獅子頭制作 6日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭制作修行6日目。今回の工程はこんな感じ。

・鼻を大胆に切り出し、形を整えた。いままで作り上げたものを大胆にもガシガシ変えていく。全体のバランスから考えていく。ここに迷いがなくなれば、それこそがプロの技だと思う。
・目元の部分の木が足りなかったので、おがくずをボンドでまとめて貼り合わせた。
・鼻を整えたのち、口の上に模様を入れたり、眉毛を取り付けたりした。

師匠に会費渡そうとしたら「今もらったら帰りに飲んじゃうからまた今度な」とおっしゃっていた。 よくよく話を聞いてみると、あまり飲めないらしいが、ある種の冗談なのだ。たいして上手くなくても、いつも「うまいじゃーん」と褒めてくれる。生徒の呼び方は「先生」である。叱られるより誉めるという伸ばし方を実践されている。一方で全く喋らない彫刻師もいる。こういう人も違う格好良さがあり、好対照である。

師匠はおがくずを「おがこ(粉)」と呼んでいる。昔、おがくずを販売している会社の社長に「うちの商品はくずじゃない」と言われたことがきっかけだという。確かに役立つものだから、「おがこ」なのかもしれない。完成までが遠すぎるが、コツコツ作る。

耳の装着完了!次から彫り始めることにする。

日本全国の獅子舞の源流を探る旅・三重県伊勢市、箕獅子や御頭神事を取材

日本の獅子舞の源流のひとつとも言える三重県伊勢市伊勢神宮をはじめとした信仰拠点があり、御頭神事と全国へ獅子舞を伝播した伊勢大神楽へと続く系譜、そして箕獅子といった原始的な舞、どれをとっても一地域の獅子舞とは思えない、どこか日本全国の獅子舞を考えざるをえない地域。それが伊勢だと思う。

1月2月といえば、伊勢の獅子舞が盛んな時期だ。お正月が開けたらどうも伊勢に行かねばなるまいという気持ちになってきて、伊勢市役所文化財課の山本様に電話でご連絡してから、1月14日(日)に現地に向かった。そして、さまざまな知識を教えてもらいながら、獅子舞見物をさせていただいた。今回取材したのは箕獅子1地域、御頭神事3地域の4箇所。1日の取材ながら、ぎっしりと詰まった内容となった。

手作り感あふれる農民芸術「箕獅子」

箕の作り手が獅子舞文化の伝播者であったという話や、箕を使って獅子頭を作ったという話は日本全国的に見られるものの、現在、箕を使って作られた獅子頭が残っている地域はほとんどない。昔は獅子頭は一年ごとに更新して作られた場合もあったようだが、保存という観点から、プロの職人に木造の頑丈な獅子頭を作ってもらうことになったのだろう。伊勢で箕はお田植え祭などの神事(現地読みはじんじ)で苗を運ぶために使われる重要な神器だ。それにしてもなぜこの箕が獅子舞文化の古層に存在するのだろうか。突き止めてみたいものだ。

JR二見浦駅から徒歩30分。広大な土地が海へと続く穏やかな風景を見ながら、朝9時ごろに西区コミュニティセンターに到着。着くと地域の方々が何やら準備を進めているようである。千葉からの来訪者に驚く方もいたが、暖かく迎え入れてくださり、準備風景を見守ることができた。コミュニティセンターには、箕獅子の間と花房の間がある。獅子がどれだけ愛されてきたかを再度実感した。

準備が完了すると、関係者が集まり初会が始まった。皇居、伊勢神宮、箕獅子の3方向に祈りを捧げたのち、獅子を持ってコミュニティセンターの外に出た。松蔭神社と花房志摩守供養碑を回って10時半には終了となった。神社も供養碑も森の中に秘められたように建てられているのが印象的だった。「舞ってみては?」と唆されて手足をノリで動かすということもあったが、基本的に獅子は舞わなかった。ただ、2人立ちで歩き、神社と碑に祈りを捧げ、10時半に終了。簡潔な内容となった。また再度、箕獅子はコミュニティセンターに入り、花房の間に飾られた。昨年の流れであれば、今日限りの展示であろう。昔は夕方まで舞ってそれから飲み会という流れだったそうだが、今では飲み会もなく午前中で終了となる。形式的ではあったが、箕獅子の雰囲気を楽しむことはできた。

伊勢最古級の作り、箕獅子の由来

箕獅子の由来を考えるに、伊勢市中心の山田の獅子は昔、皆箕で作られていたという事実がある。しかし、舞い方などを見ると、御頭神事などとは異なるのが注目すべきところだ。

江戸時代初期に二見地域が神領(神社の領地で、税の優遇などが受けられる)に復帰することに尽力した第7代山田奉行花房志摩守をしのぶための舞いとのことで、これが起源で始まった説がある。実際、最も重要な場所として花房志摩守供養碑があり、ここでは必ず獅子の奉納を行う。この花房志摩守への想いがあるから、箕の獅子が漆塗りの獅子へと変化しなかったのではないかという考え方もある(山本氏)。また古くは獅子舞と同時に注連縄行事も行われており、大注連縄とともに町中を駆け抜けて街全体を清める行事だったようだ。

ただし御頭が神の化身という意識があるのに対して、箕獅子はその意識があまりなく、どこか親しみ深い存在だ。獅子頭の展示会を開いたときに箕獅子は借りやすかったこともあった(山本氏)。

究極のブリコラージュ「箕獅子」の作り

箕獅子の作りに関して「ああでもこうでもないと試行錯誤して作ったんだろうな」と地域の方々が予想をしておられたのが印象的だった。現在は橙の眼と梅の木は毎年取り替えており、それ以外はそのままにしているそうだ。1994年のまつり博の際に作りかえられたようで、それまでのものとほとんど同じ作りだが、昔のものは鮮やかな赤というよりは茶色に近かったかもしれないという。中村佐洲という明治から昭和の絵師が箕獅子について描いており、それも貴重な資料として残っているようだ。

<箕獅子の作り>

・橙の皮に絞り袋の眼を付ける。橙は西区コミュニティセンターから道を挟んで反対側の敷地に生えている木のものを使うと決められている。

・ひょうたんの鼻のてっぺんには梅の木を立てる。

・下顎には右手側にハンドルがついており、それを握って開閉する。これは右利きの人が多いからということでこうなったのかもしれない。

・頭の内部構造にはフサフサなシュロが使われている。

・タテガミは紙垂と言われジャノヒゲである。

・胴体は緑色の蚊帳である。尻尾付近に二見興玉神社夫婦岩の如く、しめ縄が垂れ下がるような絵が白色で描かれている。

獅子頭とともに子どもがつけるくらいの小さな能面が保管されていたが、これが何に使われたものかよくわからない。箕曲中松原神社の御頭神事で獅子が休むための天狗役がいたが、あれもお面である。とすれば、面が獅子と対峙する役柄だった可能性はあるが、いかんせん天狗ではないのでなんとも言えない。

・農機具の箕が獅子頭の他に置かれていたが、これは広場に皆で集まった時に、おひねりを募集したことがあって、それを入れるのに使ったそうである。

友喰いの舞などの珍しい舞い方

地域の方によれば「もう10年以上も舞いをしていない」とのこと。『二見町史』(昭和63年3月)によれば、本来であれば初穂の舞、見直しの舞、遺徳感謝の舞、笹喰いの舞、中の舞、友喰いの舞、高砂・相生の舞、銭くくみの舞、竹折りの舞、獅仕舞が行われたという。その全ての舞いの前に、若衆が「ヨォーイ、ヨォーイ」と連呼する。また獅子が舞い始めると、「シッカリ舞ワンセ」を連呼したり、舞いの最後に「ヨロメヤ、ヨロメヤ」と言うらしい。上村邦夫氏は『伊勢 郷土史草 20号』(昭和56年10月)で、「踊りそのものは他の獅子舞とことかわりなくまことに単調なものだ。振り付けなど考える暇もなく、当意即妙に踊ったものだろう。獅子頭も近在から借り入れる段取りもできないままに出来合いで演じたから、却って素朴で真摯な形が三百五十年もの間、受け継がれてきたのだろう」と述べている。即興的で創意工夫が随所に見られ、そして土地に根付いたこのグルーヴ感が伝統に発展したというわけだ。

それにしても、初穂の舞から始まることからして、田植えと大きな関連性を感じずにはいられない。興味深いのは「友喰いの舞」で、これは仲間を食べてしまうと思いきや、自分の尻尾を食べようとしてクルクル舞う所作とのことで謎が深い。また、竹折りの舞は日本の竹にふんどし一丁の男が登り、竹が折れるまで登るとのことで、獅子舞との関連性は謎である。また、獅子舞の担い手以外は基本、縄くくりの神事のためふんどし一丁だったそうで、これが恥ずかしいが故に担い手がなかなか集まらなくなったという話もある。寒いよりも恥ずかしいが衰退理由だったこともどこか興味深い点である。

日本中の箕獅子文化との繋がりあり

その源流のひとつに宇治山田がある。ただし、箕で獅子を作るというのは同時多発的だった可能性あり。参考事例として、筆者が取材する中で知った箕関係の獅子舞は、能登半島の熊無の獅子舞、石川県加賀市の関栄親子獅子、秋田県の本海獅子舞番楽だ。あとは伊勢太神楽の資料関連に、その起源として箕獅子の話がよく出てくる。また、伊勢市役所文化財課の山本氏によれば、岐阜県の「どうじゃこう」や新潟県佐渡に「たかみ獅子」など、それぞれ類似例が実在するという。個人的にはまだ取材できていないが、新潟県のさんばいし神楽が気になっている。

農民文化なので五穀豊穣。元は3月に実施していた可能性あり。舞いが実施されていたときには「初穂の舞」から始まったことからして、田植え前の重要な祈りが込められていた可能性がある。ただし、現在は1月に移動して、お正月を祝う意味も込められている。

さまざまな獅子舞の源流「御頭神事」

正月15日ごろ、あるいは2月11日ごろに悪霊を祓う行事。町の氏子総代やトウヤと呼ばれる人が中心となって各社で所蔵する獅子頭(御頭)を神楽師たちによって舞わしてもらう。「檜垣貞佳日次略記」には大永3,6年(1523,27年)に失火による汚れで獅子舞が延期された記述があり、それより昔から実施していたものと考えられる。少なくとも御頭神事は室町時代には既にあったようである。最初は伊勢市の中心地の山田産土八社から始まり、それが周辺の農村部や漁村部などの周辺に広がっていくという展開を見せた。大体は七起こしの舞という八岐大蛇の舞いを共通して神社に奉納するが、より周辺部の方が古い舞いが残っている場合が多い。国指定の無形民俗文化財に指定されている高向の獅子舞などがある。また有形文化という意味での獅子頭づくりは伊勢の中で地産されているケースは珍しく、他の地域で頼むことも多い。

この御頭神事を元に作られたと言われているのが、日本全国に獅子舞を伝えた伊勢大神楽であり、伊勢大神楽の最初の記録は山本源太夫家に残されている『伊勢太神楽由来ノ抜キ書』(1661年3月)であり、この年代につながっていくわけである。また獅子が神様の仮の姿と考えるなら東北の神楽や番楽などに登場する権現様と共通の考えである。獅子が八岐大蛇に近い意味として捕らえるなら愛知県の花祭ともつながる。何れにしても日本全国規模に広がる獅子の思想の根幹部分を担うもののひとつとして御頭神事がある。

最古級の御頭神事「箕曲中松原神社」

箕曲中松原神社の御頭には天文21年(1552年)の銘があり、記録が残っている中では数ある御頭神事の中で最古級のものであることがわかる。箕曲にも「箕」の字が使われており箕獅子との関連性について気になっていたが、神社境内に書かれた看板に「この土地の古名「美乃」「美野」、あるいは勢田川の流れが曲がるところを意味する「水曲」「箕曲」に由来していると言われています」と書かれていたのみにとどまった。

まず境内の南側に位置する池の前の鳥居のところで御頭が3回頭を下げる「水鏡行事」が行われる。これが行われるようになった由来は、出発前に姿をみたいのだが御頭が手鏡には映らないので、1.5m四方ほどの大きな池に顔を映して見るということだそうだ。大事な舞いの前には獅子舞も自分の姿を確認しておきたいということだろう。

最初の神社での奉納として行われる12時40分ごろからの七起しの舞いを拝見した。ここでの獅子は獅子というよりは大蛇に近い。須佐之男命が八岐大蛇を退治している様子を七段に分けて表現している舞いだという。お酒を飲んで酔って暴れるが改心して天上に至り神になるというストーリーをもつ。

この舞いの途中、天狗面を被った人物が獅子と向かい合い、演目が終わるごとに獅子がその人物の肩で休むというのが印象的だった。天狗面は被ることはない。富山県能登半島などは天狗面を被った人物が獅子と対峙して、獅子の行く手を阻むという印象が強いが、伊勢の天狗は全く動かない。猿田彦を反映したものかなんなのか。非常に興味深い。

獅子頭に噛んでもらうときに、「おひねり」を求めてくる。お金を払うと塩を頭にかけてもらって、それから獅子頭に噛んでもらうという手順だ。単にお遊びで噛んでもらうよりかなり神聖な感じがした。ちなみにおひねりは1000円くらいまでの額が多かったように思う。頭を噛んでもらったのち、御頭につけられた紙垂をちぎったものをいただいた。「財布に入れておくとご利益があるよ」とのこと。財布の中に大事にしまっておいた。

それから一旦、神社を離れたが、夕方に戻ってきた。16時半から「剣の舞」があることを人事の掲示板で知っていたからだ。しかし、大幅に遅れてしまい、16時50分ごろに到着したのでもう終わった後かと思っていたが、奇跡的にすぐに担い手たちのトラックが到着して舞いが始まった。獅子舞も進行が遅れていたようだ。その名の通り、剣を使い空間を切るまさに厄祓いらしい所作が見られた。

太っ腹な獅子舞「上社 御頭神事」

キッチンたきがわの御頭舞、神社での奉納演舞の2つを拝見した。子どもたちが和気藹々としていたのが印象的だった。近所の人々がわらわらと集まってきて、輪を作り囲むように獅子舞を見物している。頭を噛んでもらうのに、こちらはおひねりは不要で、それに加えてみかんをいただける流れとなっていた。とても太っ腹だと感じた。箕曲中松原神社のものに比べるとやや簡略化されている印象を受けた。神社でいただいた甘酒には生姜をお好みで入れるようになっていて、しょうがが効いてて美味しかった。

伊勢市伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)によれば、この地域の御頭は雌だと言われている。その理由として目や口が赤いからだという。伊勢市の御頭は雄ばかりのようで、雌は非常に珍しい。

非公開神事が公開された「有滝町 御頭神事」

有滝町は伊勢市の外れの海沿いの町であり、港町の信仰が息づいている。最後の獅子の練り歩きに関して、今年から始めて「見せてはいけない神事」を「見せる神事」に転換。その始めの一歩として、市役所の文化財課にカメラマンとして写真撮影を依頼した。その知り合いの知り合いとして同行させていただく。何も話してはいけない厳かな雰囲気の中、忍び足で後ろをついていく。もともと伊勢市伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)によれば、「太鼓持ちは、御頭が通ることを町民に知らせるために太鼓を叩き、町民は御頭に出会わないように寝たふりをする」とある。町民が寝たふりをするほどに見てはいけないものだったわけだ。カメラで撮影したら、そのカメラが壊されたという逸話も残る。なぜ見る方向に転換したのか、ということでいえば働き方の変化や担い手を募るといった意味があるようだ。

宮司さんによれば「昔は日が変わるくらいの真夜中にやっていた神事なのですが、最近は18時過ぎとなっています。次の日に仕事の方もいますからね」と。最近は働き方などの観点で、夜遅くまで神事をすると疲れが残るからということで、少し暗くなった時間帯にやっているようだ。柳田國男「日本の祭り」(P106)などに見られるように、昔は祭りは祀りであり、神事性が高く、暗い夜を徹して非公開のものが多かったという。物忌みと精進につながる考え方だ。しかし、それが徐々に娯楽性を増して昼間に時間帯を移すこととなる。まさに日本の神事の簡略化を想起させる事例だ。今回の有滝町の事例に関しては、おそらく自らが穢れることを防ぐよりも、神聖なものに日常的な穢れを移さないという類の物忌みだったのではないかと予想する。それほどに神聖な御頭に対する穢れの感覚値の変異が起こったとも言えるかもしれない。

また1番面白いと思ったのが、御頭の紙垂をむしり取りそれをお守りにするという風習は他の地域同様にあるものの、それに「大吉」などが書かれており、おみくじ方式に変化したようである。「これがあれば皆獅子に寄ってきてくれるのではないか」という宮司さんのアイデアによるものだ。担い手不足が深刻な今、人が寄ってくる方法をとことん考えねばならないという想いが伝わってきた。「若手のホープがいるから!」などと、一番若そうな元気な男の子の方を叩く何気ない姿が、どこか大きな期待と責任を思わせた。

滝がない町なのになぜ有滝町なのか、というのも面白かった。満月の夜に海がザーザーと波を立てるようでその音が滝のように聞こえたことが由来という。獅子舞の合間に藁で作られた「蛸(タコ)投げ」というのがあり、雌蛸(沖の瀬のタコ)と雄蛸(高瀬のタコ)を投げて、見物人が取り合う。拾った人がこれを屋根に上げておくと豊漁になるらしい。どこまでも海の民らしい行事になっていて、ここならではが感じられた獅子舞取材だった。

参考文献

伊勢民俗学会 山本様 作成史料『地誌史料に見える御頭神事と二見町西区に伝わる箕獅子舞』

二見町役場『二見町史』昭和63年3月, p423-p425

伊勢市伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)

伊勢郷土会『伊勢 郷土史草 20号』(昭和56年10月)



手作り大獅子の物語!静岡県島田市抜里にて、遠方の獅子舞との意外な共通性

楽しさを追求する精神と助け合いがある、暖かい街。そのような印象が強い、静岡県島田市抜里という地域。三人組のアーティストユニット獅子の歯ブラシの活動で、この街に滞在した。ここではもともと獅子舞はないものと思っていたが、庭木の剪定をしている地域の方と雑談をしている時に、たまたま「倉庫に獅子舞があるよ」と言われて案内してもらって、獅子舞の話を聞く流れとなった。そこには獅子舞という芸能を考える上で、とても興味深いヒントが隠されていたように思う。

大獅子を軽トラックで運んでいただき、それを前にして、獅子舞を創作した米澤國雄さんにお話を伺うことができた。

赤い大獅子の始まり

抜里では抜里八幡神社を崇拝する祭礼行事を昔から営んできた。特に縁日になる10月16日(現在はその周辺の土日に変更)の秋の例大祭に備えて、手作りの「御所車(牛の造形物の運搬)」「竿灯」「神楽」などの出し物を披露してきた。米澤さんは日本の獅子舞・神楽に影響され、特に神楽に関してその創作を率先して実施してきた。

まず大獅子である。平成9年に静岡県周智郡春野町豊岡勝坂地区の「神楽の里」への訪問や、静岡県掛川市の「仁藤の大獅子」などを見学して、それを元に次のお正月に手作りの赤い大獅子を完成させ練り歩きが行われた。また、10月の縁日では、手作りの白い獅子頭を制作して、紅白の大獅子とダンボールの獅子とで、参拝者を温かく迎えるということもあった。この紅白の獅子頭は基本的に作りが同じだが、色の配色が違う。ただし白い獅子頭の方は鼻が出っ張り過ぎて不格好だったので、すぐにお焚き上げとなってしまった。現在は赤い大獅子のみが残されている。また、この赤い大獅子の口からダンボールの大きな手が出てくるという演出が行われることもあった。これはご祝儀をいただく意味で、手を出すということだった。ただその行為があからさますぎるということで、一回のみでそれ以降は行われなかった。ただご祝儀の額はかなり集まったようだ。

ダンボール獅子も舞い歩き

大獅子と同時に、26の手作りダンボー獅子頭を制作。舞い歩きも行ったようだ。これは「全員が主役」が原則で、小中学生や大人といった多様な属性の地域の方々が手作り獅子頭をかぶって舞い歩くというものだった。この獅子頭は規制品ではなく、全て手作りだ。この愛情がこもった獅子頭は、舞わなくなった今でも各家庭で大事にされている。

また、結婚式で遠方まで舞に行くこともあり、子孫繁栄の舞いを実施することもあった。ここでは「新郎名」「新婦名」「第三者名」の3頭の獅子とひょっとこが登場したようである。3頭の獅子頭を正面、右、左を3回繰り返す。また獅子頭を前後に振って、「ビリビリ」を行ったという。また、この時の結婚式の時の内容をアレンジして、「百賀の祝い」で「長寿の舞」を披露するなど、単に祭礼行事だけで獅子舞を実施するのではなく、祝い事にたくさん呼ばれて獅子舞を実施してきたようだ。

大獅子の復活

これらのお話を伺ったのち、抜里に滞在していた美大の先生と大学生達と、この大獅子を30年ぶりに復活させようという演舞が行われた。掃除をして塗り直しをして、茶畑のど真ん中に移動。口をパクパクさせながら胴体を傘によって上下させて動きを出させ、練り歩きが行われた。獅子頭には中に入る人が1人、そして側面の木を持って支える人が2人、あとは胴体という構成だった。地域の人々が見守る中で、とても感動的な演舞となった。

雌獅子隠しから読み取る「獅子舞の普遍性」

ここからはヒアリングの振り返りと個人的な気づきである。最も驚いたのが米澤さんが創作された結婚式での獅子舞に、雌獅子隠しの演目があったことだ。夫婦和合の意味が込められており、最終的には嫁の取り合いに勝利したオスが結婚する夫婦和合の流れだそうである。これは獅子舞界隈では、関東の三匹獅子舞を取材する時によく登場する演目で、オス2頭がメス1頭を取り合うというものだ。朝霧が立ち込める中でオスがメスを探し当てて、最後は3頭仲良く帰っていくという物語である。これが合戦前に味方を鼓舞する武道的な文脈で導入されたという説もあり、これと似た演目が抜里にも見られた。米澤さん曰く「三匹獅子舞の話は全く知らなかった」とのこと。米澤さんが創作した獅子舞の演目が、偶然にも関東で類似の舞いが見られたということである。単なる地域間の芸能伝播に関わらず、人間が描く獅子舞像が根底で偶然にも一致をしたという奇跡は、獅子舞の普遍的で広域的な可能性と人間の根源に訴えかける何かを感じることができ、個人的にとても興味深い観点であった。

「楽しさと愛情」を感じる獅子舞

また、ダンボールの獅子頭も大獅子も地域の人は「神楽」と呼ぶことから、形態は「獅子神楽」であることは明白で、権九郎の獅子頭保有している。おそらく三重の伊勢大神楽の影響を強く受けた獅子舞という印象だ。ただし、基本的には伝統的な舞いを有せず、祭りの日は楽しく動こうということで、かっちりした所作が決まっていない。民謡を急に歌い出す獅子舞の担い手がいるくらいで、基本的に自由だ。楽しみながらこの獅子舞を継承しているという印象が強い。手作りの獅子頭を有しており、基本的に愛着を持って獅子舞を行なっている。だから、獅子舞を30年間行なっていなくても、各家庭に自分の獅子頭を保管している。これらのことを総合して考えると、獅子舞に対して愛情あふれる向き合い方をしているように思える。







岩手県の宝「黒森神楽」を取材!奥深い歴史を繋ぐ舞いに迫る<2024年お正月公演>

黒森神楽は宮古市山口に鎮座する黒森神社を拠点として行われる山伏神楽である。廻り神楽とも呼ばれ、岩手県沿岸部を中心に広範囲を舞って歩く。この巡業スタイルは三重県伊勢大神楽を連想するような獅子舞だ。国指定の重要無形民俗文化財であり、この巡業によって各地に獅子舞文化を根付かせてきた功績は大きく、また南北朝時代以降の獅子頭が20頭は残存しているため有形文化としてもかなり貴重である。このように獅子舞文化を語る上で非常に重要な意味を持つ黒森神楽の舞い姿をぜひ見ておかねばならないと思い、2023年1月3日、岩手県宮古市を訪れた。黒森神楽の山の神舞は2022年3月にみやこ郷土芸能祭で拝見して感動して、それから黒森神楽の展示室がある宮古市の山口公民館を訪問したことがある。ただ、獅子頭を振る権現舞は拝見したことがなかったので、今回ようやく念願の取材となった。

急坂を黒森神社に向かう

山道をひたすら歩いて、黒森神社に向かう。途中、手入れされた里山を見る。皆伐されている林もあれば、鬱蒼と茂るまさに黒い森のようなところもある。思った以上に登りがきつい。傾斜が45度くらいあるような坂を前のめりになりながら登る。途中、神楽の関係者やお客さんの車が僕を追い越していく。お年寄りはタクシーで向かっている人もいた。歩きは数名で、挨拶を交わしながら、その背中を追い越していく。挨拶をしないと気まずいくらいに森が深くて静かだ。ところどころ紫陽花の枯れ木があって、その種類がいちいちプレートに書かれている。どうやら紫陽花ロードのような形で整備しているらしい。

鳥居の前までついた。横に駐車場が広がっている。黒森神社はどこまでも気が澄んでいて、それは写真を撮影しているとよくわかる。庭があって、とぐろを巻く龍がいた。どこか蛇のように見える。さて、拝殿の前まで来た。関係者がずらりと並ぶ。社務所では箱根駅伝を観ている神社関係者がいる。これから始まる神事とはかけ離れた俗世的な世界がそこに広がっていて、日本の奥地、霊界までも結局皆人間の世界であるという実感を得る。それからしばらくして、鳥居本面から鐘と太鼓の音が響いてくる。直立する杉の木の合間を縫うように小さな人が数名大地を踏みしめ、囃しながらこちらに向かってくる。カメラマン達は一斉にその姿を捉える。ただ、思ったより見物客は少ない。黒森神社まで追いかけてくる人はやはり関係者か芸能マニアな地元の人が大多数であろう。

拝殿前で担い手達は止まり、そして、参道の左右に列をなす。神事は始まらない。宮司と始まりの時間を待つように、少し雑談の時間となる。子どもがあちこちを動き回り、担い手の間を縫うように様子を伺う。

清々しい舞い立ちの様子

黒森神社での舞い立ちは13時から始まった。宮司祝詞奏上や関係者による玉串奉奠などよくある神事があった一方で、扇をひらひらと回す舞いや、5分ちょっとの軽い権現舞も行われた。権現舞では獅子頭と胴体を被らずに2人で手で持ち、それが2頭分並んで行われた。それが終わると拝殿前で記念撮影が行われ、14時ごろには一旦解散して各々山口公民館へと向かった。ところで黒森神楽の社務所には牛王法院などの山伏系のお土産があったほか、鯛の形をした入れ物の尻尾におみくじが挟まっているものを実際の釣り具で釣るというものもあり、黒森神楽の演目のひとつである恵比寿舞にちなんだおみくじかもしれない。とても珍しいおみくじだと思った。

米の粉を額につけるシットギと権現舞

公民館では15時前から舞い込みが行われた。印象的だったのが、まずシットギである。シットギとは米の粉を練ったもので、お餅ではない。庭の中央には杵と臼。臼には米の粉を練ったシットギが入っており、それを杵やしゃもじ、すりこぎに付けて、さらにそれを観客の額や頬につけていく。インドの女性が額に赤い点を打つが、ここでは白い点がどんどん入れられていくのだ。そう言えばこの山口公民館のすぐ近くに「宮古田の神郵便局」という建物を見かけた。田の神さまがいる土地なのだろうか。豊穣への祈りのようなものを感じた。

この舞い込みのシットギでは、権現様も登場して、臼やしゃもじなどを持つ舞手とともに、臼の周りをぐるぐると回っていた。

また、シットギが終わった後、権現舞の2頭舞いが行われた。最初は担い手が獅子の胴体の外側にいて、獅子頭を手に舞うのだが、途中から獅子頭を被り、体を捻って銅幕を体に巻きつけたり、2頭の銅幕が絡み合って連結したりという様子が見られた。また大変興味深かったのが、途中松の木に火を灯した「門火(又の名を松明かし)」が運ばれてきて、獅子の前に2本置かれたことだ。地面に火を置く瞬間、ゆらゆらと何らかの所作をして置かれたのが、どこか儀式めいており印象深い。それから火は獅子の足によって揉み消された。これは火伏せを意味するようである。これを見た瞬間、「あ、富山県射水市六渡寺の松明のようだ」と思った。射水の獅子舞ではよく天狗が松明の火を持ち、ゆらゆらと動かして獅子と対峙する。これが大流行したのだが、修験道と火の関係性を考えるに、黒森神楽の火とルーツが同じようにも思える。

舞台での神楽演舞は感動的だった

さて、この圧巻の演舞ののち、公民館の中で黒森神楽の堂々とした日が昇るような絵柄の幕が張られた舞台にて、黒森神楽の舞台演舞が行われた。我先にと皆急ぎだし、前から席が埋まっていく。僕は少し出遅れたので、脇で立ち見をしながら、撮影を続けることとしよう。舞台から見て左手に獅子頭が2頭、それぞれが2個ずつ饅頭を咥えられて、置かれていた。2頭の間にはろうそくの火が2本。ここに神が降りてきた状態のようだ。

16時前から約2時間、ここで舞台上演が続けられた。演目としては、打ち鳴らし、清祓、大蛇退治、松迎、山の神舞、恵比寿舞と進んでいった。どれも非常に素晴らしい演舞だったが、特に印象深かったのが、大蛇退治と山の神舞である。

大蛇退治はスサノオが八岐大蛇を退治してクシナダ姫を大蛇の手から救うという出雲神話にのっとって進められるが、その大蛇の造詣が赤い衣装を纏った鬼だった。石見神楽の胴長の蛇とは全く造形が異なる。途中、座布団でスサノオの剣と戦う場面があったり、大蛇が会場内をうろうろして、お菓子かを配ったりちょっかいを出したりする姿も見られた。どこかひょっとこのような役割も感じられ、大蛇は単に悪さをして退治されるだけでなく人間に恵みをもたらしてくれる存在でもあり、自然の脅威と恵みの双方の側面を見ることができたように思う。思えば、さまざまな演目の合間にみかんやらお饅頭やらお酒やらをたんまり頂いた。「まだもらってないですか?」などと声を掛け合い、食べ物を分かち合う喜びとありがたみを噛み締める瞬間も数多く見られた。

また、黒森神楽の山の神舞は2022年3月に宮古市民会館でみやこ郷土芸能祭が行われた時に初めて拝見したが、その時以来の大ファンで、今回も拝見することができ、改めて感動した。小刻みに震えるように幕の裏から登場する山の神は、なかなか姿の全容を見せてはくれない。足がこちょこちょと動き、体の細かい動きが自然の営みの何かを形容するようでもあり、深い意味ありげな所作に思えてくる。その部分的で洗練された動きにまず感動を覚える。姿を現した山の神は依然として指先まで震えている。大地の息吹きや怒り、エネルギーを連想させる。繰り出される技は一つ一つが力強い。首を捻り、俯き暗かった顔がパッと明るくなる瞬間も良い。終盤に差し掛かり、お囃子のテンポはどんどんと速度を上げていく。呼吸をしていられないほどに腕を振り回し徐々に神がかりに至ったかと思えてくる。そうかと思えばくるりと首を回して囃子と手を合わせるようにパッと止まる。緩急の妙である。それから幕の裏に行き、天狗面を外して出てきた。体格の良い青年である。最も格式の高い演目である山の神舞い。30分近い演舞に拍手喝采であり、英雄の降臨を思わせる。これだけ素晴らしい舞いは日本全国を見てもそうそうあるものではない。とにかく感動した。何度見ても感動する舞いである。

その後、恵比寿舞の途中で、獅子舞がもう本日は登場しないことを確認して、おいとまする。走って宮古駅から盛岡方面の電車に間に合う。最後まで見たかったが、全て見られるわけではない。これはいつも取材で思うこと。どこまで見届けるべきであろうか。思案はしてもしきれない。黒森神楽という歴史がある奥深い神楽をこんな短時間で分かろうはずもないけれど、その中でも見るべきものは見られた。山口公民館での権現舞は観客が多すぎて良い写真や動画が少なかったのはやや心残りではあるが、最低限の取材はできた。そのような思いで、興奮冷めやらぬ心持ちの中、ライトアップでキラキラと電飾に照らされた宮古駅から18時8分発の電車に乗り込んだ。

広範囲を廻り歩く黒森神楽

さて、改めて黒森神楽を巡り歩くという視点から考えてみよう。今回の取材は1月3日のみだったが、次の日からは廻り神楽としての性格から、巡業の旅が始まる。ここからは文献をもとにした調査で明らかになったことを紹介していく。権現様(獅子頭)を携えて陸中沿岸の村々を巡り歩く。五穀豊穣、大漁祈願、天下泰平などの願いが込められている。この権現様が廻り歩く様子を神楽衆は「巡行」と呼び、神楽を受け入れる地域の人々は「黒森様が来た」という。巡行は旧盛岡藩の沿岸部を山口から北上する「北廻り」と南下する「南廻り」の方向に、隔年でまわる。神楽衆は巡行期間中、平日は仕事に従事しながら、土曜・日曜深夜まで神楽を行う生活をする(2024年は北廻りである)。

ここまで広範囲に長期的に巡行をする神楽は全国的にも珍しい。民家で神楽を演じる巡業の形が現在まで続いていること、神楽衆が昭和初期から平成生まれの世代まで幅広い地域から参加していることが特徴として挙げられる。また、南北朝期以降の獅子頭20頭以上現存し、近世期の記録も数多く残っており、歴史的にも貴重な資料を残す。平成18315日には国の重要無形民俗文化財に指定された。

この巡行形態が生まれた背景として、黒森神社は近世期の資料によれば、修験道の各派に所属しない俗別当(俗人身分のままで寺院統括の責任者を務める者)持ちの神社だったことが挙げられる。俗別当が神楽衆を率いて南部藩領の広い範囲を廻村していたわけだ。そのため霞を荒らす不届き者として、宝暦年間には地域の山伏や修験者から何度も訴訟を起こされた。黒森側は南部藩主のお墨付きを盾にこれらの訴訟に打ち勝ってきたが、宮古市八木沢地区など巡行に入れない地域もあり、それは今でも続いているという。

また儀礼や芸能が山深いところで発展した理由として、天皇家や貴族、武士階級が行う修験道の聖地への巡礼があった。特に11世紀以降に多くの天皇家の人々が吉野や熊野に聖地巡礼を行なった。泊まりごとの寺社仏閣で芸能の奉納をした。都から芸能者を連れて、3~4日に及ぶ芸能大会を開くことさえあった。このような社会情勢が多少なりとも影響しているかもしれない。

黒森神楽の起源と奥深い歴史

黒森神楽の歴史を辿ると、平成九年の黒森山麓の発掘調査では、奈良時代8世紀)のものとされる密教の宝具(三鈷鐃(さんこにょう)、錫杖、鐘鈴)が出土して、古い時代から信仰の拠点だったことが伺える。黒森神社がある黒森山は330mの標高で、その山頂にかつて存在した大きな杉の木が海上航海の目印になっていたようで、山そのものが信仰対象であったことがわかる(黒森神社付近に設置された「黒森山案内図」という看板によれば、黒森山は神奈備系の山として低山・優美・分水嶺であることから、約2000年も前から閉伊全域、すなわち陸奥国のち陸中国の人々の信仰を集めていたという)。

権現様と呼ばれる獅子頭南北朝初期から存在するが、神楽に使うものとして舞われていた証拠はない。神楽が記録として登場するのは江戸幕府が成立して以降のことである。元禄時代になると宗教職能者や芸能者の所属が決まり、社会が安定してくる。修験や山伏の人々も宗教活動をする範囲が定められて「霞場」「檀那場」と称するようになる。羽黒山や京都の聖護院に属する修験者たちなどを筆頭に勢力争いが勃発していたが、盛岡藩寺社奉行1688(元禄元)年1127日「黒森権現の裁配するところを、今後山伏は邪魔をしてはならない」とする「裁許書」を出した。このような山伏騒動の混乱に対して盛岡藩が対処して、徐々に修験者の所属宗派や「霞場」「檀那場」が決定していった。

黒森神楽が信仰され地域に広く受け入れられたた理由として、神霊の可視化という点があったからに違いない。神霊の姿を見たい、声を聞きたいと望む人々の要求に応え、それが獅子頭が舞うことで降臨した神の姿をみることができるという考え方である。

また、神楽衆にとっては神楽をすることによる金銭的な収入が貴重な収入源だった。ひと昔前までは農民や職人は冬に出稼ぎに行かねばならないくらい厳しい暮らしを強いられてきた。主食のコメ栽培には適さない、寒冷すぎる土地だからである。それで、神楽を舞えば、大工の日当と同じくらいの日当を得ることもできた時代もあるそうだ。神楽の宿を提供するのは地域の有力者で、神楽を演じる人々を泊めたり、食事の接待をしたり、見物客を接待したりと多額な費用がかかった。これは一軒の家に勢力が集中して地域社会の人々の反感を買わないように、富の再分配の要素があったとも言われている。そのような家がない場合は、神楽衆は数軒の家々に分宿する。宿を受け入れる側としてはその方が気持ちがスッキリするし、神楽好きや信仰が厚い家もあったと思われる。実際神楽宿を断った家が翌日に火事になったこともあるという。その際に橋の下に神楽衆は寝たらしく、村の入り口には獅子頭が逆さまに吊るされていた状況で起こった出来事とのこと。善悪両義的な存在として、黒森神楽は今日まで地域に受け継がれている。

 

参考文献

宮古市教育委員会『黒森神楽』平成203宮古市発行

宮古市教育委員会『「陸中沿岸地方の廻り神楽」報告書』平成11年3月 宮古市発行(文化庁岩手県助成事業)



秋田県「本海獅子舞番楽」を取材!洗練された所作の先に、八幡信仰など全国の獅子舞のルーツを見た

本当にあの山奥の憧れの獅子舞を見られるのだろうか。2023年1月2日早朝。僕は山形県酒田駅に立ち尽くした。昨日の能登半島地震の影響で、電車もバスも動いていない。パソコンに「羽後本荘」の文字をでかでかと書き記し、ヒッチハイクをしていたが、なかなかつかまらない。仕方がないので、朝8時からかろうじてレンタカー屋が空くらしいので、駆け込んだ。車で1時間半ちょっとの道のりを急いだ。山奥に続く道からはそびえ立つ鳥海山の雲を被った雪景色が美しい。あの山の麓で祈り、受け継がれてきたのが、秋田県由利本荘市の本海獅子舞番楽である。

今回、公演が行われたのは、「まいーれ」という施設。由利本荘市の民俗芸能伝承館である。入場料は五百円。受付で取材許可証をいただき中に入ると、およそ50名ほどの客席は満員になろうとしていた。取材陣は、地元のテレビ局や秋田魁新報などの記者さんたち。東京から国立劇場の方が来ていた他は、基本地元の方が訪れていたような感じだった。

スケジュールとしては、午前10時から開始してお昼前までの2時間ほどだった。流れとしては以下の演目の通りである。

祓い獅子(猿倉講中)

鳥舞(前ノ沢講中)

三番叟(二階講中)

三人立(猿倉講中)

<休憩>

祓い獅子(二階講中)※受験生のお祓い

信夫(前ノ沢講中)

やさぎ獅子(猿倉講中)

上記の通り、由利本荘市内の本海獅子舞番楽の3団体が入れ替わり立ち替わり演目を披露していく流れとなった。最初と最後にお祓いをして、獅子舞に始まり獅子舞に終わるという流れだ。

獅子舞は伊勢大神楽などと同じように二人立ちで、獅子の中に入ったり出たりを繰り返す。また、頭を噛むという所作がある。印象的だったのはまず、二階講中の祓い獅子である。背筋がしっかりと伸び、獅子がクルクルと回転したり、歯切れ良い噛み音がカッカッと響いたり、非常に洗練された所作に感じられた。写真に撮っているとどこを撮っても格好良く撮れる。担い手の技術が非常に高いのだろう。

また、獅子舞という点で言えば、最後のやさぎ獅子はとても盛り上がった。子ども2人と大人2人での2頭舞となり、親子同士の共演だったので、そのことが最後にアナウンスされると会場はどよめき、拍手が沸き起こった。今回の最後の演目ということもあり、カメラマンたちも非常に身を乗り出して場所の争奪が始まるような感覚は、とてもこの演目への期待値を感じさせられた。やはり、芸能は親から子への伝承、という側面を改めて大きく感じることとなった。

やさぎと言う言葉の意味について、担い手の方に伺ってみた。「調査書にも記載がなく、自分も色々調べた事がありましたが、ハッキリした事は解らずでした。番楽は獅子にはじまり、獅子で終わると言う言い伝えがあり、昔は幕の後ろで着替えをしていたらしく、やさぎ獅子は『切り上げ獅子』と言われ、最後に番楽幕をまくり上げ、もう着替えもしていないし、何も無いのを見せる意味でまくり上げたと言われております。」とのこと。

猿倉講中の三人立ちは所作が鬼剣舞に似ていたし、信夫というのは神楽の山の神舞に似ていた。諸芸能との関わりをとても感じられた演目の数々だった。

終了後にまいーれの中で行われていた展示を拝見した。本海獅子舞番楽を研究されてきた大御所の方の紹介や、この獅子舞の概要、そして、地元の小学3年生が必修として獅子頭を持って回してみるという授業があるらしく、その写真がたくさん展示されていた。ここでは学校教育にも獅子舞がたくさん取り入れられているようだ。

子どもへの伝承を遊び感覚に

また公演後に、年間10以上の公演を行い、本海獅子舞番楽の代表格とも言える猿倉講中の代表にお話を伺うことができた。

一一今回は何回目のご出演ですか?

4回目ですかね。

一一この公演を通して伝えたいこと、魅せたいものはなんですか?

子ども達に対してという想いがあります。新しい舞の振り付けを覚えてもらって、披露するということですね。

一一年に何回の公演を行うのですか?

昨年は秋田市、東京都など、10公演くらいですね。コロナ前は月一回くらいのペースでした。(地元では)鳥海の獅子祭りや、虫追いという病害虫を祓う行事で披露しています。2年前に子ども達がこの虫追いを見にきてくれたこともあり、それがきっかけで練習に来てくれて、子ども達は一昨年の9月がまいーれでの初舞台でした。今日も子ども達の舞いは拍手喝采でしたね。

一一いやー本当に盛り上がりましたよね!大人と子どもの共演はよくやるのですか?

最近になってからです。もともと大人2頭でやってたのですが、子どもが参加してくれるようになり、大人と子どもで一頭ずつということになりました。

一一東京での公演など、猿倉講中は本海獅子舞番楽の中でもよく代表になるんですか?

うちは若手が多いからですかね。子どもが出ると目が向きやすいということもあります。中学生ぐらいの人は全国に派遣されて舞いに行きましたよ。国立劇場との繋がりもあり、民俗芸能大会に行けたらと考えています。子どもの芸も増やしていきたいです。

一一千葉県から来てるので、ぜひ東京の方でやることがあればぜひ見に行きたいです!

ぜひ!

一一全国で子どもへの芸能継承に困っている団体も多いと思うのですが、その点で工夫されていることはありますか?

親子でたまたま獅子舞を見に来てくれて、太鼓叩いたり、鉦を叩いたり、笛を吹いてみたり、最初からやり方を覚えるのではなく、ひとまず親しんでもらいます。覚えたいけど覚えられないというジレンマがあるんです。だから、入口としては遊びの中でリズムを覚えてもらうということで、猿倉講中はうまくいっているのだと思います。

なるほど、猿倉講中は子どもへの伝え方を遊び感覚にすることで、芸能の継承に成功している団体のようである。

それからレンタカーで再び酒田方面に走らせ、帰路に着いた。途中、青々とした冬空にもっさりとした雪と雲を被った鳥海山が堂々と姿を現した。あの山へ恒久の祈りが捧げられていることを思うと、自分の存在は非常にちっぽけであると改めて感ずる。安全運転で帰れたことにほっとした。そもそも地震の影響で取材できるかもわからないヒヤヒヤした状況だったから、終わってみればとても充実した取材ができて本当に良かった。

総称が「獅子舞」とされた番楽

ここで、本海獅子舞番楽の歴史的な背景などについても触れておこう。

番楽は神楽のことで、このような呼び方をするのは、山形県秋田県の一部のみである。番楽にはさまざまな意味が含まれている。鳥海町の猿倉では「幕を張って番を数えて舞うこと」とされている。番のニュアンスとして、番を重ねるように次から次へと舞っていくという意味がある。ただ、この名称の由来は現在に至るまで詳しくわかってはいない。番楽はアソビと呼ばれていたこともあるという。この事実は先ほどの猿倉講中へのインタビューに出てきた、子どもへの獅子舞継承を遊びから始めるという精神と通ずるような気がする。

また、番楽を総称して昔は獅子舞と呼んでいて、番楽の名称が広く普及したのは江戸時代後期以降とも言われている。逆に言えば、元は獅子舞がとりわけ重要な位置付けの神楽であったということでもあり、この観点から言えば、獅子舞研究をする上でこの番楽というのは非常に重要な意味が含まれているように思われる。

獅子舞伝播の古層「八幡信仰と箕売り」

修験道では、古くは獅子によって祈祷を行うのが、通常だった。鳥海一体の矢島修験の寺坊に獅子舞が付随していたことも記録がある。ここに八幡信仰関連の神社が多く、その信仰の繋がりが見え隠れしている。本海獅子舞番楽の獅子について、猿倉講中が「鳥海山文殊獅子」、前ノ沢講中では名前無しなどを除き、その多くは「八幡様」と読んでいる。興屋講中や猿倉講中などで見られる神宮獅子はもともと石清水八幡宮へ奉納した獅子舞であると言われている。葵祭の日に京都の綾小路を囃し立てた獅子舞を学んだのが神宮獅子だというのだ。神宮獅子の一形態に「這い獅子」というものがあり、臥す(うつぶせになる)所作が見られ、これが似ているようである。ただし、これは直接石清水八幡宮に習ったというよりも、八幡信仰をなかだちとして獅子舞縁起が作成されたという可能性が高いようにも思われる。

また、横岡番楽の伝承の由来にある箕売りが獅子舞を伝播したとの記録が、日本全国の獅子舞伝播の裏話として通ずる背景を感じる。下百宅の文平が箕売りのために仁賀保に出かけて、なかなか帰ってこなくて、その時に横岡の若者に懇願されて獅子舞を教えていたとのことが斎藤七蔵著『獅子舞言立其之他記』(昭和51年)に記されている。この鳥海一帯の地域は出稼ぎの人も多くいたようで、人の移動と交流の下地があったようにも感じられる。

本海獅子舞番楽の特徴

本海獅子舞番楽は秋田県由利本荘市鳥海町の13地区でそれぞれ伝承されている神楽。その13地区は、上百宅(かみももけ)講中、下百宅(しもももけ)講中、上直根(かみひたね)講中、中直根(なかひたね)講中、下直根(しもひたね)講中、前ノ沢講中、猿倉講中、興屋講中、二階講中、天池(あまいけ)講中、八木山(やきやま)講中、平根講中、提鍋(さげなべ)講中である。

この番楽の歴史は、寛永年間(1624~44年)ころに、本海行人(ほんかいぎょうにん)あるいは本海坊と呼ばれる宗教者によって伝授されたと伝えられている。明暦4年(1658年)や元禄15年(1702年)の銘を持つ獅子頭が残されている。当時の舞いと現在の舞いが同内容かはわかっていない。

本海獅子舞や本海番楽と呼ばれることもある。鳥海山を中心とした山岳信仰を背景として、特に獅子舞を重要視した番楽だ。鳥海山は出羽富士、秋田富士などと呼ばれており、日本海を航行する船の目印になったほか、噴火をする活火山として人々の信仰の対象になってきた。

本海獅子舞番楽の一年の活動は、1月に幕開きを行い、9月、11月、12月などに幕納めを行う。いずれも地区内の家に講中の人々が集まり、獅子を拝した後に獅子舞を舞う。各地区の神社祭礼や盆、新築の家の火災除けなどに演じられている。

他の山岳系の獅子舞に比べると動作が激しくて歯打ちが多いという特徴がある。獅子舞の他には、儀式的な舞(先番楽、鳥舞、翁、三番叟)、神の舞(山の神、三人立、剣之舞)、武士舞(信夫、曾我、熊谷、八島)、女舞(若子、鐘巻、橋引、天女)、道化舞(もちつき、番楽太郎)などが存在する。

 

参考文献

月刊文化財『本海獅子舞番楽(新指定の文化財 民俗文化財; 重要無形民俗文化財の指定)』2011年3月, 文化庁監修(570)p6~8

由利本荘市教育委員会『本海番楽ー鳥海山麓に伝わる修験の舞ー』2000年3月

 

何十兆もの細胞が震える猪肉!宮崎県「銀鏡神楽」が受け継ぐ縄文の精神

宮崎の猪生ける山奥で、非常に貴重な神楽が伝承されているという。宮崎県で最も早く国指定の重要無形民俗文化財に指定された「銀鏡(しろみ)神楽」である。この神楽に登場する獅子舞の写真をネットで見かけて、ハッとした。これは縄文につながるほどの歴史の古い舞いだと直感した。とっても素朴で原始的な形態であり、獅子舞研究者として見ておかねばなるまいと思い、この神楽を訪れることに決めた。

12月14日から15日の日程で、鹿児島空港をハブとして、レンタカーで2日間の旅をした。まだまだ宮崎は暖かい。空港に降り立った時、徳島に来たような錯覚があった。バスのロータリーやロータリーの植栽として植えられている椰子の木などがそれを物語っていた。

途中、宮崎市西都市を過ぎると、ソフトバンクの携帯の電波が通じなくなった。家を見つけるのが大変なくらいの山道を川沿いに進んでいく。こんなところに家があるのだろうか?という疑問は膨らむが進むこと30分超。突如川の岸壁に輝く光がちらちらと見え始め、大勢の人々が集まる神楽殿が見えてきた。「あれが銀鏡神楽を行う銀鏡神社か」と驚いた。そこはどこからともなく人がわらわらと集まり、隔絶された秘境に大勢の人が密集しているという世にも珍しい光景が広がっていた。

僕がついたのは夜の20時半ごろ。猪の頭の奉納や神楽の最初には間に合わなかったが、式三番から神楽を拝見することができた。この場にいると、時間感覚を忘れる。神楽の舞台を囲うように屋根付きの場所で布団に入りながら、神楽を見つめる人もいれば、立ってずっと眺めている人もいる。何れにしても、誰も寝る気配がない。非常に驚いたのが、深夜の1時ごろに90歳を超えた老人が式十三番六社稲荷大明神の演目で登場して、元気にそして丁寧に舞い始めたことだった。特に重要な夜だから、老若男女を問わず皆起きているのだ。この神楽が老人の命を延ばし、そして輝かせているようにも感じられた。

ゆずとよもぎの田舎まんじゅう、鮎の塩焼き、ゆずジュースなど、地元のもので作られた食が盛りだくさん。夜を徹して屋台は賑わいを見せていた。屋台の人は「みんな遠いところから来てくれるから、ずっと徹夜ですわ!」と張り切っておられた。また、御神酒の振る舞いもあって、手元が見えない暗い中、半分酔った状態でおじさんが御神酒を注いでくれるもんだから、おちょこからこぼれながらも並々とお酒を注いでもらった。休憩所では、立っているのに疲れた人々の歓談の場になっており、ここで地域の方々にたっぷりと銀鏡神楽のお話を伺うことができた(後述)。空を見上げると、星が輝いていた。とりわけ木星の輝きは印象的だったほか、オリオン座も印象的である。ちょうど「ふたご座流星群」のタイミングとも重なり、非常に貴重な星空鑑賞だった。深夜2時を過ぎて寝不足になりそうということで、次の日の二十九番 獅子舞の取材に備えて、小中学校の駐車場に停めた車で車中泊をすることにした。

2日目(15日)の朝は霧がかかっていた。神楽の進行の時間が全くもって読めないため、目覚ましを5時半にかけた。あらかじめ入手しておいたYoutubeライブ配信URLにアクセスを繰り返して現在の演舞状況を確認しながら寝たり起きたりを繰り返した。5時半のタイミングでは「まだ二十一番か」と思って寝ることにした。それを6時15分、7時と繰り返し、そろそろと思って7時に起きて会場に向かった。まだ二十三番をやっていたが、入念な場所取りを行うため、早めに会場に向かった。写真と動画の撮影場所を吟味して、縄の位置が演者の首にちょうどかからないような構図で撮影できるよう、場所選びに苦労したが、完璧に良き場所を選び出して、最終的には撮影ができた。

獅子舞はまさに猪の舞いであった。あらゆる獅子舞のルーツの舞いに近いと思った。猪には領域があって、人間にも領域がある。それを過不足なく察しながら、生きていく。しめ縄という結界の中で行われた猪の獅子舞は山の神に尾っぽを掴まれながら、ほどほどに舞い、転がり、引っ込んでいった。わずか6分程の舞いであり、非常にシンプルかつ素朴な舞いだと感じた。

それから、西米良温泉・カリコボーズの湯 ゆた〜とに入ってきた。特産のゆずがいれられたお湯があり、露天風呂も良かった。ここで、猪おにぎりや煮しめ楽コロッケを食べたが、供物のように器に入れられて出てきたのには驚いた。そして非常に具がギュッと詰まった濃厚な味だった。祭りのみならず、地域を通じて縄文の血が流れていることを実感した。

13時からはシシトギリが行われた。狩法神事といって、狂言の笑える様子を取り入れながらも狩猟の生活文化を民衆に伝える存在である。方言が強くてあらすじは少ししかわからなかったが、現代と異なる昔の狩猟の風習を生き生きと演じている様が、どこかタイムスリップしたような感覚になった。

そして三十三番神送りでは、顔の前と後ろに鬼のような2つの仮面をつけた3人が登場したことが非常に興味深かった。長野県の八面大王や岐阜県の両面宿儺と似た存在なのではないか。万能神としての象徴か、信仰の対象か。詳しいことはよくわからなかった。

三十三番の後に無料で猪の粥(シシズーシー)が振舞われた。1カップ分飲むことができた。冷めていたが、味が濃くてしっかりとした味だった。毎年味が違うそうで、今年は多少臭みはあったが、美味しく食べることができた。やはり濃厚な縄文文化の味がした。14自販ごろに全ての演目が終了して、その後に宮崎市を経由して、鹿児島空港から帰路に着いた。

この神楽を拝見していて感じたのは、徹夜で見る熱狂的な観客の多さだった。自分は神楽というものを何処か目的を持って、何かを明らかにしたいというふうにみていたが、現地人はただそこにあるものとして、老若男女がただ見つめているという構図だ。そこに何も目的など持っておらず、生活の営みとして眺めているのだ。

銀鏡神楽とは何か?

ここからは知識的な振り返りをしておこう。南北朝時代に京都方面から流入した神楽であるが、土地性を強く反映したここならではの神楽とも言える。自然の法則を見事に説き明かしているかのような神楽である。その演舞内容も非常に狩猟民族の特色を表すものが多く、山の神信仰を強く感じる。猪頭などの贄の奉納がある。タイムラインをまとめると、このような流れであった。

銀鏡神楽の1週間前 村の猟師総参加で猪狩り
12月12日 門〆(かどしめ)
12月13日 17:00頃(早めに始まるとき有り)星の祭り(式一番「星の舞」奉納)
12月14日 19:00~翌朝8:00頃 前夜祭、祭典式、式二番~式三十一番神楽奉納
12月15日 11:00~ 本殿祭 13:00~ 式三十二番「ししとぎり」、式三十三番「神送り」
12月16日 9:00~ 狩場祭、稲荷祭

式十三番六社稲荷大明神

銀鏡神楽の歴史

1489年の神社の創建から続く神楽で、歴史は非常に古い。社殿ができる前から実施していたという話もあり、それを遡ると、なんと南北朝時代に至るとも言われる。銀鏡神楽は米良山系の神楽の系統に入り、米良山系の神楽の源流を考えると、南北朝時代に九州の首府である大宰府を制圧し、南朝方としての九州制覇を成し遂げたことでも知られる懐良親王(かねよししんのう)が米良山中に身を隠しに来たときに、随従した都の舞人が親王を慰めるために上演したのが始まりと言われている。南北朝時代以降の熊野修験や、九州統一に力を注いでいた豪族の菊池氏の入山などもこの神楽の大きな発展に繋がったようだ。また銀鏡神楽の系流を鵜戸門流とも呼んでいたとされ、宮崎県日南市宮浦に位置する鵜戸神宮所在の神楽が日南地域や山間部に伝えられている。高千穂神楽の発祥も鵜戸神楽である。銀鏡からは天和(1681〜1684年)ごろ、濵砂淡路守重賢が鵜戸山道場に通って「鵜戸神楽」「鵜戸鬼神」などの演目を習得して銀鏡神楽に取り入れた。銀鏡神楽は南北朝時代の伝承を骨格としながらも、日向神話、狩猟民俗、稲荷信仰、星宿信仰、宿神信仰などが合わさって生まれた非常に複合的な神楽である。

猪を模した獅子舞の演舞

第二十九番獅子舞は、白衣を着た担い手一人が獅子頭を持ち、獅子の尾とされるその裾をもう一人の面をつけて頰かむりをした人物(山の神)が持つという独特な形態を今に伝える。口を開閉しながら舞台の周りを回り、その後ろに続く7人が軽く飛ぶような所作で舞い回る。獅子は転んで背中を床に擦り付ける「ニタズリ」を行うが、山の神は獅子を離さずに面棒を使いながら獅子を守る。これは山の神が猪である獅子が暴れて田畑を荒らさないように守っている様子を表す。ニタズリとは猪が毛の間に帰省するダニでほてる体を湿地に転がって冷やすものでニタウチとも言い、「のたうちまわる」の語源とされる。また、ニタズリの際に獅子が四方に張ったしめ縄の外に転げ出ると新年は不作になるという言い伝えがある。

拝見した瞬間感じたのは、伎楽の行道獅子の系譜であるということ。獅子頭の形は小型で赤茶色をしていて、睨みが効いている。これは日本全国に伝わる伎楽の獅子である。ただ、その舞いは非常に独特であり、天照大御神を祀る祭壇に向かって、登場した獅子は7人の山の神によって抑えられながら、飛び跳ねまわっている。九州の獅子舞の起源を考えたときに、とりわけ伎楽の流入の文脈での獅子舞の流入は、天武天皇の時代が記録としては最古級である。朱鳥元年(687年)4月、新羅の客をもてなすために、奈良の川原寺から伎楽が筑紫に運ばれたと日本書紀に記されているが、それとの関係性は定かではない。

狩猟文化を伝える神事狂言

三十二番 シシトギリとは猪狩りのために猪の足跡を繋いでいくアトミ(跡見)のこと。方言を使って神事狂言劇を演じるもので、土地の重要な生業である狩猟の模様を模擬的に演じ、土地の神様、とりわけ山の神・狩りの神(鹿倉神)に猟獲への感謝の気持ちを表現したものである。祭壇の榊飾りに用いた椎の木や柴を広げて、ヤマ(鹿倉)と見立て、一方でマナイタを猪と見立ててそれを柴の中に隠しておく。そして、苦心の末に猪を仕留める様子を表現する。猪を仕留め、尻尾をついに切り取るという場面などがある。舞いの形式はないが、この土地の生活の様子を伝える重要な神事狂言劇として、番付の中に「三十二番」として加えられている。

細胞が震える縄文の雄叫び

銀鏡神社の休憩所でたまたま接待にいらしていた銀鏡神楽の担い手の方に、銀鏡神楽に関するお話を伺うことができた。

ーーこの神楽の歴史を教えてください。

銀鏡神楽は銀鏡神社の大祭で奉納される。銀鏡神社は懐良親王磐長姫命大山祇命の三柱を祀り、御神体は背後の霊山・龍房山と御神鏡である。龍房山に向かって、樹齢何百年ものイチイガシがあった。昭和5年の大風で倒れたが、その根本は保存されている。イチイガシの周りでしめ縄を張って、神事をしていた。龍房山には山伏の修験者がたくさん入っていた。祝子(ほうり)には12の家系があった。時代の変遷とともに、そういうのがなくなっていった。今、40人の祝子がいる中で、28人のみ神楽を舞える。中学一年生から96歳までさまざまな人がいる。平均すると60〜70くらいの人が20名。専門集団がいなくなると、産土神に願い、願祝子という制度を作った。神様にお伺いを立てて、現在は近隣の西都市市街地をはじめとして約9割が外部の担い手によって継承されている。

ーー獅子舞に関心があります。

狩猟時代が長かったので、猪、鹿、うなぎ、うぐい、ヤマメなどをとって生活をしていた。猪は複雑な存在で、山の中では貴重な蛋白源で50〜80kgのものをドンと獲ると、一家5人で食いつなぐこともできます。そして、囲炉裏に当てといて長期保存もできます。ものすごく貴重な存在です。神様にはたくさん獲らせてくださいとお願いしますよね。その一方で、猪が増えすぎると、焼畑をやってますので、照葉樹林文化で、ベトナムも中国の雲南も同じように、そば、あわ、ひえ、大根、あずき、大豆などを作っています。それらはみんな猪も好きですから、だからタンパク質を増やして欲しいと願ったら同時に害獣も増えるということなんです。こちらの人が素朴な気持ちで、ほどほどに全滅しないように塩梅よく願うんです。徹底的に収奪はしないわけなんです。お互いが距離感を持って生きていく。猪はゴロゴロと転がるんですよね。あれはニタズリといって、ドロドロしたところでやると寄生虫が払えるし、火照った体が冷えるし、まあ、動物の習性でやるんです。しめ縄の結界があるんですけど、その結界から出ないように、あなたたちの生活領域から出ないように、ここからは出てはいけませんよって、山の神様がついて回るんですよ。山の神様があそこから出たらあかんと見張っているんです。そういう素朴な信仰形態が反映されています。

ーー神楽の初期段階から獅子舞はあったのですか?

最も初期段階から生活に根ざしたものです。とちどちの慣習や文化を反映せざるを得ない。だから、京都のような舞い方をそのまま反映することはできないのです。飲んでいるときに自然と踊っているようなものが自然と舞いになっていくんです。山の中ですから、そのときに取れた一番大事なものを神様に供えるわけですけれども、一般的にはお米ですね。全てのエネルギーを育んでくれるものです。依存せずに何世代も連作障害が出ないですよね。お米はいろんなエネルギーを持っていて、日本では祭壇の中央に供えるんです。形が変わったお餅とか、アルコールとか、全部お米です。この銀鏡神社では、お供え物で一番大事なのが、猪の頭です。祭壇の中央にあります。日本人がカーナビを供えるようなもので、昔は猪が一番大事だった。程よく焼畑を全滅させることはない。今でいえば、生態系の世界を経験則で考えていたのです。

ーー供えた猪はどうするのですか?

これは食べます。骨を砕いて、骨の髄と肉を削いだものを一緒に雑炊にするのです。シシズーシーと言います。明日(15日)の13時以降に振る舞われます。これを食べると、縄文に還った感じがします。宮崎牛ってご存知ですか?3年連続日本一になっているのですが、1万〜3万円する部位もあるんですけど、それを持ってきて、猪とどっちにしますかと聞かれたときに、質問が終わる前に僕はこの猪をパッととります。それくらい猪というのは、塩焼きで食べたりするとね、もうなんというか全身のね、30〜70兆の細胞がひとつひとつ震えるというか、ドドドドドドドドと震えるんです。縄文のね、雄叫びのような感覚があって、自然と同化するっていうか、風が吹けば風になる。雨が降れば雨になる。原初のエネルギーがワーっと湧き上がってくるんです。そういうイメージで猪を食べると、本当に浄化されますよね。環境保護団体や動物愛護団体もいますんで、こちらもほどほどにね。

ーー猪は毎回何頭供えるか決まっているんですか?
基本的には奇数ですよね。1、3、5、7、9という風に。こっちで6頭ならこっちで、何頭という風にトータルの数で考えます。一番多いときは20頭を超えます。僕が12年前にきたときには12.3頭でしたね。

ーー担い手のモチベーションは?

産土の神様に対する信仰心が基盤にあります。僕が中学校の頃は銀鏡に3000人の人がいたんですよ。でも今は200名ちょっとしかいないんです。それでも神楽をしていて、すごいマンパワーなんですよ。昔と変わらないんですよ。人が少なくても、村人総出で出てきてくれて。自分たちでできることで協力してくれているんです。お米を一升提供していただいたり、自分で作ったしいたけを持ってきたり、そういう風に力をあわせてやっていて、それがあるから神楽も続いているんです。ボランティアの方々も応援に来てくれています。

ーーどの舞いが貴重とかはあるんですか?

どれも同じです。狩猟文化があって、それが演目に取り込まれているんですね。土地神様の舞をします。式十番を私は舞います。地舞があって、これとセットになっているのが面白いところです。土着のイメージが大事で、古事記日本書紀に登場する神様ではなくて、山岳信仰の流れの中で必要になってきた土地の神様なのです。土地神さまがたくさん登場するんです。舞人は神と一体になって舞うということです。だからけばけばしさはなくて、石見神楽とか、高千穂神楽のようなものとも違い、地元の神楽です。陰陽道唯一神道などいろんなものが習合しています。日本人も元々、キリスト教の教会でも神社でも結婚式を挙げますよね。クリスマスをやってケーキを食べたらすぐに除夜の鐘を鳴らします。そういう感覚と近いですね。

猪粥(シシズーシー)

ゆずとよもぎの田舎まんじゅう

ほどほどにという精神

担い手は「猪を食べると縄文に還る」という。縄文は1万4000年続いた。持続可能な暮らしのヒントが隠されているかもしれない。「猪とれますように」と願うことは、たんぱく質の摂取のために重要であった。しかし願い過ぎても、ヒエ、アワなどの農作物に害が出るため、ほどほどに願うことが大事なのだ。焼畑は山に火を放って草木を焼き払い、作物を植えるというサイクルがあり、これは実は猪や鹿に火の恐怖を知らしめるためでもあったとも言われる。つまり、猪は獲れて欲しいけれど、作物は守りたい。神様に願う時にはほどほどにすることが大事なのだ。

何事もほどほどにという精神は、方角に対する意識に現れている。銀鏡地域の狩猟では、午前は「三ダイ」午後は「九ダイ」を重視する。例えばその日の干支が「子」なら、午前は子から三つ目の寅の方角、午後は九つ目の申の方角に猪がいるとする。避けねばならない方角は「逆めぐり」といい、時計の12時に子を置き、そこから起算して狩りをする日の干支の数字の方角に行かないようにする。その方角には猪を奪われることを憐れむ神がいて、生き物を守るため、たとえ行っても獲物がないと言われる。

天体的世界観を反映した銀鏡神楽

また今回、会場にいらしていた映画『銀鏡』の監督と話していてわかったことがある。神楽とはもともと植物や人間の生命エネルギーが弱くなり日照りの少ない冬に行うことが多い。この暦と舞との関係性というのも大変興味深いものがある。

「子丑寅の子は種子の種、丑は糸をつけると紐になって根から紐が出てちょっと芽が出た状態、寅は絡むという字になって引っかかるようなほど芽が出てきた状態です。それがずっと続いて、亥は門構えをつけると、閉じるという意味になります。最後に花ができて実になって枯れていって全てのエネルギーが封印されるのが亥なんです。猪をことほぐことで、子にいく力を猪からもらいます。亥の意味は色々あるなと。食料としての役割はもちろんあるけれど、陰陽五行に照らし合わせると、十二支の亥を祀るとした可能性は高いです」とのこと。もともと銀鏡神楽は旧暦だと、11月のお祭りらしい。暦としては秋の終わりに当たるのが亥である。

またこの暦という考え方と照らし合わせて、獅子舞に登場した7人の鬼は、北斗七星かもしれないと直感した。そういえば、舞いの1番は星の舞である。星の舞は「二十八星宿信仰」に基づく神楽で、この舞いによって、銀鏡の地主神である「宿神」が降臨する。星宿とは古代中国の天文学的な分類のことで、太陽の軌道に沿った道である「黄道」の軌跡に存在する二十八星座を宿としてまとめたものだ。星座と星宿の違いは、星座は目立った星々を結び合わせて図像化したものであり西洋の考え方である一方、星宿は軌跡を記録して時を把握した東洋の考え方である。前者が星を平面で捉えているのに対して、後者は星を動くものとして捉えている。この中で北斗七星は古代中国の天文学的な分類における七曜を示し、「日、月、火星、水星、木星、金星、土星」を示す。また、オリオン座の3つの星は神楽において三宝荒神であり、天、地、火を表し日本古来の地主神のことである。

神楽が脈々と受け継ぐ精神性

今回の銀鏡神楽の取材を通して、演舞や食などから縄文の気配を強く感じた。人口減少時代に組織形態は12家族から願祝子に変わっても、山の神にお伺いを立てる精神性は変わらない。そこには山の神がいて、その自然に生かされているという精神が脈々と繋がれている。猪は増えても減ってもよくない。良い塩梅を考えている。それは季節という時間的な流れや天文学的な星の配置など、長い間、悠久の時を刻む自然に対する観察眼でもある。持続可能な暮らしとは何か?環境問題が深刻化する中で、縄文ブームが到来している昨今。我々が銀鏡神楽から学ぶのは、変わることのない自然の摂理とそれと共存する人間の姿かもしれない。

御神体である龍房山を望む

参考文献
濵砂武昭『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』(弘文堂, 2012年7月)
写真 高見剛, 文 高見乾司『神々の造形・民俗仮面の系譜 「九州の民俗仮面」』(鉱脈社, 2012年10月)
高見乾司『米良山系の神楽 その伝承世界と仮面神の系譜』(鉱脈社, 2010年8月)
山口保明『宮崎の神楽ー祈りの原質・その伝承と継承』(鉱脈社, 2000年12月)
野尻抱影『星の民俗学』(講談社, 1978年)




獅子頭制作日記5日目

茨城県石岡市獅子頭作りは早5日目。今年の獅子頭作りは仕事納めだ。本日の1番の収穫は、小刀を使えるようになったことだ。小刀の力の入れ方がずっとわからなくて、今まではガシガシやってしまい危なっかしかったが、ぐっと木の表面を捉えることができてきた。この成長の成果を師匠に報告したところ、「小刀もノミも全部斜めに歯を入れるんだよ」と改めて教えてくれた。「トマトはどうやって切るかわかるか?前向きに斜めに入れるか、手前に引くように斜めに入れるか。どっちにしても歯は斜めに入れるんだよ」とのこと。

 

なるほど、歯というのは真正面から入れてはいけなくて、逸らしていかないとだめ。なんか人間関係と同じだなと思った。言いたいことは正面から言うのではなく、小出しにしていったり、例え話をしたり、何かに例えたり、比喩を使ったり、いずれにしても少し斜め方向から伝えていくような感覚がある。これと同じことなのだ。

 

さて、今日はスイスイと使えるようになった小刀を使いこなしながら、獅子頭の形を整えていくという工程をメインに進めていった。頬の盛り上がりを低くしたり、鼻周りに段差をつけてくっきりと形をとったり、角ばっていた角を丸くしたりという流れだった。最後に歯の補強の角材をボンドでつけて終了。限られた時間で、亀のような進みではあるが、今日も収穫のある1日だった。やはり彫刻の教室は終わった後がよい。どこか仕事終わりの清々しさのようなものを感じながら、帰路についた。

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