成立していた。

ただ、たまたまその横を通った観光客は「今日は特別な日なんだねえ。これてよかった」と言っていたのが印象的だった。それからもドンドンヒョロヒョロと町のどこかでお囃子の音が鳴っているのも聞こえることがあり、「ああ、そこら辺に獅子がいるのね」と気配を感じることもあった。

また、会津若松市の町中で「お彼岸セール」のような形で仏壇や仏像を販売しているお店を見かけた。お彼岸に対する意識が強い地域性を持っているのだろうか。それから、そのようなお店のガラス窓に、獅子の絵が描かれたビラのようなものを貼っているのも見かけた。獅子を盛り上げようという意識のようなものを感じた。

 

<参考文献>

・伊藤昭一『会北史談』, 令和元年6月, 会北史談会

会津若松市会津の民俗芸能』平成11年12月

・小島一男『会津彼岸獅子』昭和48年6月