【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材4日目 保賀町・大聖寺上福田町・上河崎町・吉崎町

7月4日 

本日は石川県加賀市南郷地区の3つの町の獅子舞を取材させていただいた。各町の区長さんや青年団の方などにお会いすることができた。その時に伺ったお話を以下にまとめておく。

①保賀町

区長の徳山真裕さんと祭礼委員会の会長・中出さんにお話を伺った。獅子舞の運営は祭礼委員会がやる。その組織の名前を椨の木(タブノキ)」という。現在はコロナ禍で各家を舞う獅子舞を実施できていない状況で、奉納の舞いがメインとなっている。また、三密を防ごうとすると集まりにくい状況なので、練習もあまりできていないようだ。祭礼委員会は高校生から入って、今では最高齢の人が48歳となっている。卒業のタイミングは特にない。祭礼委員会ができたきっかけは、青年団の人数が足りなくなって、祭りをやってない空白の時期があった。それから復活した時に、祭礼委員会というのができた。48歳くらいまでの人が所属しているが、舞う人はだいたい35歳までの人である。

 

タブノキの御神木

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お祭りの本番は9月の第3土日で行なっている。昔は日が決まっていて、9月18日あたりの平日にやっていたが、人が集まるように土日に変更された。お祭りの当日は朝7時くらいから開始するが、家を一軒一軒回っていた時代は、朝5時くらいから開始して130世帯分くらいを1日で回っていた時もあった。朝はあまり見てくれる人もいなかった。獅子舞が終わるのは夜8時くらいである。近年は町民会館、神社、観音様、区長さん宅、班長さん宅など10~15軒を回る。その場合は朝の10時くらいには終わる。春の祭りもあり、それは町民会館、神社、観音様だけを回る簡易的なものだ。

 

舞い方は「寝獅子」と「立ち獅子」の2パターンがある。寝獅子は神社でしかやらない。獅子頭を新調したのは、10年くらい前のこと。獅子頭の耳がとても大きく、横ではなく前を向いて取り付けられている。井波で製作した。今は3代目である。一つ前の獅子頭は顔が取れて顎と頭しかない状態になっており、練習用で使っている。獅子舞はどこから習ってきたとか、いつ習ってきたのかという詳細はわからない。 

 

②上福田町

青年団長のとうりさんにお話を伺った。獅子舞はどこで習ったのか、わからない。70歳のおとうさんの代から今と同じ獅子舞を行なっており、40年は少なくとも同じものをやっている。獅子頭は3つあり、古くなったものも大事に保管している。全部、富山の井波で作られた。前の獅子頭のデザインなどを参考にして、発注を行なったそうだ。発注するごとに徐々に獅子頭が重くなった実感があるという。獅子頭の耳は布を当てて、外した状態で大事に保管している。獅子頭の制作年は一番新しいものが平成31年作で、その前が昭和に作られたものである。

 

お祭りは3月の第3週の日曜日と、8月の第3週の日曜日の2回やっている。コロナ禍では祭りができておらず、団長になってからは一度も獅子舞ができていない。青年団長は2年交代なので、このままだと団長の時に獅子舞ができないかもしれない。来年の3月にはできたら..と考えているそうだ。お祭りの当日は朝7時か6時くらいから始める。100軒以上を回る。新築が多くなっており、世帯数は増えている。シャンシャン、カンカラカン、チョウチョウ、三番叟が1号、2号の5つのリズムがある。三番叟がは、小学校1~4年、5~6年で棒の長さが違う。シャンシャンをよく踊り、子供の家はカンカラカンが多くて、チョウチョウは新築の家などで踊る。チョウチョウは祝いの意味が込められていて、頻繁に行う訳ではないので踊れる人が少ない。昔から踊りは変わっていないが、少し型が崩れているという話もある。青年団が若いので、一層昔との違いがひきたってしまっているということもあるだろう。ただし、これは現代風に踊りやすいように進化しているとも言えるかもしれない。

 

獅子舞の担い手になるのが小学校1年から小学校6年まで、大人が30歳くらいまでとなっており、かなり若い方が多い印象だ。青年団は全部で10人はいる。獅子舞の構成としては、太鼓が1人、獅子が3人、笛が1~4人くらい。獅子舞に参加した子供は小さい子は1000円、小学校5~6年は3000円がもらえて、お菓子ももらえる。各家からもらうご祝儀は3000円以上である。ご祝儀の額によって舞い方が変わるわけではない。演目はいくつかの種類があるので、青年団がその場で何を演じるかを決める。

 

▼上福田町の獅子頭

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③上河崎町

区長の舛田俊一さんにお話を伺った。平成30年に新調したのが最も新しい獅子頭。デザインから推測するに、おそらく富山の井波で作ったものだろう。宝くじの助成金で購入したため、獅子頭の耳に宝くじのマークのシールが貼られている。古いの合わせると合計4体の大きな獅子頭が公民館に保管されている。獅子頭は古いと捨ててしまうところも多いので、このように大事に保管されているのは珍しい。一番古い獅子頭は塗りがシックな風合い(つや消し?)で、その点では大聖寺菅生町の江戸時代作の獅子頭と似ている。獅子頭は徐々に軽量化している傾向がある。4体の獅子頭が並立することなく順々に使われてきたということは、おおよそ100年以上、獅子舞が行われてきたと考えられる。上河崎から獅子舞を習ったという地域もあるので、歴史もかなり古いだろう。

 

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お祭りは春と、8月の第3土曜日に実施している。170軒くらい家があるので、朝早くから舞い始めないと一日で終わらない。太鼓と獅子舞のみで、棒振りなどはいない。南郷は棒振りがいるので、少し獅子舞のイメージがそれとは異なる。昔は獅子舞のお祭りののち盆踊りもやった。ご祝儀の額は一般的には3000円、町役の人は少し高めに払う。今は獅子舞運営は青年団だけではやっていけないので、年齢を上げるために保存会を作った。また、青年団のOBを青茄会(あおなすかい)と言い、お祭りなどのイベント企画をされてもいる。これは壮年団と似た機能を持つ組織だ。明治時代以降に書かれたと思われる青年団の決まりに関する書物があり、公民館に掛け軸のような形で飾られている。一般的には昔は青年団はすごい力を持っており、全国大会を行なったこともあった。その結束力が垣間見れる貴重な書物である。

 

④吉崎町

片野一也さん(吉崎町区長)、桶田和芳さんを上田朋和さんにご紹介頂き、お話を伺った。吉崎町は福井県側と石川県側に分かれている。元は越前国だったが、平安時代加賀国と分けられて、明治17年内務卿の山県有朋(やまがたありとも)が最終的に、福井県と石川県の県境の線を引いた。吉崎町に伝わる太鼓には「化粧町(けしょうまち)」という文字が書かれている。おそらく、吉崎町のことである。吉崎御坊蓮如上人が開いた場所だが、人が集まる場所になったので、遊郭も自然とできていった。だから、「化粧」はそれが由来となっている。吉崎御坊のお山のところには、それに関する句碑(ここでは「化生」という漢字)が建っている。この句碑があって初めてこの地が化生町であることがわかった。この類の話は、金沢市二俣町の神社にも残っており、街道沿いなので吉崎との繋がりもあったと言われる。また、吉崎御坊のお山には高村光雲が作った蓮如上人の銅像もあり、戦争の時に供出しなくてはいけなくなったが、怪我をする人が出て祟りがでるということで取りやめになった。この山には石碑など様々な石造物があり、信仰の聖地ということが再確認できる。

 

▼化生町の由来に関わる句碑横の説明書き

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また、瀬越町と吉崎町の神社は関連性がある。瀬越町が男の神社で、その神様が吉崎町の女の神社に夜這いに行く。男の神社には裏門があり、そこが夜這いのルートだった。吉崎の神社は福井大地震(1948年)の時に壊れて瓦が散乱していた。北前船の関係で裕福な町だったため、拝殿はかつて2つあったがそれらは破壊されてしまった。裕福な町といえば、瀬越町も道路がアスファルトではなく、コンクリートで固められていたし、お金持ちの家2軒が町の税金を全部払っていたということもあった。

 

▼夜這いのルートになった門?

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※7/6追記 夜這いの門とはこの門ではなく、違う木の門だったかもしれないとのこと。また、瀬越町と吉崎町は姉妹同士で、瀬越町の神様が吉崎町の神様のところに遊びにいったという説もある。

 

吉崎町は福井県側が春日神社で神楽、石川県側が白山神社で獅子舞を行う。獅子頭は知田工房で制作した。また、獅子舞は塩屋町から教わった。塩屋町とは太鼓の叩き方や獅子の舞い方が一緒だ。吉崎町には、桶田さんが作成した金色の神輿用の獅子頭がある。しかし、この獅子神輿ができる以前は、なんとアンパンマンの神輿を運んでいた。今から20年も前の話である。獅子舞の祭りは3月20日と9月19日に行なっていた(石川県側の話)。始まりは7~8時で午前には終わらせていた。午後からは子供神輿が行われた。福井県側の吉崎町にも獅子舞があった時があり、それが石川県側の吉崎町をまわったこともあった。商売していたところを中心に5軒ほどをまわった。福井県側と石川県側で祭りの日が異なっていたためである。獅子舞の種類は1種類で、寿の文字を描いた。ご祝儀が多い場合、ノミ取り(筆者的には柳田國男『獅子舞考』で獅子舞の起源としてにわか踊りの話が出てくるがそれとの親和性を感じる)の動作を右左と行なった。ノミがなかなか取れないので、寝てしまうような動作もあった。寝てしまったのちに、太鼓の音で目が覚めた。獅子舞というのは、獅子に魂を吹き込む感じで舞わねばならない。いくら教えても、人によって個性が出てくる。

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獅子舞を最後に舞ったのは県境の館ができた年(2015年)である。それ以来、獅子舞は行なっていない。獅子舞が途絶えたきっかけは、人手不足だった。最後に獅子舞をやっていた時は5~6人だった。獅子舞を行うのに最低必要な人数が4人で一見ハードルが低いものの、交代する人も必要なので、10人以上は担い手がいないといけない。獅子頭を持つ人間が一人だと特に厳しい。獅子頭の後ろにいる人も舞っているのについていく必要がある。ストーリーがわかっていて、各々の個性も把握して、今から行くぞ行くぞという風に舞わなくてはいけないのだ。昔は塩屋町と瀬越町と吉崎町が合同で塩屋の緑丘小学校(53年前に設立)に集まり、20周年あたりで舞ったことがある。その時には、塩屋町と吉崎町の獅子舞は似ていると思ったが、瀬越町のはまた違う舞いだと感じたそうだ。獅子頭に関しても塩屋町と吉崎町は似ている。現在、獅子頭は使い込まれ、髪の毛が少しずつ薄くなっている様子がうかがえる。今では使っていないものの、大事に保管されている。

【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材3日目 黒瀬町 中代町 吸坂町

7月3日 

本日は石川県加賀市南郷地区の3つの町の獅子舞を取材させていただいた。橋立町公民館長の吉野さんにお電話と送迎をしていただき、各町の区長さんなどにお会いすることができた。その時に伺ったお話を以下にまとめておく。

 

黒瀬町

区長の松本修さんにお話を伺った。コロナ禍では祭りができず、奉納の舞だけ行った。祭りは春と秋に行われ第2日曜日に行う。農家が今は20軒ほどあるが、昔はもっと多かったので、祭りも農耕的で五穀豊穣の意味も強い。青年団の先輩たちが担い手となっており、青年団だけでは行っていない。昔は笛も棒もあったが、今は太鼓しかない。獅子頭の耳が立っており、鬼のような形相だが、雌獅子である。ただし、舞い方は激しくて暴れ獅子があり、舞だけを見ると雄獅子のようだ。蚊帳の中に入る人は2人。太鼓2人と合わせて、4人は少なくとも必要である。1日で200軒回る。ご祝儀の額は決まっておらず、人によって金額はバラバラだ。役員は5000~10000円を出す人が多い。よその町の人が見にきて、500円玉をひょいっと渡してくれたこともある。獅子頭や蚊帳はいわれがあるわけではなく、その時の青年団の好みで作っている。昔の獅子頭の髪は白かったが、今は黒い。昔、結婚式に呼ばれて獅子舞を行なったことがある。また、保育所で舞ってほしいと頼まれたこともあった。獅子舞の祭りが終わると、男女が蚊帳の中に入ってごちゃごちゃやったと言われている。最近は若い人がいなくなったので、高校生にアルバイトとして舞ってもらったこともある。伝統行事なので受け継がなくてはいけないという義務感もある。ただ、春の祭りを簡略化(舞いを短く)して秋に重きを置くなど、人口減少下でも工夫して実施しているようだ。

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②中代町

区長の西出崇春さんにお話を伺った。耳がでかく、目がでかい。ぎょろっとした獅子頭を持っている。30年前には少なくともあった獅子頭なので、どこで作ったのかなどは分からない。襞の多さや顔の凹凸の少なさなどが井波由来の獅子頭に似ているように思える。記憶では、50年以上は獅子舞を実施している。3月17日と8月17日にお祭りを行なっている。獅子頭1人と尻尾1人と太鼓2人で最低4人いれば、獅子舞を実施できる。この点では、黒瀬町と一緒である。舞い方は1種類であり、ご祝儀の額などによって舞い方を変えることはしない。太鼓をドンと叩いたら起きる寝獅子の舞い方である。暴れ獅子ではないので、あまり獅子頭をぶつけて壊れるということはない。昔からの獅子頭ではあるが比較的新品に近いほど綺麗である。コロナ禍でも獅子舞だけはなんとか行いたいと考えていて、夜の盆踊りはできそうにないが、奉納の舞いはできたらと考えている。

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③吸坂町

区長の八日市泰隆さんにお話を伺った。鶴来の知田工房で昭和62年に獅子頭を作ってもらった。凹凸のない綺麗な丸顔である。お祭りの日は9月15日と決まっている。コロナ禍では、獅子舞を実施できていない。蚊帳の中に入るから、感染が心配のようだ。ご祝儀をいただかなくても、全部の家を回る。空き家や留守になっている家は簡易バージョンで舞う。町内は約40軒の家があるが、年々少なくなっている。ゆっくり舞うのと「早舞」と呼ばれる早い舞いという2つの種類があり、簡易バージョンの場合はゆっくり舞うのみで終わる。「早舞」は走るという動作もある。玄関の中に突っ込むかは頭次第で、厳密に舞い方が決まっているわけではないので、獅子頭を持つ人の動き次第であり、他の人はそれに合わせていくスタイルである。笛を吹く人はいない。棒振りや笛がある場合は、雌獅子のことが多い。中学生から獅子舞に参加でき、蚊帳の尻尾持ちから始める。20年間、獅子舞が途絶えてしまったことがある。今、70歳くらいの方が40歳くらいの時にやめてしまったので、単純計算でいくと、今から30年前のことだ。それから、獅子舞を復活させようという動きが強くなって、昔獅子舞を実施していた方に習い、獅子頭を新調した。獅子舞の動画は残っていなかったが、覚えている方に教えてもらって復活した。獅子舞の中には3人入る。尻尾を持つ人は蚊帳の中だと暑いので、蚊帳の外で舞うことも多くある。

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【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材2日目 宮町 片野町 高尾町 深田町

7月2日

本日は石川県加賀市橋立地区の4つの町の獅子舞を取材させていただいた。橋立町公民館長の吉野さんにご紹介いただき、各町の区長さんなどにお会いすることができた。その時に伺ったお話を以下に記す。

①宮町 

区長の大宮昭弘さんにお話を伺った。宮町の獅子は橋立3町とも違う。獅子頭の制作を鶴来に頼んだら、なぜか越前国三国で作られて送られてきた。塗り師と彫刻師が別々の人間である。練習用の獅子舞は暴れ獅子により、太鼓に忠実に走ると必ずどこかにぶつかるので、獅子頭がどんどん壊れ耳が紛失した。舞い方は寝獅子で一見ゆったりとした印象を持つ方もいるだろうが、太鼓の指示によって獅子が左右に激しく動くこともある。どこから獅子舞を習ったのか、当時の人は生きてないので詳細はわからないが、鶴来から習ったとも言われている。

 

蚊帳の中に入る人の数は決まっていない。その時にいる人が入ることになっている。青年団のみで獅子舞を運営していた時は人手が足りず、55~6年前ごろに3人しかいなくなった時もあった。その時は獅子舞の中に入る人が1人しかいなかったため、体に尻尾を括り付けて獅子頭を持って演じていた。つまり、人手不足の1人獅子である。今は青年団がほとんどおらず、45~6歳までのベテラン含めた壮年団が獅子舞の運営主体となり、人手を確保している。

 

祭りの本番は9月25.26日である。本来、橋立地区は田んぼの収穫の関係もあり、25日に祭りを行う決まりだったが、他の多くの地域は日程をずらしてしまった。宮町のみ日程をずらさずに祭りを行なっている。獅子舞はまず1日目に町内を舞い、2日目に「お礼参り」と題して、もう一度同じルートを舞う。その意図としては、田んぼの関係で留守にしている家も多いのと、町内の家があまり多くないため2回回っても大きな負担にはならないことに由来している。ご祝儀の額は統一して、一軒につき5000円と決まっており、役員のみ高めの金額を払う。

 

獅子舞の性別は雌獅子であり、男のみが演じることができる。獅子頭を持って、若い女の子を追っかけたこともあった。昔は獅子舞をしっかり練習する習慣があったため、型がしっかりとしていたが、今では稽古をしなくなったので、少し舞い方が乱れてきている。昔は練習は2週間みっちりと夜やっていたが、最近は3日間くらいやる。皆ベテランなので練習をしなくてもすでに舞い方を知っているのだ。ただし、昨年はコロナ禍でも獅子舞を通常通り行なった。獅子舞を継続したいという意思は強いようだ。

 

宮町の神社(式内宮村岩部神社)にはとても特殊ないわれがある。高尾町にも遥拝所があり、宮町と高尾町と大聖寺の菅生石部神社の3地点を結んだ場所に神社が建てられた。昔はその延長上に小松の串茶屋(の神社?)もあった。宮町の起源がこの神社であり、その御神体は岩である。拝所の裏に岩が祀られており、それを覗くことは禁止されている。その岩は田尻町から人が押して歩いて持ってきたものだが、宮町に入った瞬間突然重くなり動かなくなってしまった。そこで、この地に岩を安置したと言われている。神殿の代わりに岩がある場所というのはとても珍しい。朝鮮の人が屋根材を持って行ってしまったという言い伝えもある。また、この神社には変わった狛犬がいる。阿吽の位置が神社から見て、左が吽、右が阿であり、この配置は通常と逆位置である。また、狛犬が微笑んでいて表情まで珍しく、口開きが絶妙すぎて虫が寝床にちょうど良いのか巣を作っている。また、手水鉢というものが境内にあり、これに溜まった雨水で目を洗うと目が良くなると言われる。神社の名前の一部である「式内」は格式が高い神社であることを示す。

 

▼式内宮村岩部神社

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②片野町 

上河崎から獅子舞を習った。獅子頭を鶴来で何回も修理に出した。お祭りは毎年、9月11日に準備を行い、12日に本番の秋祭り・祭礼を行う。神社から始まり、一軒ずつ回って、最後に神社で終わるという流れである。笛はなく、太鼓に合わせて獅子が舞う。獅子の中には3人入る。中に入っている人は外が見えないので、いろいろなところに頭をぶつけてしまうことがあり、それをサポートしなくてはならない。

 

▼片野町の獅子頭

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③高尾町 

獅子頭は昭和60年に鶴来の知田さんが彫ったものと、富山の井波で大島さんという方が彫ったものの2つがある。井波の獅子頭の毛は黄色で、外人さんのようでとても変わっている。また、この 2つの獅子頭はどちらもお歯黒である。金の上に黒色を塗ったか、金がはげて黒が出てきたのか。何れにしても歯が黒い獅子頭というのはそう多くはない。2~3年くらい前まで獅子舞をしていたが、各家を回るという形式の獅子舞は現在、途絶えてしまっている。コロナがきっかけではなく、担い手不足が原因とのことで、青年団は3~4人ほどしかいなくなってしまった。若い人がいても青年団に興味を示す人がいなくなってしまったという現状もあるようだ。昔は農業の人が町内に多かったが、今では小松などへ勤め人(サラリーマン)として働きに出る人も多くなった。

 

今、祭りの日は公民館でビンゴゲームをやるのと、神社での奉納をやる。太鼓に合わせて獅子舞が舞っていた時もあったが、昔の獅子舞はもっと賑やかで、笛もあったかもしれない。春にもお盆の彼岸にも獅子舞を行なっていたと言われている。獅子舞の舞い方は1種類のみだった。ご祝儀の額によって舞い方を変えることはしない。しかし、なぜか同じ演目を1つの家につき3回舞うという習慣があった。もしかすると、演目を短いと感じていた心理の表れかもしれない。また、町内と周りの地域を比べると、とりわけ太鼓の叩き方が違うと感じるそうだ。つまり、高尾の獅子舞の個性は太鼓の音に表れていたのかもしれない。

 

▼撮影の様子

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④深田(ふかた)町

OBの木村俊一郎さんにお話を伺った。雌獅子の獅子頭を使っていたが、5年前くらいに田尻町などに対抗するため(憧れがあったため)に、雄獅子の獅子頭に変えた。浅野太鼓に頼んで太鼓を張り替える時に、獅子頭も50万円くらいで発注した。小松基地の関連で降りる防衛庁の予算で獅子頭を購入したそうだ。この獅子頭は、別所町のものとデザインがそっくりである。太鼓は長持ちするので、明治時代に作ったものを今でも使っている。

 

獅子舞は大聖寺のどこかの町から習ったと言われており、明治時代頃の話のようだ。この地域に伝わる獅子舞には棒振りがいて、六尺と刀の2つがある。雌獅子から雄獅子に変わったものの、舞い方自体は変化しなかった。棒振りはいるが獅子殺しの舞ではなく、獅子舞をどちらかというと楽しませるような舞いをしている。

 

今、獅子舞の担い手は5~6人で行なっている。青年団であるかないかに関わらず蚊帳に入ることができ、子供含めて最大10人くらい入れる。祭りの日は9月16~17日でやっていたが、最近はその前後の祝日に合わせて行うようになった。舞い方は3つあり、全部で50軒を回る。2日間、朝8時頃から夕方6時頃まで行う。ご祝儀の額によって舞い方や回数を変えることはしない。ご祝儀は5000円が目安となっている。祭りが終わったら昔は盆踊りのような夜の踊りがあった。越中風門(おわら)踊りと佐渡おけさの2つの曲が流れた。佐渡おけさが流れるということは北前船での交易がもしかしたら関係しているかもしれない。獅子舞はお宮さんと鏡池に行ってから、各家を回る。

 

鏡池とは斎藤別当実盛が篠原の戦いで戦死する前に白髪を染めた時に使った鏡を沈めた池と言われ、地域の方々にとっては飲料水として使われていた(「深田の水瓶」と呼ぶ)。今ではあまり綺麗でないので、飲めなくなってしまったようだ。今でもコイがこの池を泳いでいるが、このコイが浮いてきたら毒が入っている目印になるので、浮いていなかったら飲むことができるという指標になっていたと考えられる。

 

元々町の信仰の中心である白山神社は笠伏山の上にあったが、明治時代に政府のお触れで麓に移されてしまった。今では山の上に遺構(基礎の部分)が残るのみである。この地域は前田の殿様に由来する旗が伝えられている。また、深田町やその周辺には、福井のお寺の門徒が多数移住してきたと言われている。その由来は江戸時代頃?に福井の殿様が孕み女(解任した女性)を生かしておけば後継ぎ争いに繋がるという考えを持っていたため、それを恐れて逃げてきた人間がたくさんいたようである。また、福井の陶器関連の職人を引っ張ってきたという話もあるようだ。この移住の話と獅子舞の由来との関連性はあまりよくわかっていない。

 

鏡池

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【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材1日目 大聖寺本町

2021年7月1日

今年度も石川県加賀市の獅子舞取材が始まった。本日より1週間程度、加賀市に滞在して獅子舞を重点的に取材し、適宜ブログを更新していくこととする。初日は大聖寺本町の獅子舞を取材。区長の敷中さんに獅子頭の保管場所にご案内いただき撮影を行い、薬屋を経営されている山口晃平さんに獅子舞のお話を伺った。どんなお話が伺えたのかを振り返る。

 

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まず獅子頭は本町公民館に保管されていた。獅子頭が収納されていた木箱には、「昭和◯三年四月新調 井波町 渓久平刀」の文字が書かれてあった。富山の井波の彫り師に作ってもらったようだ。尻尾は2本あり、新しいものは真っ赤な色で、古いものは色が褪せたのかオレンジ色のような色だった。鼻の下に金、黒の順番で着色されているのが富山らしいデザインだと感じた。

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次に、獅子舞のお話を伺った。獅子舞は大聖寺の桜まつりのみで開催されている。青年団(&壮年団)は12~3人で構成されており、高齢化が進んでいて50歳くらいの方まで所属しているという。基本は皆、舞いを覚えているので、練習はせずにいきなり本番でも対応できている。

 

▼いただいた資料とDVD

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本番のご祝儀はバブルで景気が良かった時などに1万円札がよく入っていた。しかし、今では3000円が平均で、5000円出す人がいたら多く出してくれたという印象のようだ。獅子舞の演目は1つで、それをどこまで演じるかということで3パターンくらいに分かれている。大勢の観客がいたり、ご祝儀をたくさん出してくれたりした場合は長く演じるようだ。獅子舞は玄関の中まで入ることもある。

 

また、この大聖寺本町のもっとも特異な点は、空き家の前でも獅子舞を実施することである。特にご高齢の方に顕著な傾向として獅子舞は厄払いの意識が強く、留守にしていても舞ってほしいという要望が強かったためにこのような習慣が始まったという。また、このような場合は後日ご祝儀をもらいに伺うということもあるそうだ。また、ご祝儀は獅子舞だけでなく、さくら祭りで神主が巫女を連れてお祓いをしに家の前にきた場合にも渡す。

 

舞う時は昔は色々な町内を回っていたのだが、今では大聖寺本町のみを舞う。最初は他の町もやっているから獅子舞をやろう!という雰囲気もあり、他の町の獅子舞を見る機会も多かったが、今ではそのような機会も多くはないそうだ。

 

獅子舞を始めたのは2~3世代上、100年くらい前の話で、山本さんという方ともう一人の方が始めた。どこから習ったかは、もう初期メンバーが亡くなってしまっているので、よくわからない。ただし、獅子舞ではなくお囃子は大聖寺中町から習ったという。獅子舞よりも、お囃子の方に力を入れているようである。メインはお囃子で、獅子舞は賑やかしというイメージだそうだ。通常は獅子舞よりお囃子の方が演者が大変で、若い担い手を揃えなくてはいけないのでその点で廃れる地域が多い印象もあるそうで、お囃子が盛んだというのは貴重である。

 

また、お座敷由来という点では大聖寺関町の獅子舞とも似ているようだ。お囃子も獅子舞も元はお座敷で行われていたものに由来し、それだけ大聖寺本町という地域が大聖寺の城下町の中でも裕福な町だったということだ。それもあってか祭りにもプライドを持って取り組んでいたのである。昔は、お年寄りが集まる古民家があって、畳があってお座敷のようになっていて、そこで踊りが行われていた。今のようにコミュニティースペースやカフェがサードプレイスになっていたのではなく、地域の家が自然とサードプレイスになっていたということである。

 

大聖寺の面白いところは、昔の古地図がそのまま残っているところ。ドローンで上から町を写してから、古地図を頼りに町を歩こうという企画も行っているようである。本町の本とは「本当の町人がいる町」という意味であり、隣の京町は「京都から職人が来た」というのが、名前の由来とのこと。この本町と京町はお城に一番近い町でもあったのだ。やはり、城下町で文化は盛んに花開くということが再確認できるエピソードである。祭り以外にもお菓子屋が残っているなど、様々な文化が今でも残っている。

福井県勝山市にあるブータンミュージアムに行ってきた

ブータンという国に興味を持っている。2015年に建築や祭り等の調査のため2週間ほど滞在したことはあるが、それ以来訪れることができていない。昨日はコロナ禍でもブータン気分を味わいたいということで、昨年リニューアルオープンした福井県勝山市ブータンミュージアムに行ってきた。そこで知ったブータンの魅力やブータンと日本との関連性・似ているところなどについて言及したい。ブータンは1960年代まで鎖国状態だった稀な国で、国際交流はほとんどない国だったが、照葉樹林が生い茂る点では日本と植生は類似しており、生活文化に似たところがある。実際にブータンの芸能を見ても、獅子舞と似た獣の仮面を被った祭りがあるなど大変興味深い。実際にブータンミュージアムで知ったことをここに記す。

 

カフェでブータン流の料理をいただく

ブータンミュージアム福井県勝山市にあり、えちぜん鉄道勝山永平寺線の発坂駅から徒歩7分の場所にある。車でも勝山ICからすぐの場所なので、アクセスはしやすい。鉄道沿いにルンタというチベット仏教の旗がはためく家を見つけたら、目的地はもうすぐそこだ。カフェとミュージアムが併設となっている。まずは、お昼からランチを食べておらずお腹が減っていたので、15:30の遅めのランチをいただいた。

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 日替わりのランチを頼んだら、多くは日本食だったが、ブータン料理のケワダツィを出してきてくれた(写真右下)。ダッツイはチーズの意味で、いわゆる唐辛子とチーズの煮込みだ。辛くて美味しかった。食材は朝市で買ってきたり、無人の野菜売り場で買ってきたり、自分で育てたり。こういう自分の身の回りのもので食材を揃えるのがブータン流とのこと。カフェのまわりには自家栽培の野菜が植えてあり、自分達が食べるものだけつくっていた。食べたのは日本食だが、作り方はブータン流。なかなか深いと思った。

 

ランチを食べながら、ミュージアムを運営するNPOの方にお話を伺った。ブータンミュージアムは常設だと、ここ、福井県だけ。お寺になっているブータンミュージアムだと四国にある。あとは、鹿児島県に一部ブータンの展示をしている博物館があるのと、ネットのみの博物館があるという。また、ブータンと勝山の違いについて似ている風景がたくさんあるとのこと。個人的には、山と山に挟まれて川が流れている感じがブータンそのままだと思った。(後ほどミュージアムブータンの地形をミュージアムの展示で見ると、まさに谷と山ばかりで平野がない。そのような印象を受けた。)NPOの写真家さんが勝山に似ている場所として、プナカやパロ、ジャッカル等を撮影されているのがとても興味深かった。歩くと目線が低くて色々丁寧に見えてくる。そういう意味で、これからも歩くことを大事に土地に向き合いたいと思った。

 

ブータンミュージアム1階でお話を聞く

2011年にブータン国王が日本にきて、その翌年2012年にブータンミュージアムを作ったそう。2011年といえば、東日本大震災の年。ブータン国王ご夫妻が慰霊のためにお祈りのために、来日された。その時の様子を聞いて感激した福井の知人とともに、ブータンの国王代理の方を呼び、最終的には大臣の許可をもらってブータンミュージアムを福井に作ることとなったという。

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絵画や写真の額の装飾処理がとても素敵と思った。日本の装飾はとにかくシンプルに茶色とかもおおいなかで、ブータンは国全体が色に溢れている。紫外線が強い分、色が明るい。日差しが強いと色が飛んでしまうから派手に仕上げるのだろう。お坊さんの色(オレンジ)と国王の色(黄色)、そこに雷竜がいるのが、ブータンの国旗。天に巻き上げられる、神や仏の力で砕かれてしまうなどの精神を勧善懲悪で表現しているそうだ。

 

また左の棚に並べられているブータンの仮面は十二支。丑だけ目玉が3つあり、骸骨が付いているものもある。これは日本の獅子舞の源流にある中国五台山などで行われる跳鬼の祭りの面を連想するようなデザインだ。何か繋がりがあるかもしれないので、これは後程詳しく調べておきたい。日本の面に似ているのは、トルコから来たような鼻が高い面と、おばあさんの面の2つ。あまり派手ではなく、能に出てきそうである。ちなみに、オマツリの衣装も3つ目。悪いお坊さんをよいお坊さんが退治するためにきて、一緒に踊る。最後に剣でグサッとやったという仏教の言い伝えを表現している。 

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ブータンの絵画文化は、絵画の派閥や学校のコミュニティの延長に成り立っている。絵画を描く決まりが定められていて、日本で言えば琳派風神雷神と同じイメージだろう。しかし、そのタイプのアートしかない。日本のアートは多様化している一方で、ブータンは伝統をひたすら受け継ぐという感じのようだ。実際に僕も2015年にブータンを訪れて子供が通っているアートの学校を見学させていただいたことがある。病院を改装して作った学校だった。今回の展示では、虎にのってきてタクツアン僧院にお寺を開いたグルリンポチェの絵画があった。100万円単位でつくってもらったそうだ。かなり高価である。

 

ブータンの衣装はとても美しい。お参りするには、衣装を伝統的なものを着ないといけない。男性はゴとキラだ。マニ車を回して功徳になるというお祈りをする。お祈りのとき、日本は個人のお願いをするが、ブータンでは世界の人が幸せになりますようにと祈るそう。これが、幸せの秘訣かもしれないとのこと。

 

ブータンミュージアム2階でお話を伺う

ブータンの山の写真が飾られていた。ガンガプンスムは世界でもっとも高い未踏峰の山で、ブータンの最高峰でもある。これが、加賀の白山と写真で並置されているというのはとても興味深かった。また、ブータンのサッカーは南アジアのチャンピオンにもなったそう。ユニフォームや靴なども展示されていた。

 

ブータンで農業開発を進めた西岡けいじさんの展示もあった。現地の人間がやれることをやらせたというのが大事な考えだったそう。日本の技術をそのまま持ち込むのではなく、ブータン現地の生活文化を重要視したという。その功績もあり、ダショーという特別な称号をもらったそうだ。衣装も特別な人しか作られない赤の布をつける。

 

また、ブータンの織物は特別な加工がされている。表と裏のデザインが全く異なっており、裏面には糸が出るような折り方をしている。これは、日本の西陣織やっていることを何百年も前からすでにやっていたのだ。手と足を精一杯使って仕事をしている写真が印象的だった。巾着袋のようなカバンもつくられていた。

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ブータンの切手製作についての展示もあった。切手製作は国策だそうだ。観光客向けのオリジナルの切手もつくってくれるそうである。使うよりは飾る用の切手という方が正しいかもしれない。国際の郵便法に加入して流通経路を確保しつつも、ブータンという長い間鎖国をしていた国ならではのオリジナルの切手を作った。これは経費もあまりかかるものではない一方で、観光客はブータンの物価では考えられない大金を払うので、外貨獲得のために有効な知恵だったのだ。これとともに、ブータンのことを国際的に知ってもらう機会にもなった。最初の郵便局を作ったのが、1962年。ここから始まったので、かなり最近のことである。ちなみにこういう丸型の切手もあるらしい。とても驚いた。

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ブータンから移住した方の話。

ブータンから移住して、この勝山でミュージアムのスタッフをしている方がいるというので話を伺った。小学生のときにブータンで撮ってもらったとある一枚の写真がきっかけだったそうだ。何年も後に、ブータンミュージアムのポスターに使いたいということで話が来たとのこと。その縁もあり、1年前からブータンミュージアムのスタッフやその関連会社で働いているようだ。それにしても縁もゆかりもない日本に、1人ブータン人として移住するというのは、このミュージアムと勝山を魅力的に感じた結果だろう。

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やはり、ブータンミュージアムと勝山は桃源郷というにふさわしい場所たった。田んぼにツルがいて、山に囲まれ谷がある。柔らかでゆったりとした空気感が感じられ、まるでブータンに来たような感じた。改めてブータンに再訪して、その生活文化を書き留めて写真に残したい。いまなら6年前の自分と感受性も多少変わっているだろう。そのようなことを考えながら、ルンタのたなびくブータンミュージアムをあとにして、田んぼのなかをあるき、えちぜん鉄道に乗って福井駅市街へ向かい、帰路についた。

 

未来の獅子舞とは?祝祭論から読みとく

2021年6月11日、NHKテレビ「ズームバック×オチアイ」で放送されたテーマが祝祭論だった。考えてみれば、2020年以降で祭りに参加したり見たりする機会は急激に減った。これからの祭りはどうなっていくのだろうか。日本で最も数の多い民俗芸能である獅子舞の今後についても考えていくべきである。そのヒントを得たいと思いこの番組を観た。まずは、この番組の内容の要約を以下に記し、それを元に獅子舞の未来について考えたことを書いておきたい。

 

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なぜ祝祭を求めるのか?

2020年に止まってしまった祝祭。祝祭=非日常、よろこばしい場所であり結婚式はやらないけど、結婚式写真は撮りたいという人が増えているのが現状である。考えてもみれば、38年前に祭りの転換点があった。御輿を作る会社が1年間に1億円を売り上げ、年間100台売れる時代となったのだ。その背景にあったのが、ベットタウンなどの人工密集地の拡大と、面識のない人々が同居する地域の存在だった。親子の連帯、近所の連帯のために、御輿の需要がどんどん高まった。そこには、祭りの「人と人とを繋ぐ」という役割が求められていた。盆踊りで増えている歌詞の研究というものがあり、「手を繋ぐ、村づくり、ふるさと、ふれあい。」という言葉が急増した時期でもあった。

 

現在、お祭りに行かないで育つ子供が増えると、将来的にお祭りにいきたい人は少なくなる。ただし、コロナ時代の人類に人が繋がる場がなくなったわけではない。コミケ、ロックフェスなどの祝祭は広がっている。他者との繋がりの中に、自分とは何者か?とアイデンティティを確認する意味は今なお存在しているのだ。それであれば、デジタルの日を作るというのはどうだろうか。何かの日を作ることで、永遠にその日はやってくる。共時性、すなわちサイクルする祝日の考え方である。『天空の城 ラピュタ』が放送されるときに、「バルス祭り」が起こり人々に一体感が生まれるのと同じことだ。デジタルには土地と場所がない、でも日にちは作れる。また、祝祭=リアル+デジタルと考えれば、コロナ禍にはリアル、すなわち身体性がないと言える。身体のヌードを撮り始めたのには理由がある。人の身体を思い浮かべることが減ったからだ。裸性と祭りは似ている。

 

現在、飲食店は夜の営業自粛が求められている。オンライン飲み会は、ハードの問題であまり進んでいないが、20年後にはうまくいくかも知れない。1920年アメリカでは、禁酒法が13年続いた。工場労働者の酒の密売が対等してきたと同時に、特許件数も減ったと言われる。すなわちコロナ禍では、インフォーマルでのあたらしい繋がり、新しいアイデアに触れる時間が減っているということだ。サードプレイスがあることは、アイデアに触れることでもある。身体性、つまり人がいることでなにか満たされるというのも事実だ。この危機が去ったとき、人と過ごす欲求は一気に増えていくだろう。密を求めることは人間の本能である。この夏は、海水浴場に人が集まるだろう。コロナ禍でやり残したことは、くだらないことをやることである。

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以上が、番組の内容の要約である。まずコロナ禍において祭日を作りたがる心理というのはなるほどと感じた。実際、2021年4月4日にtwitterを中心に#シシの日が流行ったのは記憶に新しい。獅子舞を思い返す日があれば、獅子舞が実際に中止になってしまっても思い出して盛り上がることくらいはできるのだ。日にちを決めておけば土地も場所もなくても思い出せる。せめてそういう感覚を残しておきたいってことかもしれない。

 

考えてもみれば、獣の頭が獅子頭になったのは、古代の人々の大発明だったと思う。毎回動物を調教するなり保存するなりして動物の生身の肉体を通して祀り事をする必要がなくなり再現性も高くなったからだ。大陸系獅子舞の中国以東の伝来経路を考えれば世界最強の動物(ライオン)が身近にいなかったので外部化せざるを得なかったからとも言える。またこれにより想像して見えないものを具現化する芸術的表現力が開花して、一種の比喩的で物語的な教訓の提示が行われるようになった。人が健康的に過ごすにはどうしたら良いのか?などと疑問が募る中で理解できない自然に立ち向かうべく科学で解決できないものをパフォーマンスとして伝承したということになる。しかし、徐々に身体性は薄れ、自然から遠ざかり、当初の祈りや自然と一体化するといった目的は形骸化の一途を辿った。徐々に外部化・周縁化している意味では人身御供も同じプロセスが言えるわけで人間→動物→モノという過程を辿ることと似ている。形骸化した先に最後の砦として残るのが、日本において獅子舞を次の世代へと繋ぐ最も母数が大きい集団である「地域」の存在なのかもしれない。形骸化が進みすぎて本質的には理解が進まない獅子舞という芸能を「やるのが義務」「かっこいい」「みんなで集めれて楽しい」など様々な動機で継承しているのが現状だ。

 

この延長上に、コロナ禍の私たちがいる。未来の獅子舞・獅子頭はどのような姿形をしているのだろうか?やはり個人が獅子舞にも似た3Dの動物を、ゲームのようにボタンで簡単に動かしはじめるというのは想像に難くない。実際に、パフォーマンスとして芸能集団が演じている獅子舞を除いて、地域コミュニティの文脈に依拠すれば、獅子舞の簡略化が非常に目立つ。でも結局効率を求めると遊びの部分がなくなりつまらなくなる。詰まる所、最後の砦は土地と戸籍があることなのだと思う。ここに「地域コミュニティ」が存在する意義があり、いわゆる趣味人が集まる「テーマ型コミュニティ」の割合が圧倒的に増えている中で、地域で一体感を持って獅子舞を伝承していく所以であろう。

 

私は石川県のある町で、神社もお寺もない新興住宅街に獅子舞が継承される姿を見た。そこで演じられていたのはよく見る加賀獅子の形態であったが、何かが違う。開会式が行われるのは公民館であり、そこに他地域の宮司がきて神棚を作りお神酒をあげる。レンタル宮司のような発想かもしれない。獅子舞を語り継ぐメンバーはスタウォーズの格好をしている人もおり、獅子舞の休憩中にはプールに飛び込む。獅子舞の祭りの後はピエロが芸を演じる。祭りの屋台はおしゃれなキーマカレーが登場する。結局「楽しさ」とはなんだろうか?という追求があった先に、生まれたのがこれである。獅子舞は非営利的であり、娯楽的であり、非日常の行事でもある。楽しい遊びが世の中に溢れかえる今、それら全てを競合として考え、獅子舞も少しずつ変化していかねばならない時が来ているようにも思う。

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神社はないのに鳥居はある、祭りをやるときに突如として神域を作るという発想

 

 人口減少時代に、他地域から担い手が駆けつけるという地域も増えている。地元の人だけが地域住民ではない。そこを訪れる人も地域の人口としてカウントするべきである。そういう風に他の地域の人に助けを求めることも必要だ。そういう意味では、石川県加賀市青年団が2人、後全員が他地域から駆けつけるという場合もある。大阪やら金沢やら遠方から駆けつける人もいるようだ。そう考えたときに、「地域ってなんだろう。その土地を離れても地域に属しているの?」という話になる。リモートワークが進む中で、オフィスに通わない会社員が出るのと同じように、地域のリモート化も急速に進んでいるというわけである。この場合、地域とは土地に根ざす人々によって成り立つのではなく、関係人口によって成り立つということになる。現に住民が1-2人しかいないのに、たくさんの人が訪れるから廃村にならない村もある。例えば、岐阜県本巣市の越波や石川県加賀市大土などの地域である。これぞ未来の地域モデルの1つと言えるだろう。このような事例から分かるように、日本の獅子舞の継承は今まで以上に地域の継承と密接に繋がっていることを意識せねばならない時代が来るだろう。

埼玉県秩父市・浦山における獅子舞の役割、人口が半減しても地域の結びつきは強い!?

昨日、秩父の浦山歴史民俗資料館を訪れた。google mapなどで獅子舞の展示をしている資料館を探していたところ、見つけたのがこの施設。獅子舞の展示についてなど、その時の様子を振り返る。

 

浦山歴史民俗資料館とは?

浦山地域は毛附、川俣、金倉、細久保、冠岩という5つの耕地からなり、合計の世帯人口が昭和30年の調べでは、440戸だったとのこと。これが平成24年の調べでは、64人と半数以下に減少してしまった。浦山ダムの建設や小中学校の閉校などの影響により人口流失が進み、地域の生活文化の保存や復元を目的に建設された施設だという。地域唯一の民俗芸能である獅子舞も例外ではなく、ダム建設により伝承の場が失われてしまったという。現在は、地域外の在住者がお盆や秋に訪れて獅子舞の継承を行なっているのが現状である。実際に現地を訪れた時に、地域の子供に遭遇。獅子舞の展示を怖がっていたものの、映像に興味を示したり、「獅子のお家はどこ?」と大人に質問していたのが印象的だった。

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秩父の獅子舞の特徴

埼玉県秩父市に伝わる獅子舞は、風流踊りに起源を持つ三匹獅子舞である。この獅子舞の特徴としては、一人立ちの獅子舞が3匹登場するところで、それぞれ太夫獅子、雄獅子、雌獅子の3頭1組となって行う舞いである。それぞれ3頭ともに獅子頭を被り、腰に太鼓をつけて打ち鳴らしながら舞う。この舞には花や剣などが登場し、五穀豊穣、悪霊退散、雨乞いなどの祈願の思いが込められている。現在、秩父市内に伝わる風流踊り系の獅子舞は11箇所に伝承されており、太田部、白岩、久長、黒谷、矢行地、日向、久部、田野澤、浜平、三峰、浦山という場所である。

 

浦山の獅子舞の特徴

起源は西暦1245年に遡るという。当時、天皇の勅令を受けた下総の角兵衛という人物が角兵衛獅子という獅子舞を考案したようで、それを全国に広めたとのこと。「浦山の獅子舞」もその正統な直伝を受け、伝わったという。現在は保存会により継承され、小学校等の協力もあり、今に伝わっている。

この浦山の獅子舞の特徴としては、特に勇壮活発で「荒獅子」とも呼ばれていることにある。大雄(たいゆう)、雌獅子(めじし)、男獅子(おじし)という3匹の獅子が登場し、大雄と男獅子にはそれぞれ角が2本あり、「真剣」という剣を顎下に抱えているのが特徴である。一方で、雌獅子は角が一本しかなく、真剣は持たないようだ。獅子の他には、花笠やささらも登場し、祭りの華やかさは一層引き立つ。また、服装に関して、裁着袴(たっつきばかま)に草鞋(わらじ)という出で立ちは、山道を歩き、激しい舞に耐えられるように作られたものであるとのこと。

また、この地域では演目を数える単位が「芝」であるというのが面白い。主となる演目が6つ(6芝)が伝わっているという。どことなく、名前のつけ方が東北のしし踊りと似ているのは気のせいだろうか。

・打ち揃え・・・本番前の音合わせ

・庭入り・・・舞場に入る舞

・大狂い・・・始まりの芝

・花懸り・・・花笠に懸る芝

・縄懸り・・・力強く縄に懸る芝

・幣懸り・・・幣束に懸る芝

・飛剣・・・真剣をくわえる芝

・剣懸り・・・祈願獅子舞

 

獅子舞が行われる祭り

①川施餓鬼

毎年8月16日の送り盆の日に、昌安寺で行われるお盆の行事である。獅子舞はこの日の午前中に練習が行われ、午後6時に本番を迎える。ここで披露されるのは「花懸り」や「縄懸り」などの芸能獅子と呼ばれる演目である。この別名としては「盆獅子」「夏獅子」という呼び方もあるようだ。

 

②丹生様・お諏訪様祭礼

毎年10月の第4金曜日に実施。他の2つとは異なり、神社で行う行事である。昼前に丹生様、昼後にお諏訪様を訪れ、鳥居前で「剣懸り」という演目を行う。道中、一行は笛を吹くという。この祭礼は大日如来縁日の前夜祭的な意味合いを持っているようにも思える。

 

大日如来縁日

毎年10月の第4土・日曜日に昌安寺と大日如来堂で「大日如来縁日」という行事が行われる。大日如来は干支が未(ひつじ)または申(さる)の人の守り本尊であり、大日講が100組もあるというのだから驚きである。この祭りにおいて、初日に「迎え獅子」という行事が行われる。ここで「祈願獅子」という獅子舞が披露され、そこで悪魔祓いの祈願を申し込む人もいる。2日目には、初日で悪魔祓いを申し込んだ各家を獅子舞が回るという流れになっている。

 

浦山の獅子舞の魅力とは?

この浦山の獅子舞の魅力は、まさに「獅子舞が地域存続の拠り所となっている」ことにあると思う。昭和から平成にかけて、ダムの建設等により、人口は半分以下に激減。その中で、獅子舞を存続させようと地域内外の人々がお盆と秋に集っているというのはすごいことである。獅子舞が地域を繋いでいるのだ。そして、その陰にあるのが、約100組・6~700名(平成24年現在)の大日講の存在であり、代表者は少なくとも祭りに出席する。この仏教と獅子舞との関係性が、それぞれうまく作用しあい、地域の存続につながっているという印象を受けた。