「交流」という言葉を安易に使うべきではない!?

【シェアハウスでの交流の意味とは?】

今やっていることは、築150年の古民家で、その開放的な空間を生かして、シェアハウスと、イベントスペースを企画・運営している。

 

つまり、シェアハウスという交流ある暮らしの中に、さらにイベントスペースというものが加わることで、「交流する」という特色がさらに強まった形だ。

 

「交流する」ということは、我慢しなくちゃいけないこともある。いま、掃除機をかけたいけど寝ている人がいるからできないとか、ものが散らかって共有スペースが汚くなっていたり、自分のものがなくなっていたりということもよくある。一人暮らしの方が自由で良いという人はたくさんいる。

 

一方で、交流ある暮らしの良さは、このようなことが考えられる。

 

①生活コストが安い

家賃はもちろんのこと、食べ物や家具、洗濯機や、冷蔵庫などをシェアすることによって出費が少ない。やはり、皆最初はこれを求めてシェアハウスを選ぶ人が多いように感じる。

 

②寂しくない

一人暮らしをしていて、家に帰ると誰もいないというのが寂しいと感じる人は多いのではないか。誰かと住む人がいないなら、シェアハウスに入れば、人と繋がっているという実感が持てる。

 

③様々な価値観との出会いがある

自分が常識と思っていたことが、実は少数派であると気づかされる。食べ物の味付けが薄い人もいれば、濃い人もいる。家にずっといる人もいれば、あまり家に帰ってこない人もいる。静かで何も言わない人もいれば、たくさん喋りたい人もいる。自分の住人の間における立ち位置とか、強みとか、そういうものが色々と見えてきて面白い。自分は、残飯処理係になるほど大食いの立ち位置は小学校以来変わらない。自分の知らない習慣を持っている人と生活を共にすることそのものが、とてもクリエイティブで、何かお互いに学びがある。

 

一般的にみれば、こんなところか。

ただ、もちろんこれらの要素もあるとはいえ、もっと考えるべきことがある。

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【実現したいのはコミュニケーションを必要としている人に場を提供すること】

交流ある暮らしをぜひ古民家で実現したい。日本には昔、どこにでも存在していた地域コミュニティを、現代に合った形で再生して、古民家の「開放的な造り」を生かした人と人とが繋がることがプラスになるような場にしていきたい。若者のコミュニケーション障害や、孤食高齢者の孤独死のような社会問題が深刻になる中で、このような活動は世の中において少なからず求められている。

 

自分自身、人と人との繋がりを強く求めていたところがある。誰とでも広く浅く仲良くなれる反面、誰とも仲良くなれなかったのが、小学校から高校までの自分。友達はたくさん挙げられるけど、2人ペアを作ってと言われると誰を選んでいいかわからなかった。人を深く知れていないことが一番の悩みでもあった。

 

よく言われるのは、友達同士集まっても、ゲームやテレビの画面と対話をするだけで人と人との会話が生まれないこと。画面の話題について話が弾むでしょっていう人もいるけど、僕自身の考えからしてみれば、それはコミュニケーションではないと断言したい。コミュニケーションの定義とは、情報伝達ではなく、心と心が通じ合うことだと考えるからだ。

 

テレビやゲームの画面に向かい合っていると、心と心が通じ合う余白がないので、最初は友達と一緒に同じ画面に向き合っていても、友達と一緒にいるインセンティブが無くなるので、次第に画面が友達になってしまう。1人でも楽しめるじゃんということになって部屋にこもるようになる。

 

もちろん、テレビをみたり、ゲームをしたりするべきではないと言いたいわけではなく、そのような媒体が広がっている今だからこそ、交流がないことによる弊害を感じている人に、リアルな交流の場をつくっていきたい。ちなみに、例えばリアルな交流がないことによる「弊害」として、人によってはこのようなことが考えられる。

・異性と話をあまりしない

・自分がマイノリティで、同じ価値観を持つ人と繋がれていない。

SNSのつながりだと、最初にリアルな相手を知りにくい(空気感まで)ので、ファーストコンタクトとして使いたくない。

 

これらのニーズに応えていく場をつくっていきたい。ただし、それは、1つ1つに全て応えていくのではない。厳格な場ごとのコンセプトやルールを決めて、「管理」をしながらも、「企画・運営」をしていく必要がある。

 

現在は、様々な場づくりをイベントという形で、実験的に行なっているのが東京都日野市の築150年の古民家「ヒラヤマちべっと」という場所である。ときには、留学生が集まり、ときには学生が集まり、ときには高齢者が集まる。それぞれが、それぞれ思い思いの交流ができる場であればいいし、居場所であればいい。住人によって、関わる人によって、変わりゆく場所であり、研究所でもある。それが、「ヒラヤマちべっと」。過疎と言われている平山地域において、本場ちべっとのように皆が行きたくなる魅力を持った場所。

 

ただし、一歩間違えば「交流」とは思考放棄につながる。

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【多世代交流という言葉への疑問】

交流にもいろんな形がある。

異質なものが混ざり合うのか、同質のものが混ざり合うのか。

 

異質なものが混ざり合う場として多世代交流という言葉がある。一昨日、あるイベント参加者の方と話していて気づいたことがある。同年代には、共通言語があって楽しめるけど、多世代となると難しいようだ。なぜなら、普段、高齢者は健康のことで盛り上がりたい。でも、若者は恋愛や仕事のことで盛り上がりたい。つまり、話が相容れない。

若者は若者と、高齢者は高齢者としゃべりたがる。高齢者は赤ちゃんを見ると、元気がもらえるという。でも、赤ちゃんからしてみれば、高齢者をみても元気がもらえるわけではない。それと同じようなものだ。

 

そこで、ぼくはこのような形の多世代交流ならありえるんじゃないかと考えた。まずは、共通言語をつくること。「健康」は、若者にとって共通言語になりにくいもの。だから、世の中にとって普遍的なもの、例えば「食」とか、「自己実現」とか、そういう視点で場を作ってみたらどうか。例えば、「ラーメン好きが、ラーメンについて語り合う」というものだ。関心が高いものであればあるほど、つながる。さっき述べた③のような、価値観の共有を楽しく行える環境であれば良いと考えている。もはやこれは、多世代交流というよりは、ラーメン好きの交流である。それならば、多世代交流という文脈でなくても良さそうだ。

 

高齢者と若者が話をすれば、高齢者は自然に話しているつもりでも説教になってしまう。転ばぬ先の杖のようなことを話しされても、体感していないから全く意味がわからないのだ。小学校のときに校長先生の話を聞くのがめんどくさかったように、高齢者の説教が面白いと思う若者などいないし、実感がわかないというのである。しかも、高齢者は高齢者で、赤の他人である若者に介護の迷惑をかけたくないから、同じ屋根の下でシェアハウスに暮らすことなどできないという。なるほど、確かにそれはそうだ。

 

ある若者イベント参加者はこう話していた。「若者がもっとたくさんいると思ったのに、高齢者ばかりだった。」

(高齢者ばかり集まると話に入りにくいということを暗にほのめかしていた。) 

同年代が多い方が、なんだかんだ安心感があるし、盛り上がる。そういうものらしい。

 

まとめると、多世代交流という文脈で人が集まるインセンティブはない。そこで何をやるのか、誰に価値を感じてもらうか、ということが大事であると改めて思い知らされた。

 

より良い交流の形が自分の中でこれから洗練されていくのは間違いない。交流を暮らしの中でということは確実に不動産という分野からのアプローチで展開していく可能性が高い。暮らしとは習慣や生活と密接で、必要とされている交流をお客さんに感じてもらいやすい。単発的ではなく、それが習慣におとし込まれるからだ。

 

あとなんでもありは、誰も幸せにできない。ターゲットをきちんと各場において定めて行きたい。この人が住んでいるのになんで、こんな参加型イベントが行われているの!?みたいなアンマッチは避けたいところ。そこの場に集う人にとって、心地よい環境を作っていきたい。

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こちらは、築150年の古民家「ヒラヤマちべっと」の交流ある暮らしの写真

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