コロナ禍で考えたい、疫病を他村に送る風流の民俗史 〜柳田國男全集18より

古来、日本人は疫病に対してどのように対処してきたのか。そのような疑問を抱えながら獅子舞研究をしていて、掛け踊り由来の獅子舞についても学びたくなった。そこで、柳田國男柳田國男全集18』(1990年、ちくま文庫)の中の「掛け踊」の内容をまとめてみた。

近世に大流行した「俄(にわか)」は俄狂言である

・安永5(1776)年8月、江戸吉原に俄(20加)の戯が大いに流行した。

・大阪に始まって江戸に伝来したことになっている。

・明和5(1768)年作の清田絢『孔雀楼筆記』に30年前に俄が始まったとある。

・しかし俄にはもっと古い形式があり、近世に流行した「俄」は「俄狂言」と言うべきであろう。

俄狂言の特徴は相応自分の者が裸体に絵の具を塗って、奇異な出で立ちで大道を歩き、声を掛けられれば馬鹿げた芸をするというもので、今宮・祇園・御霊の祭日にはこの催しが多かった。

・俄かの本意は「即席頓作の軽妙を味わい楽しむこと」である。つまり、俄かに思い立つことが俄の始まりということであり、非常に単純なことだ。

 

俄の起源は「俄踊り」であった

・俄は元々俄踊りであり、単調な足拍子だけだった。近世の人々はこれに興味を示さず、俄狂言やら座敷俄やらを作り出したと考えられる。ただし、最初から一貫しているのは「あっと言わせたい」という精神だった。

・俄踊りは菅江真澄遊覧記27によれば、南秋田郡の某村において、7月13日の晩に「他村へ越えて来た、ひけとるな、節が揃わぬ御免なれ」「にわかおどりを掛けられた、足が揃わぬ御免なれ」という掛け合い歌があった。これは陸中遠野郷などの獅子踊りでも同様の事例が見られた。

・『日次記事』7月の条によれば、14日から晦日に到るまで、夜に大人子供が行列して知り合いの家を回り踊躍したことを懸踊といった。掛けられた家は踊りをしてこれに報いた。これは村から村へと踊り込むことを掛け踊りと言ったことと同じである。

・江戸時代に民俗研究をした喜多村氏は風流は物を飾って観物にすることと考えていたため、「風流と掛け踊りは異なる」という見解を示した。しかし、室町時代以後に踊りを風流というようになり、それ以前にも2つの組に分れて意匠趣向を競う遊びを風流と称していたことから、風流と掛け踊りを同一視することができる。

 

掛け踊りの多様性

・必ずしも隣接する2つの村同士の交渉だけではなかったことがわかっている。

・甲村から乙村へ踊りを掛けた際、乙村は甲村へ踊りを掛けるだけでなく、新たに丙村にも踊りを掛ける。丙村は丁村へ、丁村は戊村へと次々に掛けて行くことが普通だった。これは駿州の風流踊りの事例を見ても明らかなことである。

・江戸時代初期に2~3度大流行を見せた伊勢踊り(神跳 かみおどり)がその好例である。元和元年3月の頃、駿州府中辺の賑わいは激しかった。『山本豊久私記』によれば、「伊勢大神宮の飛ばせ給う」と申し立て、踊りはやし風流を尽くし、禰宜御祓を先に立てて、奥州まで踊り送ったとある。また、このようにしない国は飢饉疫病があるとも言われた。この理由として、事触(おしゃべり)な乞食禰宜が唐人に頼み、花火を飛ばせてみせるので、驚きはやし立てる(ざるを得ない)状況になるからである。これは公儀にお忍びで行った側面もあり、その点では御陰参りや御札降りと同じような内情がありそうだ。この時は伊勢信仰と結びついた形だが、神踊りの神は必ずしも一定するものではなかった。

・天文年中は江戸で祇園踊りが流行り、永禄10年の駿河国の風流は八幡村より踊り始めたとあり、貞享2年の遠州秋葉祭は江戸まで着いて禁止されたなど様々な話が残っている。

・いずれも不意に不思議な効力を示すようになった流行神を村送りした例が多数あり、鉦鼓踊躍によりこれを伝播した。

・『人類学雑誌』には平安朝初期の設楽神以来、久しい沿革あるものだ。

・悪徒の類もいたようで、「鹿島の事触」がその一例だ。諸国に虫害疫病が発生した時に、鹿島の神輿と称して遠国まで伝送し、摂州その他に祠を残して、鹿島踊りという踊りを伝えた者がいた。しかし、常陸の本社ではその事を知らず、相手にする者がいないのに託宣を行い、走り回る物貰いの類だったとのこと。この類には住吉踊りや鞍馬願人などがいた。

・送られる神の到達先、すなわち追却の任として鹿島が機能していた。奥羽地方で疫病を送る境の藁人形を「草仁王1名鹿島人形」と称したことからも想像できる(郷土研究2巻275頁)。

・つまり送るという行為が重要で、盆の聖霊祭やら獅子舞やら下宮御頭神事の疫神送りなどと同様で、凶神を一地に置いておかないという考え方である。

阿波国の虫送りの際に、実盛の人形を村次に土佐まで送ったのも同じ趣旨(郷土研究2巻144頁)。

・越後中部では事件が片付いて安心したことを「神輿を送った」と『風俗誌』に書かれている。

・出羽庄内では季節に構わず鉦太鼓で疫病神を送ることを「ボウ送り」と言った(齶田の苅寝、9月21日条)。ボウは兇神のことである。こう考えると、7月15日がボンと呼ばれるのは盂蘭盆会の略語とする説も疑う余地がある。

・地方相互の了解を持って、右から追うてきた神は左に送るのが良いだろうと言われたが、卒爾(予期していないこと)によって踊りを掛け返すという行為が始まったのだろう。

・「俄じゃ俄じゃ」「えらいやっちゃえらいやっちゃ」などの囃の詞は、「なもでやなもでや」「なンまんだぶなンまんだぶ」という念仏踊りや「おやもさおやもさ」という鹿島踊りと同じ足拍子を踏ませる。踊りの風流の趣旨は忘れられているがその片鱗を見ることができ、厄払い法の多様さを垣間見ることができる。

鳥取県の麒麟獅子舞の正体を探る

鳥取の獅子舞はなぜ麒麟の頭なのか?以前から疑問に思っていた。ちょうどコロナ禍でありながら、いくつか公演が予定されているという情報を得たので、良い機会と思い、2021年7月18日に現地を訪れてきた。鳥取県はどこか穏やかでゆったりした空気感があり、それもあってか麒麟獅子舞自体もかなりゆっくりしたタイプの獅子舞と感じた。図書館での文献調査を含めて、麒麟獅子舞について知ったこと、感じたことを以下に記す。

鳥取県立図書館で資料を調査

鳥取県教育委員会事務局文化財課『「因幡麒麟獅子舞」調査報告書』(2018年)によれば、麒麟獅子舞が奉納されていた神社が180社で、麒麟獅子舞の頭数は198頭だった。つまり、氏子中を門付けしてまわる場合に新旧の獅子頭を使う場合もあるということだが、奉納の舞はどこも一種のようである。ただ、獅子舞は伝わっていても中断しているところも多く、この調査が行われていた際に、実際に舞っていたのが132頭だったという。同じ獅子舞が複数の神社に奉納する場合もあり、神社数は135とのこと。平成8年は147(野津),平成22年は144(キリノジークラブ)という調査結果もあり、減少傾向にある。

 

麒麟獅子舞が伝わる地域では、「獅子」「獅子舞」と呼ばれて親しまれ、「麒麟獅子舞」という名称が使われることは少ない。この言葉自体、明治時代末期に使われ始めたようである。文化財や観光資源として対外的に広く麒麟のイメージが定着していったようである。また、麒麟獅子舞の周辺には神社の神幸の獅子舞が数多く伝えられており、麒麟獅子舞が登場する前の獅子舞の形態として考えられている。この中には現在、伊勢大神楽的な特徴を有するものもある。

 

野津龍『因幡の獅子舞研究』(平成5年11月)によれば、想像上の動物である麒麟「麒」が男性で「鱗」が女性であり、またそれが逆という説もある。いずれにしても、それぞれの麒麟獅子舞について言えば、男女の区別があるわけでは無さそうである。麒麟獅子舞の多くが神社を背にして舞い始めることから、獅子は神殿から出現した御祭神の化現と考えることもできそうだ。因幡地方の獅子舞を権現流と称することから、山伏神楽や番楽から発生した東北の権現舞とも近い由来と見ることができる。つまり麒麟獅子舞を徳川家康東照権現から来るという見方があるが、それ以前に「神仏などが権(かり)に現れる」という意味に捉えることができるわけである。ただ、徐々に本来の意味は薄れ、神社に奉納の舞いを行い神慮を慰めるという意識が強くなっていったと考えられる。

 

麒麟獅子舞がいつに始まったかという源流論に関しては、正倉院伎楽面に遡れるという話もあるが、伎楽には一角獣の角が無いことからそれは難しいのではないかとのこと。ただし、2人立ち等の唐獅子系の獅子頭の特徴があることから、正倉院伎楽面に派生する地方伝播の過程で変化した形態とみることもできそうではある。中世説としては岩美郡国府町岡益の長通寺に伝わっている麒麟獅子舞の獅子頭室町時代製作とも言われており、これでいくと一般に提唱されている江戸時代に鳥取藩主となった池田光仲が1650年に獅子舞を始めたという以前に、その原型のようなものが因幡地方に根付いていた可能性があるということだ。

 

次の検討事項として、江戸時代に広まったとすれば、光仲はどこから麒麟獅子舞の着想を得たかという話である。元々1650年に日光東照宮鳥取に勧請した際に、光仲が奉納芸能に獅子舞を選び、池田藩獅子庄屋として小椋·佐藤の両家を指定して稽古に当たらせたというのが京都市歴史資料館長の山路興三氏の見解であり、昭和52年の『獅子の系譜 鹿躍と獅子舞』に掲載された。日光東照宮には麒麟の獅子舞はない。因幡地方にあるのと、わずかながら北海道や兵庫に分布しているのみである。であれば、日光東照宮麒麟の絵図や彫刻など芸能とは違うものから着想を得たということを含めて検討せねばならない。また、上記獅子庄屋が獅子舞普及のカギを握っていたわけで、その存在こそが麒麟獅子舞の伝播を因幡地方に留めた大きな要因とも言えるだろう。

 

麒麟の信仰というのは、王者が仁なる行いをすれば麒麟がこの世に出現する、或いはそれが聖人が世の中に出てくる前兆とも考えられてきた。光仲がこの聖人に自分をなぞらえたとも考えられる。光仲とその一族が芸能に精通したことは知られていて、その芸能を多少改編することも簡単なことだったため、例えば獅子に対峙する役割として霊獣である猩々を採用することも難しいことではなかっただろう。八頭郡八東町才代の澤神社の麒麟獅子舞は光仲の寝具に使用した布を獅子の蚊帳に用いたといわれており、獅子舞への力の入れようが伺える。

 

獅子頭に一角がついている理由について、猩々が手にする朱の棒には神霊を招き降ろす依代或いは神木の意味があり、それ同様の意味があったからとも考えられている。また、中国古代社会では、牡鹿の「麟」の角を厄払いの副葬品として祀っていた。また、突いても他を傷つけない一角として、麒麟は仁獣として理解されていた。また、この角が陽根の象徴とされていたようである。これは西洋のユニコーンとも共通しており、汚れなき処女が側によると幼児のように大人しくなるとも考えられている。

 

いずれにしても、ここまで考えれば麒麟獅子舞に白幣がついていることも理解でき、一角とともに御幣の役割を得て、頭を振ることで悪霊を祓うとともに神霊を降臨させるという意味が存在すると言えるのだ。麒麟獅子舞の舞い方の大まかな構造は、前段に猩々の主役となる神降ろしの舞があり、中段に獅子舞の中心部分である獅子の神遊び、後段に猩々と獅子が一緒になって神霊の世界に還御される神送りの舞という風に三段構成で行われる。

 

②仁風閣で麒麟獅子舞の演舞を見る

高校生のみによる麒麟獅子舞の演舞が行われた。高校に麒麟獅子舞を行う部活があるということにまず驚いた。そしてスタッフもずらりと揃っていて、応援体制も整っていた。高校生らしいあどけなさはあったが、子供が実際に仁風閣という歴史的建造物で演舞を行う機会があるということ、そしてそのような文化的土壌に麒麟獅子舞に対する思いの強さを感じた。

 

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③道の駅きなんせ岩美で麒麟獅子舞の演舞を見る

因幡の獅子舞という大きな括りで保存会が立ち上がり、そこに各地域ごとの保存会が50ほど所属しているという。日本遺産に指定されたことも大きいだろうが、この麒麟獅子舞の文化を集約して、道の駅を始め観光施設で演舞していくよう取りまとめる組織があること、その運営に行政が積極的に関わっていることが素晴らしいと感じた。また、「獅子舞体験」を大事にしており、コロナ禍では控えぎみではあるが、演舞のあとは子供の頭を噛むということもしているようだ。

 

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鳥取県は総じて、麒麟獅子舞を応援する土壌、基盤がしっかりしていると感じた。日本遺産に指定されていることもあるだろうが、集約する組織の存在と横の繋がりの柔軟さがあり、冊子としてのアーカイブ、観光PR としての対外的な発信が上手く行われているように感じた。鳥取市の中心街には、様々な言語で休憩ベンチが案内されており、そのベンチが麒麟獅子舞の形をしていることから考えると、海外向けの発信も行っているように思えた。まさに鳥取麒麟の街であると感じた。

鬼とは何か?京都・大江山「日本の鬼の交流博物館」で考えた

鬼の記述についていつが始まりかといえば、出雲の国風土記に登場するひとつ目の鬼らしい。日本全国に多種多様な鬼伝承が残るが、もともと形など存在しない妖怪の類だったのかもしれない。あるいはそれはまつろわぬ民、豪族の脚色という場合もある。2021年7月17日、日本有数の鬼の里である大江山の「日本の鬼の交流博物館」を訪れ、鬼とは何か?という大それた質問を持ち込んでみた。そこでわかったことを振り返る。

▼日本の鬼の交流博物館、迫力ある外観は鬼の角をイメージして作られた

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大江山に伝わる3つの鬼伝説

まず、大江山に伝わる有名な鬼伝説は3つある。それぞれからわかることについて、整理しておこう。どれも神と鬼との共存、対立から生まれたことが見て取れる。

陸耳御笠の伝説

崇神天皇の時代、陸耳御笠(くがみみのみかさ)という土蜘蛛、すなわち豪族がいた。『丹後の風土記残欠』や『古事記』によれば、妻・匹目とともに土地を追われ、与謝の大山という場所に逃げ込んだそうだ。当時、元伊勢の内宮外宮は崇神天皇が神鏡を奉斎した吉佐宮であり、陸耳御笠らを逃亡させた崇神天皇の弟・日子座王の子・丹波道主命四道将軍)の5子を祀る5社がある。鬼と神との同居の証である。これが本当であれば、紀元前の話だ。

英胡・軽足・土熊の伝説

7世紀、つまり飛鳥時代に河守荘山上ヶ嶽(大江山)には、英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちくま)に率いられた鬼の大集団がいた。これを聖徳太子の弟・麻呂子親王が討伐したと言われている。元伊勢皇大神社に訪れた際、麻呂子親王にまつわる場所があった気がする。それだけでなく、丹波・丹後において麻呂子親王伝説を伝える土地は70箇所以上に及ぶと言われる。これは疫病や飢餓の影響の原因となった怨霊を仏教が鎮圧するという考え方と日本古来の信仰とが結びついた結果という説もある。

酒呑童子の伝説

今から約1000年前、正暦元(990)年に大江山千丈ケ嶽に酒呑童子頭目として、茨木童子を副将、熊童子・虎熊童子・星熊童子・金熊童子を四天皇とした鬼の一味が立てこもっていた。藤原摂関政治の時代に、都あたりに出没して池田中納言の娘がさらわれたことをきっかけに、一条天皇源頼光に鬼退治の勅命を下した。武勇の高い渡辺綱坂田金時碓井貞光卜部季武の四天王を従えて、山伏姿に身を変えて、蔵王権現、元伊勢内宮外宮、天の岩戸を祈願して山に入った。それから住吉・八幡・熊野の3神が現れ、神変鬼毒酒(人が飲めば薬、鬼が飲むと毒となる薬)を授けられた。さらに山に分け入ると血染めの衣を洗う女の案内で鬼の城に入り、酒呑童子はそれを迎えて酒宴となった。酒呑童子は血の酒、腕や股の肉を食べさせ、それを受け入れた山伏たちを疑うことがなくなった。酒呑童子は打ち解けた態度で自分の半生を語るが、源頼光は神変鬼毒酒を振る舞う。そして、酔いつぶれた酒呑童子の首をきり、その際酒呑童子の首に噛み付かれたが3神にもらった星兜によって難を逃れ、都に凱旋した。平安京の繁栄に対して、酒呑童子はどのようなメッセージを残したかったのか。多くの謎が残る大江山の鬼を一躍有名にした出来事である。

鉱山開発という視点から見た鬼

修験道が鉱山の鉱脈を握っていたように、鬼も鉱脈のネットワークを持っていたというのは、今回の大江山の取材で確信に至った。酒呑童子の出生地は新潟の弥彦であり、弥彦神社には製鉄民から崇拝を受けるひとつ目の鬼が祀られているという。また、鬼が嫌われる理由は、鉱山開発により、鉱毒下流に流れるため下流域の人々から嫌がられるからだそうだ。加えて、個人的には大江山下流には元伊勢という日本古来非常に重要な信仰の中心地があったわけで、それも少なからず関わっているかもしれないと感じた。鉱山労働で煤けた顔がどこか里人にとっての鬼のイメージを作り出したということかもしれない。今では、鉱山の跡地は岩がむき出しになり、険しい山の中の唯一平地を形成している。また、その鉱山の跡地になぜか野球の練習場ができ、イカズチなる名称の少年野球チームが練習に励んでいた。この土地の古層には鬼が労働して切り崩してできた平地があり、こんな山深く急峻な場所に平地の練習場ができるという異次元な土地利用にとても興味をそそられたわけである。それにしてもなぜ、この土地には鬼のよき行いが伝わっておらず、悪行ばかりが知られているのか。これはまた別軸で検討せねばならない。

※赤鬼と青鬼の起源について、赤鬼が阿形で雌、青鬼が吽形で雄というのが一般的な考え方である。これをもっと踏み込んで考えると、赤鬼が溶けた灼熱の熔鉄の象徴、青鬼が地下から掘り出された原鉱の象徴と考える人もいるようだ。つまり、鉱山開発や製鉄に携わった人々こそ鬼と呼ばれた人々であったことを示している。

本物の鬼と物語の鬼、善行が民間に伝承されているか

鬼は本当に酒飲みだったのか、これは後発的な商業イメージにより作られた話ではないかと思う。酒呑童子について言えば、酒好きという前提で、「人間が飲んで大丈夫だが、鬼が飲むと毒に当たる」というお酒を熊野、八幡、住吉の3神から持たされた源頼光が、鬼を退治するという流れである。つまり、お酒好きが祟って鬼は殺されるわけだ。これは源氏の隆盛を物語るストーリーでもあり、鬼は都で強盗して騙されて殺された悪者でしかなくなっている。しかもよくよく調べてみると、酒呑童子というのは、桓武天皇の第5皇子の家来の末裔ではないか。源氏と平家の対立構図もどことなく見て取れる。鬼が実在の人物ならば、民間伝承のなかで、善い行いをした一方で権力者に討たれたという流れがなければ、これほど語り継がれるということは考えにくい。飛騨高山の両面宿儺しかり、長野県安曇野の八面大王しかり、各地の鬼は国史的には悪者で民間伝承の的には善者であるという場合も多いのである。それならば、全てが虚構であり作り上げられたストーリーだったという点を検討すべき必要もあると感じるのだ。

ところで、世界鬼学会2019年第23号会報によれば、鬼の両義性(善悪)に関して、興味深い話が掲載されている。通常、節分の豆まきでは「福は内、鬼は外」と唱えるのだが、青森県弘前市岩木山麓にある鬼沢という村では、「福は内、鬼も内」と唱えるという。鬼が村に水路を引いてくれたという伝説が伝わるからだ。また、奈良県天川村天河神社では、神職役行者の家臣である前鬼・後鬼の子孫ということで、「福は内、鬼は内」と唱える。また、京都府福知山市三和町の大原神社では、鬼が節分の日の深夜0時に本殿において神の力で善良な存在へと改心し、村人に福を授けると伝わる。また、この地をかつて治めていた綾部藩主が九鬼氏だったことから、「鬼は内、福は外」と唱えるようである。これら鬼に対する解釈の多様性には、驚きである。

鬼に対して結論を出すならば

海外と日本の比較、あるいは時代性の違いなどを相対的に考えてみても鬼という存在にはある一定の考えが根底にある。日本の鬼の交流館の展示によれば、それは世界的秩序=コスモスからはみ出し、混沌(カオス)にひそむ超越的な力を表現しているというのである。

日本の鬼の交流博物館のパンフレット『鬼とは・・・』によれば、日本の鬼の成立は8世紀ごろと言われており、この鬼概念の成立にはインド・中国・朝鮮の鬼概念が影響を与えている。インドや中国における鬼概念は死者との強い結びつきがあり、仏教の発展とともに広がった考え方だった。一転して、韓国の鬼というのは儒教的な発想が強く、土俗信仰とも結びついた。門排(ムンベ)といって鍾馗が鬼を捉える絵を家の軒先に飾り災厄などを防ぐという風習も生まれた。日本では712年成立の古事記に鬼に関する記述はなく、その8年後に編纂された日本書紀では「もの」と訓読する鬼のような存在が登場する。日本書紀では佐渡ヶ島に漂着した粛慎の風習や容貌に脅威を感じて逃げたという話が掲載されている。その後733年に成立した出雲国風土記で、一つ目の鬼が登場して、これが鬼の初出とされている。このころの鬼は、柳田國男が言う所の山人であり、大和政権に征服された人々への賤称であったのではとも言われている。

平安時代以降は、怨みをのんで死んだ人の霊が祟る御霊信仰、自然の脅威に対して天文・暦・方位などを思考や行動に生かしていく陰陽道、浄土信仰の中で生まれた地獄の思想などを背景として鬼のイメージが確立してきた。鬼といえば、牛のような角と虎のような牙、まだらの褌などのイメージのことである。牛と虎のイメージは陰陽五行説における鬼門からきているとされ、その鬼門の方角である東北は死霊が出入りする場所であり、冬と春の狭間・つまり死と誕生の接点であり、現実に都から見て権力に従わない蝦夷が住む方角であったわけだ。鎌倉時代は新仏教の台頭と地獄思想に影響を受けた『餓鬼草子』などの絵巻物に知られるように名僧によって鬼もそれに苦しめられた人々も救われるという思想が広まる。鎌倉以降に有名になった鬼の話は、大江山酒呑童子、安達ヶ原の鬼婆、戸隠山の鬼女紅葉の3つ。室町時代以降は能(謡曲)に鬼の出てくるドラマ(幽鬼物)が多く、その半分に鬼が登場する。江戸時代の鬼は小説や芸能、演劇の世界の中に娯楽として生きることとなり、鬼の恐ろしさや現実味が薄れていくこととなる。

ここまで鬼の時代性を見てきたときに、最初は異民族との接触や支配者と被支配者の対立構造の中に鬼が生まれていたが、平安時代以降に社会不安の増大とともに幻影としての恐ろしい鬼が確立され、鎌倉時代以降の武士の台頭とともに鬼は武勇によって駆逐される武勇賛美の道具として語られるようになり、室町時代に魔王の地位を失った鬼が能の世界で破滅的心情の中で極限に追い詰められた人々の意思を視覚的に表すようになり、江戸時代以降は恐ろしさや現実味のない娯楽の対象として見られるようになったわけだ。

現代は妖怪ブームと言われているが、日本史上鬼がブームとなったのは、平安時代末期、室町時代末期、江戸時代末期だったという。いずれも社会的不安が絶頂となり、政治的空白が存在していた時期である。岩井宏美氏の考え方を借りるならば、現代日本人は精一杯働き表面的な安定性を実現しているものの、精神的には空虚で人間関係に悩まされていることも多い。このような時代だからこそ現れる鬼もいるのではないか。だからいま、鬼の歴史を理解することが必要ということかもしれない。 

Ps.獅子頭と鬼の目が似ている点について。

ところで、この博物館に展示されていた酒天童子の神楽面の眼が中心円と外円によって構成されていた件について、よくよく考えてもみれば、これは獅子頭の邪(蛇)の目と同じではないかと直感的におもった。獅子頭の邪(蛇)の目は富山県に多く見られるデザインで、蛇と関連性のある獅子舞というのは富山、岐阜、山形等日本海側に多く分布している。ある種の雨乞い信仰であり、農耕とも結び付いているものだ。この博物館 館長さんに鬼にも雨乞い信仰があるというお話もしていただいたので、これは本格的な検討の余地がありそうだ。

山形県酒田市·遊佐町吹浦の獅子舞を見てきた

庄内平野と言えば、日本有数の米所。昔からどこか理由もなく惹かれる場所であったが、この地で鳥海山信仰と関わりのある獅子舞が開催されることを知った。また、酒田市獅子頭が街中に点在することでも知られている場所だ。それらへの関心が高まり、2021年7月14~15日の日程で現地に伺い、わかったことを以下に記す。

 

7月14日

①酒田大獅子一家巡り

酒田市内には酒田大獅子一家と称して、獅子頭が各所に16体設置されている。原因となったのは、1976年の酒田大火だ。その影響で1700以上の建物が消失し、3000人以上が被災したと言われる。これを受けて、火災という厄を払うべく、製作されたのが4体の大獅子だった(オスメス2体2組)。これは舞うものよりも遥かに大きく、地域各所に展示されているという方が正しい。それからこの大獅子の子供ができ、全て合わせて16体ということである。子供の獅子の名前は市民への公募で決まったそうだ。

元々酒田には獅子頭を飾るという伝統工芸の文化があり、観光関連施設で獅子頭を販売しているのを見かけるのだが、獅子頭流行の背景にはこのような文化的基層が存在していると言えるだろう。観光客は観光案内所で借りられる無料自転車を使うか或いは徒歩でこの16体を回ることになる。その設置場所近辺の散策も楽しめるので、観光ルート創出の側面もあるわけだ。

巨大獅子頭の設置事例は他に、茨城県石岡市常陸風土記の丘にある獅子頭展望台や、大阪府難波八坂神社の獅子頭舞台などがあるが、これだけ大量の巨大な獅子頭を見られる街というのは酒田の他に聞いたことがない山王祭では、この獅子頭に噛まれるという体験ができるという。また舞う獅子舞はこれとは別に登場するようだ。

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酒田市立図書館での調査

7月14日夜に鳥海山麓の大物忌神社でお頭様の登場する神事がある。それに向けて、お頭様に関する文献を調べてみた。佐藤源治『山形県の獅子舞』(昭和57年10月 獅子玩具館)に昭和49年5月8日、著者が大物忌神権禰宜の方にインタビューをした記録が掲載されていた。お頭様に関する禰宜の返答は「お頭様の神事の始めはわからない。もと宿坊が25坊もあったが、その坊でやってきた神事である。」とのこと。また、「お頭巡幸といって、元日から3月16日まで村々を廻るが、昨年から獅子を2頭にして2組で廻り、正3日か2月9日に終わることにした」とのことだったそうだ。また、獅子頭のことをお頭様やお頭と呼ぶのは庄内地域の特徴で、その始めが遊佐町吹浦字布倉の鳥海山大物忌神社のお頭舞だったとのこと。これから拝見する御浜出神事のお頭様もその最初期に始まったものであろう。

 

また、ここからは個人的な推測の域を出ないが、この神事としての獅子舞が正月に舞うこと、そして、大物忌神社の近くに「出羽二見」という伊勢を連想する景勝地があることから、伊勢の大神楽の影響を少なからず受けているのではないか?と感じた。さて、真実はどうであろうか。今後の検討課題の1つとしたい。

遊佐町吹浦での御浜出神事

18時半に出羽國一之宮大物忌神社を神輿が2体出発。先頭に提灯の子供2人、次に幣束を持った神官が1人、その後にお頭様(獅子頭)を持った人が一人、太鼓や巫女、近所の子供達5人(空の木箱を携える)と続き、最後に神輿1台目、神輿2台目という行列が出来上がり、神社の鳥居をくぐって、約15分程度歩き西浜までたどり着く。神輿はなぜ2台あるかというと、大物忌神社だけでなく、その横にある摂社の月山(つきやま)神社の神輿を含むからだという。毎年、基本的に8人で神輿1台を担ぐので、西浜にたどり着くのにかなり時間がかかるが、今回はコロナ禍で密を防ぐために、台車に乗せた神輿を1台につき4人でそれぞれ引っ張るというスタイルをとっていた。近年はコロナ禍という理由もそうだが、人手不足も相まって神輿を担ぐ人が減っているという現実もあるという。西浜にたどり着くまでの道中、先頭から2番目の幣束を携えた神官は、神輿が道の角を曲がる場面が2度あり、その際に立ち止まって幣束を左右に振る姿が印象的だった。また、提灯は行列の先頭にあるだけでなく、道中の家々にも取り付けられており、この理由は地域の町議会議員の方のお話によれば、神輿が通る際に夜道を明るく照らす必要があるからだという。道中、徐々に曇っていた空が冴え渡り、鳥海山の頂上が見えて、夕焼けとともにその美しい姿をあらわにして我々の行列を見守ってくださっていたのが印象的だった。また、獅子頭を左右に手で抱きかかえるように運んでいたのもとても印象深いと感じた。

 

神輿が浜に着くと、海に向けて祭壇が作られるとともに、様々なお供え物(内容が確認できなかった)が備えられ、それの横にお頭様(獅子頭)が海とは逆側を向けて置かれた。四方には植物が立てられ、縄と紙垂で結界が作られた。町議会議員の方に、「結界の中に入ってはいけないけど、四方どこからでも撮影していいよ」とおっしゃっていただいた。小さなローカルな祭りだが、基本的にサービス精神旺盛で、見ず知らずの若者をすんなり受け入れてくださるのは、海沿いの町ならではの寛容さがあるからだろうか。ちょくちょく「良い写真撮れた?」と声をかけてくださったのがとても嬉しかった。当たり前のことかもしれないが、どんな地域に行ってもコミュニケーションをとることはとても重要で、そこから読み取れることがたくさんあると実感した。

 

さて、結界が張られた神域においてまず最初に行われたのが、お頭様の舞だった。2人立ちの舞いで動作はそんなに複雑ではない。基本パターンとしては右方向から頭を180度ひねり口をパクパクさせ、ぐるっと円を描くように回転して、神官の持つ笏(しゃく)を口にあてがわれたり、祭壇に顎を乗っけるようにして置かれるとともに神官が頭を下げたり、というような感じだった。山形県長井市のながい黒獅子まつりで獅子舞を拝見した時も感じたのだが、「獣の首を祭壇に捧げる、そしてそれに人々が感謝する」というようなシーンを想像させる獅子舞が多いように感じる。これは今の所山形県でしか見たことはないが、昔は全国的に行われていたことで、それが東北の一部に残されているということだろう。まさしく狩猟民の名残である。さて、このお頭様の舞もそう長くはなく、あっという間に終わってしまった。再び祭壇にお頭様が供えられて舞は終了となった。f:id:ina-tabi:20210719110843j:plain 

お頭様の舞の後は、巫女の舞が始まった。これも扇子で口を隠したり、一周グルリと回るような動作が多く、そこまで複雑な動きではない。これも数分ののちに終了して、最後に玉串奉天を地域のお偉い方々が行い、終了となった。この一部始終が行われている間、つねに結界の外では藁が燃やされ、燃え広がらないように適宜バケツに水をくんで火にかけていた。この日はなんと今年のパラリンピックの聖火にも使おうという話になっているらしい。聖なる火は儀式の間中ずっと燃やされていた。

 

この儀式ともいうべき神事の一連の流れが終わると、一行は来た道を隊列を崩すことなく、行きと同じ順番で大物忌神社の境内に帰っていった。途中、提灯を持つ子供たちが足早すぎて、少し立ち止まるような様子も見られたが、終始、無事に神事を執り行うことができ、神社に戻った。社務所で提灯持ちと木箱持ちの子供たちはお小遣いをもらっていた。行きの時に謎だった空の木箱というのは、おそらく祭壇を作るときのお供え物を入れるのに使われたのだろう。あまり意識して観察していなかったが、おそらくそういうことだ。また、抱きかかえられた獅子が神輿の前を歩いていたのは、道を厄払いするという意味で、伎楽の行道にも通じるところがあると思った。それにしても、お頭様のカラフルさには驚いた。赤や黄色などの色の髪をしており、緑などの色の入った蚊帳を用いていた。

 

最後に宮司さんにご挨拶した時に、「この神事の起源はご存知ですか」と尋ねてみたが、よくわからないとのこと。おそらくかなり古い日本古来の神事を今に伝えているに違いない。そう思った理由はまず、この神事が昼ではなく夜に行われること、そしてお頭様の舞い方が獣を神に捧げるような狩猟民族の舞いを想像させるからである。獅子頭自体はそこまで古くはないかもしれないが、舞の形式はかなり古いものと感じた。ご挨拶をして、夜道を一人少し寂しいような気持ちで、吹浦駅に向かった。吹浦駅は明かりに集う虫がたくさんだった。すこし暗いところで、30分間電車を待った。それにしても、このような地域の方だけで語り継がれている神事を知り合いゼロの僕に見せていただけて、声までかけてくださるなんて、とても感激であった。

 

7月15日

酒田市立資料館 第221回企画展「祈りと医療―昔の人は病とどう向き合ってきたか―」

酒田大獅子一家巡りを完遂させたのち、土門拳記念館に訪れて、その後酒田市資料館を訪れた。ここでは獅子舞に関しての気づきのみを書いていく。明治時代に酒田市コレラ流行の拠点となってしまった地域らしい。明治10年頃に始まった城輪獅子舞はそのコレラ退散を願うべく当時の宮司が城輪神社にこもって祈祷し、それから患者の家々をまわったのが始まりという内容が展示にかかれていた。平成5(1993)年山形県の調査によれば酒田には44件の獅子舞が確認され、そのうち約半数の20件が明治期に始まったようである。

 

ところで、石川県加賀市の獅子舞調査において、橋立地区の獅子舞は明治時代のコレラ大流行によって河北郡内灘町から多くの人が移住してきたことをきっかけに生まれたという。厄を払うという役割から考えれば、当然獅子舞は疫病から我々を守ってくれる存在である。またそれだけに留まらず、橋立と酒田市との繋がりについても今後検討していきたい。思えば両地域は日本遺産に登録された北前船の寄港地であるという共通点があり、昔から漁師町だった。両地域に交流があったとも言えるわけだ。内灘と橋立の関係のように、橋立と酒田との関係ももしかしたらあるかもしれない。そのような可能性も考えていきたいところだ。

⑤平田図書センター

吹浦の御浜出神事の由来、手がかりを探したい。鳥海山の獅子舞や番楽に関する本があるという平田図書センターを訪れた。結局それに関する本は内容が写真のみで文章がほとんどなく手がかりがつかみづらかったが、少しヒントになる本も見つけた。山形県教育委員会山形県の民俗芸能-山形県民俗芸能緊急調査報告書-』平成7(1995)年3月によれば、鳥海山大物忌神社に伝わる五日堂祭について書かれていた。

 

これは五穀豊穣を占う祭りで、1358年に北畠顕信が現在の秋田県本庄市小友村を神領として寄進した故事に基づき、本庄市小友村から粥を煮るための米と葦管が来ていたという話があり、それに絡めてお頭様の獅子舞を1月に実施しているという。ここでも回し方は時計逆回りのようで、御浜出神事とその点は同じ。あとお頭連中が「御判」と称した牛王札を配るそうで、ここで「ああなるほど」と思った。中世の山伏修験の人々が牛王札と獅子舞の信仰をセットで広め、その後ろ楯として武士の権力者たちがいたことは過去文献から明らかなことであり、この地にもその影響があったことは伺える。これは必ずしも御浜出神事の由来に繋がるものではないかもしれないが、大物忌神社の信仰的な背景が少しでもわかってよかった。

【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材7日目 橋立の獅子舞の起源とは?.....田尻町(再取材・撮影)・新保町・小塩町(再取材)・冨塚町(再取材)・石川県河北郡内灘町大根布

7月7日

今回の石川県加賀市の獅子舞取材の最終日。いろんな予定がどばっと入ってきた1日だったが、獅子舞に関して、かなり理解が深まった1日だった。その時の様子を振り返る。

橋立の獅子舞の起源を探る取材

2021年8月下旬に橋立町で獅子頭と写真の展示イベントが行われることになっている。そこで写真を展示させていただくのだが、その前に橋立町の獅子舞の起源について知っておく必要があると思い、最終日には橋立公民館館長の吉野裕之さんとともに、様々な方にお話を伺った。

 

まず明治19年1886年)にコレラの大流行によって、全国で37万人、石川県では2万人の死者が出た。これは現在新型コロナウイルスによる日本の死者数が約1.5万人だということを考えると、驚異的な数字である。この流れにより、石川県河北郡内灘町でも大根布地区だけで325名の死者が出た。元々季節ごとに日本中様々な所で漁業を営んできた大根布の漁師たちは1890 年代に日本中で村外への漁業移住を決めた人も多かった。その中でも、石川県加賀市小塩町(橋立地区)に移住した人々がいて、半農半漁の生活を送った。その人々が内灘の白い獅子頭が登場する獅子舞を橋立に伝えたと言われる。(参考: 橋立地区会館だより,2021年)

hashitate.blog.fc2.com

 

田尻町 横山伊佐美さんインタビュー(10:00~)

横山さんは橋立町で初めてディーゼルエンジン付きの船を作った80代男性の方。宗松というおじいさんが、移住するならここで良いということで兄弟とともに、内灘の大根布から橋立に移住した。当時は漁民の町として、大根布が一番大きかった。知事の高橋与一さんが終戦の食糧難の中で、底引き網の許可を与えたこともあった。また、取れる魚が違うこともあって、長崎に出稼ぎに行ったこともあった。長崎は西洋のお菓子が並んでいたことが印象深かったという。

 

伊佐美さんが最初に獅子舞に関わったのは、小学校6年生の時から。伊佐美さんの父は獅子舞に関わっていなかった。田尻町のかわら屋の人(地下の人、つまり在郷の人)が青年団長をしていた。学校から戻ってくると、厳しい指導のもとで太鼓を叩いた。田尻町は一ヶ月ほど練習する。今の獅子頭は4つ目の獅子頭で、昔のものと大きさは変わらない。橋立の獅子舞は戦中でもやっていた。田尻町の獅子舞が地域の家に招いてもらい祭りのお昼に飲み食いをする宿をするようになったのは昭和30年代から。

 

宿提供した経験のある橋立公民館の館長・吉野裕之さんはビールは100本、10万円分の食費で30人前の食事を振る舞ったという。田尻町の獅子舞は明治からなのか、大正からなのか、昭和なのかはわからない。ただ、小塩町だけは明治からやっていたのは資料に残っている。疑問点は田尻町が雄、小塩町と橋立町が雌の獅子頭を使っているということ。小塩町は列が整っていて指導がしっかりしており、田尻とは違う舞いにも見える。もしかすると、内灘の違う場所からそれぞれ習ってきたかもしれない。田尻町は黒崎村だったが、小塩町は橋立村だった。行政区分が違った分、田尻町はもともと赤い獅子でよそもの意識があったはずだが、なぜか後々白い獅子舞が根付いたのだ。

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②小塩町 濱稔さんインタビュー(13:00~)

濱さんは小塩町在住、昭和10年生まれ。小塩町の人は元は地下の人が農業をしており、内灘からの移住者は漁師をしながら生活をしていた。また、本業だけで生計を立てず、塩づくりをしていた人もいたと考えられる。地下の人(在郷の人)は茅葺の家に住んでいたが、内灘から来た人は掘っ建て小屋のようなところに住んだ。お祭りも別々でやっていた。棒振りは漁師の関係者、自分らは笛とか太鼓しかできなかった。しかしはそれではいけないということで、手打ち式をして白い獅子をみんなで始めた。太平洋戦争にも、皆一緒に戦争に出かけた。彦野さんという方が内灘から小塩町に移住して獅子舞を伝えたのではないかと言われている。

 

今では、昔は袖絞って体を出して舞うので、ちょっと形が崩れているように見える。獅子頭は上段、中段、下段という、回す位置によって段階がある。頭の上で回すのが上段。これをやっている人は一人だけ見たことがある。昔は中団(腹あたり)で回す人が多かったが、今では下段(腰下)で回す人が多くなっている。踊り手の力量が低下しているのかもしれない。ただ、棒振りなどの舞い方のタイプは変わっていない。

 

親父がいた時代に、内灘から来た人と地下の人が喧嘩していたのを覚えている。内灘から伝わった獅子舞は小塩町に初めに伝わったのは間違いない。白い獅子になる前に小塩町にあった獅子頭はグリーン系の青い獅子頭で金色の模様が入っているものと、木がむき出しになっていた獅子頭があった。どちらが新しいものだったかがよくわからない。どうして、白い獅子頭がこれらの獅子舞から変わったのかのかはわからない。ただ言えるのは昔お宮さんがあった場所がなく、今は貴船神社から獅子舞が始まる。獅子舞が始まる神社が変わったという事実があるようだ。獅子頭が白くなった理由は、おしろいを塗ることで雌獅子を笑わすために作ったという話があり、花棒が登場するのもこれが理由だ。内灘にも白い獅子頭があったので、それをそのまま伝えたとも言える。田尻町や橋立町に直接、内灘町から伝わった獅子があるというのは今の所聞いたことがない。

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③石川県河北郡内灘町加賀市橋立地区の獅子舞の起源を探る(18:30~)

橋立地区にお住いの方だけではなく、実際に内灘町の方にもぜひお話を伺いたいと思い、急遽大根布地区にお電話。小塩町に獅子舞を伝えたと言われる内灘町の大根布地区の区長・中村壽(ひさし)さんをはじめとする、約5名の区議会の皆様にお話を伺った。

大根布地区は区議会制を採用しており、大根布地区行事連絡協議会があり、祭りをはじめ様々な行事の運営を行う。その中に5つの連合会(町内会)が属しており、地区一帯となって祭りを作り上げているのが特徴である。獅子舞に関して詳しいお話を伺ったので、その時の様子を振り返る。

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まずは、こちらの友人が撮影した橋立町の獅子舞の動画を見てもらったところ、皆口を揃えて「似ている!」とおっしゃって頂いた。ただ、舞いに関していえば、橋立地区の方が棒振りの動きが激しく、大根布地区の方が動きがゆっくりである。内灘の獅子舞がどこから伝わったか詳しいことはわからないが、金沢の大名行列や獅子舞の影響がかなり見られる。また、天狗も登場するので、能登半島の獅子舞の影響も少なからず受けているのではないかと思われる。

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大根布地区には5つの獅子舞・獅子頭が伝わっている。獅子頭の特徴を整理すると、以下のような形態が見られる。

 

第一連合会(第一町内会):白い獅子頭

出村連合会(第二町内会):白い獅子頭

中嶋連合会(第三町内会):オレンジの顔と緑の角をもつ獅子頭

上出連合会(第四町内会):オレンジの顔と金黒の角を持つ獅子頭

下出連合会(第五町内会):オレンジの顔と金の角を持つ獅子頭

 

以上のことから、橋立3町(橋立町・小塩町・田尻町)の白い獅子頭は大根布地区の第一連合会や出村連合会の獅子頭と類似している。区議会の方々のお話によれば、獅子頭が白いのは、ラシャ(羊の毛)を使っているから。ラシャを使うと獅子頭が丈夫に仕上がるようだ。獅子頭の制作は白山市鶴来の知田工房の方に250万円くらい(蚊帳と合わせた金額)で作ってもらっている。制作元は橋立地区の獅子頭と同じであるが、ラシャを使っているというのは橋立地区では聞いたことがない。獅子頭の購入費用は助成金(宝くじのものなど)に巡り会えばラッキーで、寄付を募ることもある。獅子頭のオス・メスについては意識したことがない。ただ、獅子頭には角があるため、おそらく全てオスだろう。メスはいないと思われる。獅子頭には宿があり、各連合会ごとに5つ設けられている(町会長さんの家が獅子頭, 集会所がその他の小道具を保管)。また、公民館事業の一環で、2016年に内灘町獅子頭を全て役場に集めて展示を開催したことがあった。

 

▼お話を伺った後に撮影させていただいた中嶋連合会(第三町内会)の獅子頭

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また、大根布地区において花棒を使うことはないが、内灘町・室地区には花棒が伝わっている。これは花棒を持って獅子を遊ばせて油断させ、メイケン(57cmほどの両刃の劔)でとどめをさすというものである。最後に獅子の頭持ちがメイケンの棒振りを胴上げするのが恒例のようだ。花棒に関しては内灘町の他地区には見られないが、唯一の例外が昭和3年に御大典記念として大根布地区の上出連合会(第四町内会)が一度だけ演じたことがある。(参考文献:『内灘町誌』1982年)このことから、石川県加賀市橋立地区に見られる花棒は内灘町・室地区から伝わった可能性が高い。

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(2019年撮影 橋立町の花棒)

 

区議会の方々のお話を参考に、大根布地区の獅子舞についてより詳しく見ていくこととする。大根布地区のお祭りは10月の第3土日月曜日で行い、その中心になるのが加賀國二之宮の小濱神社でこの周囲に20軒以上の屋台が立ち並ぶ。その中でも獅子舞が行われるのが土日である。この2日間に、大根布地区の5つの獅子舞と神輿が小濱神社に集まり、順々に出発していく。その際に、白装束を着た人々(町内の厄年の人)が神輿を運び8の字を描きながら歩き、その神輿に獅子舞が噛みつきながら付いていく。このスタイルで神社の外に出て、各町内を回る。大根布地区には1000世帯があり、これを5つの獅子舞がそれぞれの町内を回る形で行われる。町内を回った後は、神社に帰ってきて徐々に蚊帳の中の人数も増えて奉納の舞をして終える。このお祭りの一連の流れは朝10時に始まり、夜19時に終わる。獅子舞、神輿、奴、天狗などが見ものである。ご祝儀は3000円くらいを出す場合が多い。

 

また、獅子舞を舞う機会は、一年に一度、この祭りの日以外にはない。結婚式やら新築祝いやらで舞うという地域も周りにはあるだろうが、歴史的に漁師が海に出て出稼ぎをする文化が根付いている内灘町大根布地区では、仲間がみんな集まって賑やかに盛り上がれる意味で5町で統一した祭りの日があることは一年の中でとても貴重な機会だと考えられるわけだ。この祭りは昔、現在のようなスタイルとは異なり、船に神輿を積んで1週間祭りを行い、学校も休みになったこともあったそうである。

 

大根布地区では蚊帳の中に入る人数に決まりはない。ただ、橋立地区の獅子舞に比べると、蚊帳の中に入る人数はかなり多いように思われる。獅子が蚊帳を噛むということもある。また、各家を回る時の「金貨一千万両、御酒肴は...」という口上は全く同じである。一方で、橋立地区に見られる「ロッコイ!ロッコイ!」という掛け声は大根布地区の獅子舞には見られず、「キラッサイ!キラッサイ!」という掛け声が行われる。また、5つの獅子舞全てにシャガを被った子供の棒振りが登場するので、その点も橋立3町に類似していると言える。黒・白のシャガよりも白シャガの方が偉いというのは橋立地区と同じである。ただ、シャガを被った子供が最後に蚊帳の上に乗っかるというのは、大根布地区のみに見られ橋立地区には見られないかもしれない。

 

このように、橋立地区と大根布地区の獅子舞は様々な共通点があり、昔から漁師同士で交流もあったと思われる。今でも大根布地区の方々は冬になると橋立地区にカニを食べにいく人もたくさんいる。大根布地区では各町内、毎年DVDを残しており、そのDVDをたくさん見させてもらった。その中で、ケーブルテレビの取材映像のDVDもあり、それをぜひ橋立地区の方々に見ていただきたいとのことで、お貸しいただいた。とてもありがたい。8月下旬の橋立地区での獅子舞展示の際にお見せして、後ほどお返ししたい。最後は駅まで送っていただいた。

 

参考文献

内灘町誌』1982年

大根布公民館『新たなる出発 未来へ繋ぐ』2017年

 

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新保町 獅子頭撮影(11:30~)

青年団の島崎雄三さんにお話を伺った。平成27年に作られた獅子頭が保管されている。耳をつける穴はあるが、お祭りの当日も耳をつけるという習慣はない。おそらく雌獅子である。お祭りの日程は9月12.13日。去年はコロナ禍でできず、今年はどうなるかわからない。柴山町と伊切町と一週間ごとに行う。新保町と柴山町とはお互いのお祭りに出かけるなど、活発に交流がある。青年団は高校生から始まり、卒業時期は特に決まっていない。蚊帳の中には3人、棒振り、太鼓、笛がいるので、結構人数が必要な獅子舞である。青年団の数は約30人くらいいる。獅子舞はもともと片山津から習った。柴山・伊切・新保は舞い方が似ており、3種類ある。棒振りはお化粧を真っ白にするのが特徴だ。棒振りの棒は紅白の色のものを使う。

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冨塚町 木村さんご夫妻インタビュー(14:00~)→下記ブログに追記

ina-tabi.hatenablog.com

 

【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材6日目 河南町・大聖寺永町・大聖寺下福田町東組西組

7月6日 

本日も石川県加賀市の獅子舞の取材を行った。今日の取材先は、河南町、永町、下福田町東組西組の3地域。どのようなお話を伺えたのかを振り返る。

 

河南町

河南町民会館の事務員の方に獅子頭を見せていただいた。赤い3つの獅子頭と金色の飾り獅子があり、赤くてもっとも新しい獅子頭には激しい渦模様の格好良い蚊帳が取り付けられていた。地域の獅子舞経験者の方々のお話によれば、毎年9月の敬老の日付近に秋祭りを行い、獅子舞を実施する。獅子舞の当日の日程は朝4時から出発して夜8時まで舞う(全部の家を回った後、最後に町民会館で舞う)。獅子舞の運営は青年団が主体となっている。ただし、人手不足、後継者不足などの課題もある。ご祝儀によって舞い方を変えるかという点では、昔長さの違いがあったけど今はどこも同じような気がするとのこと。獅子頭は5年前くらいに還暦の人達が獅子頭を寄贈してくれた。獅子舞を実施するのに必要な人数は、太鼓2人、獅子4人である。

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大聖寺永町

永町区長の曽谷幸夫さんにお話を伺った。獅子頭が6つも残されていた。1つは昨年に新調したもので、そのほかに過去に使っていた獅子頭が3つあった。これらは神社の社務所に残されており、その他の2つは町民が奉納した飾り獅子で、永町公民館の中に保管されている。お祭りのメインで使っている獅子頭は鶴来の知田工房で作ってもらったそうだ。ただ、目の玉は富山県由来のようなデザインである。過去の獅子頭の表情などを参考に作ったと思われる。2代前の区長さんが獅子頭制作の発注を行い、100万円以上はかかったようである。ただ、伝統継承か宝くじか何かの助成金で全額賄うことができた。昔の獅子頭の中には、菅生町のものと似ているものもあり、菅生町のものが江戸時代作なので、かなり古いことが推測される。また、耳毛が生えている獅子頭があり、これもかなり古い形態と思われる。太鼓は浅野太鼓で作ったもので、両打ち太鼓なので高価だ。

 

獅子舞のお祭りは3月と9月で、それぞれ秋分の日と春分の日の前後あたりで行う。コロナ禍で奉納の舞しか獅子舞はできていない。公民館ではなく神社の社務所で2週間練習を行う。ここ何十年は先輩からの継承で伝わってきたが、最初はどこから伝わったか定かではない。獅子舞の種類は1種類である。獅子が邪気を払う舞いをするので、獅子を退治する獅子殺しの舞いではない。岡町の舞い方と似ている。永町の中には130世帯(昔は200世帯)あり、大聖寺77町の中でも3番目くらいに世帯数が多い。そのうち班長、役員、世話役、おめでたいことがあった家など50~60軒をまわる。獅子頭が保管されている大原神社は昔、「河荘神社」という名前だった。この神社には昭和の頃に獅子頭の寄付があって、その時の記録が木の板に書かれている。大卒の初任給が1万円くらいの時代だったので、今でいう5万円の寄付をたくさんの方に募って作ったということがわかる。公民館には、江戸時代や明治の手紙、戦後以降の区長さんの名前とその年にあった出来事などを記録している。この地域は本当に記録が豊富である。また、狂言由来の大江山の鬼退治の絵が伝わっており、これは大聖寺狂言文化が根付いていたことがわかる。

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大聖寺下福田町東組西組

下福田町区長八幡神社の氏子総代である西出都芳さんにお話を伺った。獅子舞の祭りは毎年春分の日と秋。秋の祭りを夏祭りと言い、昼に獅子舞を行う。祭りは3日間行われる。当日は11時ごろから奉納の舞を行い、まずは大同工業やJAなどの企業を回ってから、町内を回る。獅子舞がどこから伝わったのかはわからない。江戸時代の話かもしれない。昔は春も秋も獅子舞を練って歩くのについて来る子供たちにお菓子を渡した。簡単なおかずとおにぎりを渡したりすることもあった。15.6人も子供たちがついてきたこともある。西出さんもよその家で呼ばれた時にたくさん食べ物をもらったことがあり、食べ過ぎたことが思い出深い。

 

昔は秋の夏祭りで盆踊りが行われていた。現在は行われておらず、人手不足や太鼓をのせるヤグラの老朽化などが原因だ。盆踊り太鼓の叩き方の伝承が途絶えてしまい、 復活が難しいのが現状である。また大きな提灯が社務所に保管されていたが、提灯は盆踊りのヤグラに飾るものではなく、 神社本殿の軒先と神社入り口の参道の途中に飾るものとのこと。ヤグラに飾る提灯は直径が60センチぐらいの提灯で、 太鼓を照らすものであり、サイズは小さい。提灯は祭事の他に旧盆の間、迎え火、 送り火の代わりとして吊るされて点灯していたという習わしがある。 横殴りの雨が降るとすぐに傷みが来るので急いで片付けに行ったこともあったそうだ。

 

獅子頭八幡神社社務所に3体保管されている。一番新しい獅子頭は髪が長いのが特徴である。一番古い獅子頭の髪はドレッドヘアだ。今青年団のメンバーは約10人ほどで、20~30代前半なので若い。舞い方は2種類あり、親方(青年団団長)の家は長めに舞う。ご祝儀の金額は3000~10000円の間が多い。獅子舞は近年、コロナの影響で中止している。昨日神主さんと相談していたら、他の町は中止のことが多いということでその流れで今年も中止になってしまった。親方(青年団団長)には西出さんは氏子総代を務めており、そのポジションでお祭りに関わっている。

 

この地域が、東組と西組に分かれている理由は、組長制度が下福田町が採用しているから。下福田町の下に、東組・西組・山岸・犬澤の4つの組があり、生産組合も4つに分かれているのだ。後半二つは地域名を組名として採用している。これは下福田町の規模がとても大きいということを意味しているのかもしれない。約80軒を4つの世帯に分けており、そのうち半分以上(50軒)が東組・西組に属している。この地域を獅子舞が舞う。神社は東組・西組で1つとなっている。

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【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材5日目 橘町

7月5日 

本日は石川県加賀市橘町の獅子舞の取材を行った。取材先は橘町区長の田中さとしさん。公民館がない町なので獅子頭には「宿」があり、その宿が田中さんのご自宅(獅子舞が3年前に途絶えてしまって、それ以来田中さんの家が宿)となっているため、そこで獅子頭や小道具の撮影とインタビューをさせていただいた。毎年、獅子頭の宿は町内の家を順々に回っていく。これは区長役とは別の回りかたをする。獅子頭は雌獅子で35~6年前に野々市市の浅野太鼓で購入した。獅子頭と太鼓は小道具の中では特に高価である。橘町は軒数が少ないが神社基本財産という町内会費のようなものがあって、それを毎月集めてうまく貯金しながらも寄付を募って購入していたようだ。その他の小道具は大工さんもいっぱいいるし、自分たちで調達できるものもあった。また、神社の太鼓と獅子舞の太鼓は別となっており、神社の太鼓も浅野太鼓で張り替えた。また、神社の太鼓にも獅子頭同様の宿があり、町内を一年ごとに回っていく。これは町内の家数が少ない橘だからこそ維持にお金をがかかる公民館を建てずに、各家持ち回りで祭り関連の小道具を保管しているという訳である。公民館がないといえば大聖寺京町もそうだが、ここは町の私有地に小さな倉庫があってそこに保管している。また橘町の小道具の話だと、衣装の前掛けに文字を書かないのが珍しい。ハイカラな衣装は橘町から出た大阪の方が20着も寄付してくれた。

 

橘町の神社は「多知波那神社」と書き、由緒正しい神社である。この件に関しては、ミセさんという方がよくご存知とのこと。伊勢神宮と直で繋がっていたという伝説があり、拝殿の板をめくると、歴史が書いてあると言われているが、流石にそれを見ることはできない。拝殿の奥にある神殿が崩れかけた時に、木の特殊な由緒正しい屋根を持っていることを知った。また、絵馬の歴史も面白いようで、10年以上前に絵馬を研究している人が訪れてきたこともあった。また、実際に現地を訪れると、狛犬が大量に奉納されていることに興味を持った。神殿の隅に並べられていたものも出してきて、外に飾るようになったそうだ。いつの時代の狛犬かは判明していない。

 

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橘町の世帯数は13軒で近年はほとんど数に変動がない。この軒数で獅子舞を運営できていたのは、昔は子供が多くて、それがスライドする形で獅子舞を継承していったから。獅子舞の始まりは、約50年前に遡る。奥谷町から獅子舞を習ったという。その前(田中さんのおじいさんの時代)にも奥谷町由来の獅子舞を行なっていたようだが、それが途絶えて復活したという形だ。本当の獅子舞の始まりというのはよくわからない。3年前に若い担い手がいなくなって、外に出てしまう人も多かったので、獅子舞が途絶えてしまった。自分たち(田中さん)の下の世代が少なかったという訳だ。最後の方は外に出た若い人たちが祭りの日に帰ってきていた。SNSで若い世代同士話しあって、親よりも先に帰るか帰らんかを話し合っていたようだが、みんな帰らんとなるとなかなか人が集まらない。そういう空気感も獅子舞の存続には重要な要素を占めると思われる。

 

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獅子舞は獅子3人とシシツキ(槍のようなもの)1人、笛2人、太鼓1人で構成される。運営は保存会がされていた。笛や太鼓はご年配の方でもできるが、獅子やシシツキは若い人が必要である。獅子舞は昼過ぎから神社に始まり区長役の家を回り、キュウリ・ムカシ・オオタツ・シシゴロシ、あともう一つの5つの演目を順番に舞った。最後は神社で5つを舞う。小学校の時(2~3年くらい)から習うのが当たり前だったので、3年前に最後の獅子舞をした時も練習はほとんどしないで舞うことができた。奥谷町の人が舞いに来る、あるいは合同でやるというのは難しく、自分のところは自分という感覚もある。奥谷町は能登由来の天狗面が登場する舞いをやるが、その天狗の部分は橘町には伝わっていない。獅子舞は9月16日にやっていたが、途中から子供が集まれるようにと、その前後の土曜日に変わった。その時、獅子舞以外のお祭りは16日のままにしたので、そこで獅子舞とその他が別日として分けられた形である。近年は獅子舞をやっていないため、9月16日のお祭りのみがあり、祭りの日には江沼神社(天満さん)の方がきて神事を執り行う。休める人は仕事を休んで、神社でお祓いをしてもらう。今でも、町の方々はお祭りには熱心に取り組んでおられるようだ。