鈴鹿・獅子神御祈祷神事から、日本の獅子舞のルーツを探す

始発の電車に乗って伊勢市駅から鈴鹿市を目指した。真っ暗の中、電車は出発する。徐々に辺りが白み始めたとき、眩しくて微細な光が窓から差し込み、そして田園地帯を地平線からまばゆい太陽の光が照らしていた。獅子神御祈祷神事。日本で最も古い獅子舞を今に伝えるという。「最も古い」をどう考えるのか。獅子舞の定義とは何か。そこについて本日はじっくりと向き合いたいと思った。2024年2月11日(日)に三重県鈴鹿市椿大神社(つばきおおかみやしろ)で行われた、獅子神御祈祷神事を訪れた時の様子を振り返る。

最寄りの加佐登駅に降り立った時、その空は赤みを帯びて、青空が少しずつ明るくなってきた。バスを待つこと30分。本当にバスは来るのだろうかと思っていた時、やけに縦長のコミュニティバスがやってきた。そこでようやく、本日椿大神社を訪れることができることを確信した。バスに乗ること40分。途中、バス停のアナウンスがいろんな子どもたちの声で、とてもユニークで良いと思った。

それから、椿大神社についた。これは多くの人に開かれた神社だと思った。とにかく敷地面積が広い。椿の木といえばとても縁起が良い樹木である。椿には厄除けの意味があるほか、平安時代には高貴な花として珍重されてきた。この神社はまず、猿田彦系の神社の本宮である。伊勢の猿田彦神社ではなくこちらが本宮のようだ。別宮である椿岸神社の主祭神は、その妻であるとされるアメノウズメである。

境内を散策する中で、鳥居を潜ってすぐに見えてきたのが獅子堂という建物だった。獅子舞が根付いていることを再確認した。中には見たこともないような金色のはっきりした顔立ちの獅子頭が左右に飾られ、そこで御祈祷が行われていた。後に神社の方に伺ったところ、ここはもともと獅子舞が奉納されるために使われていた場所だが、現在は交通安全祈願に使われているという。確かにこの獅子堂の前には車がたくさん停まっており、神主さんがひとつひとつお祓いしている姿も後々見かけた。

そして、境内を散策していて拝殿を訪れた。神主さんに獅子舞を実施する位置について尋ねていると、重要なことに気づいた。午前中の舞は一般人立ち入り禁止、メディアのみとのこと。取材申請をせずにきたために、最初中に入れてもらえなかった。獅子舞研究してて本も作るんで、そこでの掲載を視野に入れてきたんですという話をしたら、ようやく受け入れてもらえた。後出しの申し出というのはやや危険である。ところで、この拝殿の横には、千葉県松戸市出身の佐渡ケ嶽部屋満宗親方(元琴の若関)が奉納した鉄砲柱なるものがあり、同業者の奉納物として、非常に親近感が湧き、ご縁のようなものを感じた。

実際に見れた午前9時からの舞いは荘厳かつ重厚。なかなかに古式を今に残していると思った。椿大神社『椿の宮 第50号』(2024年1月)によれば、舞いの種類は「古来より七段七節の舞が伝わっている。七段に関して①初段の舞では、天地人四方八方を祓い清めるべく、猿田彦大神役を務める口取役が手に持つささらを用いて祓う場所を指し示す。最も重要な舞い②起こし舞は御神霊の奮い起こしであり、岩戸伝説や鎮魂に通じるもの③扇舞は神人和合を意味し神様と獣が心を通わせる舞い④後起こし舞は起こし舞とほぼ同じ内容で途中から拝観者側を向き後へ続く舞への節目の意味もある⑤御湯立ては病気平癒や無病息災を祈るもの⑥小獅子の舞は子どもの健全育成⑦花の舞は五穀豊穣を予祝する舞の七つである。また扇の舞の内容としてすら舞、扇舞、逆手、背追い、追い立て、扇起こし、捨て扇の7曲で構成されていることを七節という。

最初の拝殿での舞いは、初段の舞いである。ここで重要なことに気がついた。舞う獅子とは異なる、置かれた獅子があるのだ。表情からすれば、浅草神社のびんざさら舞の時に出てくる獅子舞、あるいは鳥越神社の獅子頭にも似ているように思われた。そして、目は蛇目の型式をしていたので、富山県と同じ特徴を持つ。何か関連性があるのだろうか。その真相はよくわからなかった。

それが終わると猿田彦大神の神陵の前で軽く舞ってから、別宮である椿大神社へと移動した。椿大神社では午前10時から、後起こしの舞までが行われた。先ほどの拝殿に比べるとより舞い場が正方形に近い。奥行きが感じられる舞い場であり、獅子頭はここには飾られていなかった。


それから、獅子舞の一行は鳥居を出て、西岸寺に入って行ってしまった。ここまでで10時半。30分ほどの舞だった。午後は14時から獅子堂の前で広く観衆に向けて舞をするとのことだったが、午前と舞いが変わらないこと、そして、午後からは予定があることなどから、この舞いは見ずにバスで帰路に着いた。

この御祈祷神事について、始まりの歴史を遡ると、山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年,たま出版)によると、「人間はみな神の子であるが、人間の心に動物霊が宿ると動物的となり、戦争をしたり殺人を犯したりする。大祓をして清めれば、再び神の子として立ち返ることができる、と神道では考えている。(中略)百獣の王である獅子に動物霊を追い払わせるという意をもって、聖武天皇吉備真備大臣(当時の総理大臣)に命じて椿の木で神面と獅子頭を彫刻して奉納し、獅子舞神事を始めた。そして、伊勢国はもとより諸国を巡見して大祓を実施した。(中略)秘伝によれば、この神事は修験神道の元祖行満神主が始め、聖武天皇の勅願によって斎行されるようになったという。」とある。「天下泰安・四海静穏・風雨順時・百穀潤屋」の勅願のもとに始まったようだ。丑、辰、未、戌の付く年を舞年としており、3年に一度の開催だ。いずれも4という数字が頭に浮かんでくる。天地人・四方八方を祓い清める舞いという。

吉備真備がディレクター、行満神主が現場監督みたいな感じだったのだろうか。そこら辺のニュアンスがよくわからない。ただ、行満神主というのは現在、椿大神社の神主である山本家の祖先であると伝えられている。また獣に関わる者、猟師や解体業者たちがどこか不可視化されて被差別民となり、逆にそこに触れないことが清浄を保つコツであるという風に読めなくもない。一方で当時は疫病が流行っており、衛生面だったり争いごとには特に繊細で敏感になった時期であったに違いない。そのような時代背景のもとで獅子舞は生まれたのだろう。また、上記の椿の木で獅子頭が作られたのは740年という年号で、姉妹一対で同じ木から作られたとも言われている。

あとは伊勢国を日本の信仰の中心に置く、という意味で、獅子舞は一役買ってた可能性がある。山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年,たま出版)によると、「日本全国から伊勢国に入ってくるすべての人を獅子の舞で祓い清める」とある。椿大神社から伊勢湾の海岸までの6里(約23.5km)の間にあるどの地域にも獅子舞神事が伝わっており、どこから伊勢に入ろうとしても、獅子舞がいる地域を通らねばならないそうだ。伊勢に行く旅人はとにかく全国から参じたわけで、その分、人が集まるところに厄ありということで、強力な厄祓いが必要だった可能性がある。その一方で「神宮には狛犬がない」とこの本では述べられているが、厄祓いは獅子舞によって完結させる意図が伺える。聖武天皇は本物の獅子舞好きだったかもしれない。それによって日本の精神的な根幹を担う伊勢の地を完璧に清めるという呪術的かつ地政学的意図があったとも言える。

ざまざま憶測が湧いてきた。先ほどの話は岩手県遠野市に伝わる長野獅子踊りと山谷獅子踊りに伝わる、獅子舞始めの伝承譚と少し異なる。ここで伝わるのは、鹿の胎児の話だ。聖武天皇の妃が病気になった際に、鹿の胎児を薬効として飲ませたら、病気が全快したという。これは獅子神のおかげだとして、これを祀り、そして踊りを披露するようになり、それが巡り巡って岩手県遠野市まで伝わったのだという。これはもしかしたら、大陸系獅子舞と北方系しし踊りを同じ「シシ」として折衷しようとしたことから、その理由づけのために作られた話かもしれない。それは長野獅子踊りや山谷獅子踊りが鹿踊ではなく「獅子踊り」と表記することからも歴然である。この話は後付けなのか、本当の話なのかはよくわからないが、いずれにしても、少なくとも北方系と大陸系の獅子の文化が混ざり合っていく過程についてよくわかる話なのである。

まずはこの神事が始まったのが、1300年前、聖武天皇の頃であるとされる。聖武天皇といえば、東大寺大仏殿開眼が思い浮かび、それが752年という年だ。ここで伎楽の獅子舞が奉納され、それが寺院経由で全国に伝播するきっかけになった。それと時を同じくして、日本最古の獅子舞と言われる獅子神御祈祷神事が、三重県鈴鹿の地で始まっていたというわけだ。獅子神御祈祷神事の伎楽の獅子との関連性がよくわからず、椿大神社の方もわからないと話されていたが、天狗は鼻高面からきている可能性はある。つまり、ペルシャなど西アジアの外国人の鼻が高い面がシルクロードを伝わって正倉院に入り、それが伎楽に出てきて、それが鈴鹿、伊勢に入った時に猿田彦の天狗面に変わっていたというわけだ。

ここでなぜ、椿大神社が獅子神御祈祷神事を日本で最初の獅子舞だと主張するのか考えてみた。伎楽の獅子というのは舞うよりも、行道獅子なので歩くという要素が強かった。だから、これを獅子舞としてカウントしなかったということではあるまいか。さらにいえば、北方系のしし踊り文化を獅子舞としてカウントせず、シシの文化の類似性よりも踊ることと舞うことは違うのだと強調した結果、獅子舞の最初は獅子神御祈祷神事なのだと、言いたいということかもしれない。

ここから近い伊奈冨神社の獅子頭は長い間、日本最古の年記銘付き獅子頭として、1280年銘が入るが、ここに獅子舞を伝えたのが、獅子神御祈祷神事をしていた椿大神社であり、この流れはわかっている。ただし、愛知県日置八幡宮の年記銘付き獅子頭の年代が、1252年銘と判明し、さらに困惑する結果となる。この獅子頭、八幡信仰圏によって伝播したのではないかという話もあり、京都とのつながりが見え隠れする。いずれも獅子頭の年記銘から、獅子舞の始まりを類推することは難しく、年代も鎌倉時代以降のものしか無い。ただし、獅子舞伝播勢力の観点から言えば、伊勢系統と京都の八幡信仰系統が名古屋辺りでせめぎ合っていたのではあるまいか、という推測がある。

伊勢・高向の御頭神事、日本全国に通じるヤマタノオロチの系譜を考える

三重県伊勢市、宮町駅に降り立った。19時16分、辺りはもう暗い。これから祭りが行われるわけだが、あたりは静まり返っている。本当にここで合っているのだろうか、20分の徒歩ののち、高向大社につく。途中、若い人が数人歩いており、携帯を見ながら何やら話している。ああ祭りがあるんだというなんとなくの確信は持てた。高向大社は明るく照らされており、非常に厳かだ。鬱蒼と茂った森が境内を包み込み、静かな奥深い空間を魅せてくれた。境内までの道の途中に、塞の神、あるいは道祖神のような石があり、紙垂のようなもので囲まれていた。境内に入ると、夜だからどこか神様がお休みになっているように思われたので、柏では虫に聞こえるくらいの音で済ませて、静かに取材に来たことの感謝を伝えて、その場を後にした。

しかし、ここで祭り準備が行われていないということは、、、と彷徨っていると、伊勢市役所の山本さんと道端でばったりと合流できた。そこで、高向公民館の方でやることを知り、一緒に向かった。道中、地域の家々にはしめ縄が張ってあったのが印象的だった。貴い神を迎え入れるかのように高いところで貼られていた。

公民館に着くと、火が焚かれていた。公民館の他に会所もあり、ここには旧式の御頭様が祀られていた。担い手たちのことを高向共盛団と呼ぶらしい。青年団でも保存会でもない組織で、若い人は16歳くらいから、ご年配の方まで多世代の男が集っている。若い人はこの街に生まれ育ったらほとんど義務的にこの団体に入るらしい。団員のモチベーションは騒ぐことが楽しいということらしい。確かにこのお祭りの雰囲気をとても楽しんでいるようだった。

打祭にひたすらついて歩いた

雄と雌の合流

街を回ってきた雄と雌の御頭様は太鼓や篝火を挟むようにして、会所の方面を向きながら衣装替えが行われる。髪の毛である紙製の〇〇を紐のようなものに付け替えてすぐに燃えてしまわないようにしているのだろう。
この御頭様は現在使われているものは昭和50年代に作られたものだという。会所に飾られた旧式の御頭様はいつ頃に作られたものかは分からず「もし年代がついていたらこれはもう有形文化財級なんじゃないか」という話を聞いた。一方で昭和に作られたこの御頭様はもともと伊勢の地元の方が彫ったそうで、値段はいくらだったのかよくわからないという。ただし胴幕は京都の西陣で作った非常に高価な織物で麻製であり、500万円するとのこと。これは火祭りで焦げるなどの危険性もあるものだけれども非常に高価であり、なかなかすぐに買えるものではない。日本全国を見渡してもこれほど高価な胴幕はなかなか存在するものではない。また、この胴幕の模様がとても面白くて、雄と雌で阿吽の絵柄の鶴が描かれている。なぜ鶴が描かれているのかはよくわからない。

だまし

衣装替えが済んだ御頭目掛けて、若い担い手たちが走っていく、それを奪いとろうとするかのようにせめぎ合う。これが何度も何度も繰り返される。途中でせめぎ合う男たちは上裸になり、その格好をした人がどんどん増えていく。

打祭(うちまつり)の開始

まず魚(名前は〇〇?)が供えられたり、ヤカンに入れられた熱湯が御頭の頭の上からかけられたりした。そこから松明が燃えて御頭様は動き出す。この松明は伊勢神宮からもらい受けるらしく、神聖な木を細い薪状にしたものである。
「火の粉が飛んでくるぞ!化学繊維の服は脱いどきな!」と言われジャンパーを脱いでリュックと背中の間に挟み、シャツ姿に。2月の寒さに震えながら、なるべくたいまつの火の近くでカメラを構え続ける。火の近くは非常に熱い。肌が高熱を発しており、暑さで服が溶けるんじゃないかと心配になる。火を離れたらそれはそれで寒い。ちょうど良い塩梅などはない。舞い手の服を見るとボコボコに穴が空いてびっくりする。内側にワイシャツを着るなど重ね着の工夫をしている人もいる。それまで上半身裸でいた担い手たちがしっかりと白い衣装に身を包むのは、この火に対する対策であり、「服を着るのが打祭の合図」と教えてもらった。
交差されたたいまつに目掛けて、御頭は左右にくるくると回る。掛け声は、「三ヤ!」と言えば23歳、「六ヤ!」と言えば26歳、という風に舞手の年齢や所属を表している。それにしても火の粉が飛び散る中で暴れ回る御頭の姿は非常に迫力があった。御頭の重さはなんと30kgあり、それを頭の上で持つ担い手は非常に苦しい。交代の掛け声が来ると、即座に次の担い手に変わる。松明の火の下を潜ってから御頭を持つのをループ的に繰り返しているのだが、これはどこか神域への門という感じがした。
たいまつは路上に立てかけられており、燃え尽きると次々と新しい松明が燃やされ、常に火が灯り続けている状態である。松明の結び目の数は12で、稲藁を家の高さくらいまで長く継ぎながら縛っている。ただ、閏年は13の結び目を作るという決まりがあるらしい。ここら辺も大変興味深い。



斬り祓い

村境に設けられた斬り祓い場がある。そこで見物衆から「カレイーはどうね!」と声が上がり、アラレ状のお餅が撒かれる。その後、斬り祓いの儀式が始まる。しめ縄をまず刀で斬る。この場所自体がそもそも興味深くて、神社でも個人の敷地でもない、この儀式のための空地とでも言おうか。村境に来たる疫病よけのための神事であろうと思われる。しめ縄が切られたら、この場にたいまつを持った人々と獅子舞が走ってやってきて、太刀により軽い峰打ちが入ると御頭は胴体によって即座に丸められ、そのお姿は見えなくなる。

その後、突然、担い手たちは走り始めた。その奇怪な行動に思わず自分も走ってついていく。獅子頭がなぜここで隠されたのだろうか。そして、なぜ走るのか。どこか首を切られた獣が苦しみ悶え、そして、暴れているかのような感覚を得た。走って向かった先は再び会所の前であった。

ここでロウソクが灯る中、獅子頭が供えられ、横の広場で若者たちが「おたか踊り」と呼ばれる踊りを始めた。原始人間はこのように獣と対峙していたのではないかと思わされた。納めの踊りである。その踊りは輪を形成しながら回り続け、静粛というよりかは時に賑やかで、円の中心部分を肩を組んだ男性2人組が早いスピードで回るというシーンも見られた。

それが一通り終わると、団長とご年配の方の挨拶がそれぞれ行われた。若者の「高向の御頭神事が大好きです!10年前〇〇が言ったことを僕も言えました」と先達に敬意を表しながら自分もそれに続けたことに対する熱い想いを叫ぶ団長の言葉にとても感銘を受けた。最後にバンザイをして、その場を終えた。
祭りの後、消防団が残りの日を消化する作業を淡々と行っていた。道端にはたくさんのたいまつの炭が転がっており、道を覆っていた。

19時台から見ていたお祭りが終わったのは23時半ごろ。もう日が変わろうとしていた。そうそう、これほど長い時間夜に行われるのは、古い形式を今に残している証拠だし、さすが国指定重要無形民俗文化財に指定されただけある。僕が拝見できたのは夜だけであったが、担い手たちは朝から神社での奉納舞や、祷屋(とうや、神事で準備・執行・世話役を行う人)宅での舞いなどを行ってからの今である。ものすごい長い時間をしているわけだが、19時台からでも十分濃かった。伊勢には本当に奥深い民族行事が伝承されているとつくづく思うわけである。

ヤマタノオロチ伝播論、「い」から始まるトライアングル

ところでこの御頭神事、ヤマタノオロチを模しているようだが、以前富山県射水市で拝見した松明が登場する獅子舞の演目「大回し」に非常に似ていると思う。こちらでは七起こしの舞はないが、大きな酒樽の酒を飲んで酔っ払い剣で刺される所作や、トグロを巻く所作があり、これはヤマタノオロチを示すという。また、タイマツを使うことは両者の類似点として挙げられる。胴体が長いことから百足獅子とも呼ばれる。

また、山形県長井市辺りの黒獅子も百足獅子、あるいは龍の獅子と言われているが、これも実はヤマタノオロチの部類だと思う。黒くて彫りが深い獅子頭は、どこか高向の御頭神事の獅子頭にも似ており、また伊勢の山田産土八社のとも非常に類似する。山形県長井市獅子頭職人渋谷正斗氏の話によれば「伊勢度会脇出の一之瀬神社の獅子頭が長井の総宮神社の獅子頭と酷似してるんですね。伊勢信仰も盛んな江戸期前の時代に伝わったのでは?と想像しております。また総宮神社の古い資料には『宇治山田産土八社の獅子舞と似たり』という文節があります」とのこと。

あとヤマタノオロチといえば、愛知県の花祭りである。花祭りにはヤマタノオロチが出てくる地域には獅子舞がおらず、獅子舞がいる地域にはヤマタノオロチがいない。すなわちヤマタノオロチと獅子舞は似た役割を担っており、どこかで変異した可能性が考えられる。あまり話題を広げすぎてもよくないが、ヤマタノオロチは龍、そして蛇に通ずるとすれば、蛇獅子・へんべえとり(岐阜)との繋がりもあるかもしれない。

出雲、北陸、そして山形という日本海側の人々の交流と伊勢、愛知、岐阜といったの獅子舞文化の繋がりが見えてきて面白い。ここら辺の信仰の類似性についてはまたこれから解き明かさねばなるまい。

また高向の御頭神事における会所に最後の御頭様が置かれた際に、御頭様の横に天狗面が置かれていた。雄の御頭様は大きくて脇の天狗面は鼻が高かった。一方で雌の御頭様の脇にある天狗面は鼻が低かった。この天狗面は富山県射水市では、獅子と対峙する松明を持った天狗が出てくるので、それとの関係性と類似しており、獅子だけでなくこの天狗の存在が獅子舞伝播の分析には欠かせない気がする。高向の御頭神事には、皇学館大学の教授が来ていて話を伺ったらこの天狗の由来はどこから伝わったのかよくわからないものの、伎楽の鼻高面や猿田彦への類似が確認されるとのことで、これらとの関係性にも注目したい。天狗=猿田彦といえば生まれは出雲の神様なので、出雲とのつながりが確認される。この伊勢、出雲、射水。「い」から始まるトライアングルの関係性はいかに?と問い直すことを課題として、研究をさらに進めたいところだ。

奇行狂態の多い妖童出現、御頭を振り村を救う

さて、この高向の御頭神事について、歴史を最後に振り返ろう。「神領山田の系統に属する」というから、山田産土八社との類似がある。神役人佐々木重兵衛高行が寛文四年(1664年)正月に古記を書き写したものを原本とする『伊勢国渡会郡高向郷高向村神社記』に所蔵される「御頭之開眼供養記」によれば、長暦2年(1038年)8月11日、高向住人本滝定行が、高向東北の鯛祭田の辺りにあった大きな柳の木が3年前から枯れていたのを切って、2頭の御頭を作り、両氏神(高向大社・加牟良社)に献身したものであるという。氏寺正法寺が御頭の保管場所であり、周辺一帯にいくつもの御頭があったようだ。また『伊勢国渡会郡高向郷高向村神社記』に所蔵される「正法寺記」によれば、正法寺の円覚和尚に育てられた神童木椙少年の話が出てくる。宇須乃野社の社頭にあった神木大杉の木の精と言われており、奇行狂態の多い妖童だったという。養和年中(1181〜82年)に全国的な飢饉・悪疫で死者続出となったが、この妖童が御頭を出してお祓い清めを行うとたちまち悪疫が退散したそうだ。この時以来、打祭での御頭振りが行われている。これらの記録から、御頭神事の舞い始めの時期は定かでないものの、少なくとも800年前には行われていたと言えるだろう。それ以来、古制を維持して受け継がれ、昭和52年5月には国の重要無形民俗文化財に指定された。(参考文献?)

富山県の獅子舞研究旅、職人、獅子舞、研究者との出会い

富山県は獅子舞が盛んな地。獅子舞に関するまだまだ調べきれていないことがたくさんある。そこで、2024年1月28〜29日で、現地を訪れる機会を得た。ここで、獅子舞職人、研究者にお会いしたり、獅子舞演舞を拝見したりと大充実だった。日記的に振り返る。

英雄伝説、名付けはいかに?「小川寺の獅子舞」

28日の午後は雨だった。小川寺で火祭りが開催されるとのことで、射水市から車を走らせた。果たして、火祭りは開催されるのだろうか?実際に現地についてみると、閑散としている。お、これは祭りは中止か?と思い、宿坊の中をのぞいてみると、なんと大勢の靴が置いてあり、人が出てきた。「祭りやりますか?」と聞くと、「中でやるから入っていいよ」とのこと。それならばぜひということで、お寺の宿坊の中に入っていった。そこにはお膳がずらりと並べられていて、ここで、お弁当が振舞われている。その間を縫うように、間も無く獅子舞が登場した。ひたすら長い廊下を往復するだけで、数分で終了してしまったが、面白い獅子舞を見ることができた。いつも外でやる小川寺の獅子舞といえば、カメラマンがぞろりと待機しており、なんだかうっとおしいような感じなのだが、今回はこじんまりと地元の人だけで、おそらく檀家だけで開催されているような感じだった。それでもカメラマンは数人きていたが、それでもまだマシな状況である。

小川寺の獅子舞は「行道獅子」の形態であり、舞うと言うよりは祓いながら歩くという言葉が似合う獅子舞だ。獅子頭は平坦で小さく、蚊帳はカラフルである。立山の麓、修験道が盛んで宿坊がいくつも軒を連ねるこの一帯では、信仰を背景として、古くからの獅子舞の形態がそのまま受け継がれている。富山県内では有数の伝統的で歴史ある獅子舞と言えるだろう。獅子と共に歩くのはオカメ、テング、ビッチャル、クソタレ。英雄伝説が絡むらしいがこの名前の由来は不明。小川寺の獅子舞を見終えた後は、温泉に行って射水市へと戻った。

高岡の工芸、その根幹を支える職人の姿

高岡の大國屋を訪れた。はオーダーメイドではなく既製品もあり、大量発注できそうな雰囲気。ものづくりへのこだわりは多くないが、しっかり経済を回してその基盤を築いている感じがする。高岡の祭り文化を支えている祭り道具屋だ。おもちゃの獅子頭が確か2万円代、これは安いと思った。

www.daikoku8.co.jp

 

次に山本染業にも訪れた。お話を伺ったのは29日の午前中。その日に電話してすぐに直行という流れ。突然の訪問だったにも関わらず、受け入れてくださり、とてもありがたかった。「仕事が早く終わったんだ」とそこには獅子の蚊帳が干されていた。奥様がコーヒーを入れてくださったが、短時間で10分ほどお話を伺うことができた。コロナ禍で獅子舞ができない時期に、新しいニーズを作ろうということで、染めの技術を生かした獅子舞の模様が入ったショルダーバッグなどのグッズを開発し、クラファンで販売していたというエピソードが大変興味深かった。86万円、56人の支援があったようで、このモデルは学ぶべきものが多い。金沢の奥田染物が密にならない小さい蚊帳を作って貸し出すということをしていたのも思い出した。現在は生産していないようだが、もし興味があればお問い合わせをとのことだった。

yamamoto-some.com

山本染業の蚊帳は30万円以上で、作っているらしい。模様は伝統的な柄をそのまま取り入れる。基本は富山県の百足獅子が多いが、小さい蚊帳を作ったり、北海道の方から注文があることもあるという。高岡ならではの柄はよくわからないが、富山や井波は美術的でリアルな表現になる。また、新湊はカラフルな表現になる。獅子の蚊帳以外だと、祭りの半纏や神社仏閣の幕などを染めることもある。メインは蚊帳だけれども、それだけではなかなか成り立たないので、他の仕事も組み合わせるようだ。年間で15~16の蚊帳を作った年もあった。図案ができている状態で、染めのみであれば、2週間くらいでできるらしい。香川県では高岡の加賀獅子のように麻ではなく絹を使うことが多いので化学繊維の使用が増え、それでインクジェットという選択肢も出てきているように思うが、高岡ではそのような動きはないようだ。

「次の世代に伝える場ってあるんですか?」と聞いてみると、「小さい蚊帳の風呂敷作りなどの体験ができる場を作って行きたい」って話をされていた。新しい人が学びに来るというのはなかなかないようで、世襲で行なっていることが多いらしい。

浦幌と繋がる移民の足跡を探す「氷見市立博物館」

氷見市にはしっかり、獅子舞の展示がある博物館がある。ひみ獅子舞ミュージアムは、獅子舞に特化しているが、この氷見市立博物館もあった。これは友人の紹介で知った。ここには獅子舞コーナーがあり、数頭の獅子頭が展示されている。十二町(坂津)が伝播のハブになった場所らしいので、ぜひ氷見市の獅子舞を見に行くときは、坂津の獅子舞も見たいと思った。

そして、氷見と浦幌の獅子舞の類似はとても興味深い。浦幌町立博物館に行った時に、笹川平次郎という方が氷見から浦幌に獅子舞を伝えたという話を聞いた。これに対して氷見獅子研究者に尋ねたところ、「笹川という姓を探るのが近道な気もしており、大浦というところに1軒笹川性があるそうですが、旧家かは不明です。」とおっしゃっていた。  あとは北海道への獅子舞を伝えた記録があるのは、 十二町(坂津)→岩見沢、論田→? 触坂→長活町、氷見→五箇山→北海道風蓮  氷見市吉池→北海道赤平市住吉神社  あたりが気になる。あとはもともと、氷見市の薮田との交流事業をしていたが、 その詳細は不明 。演目から探るか 、伝来者の苗字から探るか 、浦幌開拓民の故郷を探すか、これからも探求を続けたい。

 

獅子頭制作 7日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭制作修行7日目。今回の工程はこんな感じ。

・眉毛を彫って取り付ける
・頭に木を組んで取り付ける
・眉毛に木を足す

今回は久しぶりに彫るよりも切る動作が多かった。自分はまだまだ1ミリ単位の正確性が足りず、一度切り直しになった。ノコギリは力を入れようとして引くのではなく、ただ動かすような意識でやることで、正確性はあがりずれることがない。ノコギリは大きなものだけでなく、小さいサイズのものもある。ただし、上からストンと切る場合は大きなもので切った方がやりやすかった。

また、クランチを初めて使った。ボンドをつけたところはクランチでしっかり挟む。挟むところを上に向けることで、クランチが出っ張らずに獅子頭を持って帰ることができるなど、機動性があがる。

眉をつけてから、ザクっと幾つもの木組みを切るところが1番神経を使った。目にかからないような角度でザクっときる。ここで、滑らかな輪郭が出てくる。人間の表情もそうだけれどら眉がくっきりしてくると格好よい。獅子頭に感情が乗っかったような感じがする。次回はここを整えるなどの工程を行うことになるだろう。

獅子頭制作 6日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭制作修行6日目。今回の工程はこんな感じ。

・鼻を大胆に切り出し、形を整えた。いままで作り上げたものを大胆にもガシガシ変えていく。全体のバランスから考えていく。ここに迷いがなくなれば、それこそがプロの技だと思う。
・目元の部分の木が足りなかったので、おがくずをボンドでまとめて貼り合わせた。
・鼻を整えたのち、口の上に模様を入れたり、眉毛を取り付けたりした。

師匠に会費渡そうとしたら「今もらったら帰りに飲んじゃうからまた今度な」とおっしゃっていた。 よくよく話を聞いてみると、あまり飲めないらしいが、ある種の冗談なのだ。たいして上手くなくても、いつも「うまいじゃーん」と褒めてくれる。生徒の呼び方は「先生」である。叱られるより誉めるという伸ばし方を実践されている。一方で全く喋らない彫刻師もいる。こういう人も違う格好良さがあり、好対照である。

師匠はおがくずを「おがこ(粉)」と呼んでいる。昔、おがくずを販売している会社の社長に「うちの商品はくずじゃない」と言われたことがきっかけだという。確かに役立つものだから、「おがこ」なのかもしれない。完成までが遠すぎるが、コツコツ作る。

耳の装着完了!次から彫り始めることにする。

日本全国の獅子舞の源流を探る旅・三重県伊勢市、箕獅子や御頭神事を取材

日本の獅子舞の源流のひとつとも言える三重県伊勢市伊勢神宮をはじめとした信仰拠点があり、御頭神事と全国へ獅子舞を伝播した伊勢大神楽へと続く系譜、そして箕獅子といった原始的な舞、どれをとっても一地域の獅子舞とは思えない、どこか日本全国の獅子舞を考えざるをえない地域。それが伊勢だと思う。

1月2月といえば、伊勢の獅子舞が盛んな時期だ。お正月が開けたらどうも伊勢に行かねばなるまいという気持ちになってきて、伊勢市役所文化財課の山本様に電話でご連絡してから、1月14日(日)に現地に向かった。そして、さまざまな知識を教えてもらいながら、獅子舞見物をさせていただいた。今回取材したのは箕獅子1地域、御頭神事3地域の4箇所。1日の取材ながら、ぎっしりと詰まった内容となった。

手作り感あふれる農民芸術「箕獅子」

箕の作り手が獅子舞文化の伝播者であったという話や、箕を使って獅子頭を作ったという話は日本全国的に見られるものの、現在、箕を使って作られた獅子頭が残っている地域はほとんどない。昔は獅子頭は一年ごとに更新して作られた場合もあったようだが、保存という観点から、プロの職人に木造の頑丈な獅子頭を作ってもらうことになったのだろう。伊勢で箕はお田植え祭などの神事(現地読みはじんじ)で苗を運ぶために使われる重要な神器だ。それにしてもなぜこの箕が獅子舞文化の古層に存在するのだろうか。突き止めてみたいものだ。

JR二見浦駅から徒歩30分。広大な土地が海へと続く穏やかな風景を見ながら、朝9時ごろに西区コミュニティセンターに到着。着くと地域の方々が何やら準備を進めているようである。千葉からの来訪者に驚く方もいたが、暖かく迎え入れてくださり、準備風景を見守ることができた。コミュニティセンターには、箕獅子の間と花房の間がある。獅子がどれだけ愛されてきたかを再度実感した。

準備が完了すると、関係者が集まり初会が始まった。皇居、伊勢神宮、箕獅子の3方向に祈りを捧げたのち、獅子を持ってコミュニティセンターの外に出た。松蔭神社と花房志摩守供養碑を回って10時半には終了となった。神社も供養碑も森の中に秘められたように建てられているのが印象的だった。「舞ってみては?」と唆されて手足をノリで動かすということもあったが、基本的に獅子は舞わなかった。ただ、2人立ちで歩き、神社と碑に祈りを捧げ、10時半に終了。簡潔な内容となった。また再度、箕獅子はコミュニティセンターに入り、花房の間に飾られた。昨年の流れであれば、今日限りの展示であろう。昔は夕方まで舞ってそれから飲み会という流れだったそうだが、今では飲み会もなく午前中で終了となる。形式的ではあったが、箕獅子の雰囲気を楽しむことはできた。

伊勢最古級の作り、箕獅子の由来

箕獅子の由来を考えるに、伊勢市中心の山田の獅子は昔、皆箕で作られていたという事実がある。しかし、舞い方などを見ると、御頭神事などとは異なるのが注目すべきところだ。

江戸時代初期に二見地域が神領(神社の領地で、税の優遇などが受けられる)に復帰することに尽力した第7代山田奉行花房志摩守をしのぶための舞いとのことで、これが起源で始まった説がある。実際、最も重要な場所として花房志摩守供養碑があり、ここでは必ず獅子の奉納を行う。この花房志摩守への想いがあるから、箕の獅子が漆塗りの獅子へと変化しなかったのではないかという考え方もある(山本氏)。また古くは獅子舞と同時に注連縄行事も行われており、大注連縄とともに町中を駆け抜けて街全体を清める行事だったようだ。

ただし御頭が神の化身という意識があるのに対して、箕獅子はその意識があまりなく、どこか親しみ深い存在だ。獅子頭の展示会を開いたときに箕獅子は借りやすかったこともあった(山本氏)。

究極のブリコラージュ「箕獅子」の作り

箕獅子の作りに関して「ああでもこうでもないと試行錯誤して作ったんだろうな」と地域の方々が予想をしておられたのが印象的だった。現在は橙の眼と梅の木は毎年取り替えており、それ以外はそのままにしているそうだ。1994年のまつり博の際に作りかえられたようで、それまでのものとほとんど同じ作りだが、昔のものは鮮やかな赤というよりは茶色に近かったかもしれないという。中村佐洲という明治から昭和の絵師が箕獅子について描いており、それも貴重な資料として残っているようだ。

<箕獅子の作り>

・橙の皮に絞り袋の眼を付ける。橙は西区コミュニティセンターから道を挟んで反対側の敷地に生えている木のものを使うと決められている。

・ひょうたんの鼻のてっぺんには梅の木を立てる。

・下顎には右手側にハンドルがついており、それを握って開閉する。これは右利きの人が多いからということでこうなったのかもしれない。

・頭の内部構造にはフサフサなシュロが使われている。

・タテガミは紙垂と言われジャノヒゲである。

・胴体は緑色の蚊帳である。尻尾付近に二見興玉神社夫婦岩の如く、しめ縄が垂れ下がるような絵が白色で描かれている。

獅子頭とともに子どもがつけるくらいの小さな能面が保管されていたが、これが何に使われたものかよくわからない。箕曲中松原神社の御頭神事で獅子が休むための天狗役がいたが、あれもお面である。とすれば、面が獅子と対峙する役柄だった可能性はあるが、いかんせん天狗ではないのでなんとも言えない。

・農機具の箕が獅子頭の他に置かれていたが、これは広場に皆で集まった時に、おひねりを募集したことがあって、それを入れるのに使ったそうである。

友喰いの舞などの珍しい舞い方

地域の方によれば「もう10年以上も舞いをしていない」とのこと。『二見町史』(昭和63年3月)によれば、本来であれば初穂の舞、見直しの舞、遺徳感謝の舞、笹喰いの舞、中の舞、友喰いの舞、高砂・相生の舞、銭くくみの舞、竹折りの舞、獅仕舞が行われたという。その全ての舞いの前に、若衆が「ヨォーイ、ヨォーイ」と連呼する。また獅子が舞い始めると、「シッカリ舞ワンセ」を連呼したり、舞いの最後に「ヨロメヤ、ヨロメヤ」と言うらしい。上村邦夫氏は『伊勢 郷土史草 20号』(昭和56年10月)で、「踊りそのものは他の獅子舞とことかわりなくまことに単調なものだ。振り付けなど考える暇もなく、当意即妙に踊ったものだろう。獅子頭も近在から借り入れる段取りもできないままに出来合いで演じたから、却って素朴で真摯な形が三百五十年もの間、受け継がれてきたのだろう」と述べている。即興的で創意工夫が随所に見られ、そして土地に根付いたこのグルーヴ感が伝統に発展したというわけだ。

それにしても、初穂の舞から始まることからして、田植えと大きな関連性を感じずにはいられない。興味深いのは「友喰いの舞」で、これは仲間を食べてしまうと思いきや、自分の尻尾を食べようとしてクルクル舞う所作とのことで謎が深い。また、竹折りの舞は日本の竹にふんどし一丁の男が登り、竹が折れるまで登るとのことで、獅子舞との関連性は謎である。また、獅子舞の担い手以外は基本、縄くくりの神事のためふんどし一丁だったそうで、これが恥ずかしいが故に担い手がなかなか集まらなくなったという話もある。寒いよりも恥ずかしいが衰退理由だったこともどこか興味深い点である。

日本中の箕獅子文化との繋がりあり

その源流のひとつに宇治山田がある。ただし、箕で獅子を作るというのは同時多発的だった可能性あり。参考事例として、筆者が取材する中で知った箕関係の獅子舞は、能登半島の熊無の獅子舞、石川県加賀市の関栄親子獅子、秋田県の本海獅子舞番楽だ。あとは伊勢太神楽の資料関連に、その起源として箕獅子の話がよく出てくる。また、伊勢市役所文化財課の山本氏によれば、岐阜県の「どうじゃこう」や新潟県佐渡に「たかみ獅子」など、それぞれ類似例が実在するという。個人的にはまだ取材できていないが、新潟県のさんばいし神楽が気になっている。

農民文化なので五穀豊穣。元は3月に実施していた可能性あり。舞いが実施されていたときには「初穂の舞」から始まったことからして、田植え前の重要な祈りが込められていた可能性がある。ただし、現在は1月に移動して、お正月を祝う意味も込められている。

さまざまな獅子舞の源流「御頭神事」

正月15日ごろ、あるいは2月11日ごろに悪霊を祓う行事。町の氏子総代やトウヤと呼ばれる人が中心となって各社で所蔵する獅子頭(御頭)を神楽師たちによって舞わしてもらう。「檜垣貞佳日次略記」には大永3,6年(1523,27年)に失火による汚れで獅子舞が延期された記述があり、それより昔から実施していたものと考えられる。少なくとも御頭神事は室町時代には既にあったようである。最初は伊勢市の中心地の山田産土八社から始まり、それが周辺の農村部や漁村部などの周辺に広がっていくという展開を見せた。大体は七起こしの舞という八岐大蛇の舞いを共通して神社に奉納するが、より周辺部の方が古い舞いが残っている場合が多い。国指定の無形民俗文化財に指定されている高向の獅子舞などがある。また有形文化という意味での獅子頭づくりは伊勢の中で地産されているケースは珍しく、他の地域で頼むことも多い。

この御頭神事を元に作られたと言われているのが、日本全国に獅子舞を伝えた伊勢大神楽であり、伊勢大神楽の最初の記録は山本源太夫家に残されている『伊勢太神楽由来ノ抜キ書』(1661年3月)であり、この年代につながっていくわけである。また獅子が神様の仮の姿と考えるなら東北の神楽や番楽などに登場する権現様と共通の考えである。獅子が八岐大蛇に近い意味として捕らえるなら愛知県の花祭ともつながる。何れにしても日本全国規模に広がる獅子の思想の根幹部分を担うもののひとつとして御頭神事がある。

最古級の御頭神事「箕曲中松原神社」

箕曲中松原神社の御頭には天文21年(1552年)の銘があり、記録が残っている中では数ある御頭神事の中で最古級のものであることがわかる。箕曲にも「箕」の字が使われており箕獅子との関連性について気になっていたが、神社境内に書かれた看板に「この土地の古名「美乃」「美野」、あるいは勢田川の流れが曲がるところを意味する「水曲」「箕曲」に由来していると言われています」と書かれていたのみにとどまった。

まず境内の南側に位置する池の前の鳥居のところで御頭が3回頭を下げる「水鏡行事」が行われる。これが行われるようになった由来は、出発前に姿をみたいのだが御頭が手鏡には映らないので、1.5m四方ほどの大きな池に顔を映して見るということだそうだ。大事な舞いの前には獅子舞も自分の姿を確認しておきたいということだろう。

最初の神社での奉納として行われる12時40分ごろからの七起しの舞いを拝見した。ここでの獅子は獅子というよりは大蛇に近い。須佐之男命が八岐大蛇を退治している様子を七段に分けて表現している舞いだという。お酒を飲んで酔って暴れるが改心して天上に至り神になるというストーリーをもつ。

この舞いの途中、天狗面を被った人物が獅子と向かい合い、演目が終わるごとに獅子がその人物の肩で休むというのが印象的だった。天狗面は被ることはない。富山県能登半島などは天狗面を被った人物が獅子と対峙して、獅子の行く手を阻むという印象が強いが、伊勢の天狗は全く動かない。猿田彦を反映したものかなんなのか。非常に興味深い。

獅子頭に噛んでもらうときに、「おひねり」を求めてくる。お金を払うと塩を頭にかけてもらって、それから獅子頭に噛んでもらうという手順だ。単にお遊びで噛んでもらうよりかなり神聖な感じがした。ちなみにおひねりは1000円くらいまでの額が多かったように思う。頭を噛んでもらったのち、御頭につけられた紙垂をちぎったものをいただいた。「財布に入れておくとご利益があるよ」とのこと。財布の中に大事にしまっておいた。

それから一旦、神社を離れたが、夕方に戻ってきた。16時半から「剣の舞」があることを人事の掲示板で知っていたからだ。しかし、大幅に遅れてしまい、16時50分ごろに到着したのでもう終わった後かと思っていたが、奇跡的にすぐに担い手たちのトラックが到着して舞いが始まった。獅子舞も進行が遅れていたようだ。その名の通り、剣を使い空間を切るまさに厄祓いらしい所作が見られた。

太っ腹な獅子舞「上社 御頭神事」

キッチンたきがわの御頭舞、神社での奉納演舞の2つを拝見した。子どもたちが和気藹々としていたのが印象的だった。近所の人々がわらわらと集まってきて、輪を作り囲むように獅子舞を見物している。頭を噛んでもらうのに、こちらはおひねりは不要で、それに加えてみかんをいただける流れとなっていた。とても太っ腹だと感じた。箕曲中松原神社のものに比べるとやや簡略化されている印象を受けた。神社でいただいた甘酒には生姜をお好みで入れるようになっていて、しょうがが効いてて美味しかった。

伊勢市伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)によれば、この地域の御頭は雌だと言われている。その理由として目や口が赤いからだという。伊勢市の御頭は雄ばかりのようで、雌は非常に珍しい。

非公開神事が公開された「有滝町 御頭神事」

有滝町は伊勢市の外れの海沿いの町であり、港町の信仰が息づいている。最後の獅子の練り歩きに関して、今年から始めて「見せてはいけない神事」を「見せる神事」に転換。その始めの一歩として、市役所の文化財課にカメラマンとして写真撮影を依頼した。その知り合いの知り合いとして同行させていただく。何も話してはいけない厳かな雰囲気の中、忍び足で後ろをついていく。もともと伊勢市伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)によれば、「太鼓持ちは、御頭が通ることを町民に知らせるために太鼓を叩き、町民は御頭に出会わないように寝たふりをする」とある。町民が寝たふりをするほどに見てはいけないものだったわけだ。カメラで撮影したら、そのカメラが壊されたという逸話も残る。なぜ見る方向に転換したのか、ということでいえば働き方の変化や担い手を募るといった意味があるようだ。

宮司さんによれば「昔は日が変わるくらいの真夜中にやっていた神事なのですが、最近は18時過ぎとなっています。次の日に仕事の方もいますからね」と。最近は働き方などの観点で、夜遅くまで神事をすると疲れが残るからということで、少し暗くなった時間帯にやっているようだ。柳田國男「日本の祭り」(P106)などに見られるように、昔は祭りは祀りであり、神事性が高く、暗い夜を徹して非公開のものが多かったという。物忌みと精進につながる考え方だ。しかし、それが徐々に娯楽性を増して昼間に時間帯を移すこととなる。まさに日本の神事の簡略化を想起させる事例だ。今回の有滝町の事例に関しては、おそらく自らが穢れることを防ぐよりも、神聖なものに日常的な穢れを移さないという類の物忌みだったのではないかと予想する。それほどに神聖な御頭に対する穢れの感覚値の変異が起こったとも言えるかもしれない。

また1番面白いと思ったのが、御頭の紙垂をむしり取りそれをお守りにするという風習は他の地域同様にあるものの、それに「大吉」などが書かれており、おみくじ方式に変化したようである。「これがあれば皆獅子に寄ってきてくれるのではないか」という宮司さんのアイデアによるものだ。担い手不足が深刻な今、人が寄ってくる方法をとことん考えねばならないという想いが伝わってきた。「若手のホープがいるから!」などと、一番若そうな元気な男の子の方を叩く何気ない姿が、どこか大きな期待と責任を思わせた。

滝がない町なのになぜ有滝町なのか、というのも面白かった。満月の夜に海がザーザーと波を立てるようでその音が滝のように聞こえたことが由来という。獅子舞の合間に藁で作られた「蛸(タコ)投げ」というのがあり、雌蛸(沖の瀬のタコ)と雄蛸(高瀬のタコ)を投げて、見物人が取り合う。拾った人がこれを屋根に上げておくと豊漁になるらしい。どこまでも海の民らしい行事になっていて、ここならではが感じられた獅子舞取材だった。

参考文献

伊勢民俗学会 山本様 作成史料『地誌史料に見える御頭神事と二見町西区に伝わる箕獅子舞』

二見町役場『二見町史』昭和63年3月, p423-p425

伊勢市伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)

伊勢郷土会『伊勢 郷土史草 20号』(昭和56年10月)



手作り大獅子の物語!静岡県島田市抜里にて、遠方の獅子舞との意外な共通性

楽しさを追求する精神と助け合いがある、暖かい街。そのような印象が強い、静岡県島田市抜里という地域。三人組のアーティストユニット獅子の歯ブラシの活動で、この街に滞在した。ここではもともと獅子舞はないものと思っていたが、庭木の剪定をしている地域の方と雑談をしている時に、たまたま「倉庫に獅子舞があるよ」と言われて案内してもらって、獅子舞の話を聞く流れとなった。そこには獅子舞という芸能を考える上で、とても興味深いヒントが隠されていたように思う。

大獅子を軽トラックで運んでいただき、それを前にして、獅子舞を創作した米澤國雄さんにお話を伺うことができた。

赤い大獅子の始まり

抜里では抜里八幡神社を崇拝する祭礼行事を昔から営んできた。特に縁日になる10月16日(現在はその周辺の土日に変更)の秋の例大祭に備えて、手作りの「御所車(牛の造形物の運搬)」「竿灯」「神楽」などの出し物を披露してきた。米澤さんは日本の獅子舞・神楽に影響され、特に神楽に関してその創作を率先して実施してきた。

まず大獅子である。平成9年に静岡県周智郡春野町豊岡勝坂地区の「神楽の里」への訪問や、静岡県掛川市の「仁藤の大獅子」などを見学して、それを元に次のお正月に手作りの赤い大獅子を完成させ練り歩きが行われた。また、10月の縁日では、手作りの白い獅子頭を制作して、紅白の大獅子とダンボールの獅子とで、参拝者を温かく迎えるということもあった。この紅白の獅子頭は基本的に作りが同じだが、色の配色が違う。ただし白い獅子頭の方は鼻が出っ張り過ぎて不格好だったので、すぐにお焚き上げとなってしまった。現在は赤い大獅子のみが残されている。また、この赤い大獅子の口からダンボールの大きな手が出てくるという演出が行われることもあった。これはご祝儀をいただく意味で、手を出すということだった。ただその行為があからさますぎるということで、一回のみでそれ以降は行われなかった。ただご祝儀の額はかなり集まったようだ。

ダンボール獅子も舞い歩き

大獅子と同時に、26の手作りダンボー獅子頭を制作。舞い歩きも行ったようだ。これは「全員が主役」が原則で、小中学生や大人といった多様な属性の地域の方々が手作り獅子頭をかぶって舞い歩くというものだった。この獅子頭は規制品ではなく、全て手作りだ。この愛情がこもった獅子頭は、舞わなくなった今でも各家庭で大事にされている。

また、結婚式で遠方まで舞に行くこともあり、子孫繁栄の舞いを実施することもあった。ここでは「新郎名」「新婦名」「第三者名」の3頭の獅子とひょっとこが登場したようである。3頭の獅子頭を正面、右、左を3回繰り返す。また獅子頭を前後に振って、「ビリビリ」を行ったという。また、この時の結婚式の時の内容をアレンジして、「百賀の祝い」で「長寿の舞」を披露するなど、単に祭礼行事だけで獅子舞を実施するのではなく、祝い事にたくさん呼ばれて獅子舞を実施してきたようだ。

大獅子の復活

これらのお話を伺ったのち、抜里に滞在していた美大の先生と大学生達と、この大獅子を30年ぶりに復活させようという演舞が行われた。掃除をして塗り直しをして、茶畑のど真ん中に移動。口をパクパクさせながら胴体を傘によって上下させて動きを出させ、練り歩きが行われた。獅子頭には中に入る人が1人、そして側面の木を持って支える人が2人、あとは胴体という構成だった。地域の人々が見守る中で、とても感動的な演舞となった。

雌獅子隠しから読み取る「獅子舞の普遍性」

ここからはヒアリングの振り返りと個人的な気づきである。最も驚いたのが米澤さんが創作された結婚式での獅子舞に、雌獅子隠しの演目があったことだ。夫婦和合の意味が込められており、最終的には嫁の取り合いに勝利したオスが結婚する夫婦和合の流れだそうである。これは獅子舞界隈では、関東の三匹獅子舞を取材する時によく登場する演目で、オス2頭がメス1頭を取り合うというものだ。朝霧が立ち込める中でオスがメスを探し当てて、最後は3頭仲良く帰っていくという物語である。これが合戦前に味方を鼓舞する武道的な文脈で導入されたという説もあり、これと似た演目が抜里にも見られた。米澤さん曰く「三匹獅子舞の話は全く知らなかった」とのこと。米澤さんが創作した獅子舞の演目が、偶然にも関東で類似の舞いが見られたということである。単なる地域間の芸能伝播に関わらず、人間が描く獅子舞像が根底で偶然にも一致をしたという奇跡は、獅子舞の普遍的で広域的な可能性と人間の根源に訴えかける何かを感じることができ、個人的にとても興味深い観点であった。

「楽しさと愛情」を感じる獅子舞

また、ダンボールの獅子頭も大獅子も地域の人は「神楽」と呼ぶことから、形態は「獅子神楽」であることは明白で、権九郎の獅子頭保有している。おそらく三重の伊勢大神楽の影響を強く受けた獅子舞という印象だ。ただし、基本的には伝統的な舞いを有せず、祭りの日は楽しく動こうということで、かっちりした所作が決まっていない。民謡を急に歌い出す獅子舞の担い手がいるくらいで、基本的に自由だ。楽しみながらこの獅子舞を継承しているという印象が強い。手作りの獅子頭を有しており、基本的に愛着を持って獅子舞を行なっている。だから、獅子舞を30年間行なっていなくても、各家庭に自分の獅子頭を保管している。これらのことを総合して考えると、獅子舞に対して愛情あふれる向き合い方をしているように思える。