【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺菅生(追加)

1月19日

13:00~ 石川県加賀市大聖寺菅生

 

「獅子舞伝播の中心的な町」

菅生の獅子舞は上手なことで知られていた。この地域を中心として、黒瀬町鷹匠町、越前町など周辺の地域に獅子舞が伝わっていった。昔、菅生石部神社があったこともあり、地域の歴史も非常に古い。加賀市の獅子舞を解き明かす上で、この場所を調査することは必要不可欠と感じた。

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由来

獅子舞は明治生まれの人が京都から習った。またはその方と交流のあった京都の人(ヤクザの人?)が伝えた。最初はお座敷獅子だった。その獅子舞は、菅生から黒瀬町鷹匠町、越前町に伝わった。菅生の獅子舞は上手いことで評判で、片山津の獅子舞大会で2位か3位になったことがあった。また、菅生町は雌獅子で角がなくて赤く、菅生は雄獅子で黒くて角がある。昔は春と秋とか、あるいは年単位で交代でこの2つの町内が互いに舞って歩いた。菅生町の獅子舞は1800年代の非常に古い獅子頭が残されているが、もしかするとその当時には菅生にも獅子頭があったかもしれない。菅生の獅子舞が一度途絶えてから復活したものの、4~5年くらいしてから再び途絶えてしまって今に至る。獅子舞はすでに若い人がいなくなって10年以上前に途絶えている。

 

舞い方

太鼓と獅子のみの寝獅子で棒振りや笛はない。マイとマクリという舞い方があった。マイは右に踏み出すことから始まり、8の字を描くように舞う。これはもしかしたら京都などに伝わる能の動きを取り入れた獅子かもしれない。マクリでは豆拾いをする。マクリでは最後にダーとダッシュしながら豆を拾うという動作もある。この時、太鼓は固定させておく。構成人数は太鼓2人、獅子頭1人、尻尾1人、その間に2~3人必要だったので、6~7人は必要な舞いである。太鼓にはデデスカデンスッデンデンという太鼓のリズムがある。

 

担い手

若い衆が一人では入れず、何人かで一緒に獅子舞の担い手になった。3年ほど後輩がいなかった。中学生から初めて、30歳までが目安だった。浄土真宗報恩講をしていたので、若い人はそっちに入ることもあった。

 

祭りの様子

菅生には昔、菅生石部神社のお宮さんがあったが、これが敷地町に移った。そのタイミングで京都の北野天満宮から分祠の形で新しく作られたのが菅生神社で、後にここが獅子舞の拠点になった。大聖寺菅生の獅子舞は商売しているところを中心に、初老、還暦などの節目の人のところに舞いに行った。春祭り(3月8日)と秋祭り(9月13日)で五穀豊穣の獅子舞をしていた。神社に始まり神社に終わる獅子舞で、9時ごろから始まっていた。お昼はどこかに食べにいったという覚えはなく、おにぎりを持って歩いたという覚えもない。もしかすると家に食べに帰ったと思われる。春祭りはのちに大聖寺桜まつり(4月第2週)と同じ日になった。同じ日になった理由は桜祭りが賑わっていたので、そこと一緒にやろうという目的だった。秋祭りはそのままの日で続いた。獅子舞は金子町、木呂場町、弓町の一部などとともに合同で実施していた。氏子の範囲の関係で、5町で80軒がまとまり獅子舞をしていた。特に金子町、木呂場町は町内が小さいので合同で獅子舞をした。弓町は用水を境にして、氏子の一部が菅生とともに獅子舞をやった。2階建ての倉庫があり、精米機など町で共同利用するものを保管しているところに、獅子舞の道具も保管した。2階は獅子舞の練習場所になっていた。

 

獅子頭

獅子舞を復活させた時に、獅子頭を一度修理したことがある。塗り直したとはいえ、今も昔も獅子頭の色は黒だ。獅子頭裏には平成5年12月に井波で塗り師の太嶋明雄氏によって塗り直しの修復が行われたことが記されている。また彫りは渓久刀氏によるものだが、新調された年代については不明だ。

(取材先:町民の田崎典宏さん, 同行:北嶋夏奈さん)

【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺瀬越町(追加)

2022年1月18日

19:00~ 石川県加賀市大聖寺瀬越町

竹の浦館の入船さんのお父さんにお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。

 

「お祭りの賑わいは北前船による経済基盤があるから」

瀬越町の獅子舞の特徴は何と言っても、3年に一度行われる大祭があることだ。獅子舞と神輿がそれぞれ町内を回り、最も賑わいを見せる祭りとなる。北前船の交易によって潤った豪商が今でいう3000万円ほどの神輿を一人で購入したとか、祭りの予算が100万円かかるだとか、周辺の地域と比べても格段に裕福であるという町の様子がうかがえる。経済的な基盤があってこそ、祭りは豪華に派手にできる。そのようなことを改めて実感した。

 

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由来

蓮如上人の時代には、数軒しか家がない時代もあった。江戸時代以降に北前船の船乗りが住み始めてから栄えるようになり、若い者や頭の良い者は大阪など外に出て仕事をするという文化があった。比較的新しい町なので、伝統というものが数多く残っているような町ではなく、獅子頭の作りも比較的どこにでもありそうな安いものを使っているという特徴がある。明治20年生まれの人によれば、菅生石部神社から川を伝って流れてきた縄があり、それに神様がくくってあったという言い伝えがあり、それをお祀りしたのが瀬越町の白山神社の始まりだ。その白山神社にいつしか獅子舞が実施されるようになった。昭和の初めには坂下さんという方が能登半島から棒振り獅子を伝えて、笛、棒振り、獅子、太鼓がいる獅子を舞っていた。しかし、地域の長男達が戦争に駆り出されて過疎化し、一時期は5~6人ほどで回る時もあったほどに担い手が少なくなった。50年くらい前に中断してその後に、棒振りや笛のない獅子と太鼓のみの獅子舞が始まった。

 

舞い方

奉納の奉の字を手元を震わせるように描きながら、豆拾いをしてから、最後にダッシュするという獅子舞で舞い方が1種類しかない。手元を震わせない獅子を「赤べこ」と呼び、獅子が生きている感じがしないので、しっかり震わせる事が大事である。塩屋町大聖寺の中心部の獅子舞と大きく違うところは、一直線上を前後に移動して舞うことである。大聖寺の多くの獅子舞は三角獅子と呼び、三角形を描くので、左右への移動が行われる。ただ、足がすり足なのは大聖寺の中心部のものと似ている。昔と比べると太鼓の叩き方が早くなっており、昔は叩き方がゆっくりだが緩急が見られた。

 

担い手

5~6人の時もあったので、今の方が担い手は多い。かばん持ちの人がいる他に、小学生から30代の人まで所属しており、「子供が大きくなるまで青年団はやめられん」と言う人もいる。昔、女性は獅子舞に参加することができなかった。その理由は、「獅子舞を触らすこと=汚れを触らすこと」と考えられていたからである。今は繋いでいくということが重要視されているため、女性でも参加可能ということになっている。

 

祭りの様子

瀬越町には、正月、春祭り、秋祭り、収穫感謝祭の4つの祭りがある。その中でも、春祭りと秋祭りに獅子舞が登場する。

春祭りは航海の安全祈願の意味合いが強い。昔、春祭りのことを起舟祭(きしゅうさい)と言った。1月か2月に実施しており、北前船の漁が活発になる少し前の時期に実施した。明治時代にこの祭りが大祭という名前に変わり、今に至る。毎年やっていた時もあったが、それが閏年に一回になり、今は3年に1回になった。1日目の獅子舞と2日目のお神輿の両方が出される。獅子舞は朝の7時から17時くらい、神輿は9時半から20時くらいまで実施する。最後の方はイライラしながらもせっかくの機会だからと夜遅くまでお宮さんでお神輿を見守る。お神輿には祈祷料やお酒、ごちそうなどを出すので最低でも2~3万円がかかり、お神輿を止められる人は商売をしている人や新築の家を建てた人など10軒ほどである。お神輿の先導役は猿田彦が務め、小さな子供神輿はひょっとこが先導する。昔はザルでお金を数えるほど裕福な人たちがいて、神輿も現在の価格で3000万円くらいするものを1軒の家が寄付してくれる事さえあった。大祭となると1回開催するのに100万円ほどかかるため、その負担を軽減するために毎年ではなくなっていった。100万円には、食費、飲み物代、神主さんの祈祷料、衣装代、修理代など様々なものが含まれる。近年は行列に参加してくれる人が減ったので、その分お弁当代が減った。お弁当は豪華な懐石に近いような料理を出す。また、神輿が家に当たって家が壊れたということもあるので、保険代をかけなくてはならない。

秋祭りは田畑の実りなどに感謝する意味合いが強い。このお祭りでは、神輿は登場せずに獅子舞がメインとなる。ご祝儀は少なくとも3000円、多く出してくれるところは5000円などだ。町内のすべての家を一軒一軒回る。秋祭りの日程は昔、吉崎町、瀬越町、上木町という風に、1日ごとに日にちがずれていた。この時、瀬越町は9月13日に開催ということに決まっていたが、今は9月の秋分の日になっている。学校や会社を休んで参加する届け出が認められなくなって、休みの日にしようということになった。

 

獅子頭

4つの獅子頭が残されている。最も新しいものは白山市の鶴来で作ってもらい、他の古いものは、福井の加藤太鼓で既製品として売っていたものを購入した。獅子頭は被ってあるものもあるので、取っ手がついていない状況で、新しくTの字の取っ手をつけてもらった。昔は非常に重たい獅子頭を使っていた。「1軒回るだけで疲れた」ということもあり、練習用で使うようになったものがある。獅子頭をぶつけたら、修理は漆器工場に行って自分たちで直した。漆の仕事をしている人に直してもらったこともある。獅子頭が割れてしまったら新調するしかないが、それを酔って石にぶつけるのと舞い方に迫力を持たせるのとで壊し方の印象は異なり、舞っている途中で壊れるのは健全な壊れ方だという意識がある。

 

神様の夜這いについて

菊理姫を祀る白山神社を持つ吉崎町と瀬越町の繋がりは深く、神輿が瀬越町から吉崎町にいったこともあって、それを同類の神様が遊びにいくと捉えるか、男の神様が女の神様に夜這いに行くと捉えるかは地域の人の中でも意見の相違がある。今回お話を伺った方は、神様が同じなので夜這いはないのでは?というご意見をお持ちだった。ただ、合河町には男女一対の白山神社が存在し、それと照らし合わせて考えると謎はより一層深いように感じられる。

 

コロナ禍の状況

春の大祭が今年は中止になってしまったので、延期ということになった。今後の開催を期待して、祭りを拝見できる日を待ちたい。

花祭と獅子舞の共通点とは?愛知県奥三河にて考えた

花祭は太陽神の信仰に基づく死と再生の祭りだ。やはり、山伏の香りがする。実際にこの地には白山修験、熊野修験、伊勢の御師などが訪れ、その芸能を伝えてきたというルーツがある。このことを知ってふと思ったのが、白山修験は謎が深いものの、少なくとも熊野と伊勢が絡んでいるので、獅子舞を伝えた伝道師と花祭りの伝道師がそれぞれ被っている可能性があるという推測だった。本当の起源は定かでないものの、花祭の起源の一つとして有力なのが、今回訪れた古戸の白山祭りだ。

花祭のキーワードは、日本の信仰を凝縮したような「死と再生」の物語

花祭について、中沢新一さんの著書『アースダイバー神社編』(2021年, 講談社)によれば以下の記述がある。

花祭を詳しく研究した折口信夫によれば、天竜川支流域の花祭りに登場する鬼を「春来る鬼」と呼んだ。つまり、冬至を挟んだ霜月に行われる祭りは古い季節の死を促進し、新しい生命の誕生と増殖を準備するふゆの鎮魂祭である。この鬼たちは、春の若い太陽を呼ぶ。新しい生命をみなぎらせた、童子の身体をした太陽として、この鬼たちは出現してくるのではないか。

なるほど、死と再生の祭りという点で、熊野修験らしい。熊野修験では、山中をひたすら歩き、熊野詣をした人々はまさに「再生」を目指したのだと思う。胎内くぐりもまさに、死と再生を促すものである。日が短く木々が枯れ生命力の衰えを感じる冬にこそ、太陽を切望する人々が、湯を沸かし鬼を登場させて太陽を呼び込む。そして、春の訪れを喜ぶ。そういう意味が込められているのだろう。

実際に、この花祭には鬼だけでなく、獅子も登場する。ただ、獅子は単なる獅子ではなく、ヤマタノオロチにすり替わっている場所もあるという。花祭を開催している15地区のうち、1地区のみ、獅子舞が見られずヤマタノオロチが見られる(ヤマタノオロチが登場するのは河内・花祭と中設楽・花祭)。これは白山修験つながりの出雲かそれとも何を示すのだろうか。確かに、島根県ヤマタノオロチの伝承があるものの、獅子舞が非常に少ないことで知られる。つまり、ヤマタノオロチは獅子舞と同様の意味で機能している可能性があるのだ。何れにしても、この獅子舞やヤマタノオロチ花祭りのトリ、つまり長い一日の中で最後に演じられるものだということは非常に興味深い点で注目するべきことだろう。

白山祭りは花祭の原点であり、ハイブリッドな信仰形態

古戸の白山祭りは山道を1時間ほど登ったところにある白山神社で行われる。今回はお祭りライターつながりの和光さんの車で登山口まで連れて行っていただいた。登山道は緩やかであったが、途中からものすごい傾斜に。苔むした岩だらけの世界が広がっており、登山口の結界と登山道中の2本の鳥居をくぐっていく感じが徐々に聖域に近づいていることを実感させた。やっとこさ登った場所には、白山神社。その裏手の数十メートル登ったところに寺院があった。これは神仏習合の証だと思った。そして、いくつかの木の根元にはお供え物があった。お供え物は、柿、ゴマ、餅、蜜柑、酒など、山の暮らしには欠かせない山の幸がてんこ盛りだった。全部手作りで、丁寧に作られたことがわかる。自然崇拝のアミニズムが息づいているのかもしれない。これらを壮観してみるに、廃仏毀釈以前の太鼓から脈々と続くハイブリッドな信仰形態が現在も残っていると直感した。

この白山祭りの神事はまず、午前9時ごろに神社と寺院のような小屋と、数本の木々にお供えをするところから始められた。お酒は小さな竹の筒に、おそらく御幣の本数のみ注がれていた。お供えをしてから、「祓いたまえ、清めたまえ」「畏み畏み申す」などのよく神社で聞く祝詞が挙げられるという繰り返しだった。ただ、仏教の念仏が唱えられる場所もあった。また、唯一とある木の根元のみ、かなり多くの神々が祀られているところがあった。そこでは、大根をくり抜いたところにお酒を注ぎ、飲み合うという姿が見られた。また、「神々現れて...これより打って返す!」と語気を強めて餅を投げるような場面も見られ、それが東西南北の各方位を向いて行われた。これは厄払いの動作か何かだろう。

そのようなお供え物と祝詞および念仏がひと通り済むと、白山神社の前の祠に戻ってきた。その祠の前で、舞いが披露された。構成は舞人1人、太古1人、笛4人だった。それに3パターンくらいの動作があって徐々に激しくなっていった。その後に、お酒を飲みながらみかんやら干し柿やらを食べるという休憩タイムに入った。お酒が15度にも関わらずあまり強くないように感じられ、とても甘かった。これはなぜだろう、1年も山の上のお酒を保管しておくと、甘くなるらしい。結界をつなぐしめ縄には、切り絵のようなものが垂れ下がっており、そこには神社や太陽やら様々な左右対称の絵柄が切り取られていた。これはどうやら、物語らしい。神楽を構成する物語ということだろう。

それから、榊を四方に立てしめ縄で繋いだ結界のあるところ場所で、焚き火を囲みながら、舞いが披露された。これは非常に神聖なものだった。先ほどの祠の前での舞いと同様に舞人1人、太古1人、笛4人という構成は同じである。途中、舞人が2人くらい入れ替わった。そして、白山神社の中から御神体が布に包まれて姿を現したのだが、これが隕石らしい。空から降ってきたようで、これにはびっくりした。隕石を神として祀っているのだ。

また、この舞いと同時並行で、神社の中でも神事が執り行われていた。どうやら、神事と舞いとは別物のようだが、これにも驚いた。舞いの方は自治体の教育長さんやらが出席しているように、古戸地域の方々が継承しているものであり、神事の方はあくまでも神社側の行事ということかもしれない。この行事全体(最後の舞い)が終了したのは、お昼過ぎの13時ごろだった。本当は長丁場で1日がかりで行われるようだが、新型コロナウイルスの流行に伴い、縮小開催ということになったらしい。ほぼ地元の人だけだったので、かなり厳かな感じで執り行われたような印象だった。

また、今回白山神社を訪れてみて、とある文章が壁にかかっているのを発見した。それには昭和48年12月10日作成ということで、以下の内容が書かれていた。

創成年号は確かならざるも、古くからの言い伝えには延喜年間(今より一千七十年前)一人の京聖が加賀国白山より御神霊を迎え此の御山之奉斉し此の地を清浄になすと御霊験を顕すため日夜難行・苦行を遊されたという・・・当地古戸の御珠の舞が振草系の元祖である。

なるほど、延喜年間ということは901~923年ごろにこの神社は創建されたわけで、これ以降に振草系の花祭は伝承されたわけだ。それにしても、創建は白山信仰を起源とすることが明確にわかったのは大きな収穫だった。

花祭会館で行われた展示、芸能の見える化とつなげる力

白山祭の終了後にお餅やみかん、結界の切り絵などをもらったのちに下山。花祭会館で、花祭の展示を拝見することができた。そこで、東栄町まちづくり協会の伊藤さんにこれまた非常に興味深い展示のお話を伺えた。写真と説明だけだった花祭の展示を、もう少し地元の人目線で暮らしの中でどのように受け継がれてきたのか、より工夫して見てもらえたらということで展示をされていた。やはり、祭り当日のみ手伝いを申し出てくれる外部の人もいるらしいが、当日のみだとできることも少ないとのこと。どのような準備段階を経て、祭りに至っているのか含めて感じてほしいということのようだ。また、コロナ禍において花祭りの実施ができない中で、地域の担い手同士の横の繋がりが希薄になっているようで、そこをつなげることで見えてくるものもあるとのこと。今回の展示にはこの社会情勢を受けて必要性を感じての開催ということもあったようだ。

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一番印象的だったのが、花祭の準備風景を花祭会館の倉庫を活用して障子に写真を貼り付ける形で再現していた展示だった。この写真を見ていてふと先程までの古戸の白山祭りの様子を思い返してみると、祭りの最後に榊やらわらじやらゴザやら全てを焚き火の中に入れて燃やしてしまうのが印象的だった。これはその年のものは一年で使い切ってしまうという四季と田植え稲刈りの五穀豊穣的な生活サイクルの一部として回っているのだ。釜も田んぼの土を使っており、それを祭りが終わるとその田んぼに返すそうである。これこそまさに、東北の人形道祖神の制作が一年サイクルで行われているのと同じ考え方だと思った。これは死と再生を示すだけでなく、技術を毎年伝承していくことにも繋がる。日本人独特の保存させずに朽ちさせ、新しく建て替えるという木造建築のサイクルにも通ずる考え方だと感じた。ただし、釜も固定設置の便利なものを使い始めた地域も多いようで、西欧から入ってきた便利な保存をするという考え方が伝統的な生活文化の中に浸透しつつあるようだ。

また、若手中心で「花祭部」というものができ、そこが中心となって今回の花祭りの展示を運営しているという。今回の展示費用は会場費こそかかってないものの、ほとんど私費で行われているようで、メンバーの熱意が伝わってきた。現状の花祭の課題としては、いろんな人が関われるような役割の振り方が重要とのこと。担い手を育てようというよりは今いる人に対してどのように適切な役割分担ができるかが大事という実感があるという。「必要なものは持っていて大事なのは交通整理」という言葉が印象的だった。そのための場所や仕組みが必要ということである。現在は、花祭部が住んでいる人中心となっているが、今後は住んでいる人だけじゃない関わり方もあるのかもしれない。豊川などから通いながらの担い手をする人も実際にはいるようだ。このような方々が動きやすくなるというのも大事だろう。外の人が関わることで、内の人が気づくこともある。

また、伊藤さんはテントサウナ作りもされているようで、テントの中でサウナをしてから、外の川で天然の水風呂に入るというのも楽しみとのこと。綺麗な川があり、とても良いロケーションだ。「個人的にはテントサウナも花祭りに繋がる部分があるんです。」とのこと。これは非常に大きな気づきとなった。暗くて狭くて蒸気が立ち込めて、その独特の空間で人がコミュニケーションをしている。フィンランドの人はその蒸気に神が宿ると考えるようだが、まさにこれは花祭りの湯気に神が降りてくるというのと同じ発想である。

花祭には「へんべ」という動作があり、これは大地の精霊を呼び起こすという意味があるようで、神を呼び起こすという意味では、湯気と同じ発想かもしれない。そして、「へんべ」と言えば、個人的には、飛騨地方の「へんべとり」という獅子舞を連想させる。へんべとはここでは蛇のことで、大地を這う蛇をとるから「へんべとり」ということかもしれない。それがもし正しいと仮定すると、花祭りとへんべとりは非常に似通った太陽神の信仰と言えるかもしれない。花祭りにおいてへんべは非常に重要な基本動作で、稚児の舞を3歳ぐらいの子供がまず始めるように、かなり基礎的な動作として身につけさせる。花祭の担い手は非常に多世代であることが特徴だが、小さな幼児期から長老の年齢までこの動作をしっかりと身につけ、地域の信仰に身体がもう馴染んでいるような人が多いと思う。外から来た人にとっては無自覚ではあるが、地域にとっては当たり前。それが、「へんべ」という動作に現れているのかもしれない。

また、自覚という意味では、各地域の花祭の担い手は、自分の地域と他の地域の違いがわかっている人も多いようだ。これは全地区を見える化していくような今回の展示や花祭会館自体の存在、そして、花祭のMAPを制作するような観光関連の動きなどが複合的にからまりあった結果だろう。獅子舞的視点で言えば、富山県や石川県、岩手県香川県、栃木県など様々な地域でこの「芸能の見える化」という動きがあるように思うが、まだまだ進んでいないのが実態だ。お互いの地区から学び合い、自分の地区を誇りに思う。そういう動きがどんどん進んでいくというのも大事なことだろう。一方で見える化してしまうと、観光化される危うさもあり、そのバランスをどう考えるかが重要な点だと感じる。

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また、花祭会館内では花祭りに登場する、獅子舞の写真や獅子頭の展示なども行われていた。花祭における獅子舞の起源は定かではないが、比較的似たような風貌のようなものが多く、これは鬼の面が各地区全く異なるのと対照的である。いわば、サブ的な芸能として、獅子舞が継承されているということだろう。そして、獅子舞の風貌は渦型が多く、伊勢の太神楽の獅子舞のような獅子頭にも近いような形態に思われた。花祭会館の展示スタッフに獅子頭の制作についてお話を伺ってみたが、どこで発注しているのかよくわからないとのこと。おそらく地域外で制作しているようで、地域内では作られていないようだ。また、豊川のある神社で祀られている複数の獅子頭御神体で、この辺では一番古いイメージがあるとのこと。あと獅子頭は傷みが多く、花祭の鬼の面よりかは更新のタイミングが早い。そのため、比較的獅子頭は歴史が浅いという印象が強いようだ。花祭の鬼面は、細い座布団のようなものを2つ組み合わせてその上からお面を被せるのであまり傷みが少ないということかもしれない。花祭の獅子舞は釜をぐるぐる回ってから、お酒に酔っ払って寝ちゃったり、退治されたりするような演目があるようだ。また、噛まれたら良いことがあるという考え方もある。花祭の獅子舞という領域はあまり研究が進んでいないように思われるので、この点には今後も積極的に注目していこうと感じた。

 

【2021年12月】岩手県虎舞・権現舞取材 3日目 葛巻町

2021年12月6日

ゴンゲンサマ(獅子舞)についてお話を伺うべく、葛巻町に向かった。今回は美術家の増子博子さんのご案内で町内の様々な場所を巡り、地域の方々とお話をすることができた。葛巻町岩手県盛岡市の北東部に位置し、電車が通っていない山間部に位置する。人口は約5000人だが昔は15000人ほどいたと言われ、人口減少が進みつつある。この地にはゴンゲンサマという獅子頭があり、神社(祠)に安置されている。今回は葛巻町の古川戸と鷹巣のものを拝見することができた。どちらも現在、舞われているものではなく、神社ともいうべき祠に安置されているという状況だ。この地域では、地域の大事なものがこの祠の中に安置されている。木彫りグマや人型の御神体、サンゴの石など様々であり、そのうち一つとしてゴンゲンサマが安置されているのだ。日本全国の獅子舞取材の中でも類例の少ないこのゴンゲンサマの信仰形態について、おそらく調査研究もあまり進んでおらず、未知への好奇心とともにこの地を訪れた。

 

葛巻町は酪農が盛んで牧草地や餌置き場をよく見る。

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車で葛巻町まで送っていただく道中、増子さんに木彫りグマの話を伺った。木彫りグマが流行ったのが昭和30~40年代で、大阪万博東京オリンピックの頃に鉄道網が発達した。個人旅行や女性の一人旅が増えて、観光客のお土産として木彫りグマの需要が高まったという背景がある。戦後で自分のマイホームを持ち始めて、自分の家にモノを飾るという時代的な背景のもとで人気が激増した。アイヌ文化のお土産ということで木彫りグマが増えていった。元々は100年前に北海道に「徳川農場」という開拓農場ができてから、冬場の農閑期の収入源としてスイスから持ってきたお土産の木彫りグマをみんなで彫ろうという話が出てきたのが始まり。スイスから発想を得たというのは非常に興味深い。そのスイスから発想を得た北海道の木彫りグマが大ヒットして、それを自分も作ってみようというのが葛巻町の木彫りグマである。葛巻町の木彫りグマは北海道のものと違い、山葡萄を咥えてたり、ツキノワグマの模様があったり、地域特有の形で定着していった。地域に溶け込んでいく過程が面白いとのこと。なるほど、木彫りグマを通して地域の特色も見えてきそうである。

 

▼cafeやどり木には木彫りグマがたくさんいる

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そのほかにも面白い話がたくさん聞けた。「最近はクルミをカラスが車の前に置いてくる。それでクルミを割らせるんですよ」とのこと。なるほど、カラスはとても賢い。人間が車を使って便利な思いをしているなら「カラスもとことんそれを利用させてもらいます」という感じだろうか。一見、自然の脅威を超越せんという車が、実は自然と対話するきっかけにもなるなんて、とても不思議な感覚に思えた。また「座敷わらしも出るんです」とのこと。地域の家に5歳くらいの男の子の霊が出てきたらしい。以前、その座敷わらしを信じなかった男の人が泊まったら、ホウキではく音とか足でバタバタする音が聞こえてきて寝れなかったようだ。本当かどうかわからないが、想像力が豊かになってしまうのだろうか。葛巻には天然痘が流行って作られた、珍しい優しい女神様(エモンバサマ)もいる。まずはゴンゲンサマに限らず、とにかく信仰が多様であるという印象を持つことができた。

 

12:30~ 葛巻町古川戸

では、本題のゴンゲンサマについて。今回、1件目のゴンゲンサマは葛巻町の古川戸という場所にある熊野神社(別名:クマドウサマ)にて、拝見することができた。鳥居をくぐり山を少し登るとそこには小さな祠。中に御神体などとともに、ゴンゲンサマが安置されていた。この地域では、祠に上がりゴンゲンサマを拝むときは地域の方々の許可が必要だ。許可を取り参拝させていただいたのちに、この祠を別当代理として管理する服部義男さんに馬場トワさん宅でお話を伺うことができた。

 

▼古川戸の熊野神社に安置されているゴンゲンサマ

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稲村:ゴンゲンサマはいつぐらいまでお祭りで使っていましたか?

服部さん:よくわからないが、その辺のことは遠藤ひろきさんたちが管理してきた。遠藤さんはマメとかアワとかヒエとかの収穫を部落の人に手伝ってもらって、収穫祭みたいな感じで12月12日の山の神の日に感謝の祈りを捧げていた。このときは餅をついたりご馳走を出してくれたりした。旧暦の6月15日は作付けが終わって体を休めるときで、いっぱいご馳走になって、お祝いをした。お正月もやったので、それ含めると1年に3回、ゴンゲンサマのいる祠の前でお祝いが行われた。

増子さん:ゴンゲンサマは色がついていたのですか?

服部さん:昔はもっと綺麗だった気がする(一同笑)

稲村:ゴンゲンサマを使って舞うことはありましたか?

服部さん:その記憶はないけれど、いっぱい飲んだらやったんでないかなと思いますけども(一同笑)。お酒でもお茶でもないどぶろくみたいなものを飲んでいたんだと思う。

服部さん:そもそもの始まりは、他の熊野神社のゴンゲンサマを分けてもらったのだと思うけどもさ。

稲村:ゴンゲンサマを彫った人は誰かわかりますか?

服部さん:それはわからねえ。

増子さん:藤岡先生という88歳の方含む葛巻町文化財保護委員が書いた『葛巻の神々』という本には、年代不詳・作者不明と書かれていました。

稲村:ゴンゲンサマを(地域の方々に)お披露目する機会は今はありますか?

服部さん:今はない。

馬場さん:お父さんばっかり掃除するから(笑)

稲村:先ほど祠を見てきたらお酒がたくさん置いてありましたが、神様にお供えするお酒はどのようなものを選ぶのですか?

服部さん:日本酒であればなんでも。

馬場さん:服部さんがお供えしてくれてます。誰も行かなくても。

稲村:いつも(祠の)お掃除を定期的にされているのですか?

服部さん:6月の前と、正月にやる。お正月は竹か松かの飾りをつけ、しめ縄も作る。鳥居は自分で1人で作った。ちょうど良い栗の木があってそれが2本倒れていたから、それを使った。森林組合で働いていたときだから、昭和63年くらいの話だ。

一同:すごい!

 

▼手作りで作られた熊野神社の鳥居

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服部さん:昔は中学校を卒業すると、農閑期の11月から3月まで出稼ぎに行ってて、埼玉、神奈川、東京などで働いてた。12月の山の神のお祭りをしていたのは出稼ぎ文化が始まる前の話だ。出稼ぎでは刑務所に行って御赦免になって戻ってきたような人たちと鳶職の仕事をしていたが、皆人っこは良かった。仕事をやる中で高いところに登っていると、危険を伴う仕事とか自分ではどうにもならないような時には神様に頼るしかない。50メートルの仕事をしているときは、目線より下を見るなと言われてきた。そのようなこともあって、出稼ぎが始まる前の小学生まではこの部落にいた。

馬場さん:お正月は服部さんの家でご馳走になった。6月はシートを敷いて、祠の周りでご飯を食べていた。

稲村:6月は祠の前で食べる食べ物は決まっているのですか?

服部さん:決まっているわけではなく、手っ取りばやくまずは煮しめとかな。

稲村:神様にお供えする食べ物もあったのですか?

服部さん:昔はあったけども、それをわかっている人は亡くなったので記憶にねえや。

稲村:昔はこの地域でどういう遊びをしていたんですか?

服部さん:マスを飛ぶとか、メンコをしてカードを集めるとか..。夏は川が溜まり場で、泳いだ後、近くに岩に腹をつけるとあったかかった。

増子さん:確かに岩にお腹をつければ、あったまるもんね(一同笑)

稲村:神社には昔から興味があったのですか?

服部さん:どうにもならないときは拝むしかなかった。

増子さん:この辺には拝み様(イタコ)っていたんですか?

服部さん:それはいねえんだなす。子供ながらにおっかねえもんだと思っていた。年寄りから聞いたが、悪さすればイタコくるなどと言われていた。

増子さん:昔は八卦おきという占いの人もいたんですか?

服部さん:それは知らんが、一番記憶に残っているのが、ベコ(馬)の神様だ。お札を持って、遠野の方から来た人がまじないを唱えていた。目の神様もいた。

服部さん:各部落に一軒ずつ旦那さん(地主)がいた。何にも持たない人が畑を借りて小作となった。

稲村:この地域の方は普段作物として何を作っているのですか?

服部さん:農作物といえば、稗、麦、粟、豆、荏胡麻..。稗は春、麦は夏~冬で植えていく。麦を刈り取れば蕎麦ができる。今年は粟はキロ300円幾らかで、稲積みはキロ530円だった。

 

14:00~ バロンにてお昼

cafeやどり木の熊谷由美さんにお話を伺った。バロンの名物料理・アラモンタンをいただき、白ご飯までつけてもらった。常に腹をすかせている自分にとっては、大変ありがたいサービスだった。葛巻町の高校には、郷土芸能部がある。体育祭でも神楽を舞うという場合が多い。神楽の様々な演目のひとつで権現舞というものがある。ただ「権現舞」と言うのは高校でのみで、多くの人は一括りに「神楽」と言う。高校で神楽を舞うようになったのはそんなに古い話ではない。山村留学で来た生徒がよく神楽を習っている。神社で実際に行なっているものと、高校で行なっているものとで指導の仕方も舞い方も異なっている。葛巻の中で、秋分の日の秋祭りは4地域に分かれており、そこで神社の権現舞を披露する。また、この時に4地域のうち1つである新町組というところでは、手作りの虎頭を持って家を巡る。この虎頭は普段、雑貨屋さんに保管されている。『葛巻の神々』の本を見せていただいた。

 

葛巻の神々』に記されたゴンゲンサマの情報

真山神社葛巻・平船)・・・1体あり(1736年 平舟新五兵衛さん発注, 鈴木助十郎制作)

・山の神神社(只見)・・・石のゴンゲンサマあり

熊野神社(冬部・名前端)・・・2体あり

熊野神社葛巻・古川戸)・・・1体あり

・〇〇神社・・・3体あり(内一つが、1714年 施主 立花新三良, 別当 立花円生坊の墨書)

 

16:00~ 葛巻町鷹ノ巣

神社に保管されたゴンゲンサマがあるということで、車で連れて行っていただいた。このゴンゲンサマにはある逸話が残されている。地域の方の話によれば、少し上の方にある神社からコロコロと転がってきて、今の場所にたどり着いたという。転がってきたのは何かの拍子に自然にというよりは、ゴンゲンサマの意思で「こちらに行きたいから」ということで転がってきたようだ。だから元の神社に戻すことはなく、今の神社に安置された。今の神社は水の神様が祀られている場所で、権現様とともにサンゴの石が祀られている。周囲には川や牛小屋があり、牛の声が夕暮れ時に響き渡っていた。

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今回の葛巻町滞在の最後の数時間は、cafeやどり木にて滞在しバスを待った。薪ストーブのある暮らしが印象的だった。バス1本で盛岡まで行ける一方で、秘境感漂うのが葛巻町の魅力だ。都市祭礼に近づけば近づくほど、祭りとその拠点となる神社が豪華に賑やかになっていく。秘められてきた祭り事が明るみに出て、規模が大きくなって祭り道具も華美な装飾が目立つようになる。しかし、葛巻町は山や雪により地理的にも隔離された場所にあり、都市祭礼の文化圏にも組み込まれてこなかったのだろう。この町独自の素朴な信仰形態が今なお、ささやかに細く長く受け継がれているのがとても魅力的に思えた。情報網も交通網も発達した今、地理的な辺境はなくなりつつあるが、心の辺境だけでもこの地に残ってほしいと想いながら、葛巻を後にした。

【2021年12月】岩手県虎舞・権現舞取材 2日目 宮古市

2021年12月5日 

10:00~ 津軽郷土芸能祭取材

岩手県には芸能祭を実施するという文化がある。各地域バラバラに伝承されてきている民俗芸能を一堂に会して、披露し合うというものだ。これは近年震災復興の社会的背景から始まったものもあれば、もっとずっと昔から伝統的に実施されてきているものもある。今回は宮古市津軽石小学校という場所で行われた津軽郷土芸能祭を取材した。郷土芸能が小学校を拠点に披露できるというのもなかなか他の県では実現するのが難しい場合が多く、そういう意味で岩手県は民俗芸能の地位が高いようにも思われる。

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今回、津軽郷土芸能祭に出場した団体とそのスケジュールは以下の通りだった。

9:50 開会行事 会長挨拶 中嶋勝司様

9:55~10:10 栄通り太鼓

10:10~10:25 津軽石新町太神楽

10:25~10:40 法の脇獅子舞

休憩10分

10:50~11:15 山田境田虎舞

11:15~ 11:35 根井沢剣舞

11:35~11:55 津軽さんさ踊り

 

津軽郷土芸能協議会の舘下光利さんにお話を伺うことができた。協議会発足の経緯としては、核家族化しているか地方の人口減少によって、民俗芸能について世代間格差が生まれつつある。地域で芸能を伝えていくような機会を設けなくてはいけないということで、津軽石公民館の館長さんにお話をして、そこから活動が広がっていった。宮古市教育委員会で市史編纂室の刈谷さんにも掛け合った。新里村、河合村にはあったが、宮古と田老にはなかった。元々は持ち回りで様々な地域を回ろうとなったが、津軽石で毎年やることになった。宮古市郷土芸能祭では全ての団体が出られるわけではなく、選抜された団体しかできない(35団体中5団体くらいしか出場できない)。そのような経緯から、津軽石という地区単位でも芸能祭が必要になったという背景もあるようだ。小学校に昭和45年の岩手国体のタイミングでさんさ踊りを小学校に教えにいって、そこから50年経った。最初は45分間どうやって歴史まで喋ろうかなどと考えて知識的なもの含めて教えた。伝統として長々とやっていることなので、それをつないでいくには小学校で教えていくしかない。そのような思いもあるようだ。今回お話を伺っていて、小学校と民俗芸能の結びつきは非常に強いように感じられた。

また、津軽郷土芸能協議会の中嶋勝司さんにもお話を伺うことができた。5年前から津軽郷土芸能祭は始まった。旧津軽石村の範囲で、津軽郷土芸能祭を実施している。市の地域創造基金のような予算と地区ごとの予算を活用して、コミュニティを繋いでいくという役割を担うイベントとなっている。東日本大震災や人口減少からコミュニティに対する帰属意識の高まりなどもあり今に至っている。お互いの団体から学び合うことで自分たちも頑張ろうということで結束することにもなる。それを応援する親やおじいさんおばあさんも、多世代が交流できる。コロナ禍での開催ということでどうしようかという葛藤はあったが、名前書いたり体温を測ったりと手間をかけて開催に至ることができた。例年より見学者が少ないイベントとなったがそれでもとても盛り上がっていた。宮古市全域でも民俗芸能の動画を撮影・保管していくような取り組みも始まっている。

また、境田虎舞の会長 小原裕毅さんにお話を伺うこともできた。10月初めに岩手県民会館で公演、11月下旬には山田町の郷土芸能祭があり、コロナ禍でありながら順調にイベントも回復して出演の機会も増えているようだ。若い人にとっては、地域の9月のお祭りがなかったので、その時に人材育成という意味で1ヵ月間練習をするのが恒例であるが、今年と昨年はそれができなかった。現在の中高生の次の世代をどう作っていくのかが今後の課題となるとのこと。今回披露いただいたのは、5頭の虎が踊り狂う大迫力の虎舞だ。これほど迫力のある民俗芸能はなかなか見たことがなかった。背の高い笹を食む様子や、巨大なステージをゆっくりゆっくりと登る様子はまさに虎そのものである。若い世代も多い印象で、激しい太鼓を叩く役を女の子も担っていたのは印象的だった。とにかく演者がかっこいい。皆やる気に満ちた目をしていた。こんなに感動できる虎舞を見たのは初めてだ。

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15:00~ 山口公民館内 黒森神楽展示室 見学

黒森神楽は12月第1日曜日に恒例の演舞が行われる予定だったが、今年はコロナ禍ということで中止になってしまった。ただし、公民館の中に黒森神楽の道具の展示や動画の上映を行う展示室があるとのことで、伺ってきた。写真撮影がNGというのは残念だったが、黒森神楽の特異性を改めて知ることができた。権現様も古い16頭あるうちの数体を拝見することができ、獅子舞を山伏神楽の形にするとこうなるのかということを再確認できた。ここでは、動画の解説をもとに知ることができた黒森神楽の特徴的なことについて触れておきたい。

2006年に重要無形文化財に指定された黒森神楽は、「神楽巡行」という形態を今に残していることが特に珍しいポイントである。現在でも黒森神社を拠点として南回りは山田町、大槌町釜石市を歩き、北回りは宮古市、岩泉町、田野畑村普代村久慈市を巡行する。江戸時代まで神楽は修験者の霞場の範囲内で活動が許されてきたので、それを超えた宗教活動は異例なのだ。黒森神社の歴史は非常に古い。黒森神社が8世紀に登場して以降、1190年の棟札も発見されている。16頭の県指定の獅子頭の中でもっとも年記銘が古いものは文明17年(1485年)のものであり、さらにその100年ほど前の南北朝前期と推定される獅子頭も残されている。黒森神楽の巡行が資料として現れるのが、元禄元年(1685年)に黒森神社の別当寺社奉行により授かった裁許状であり、本山修験派が羽黒修験の資源を支配下にしようとしたという書類で、黒森権現の采配するところは山伏が妨害してはならないという判決に至ったようだ。黒森神楽が他の山伏たちの霞場で広く活動できたのは昔から南部藩の庇護があったからとも言われる。黒森神楽は北回りと南回りを繰り返してきたことが資料的に明らかになったのが宝暦8年(1758年)の南部藩の資料「黒森権現書留」による。沿岸の山伏が不満を持った人々が訴えたものの、元禄元年の裁許状を元にしてそれが却下されたという経緯がある。明治時代以降に修験道は活動が禁止されてしまったものの、地域の信仰心に支えられて巡業が行われてきた。権現舞儀礼が非常に多いのも黒森神楽の特徴だ。地域の願い、それぞれ1つ1つに向き合ってきた結果だろう。地域の方々は権現様と神楽一行を親しみを込めて「黒森さん」と呼んでいる。

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p.s. 2021年12月3日 宮古市立図書館 展示館 電話取材

黒森神楽の権現様は、岩手県で最も古い権現舞かもしれない。早池峰神楽600年前?それより古いか否かわからない。最初に伝えてきた人は熊野修験関係とも言われる。「しきりゅうじ」という真言宗のお寺があり、そこが江戸時代に別当を務めてきた。今は「かわらだ」さんという家が別当になっている。昔から担い手は通ってくる担い手がいて、親方が誰を使うか上手な人を選んできた歴史がある。今は、保存会のメンバーが行っている。神楽衆が何人かいて、宮古市だと山口の北にある田代や、田老という地域の人が舞手として優秀な人々が排出されてきた印象がある。

 

【2021年12月】岩手県虎舞・権現舞取材 1日目 遠野市・大船渡市・釜石市

来年の寅年に向けて、虎舞の記事を書くこととなり、急遽3日間の日程で岩手県での滞在が決まった。ここでは虎舞を中心に根っこは獅子舞と同じと言われる神楽の権現舞やゴンゲンサマを含めて岩手県の民俗芸能の取材を行ってきた。

 

2021年12月4日

午前 岩手県遠野市の散策 

遠野博物館の企画展「遠野物語と呪術 第二幕」を拝見して、ゴンゲンサマを見ることができた。このゴンゲンサマは中山家蔵で「中山権現」とも呼ばれるとのこと。また、山伏神楽などの神楽衆が奉ずる獅子頭であり、火伏せや疫病除けの神として信仰されるなどの権現様の説明書きが書かれていた。呪術の文脈でいえば、権現様の祈りは呪術にあたるのだろうか。『金枝篇』を著したフレイザーによれば、呪術には類感呪術感染呪術がある。類感呪術は、類似のものの本体に危害を加えることで実際の犠牲者に危害を加える行為であり、藁人形を思い浮かべるとわかりやすい。思えば、獅子頭というのは自然の総体でありながら動物の模倣と捉えることもでき、それによって厄を払うということは、類感呪術的側面を持つ存在と捉えることもできそうである。一方で、感染呪術とは呪いたい対象の一部を入手してそれに呪いをかけると呪いが作動するというもので、髪の毛などに対し呪いをかけるという場合によく使われる。獅子頭も動物の毛が使われている場合もあり、少なからず感染呪術的側面もあると言えるだろう。

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また、たまたま立ち寄った伊豆権現(伊豆神社)の鳥居の横に書かれた説明書きが大変興味深い内容だった。そこには「伊豆神社御神体獅子頭」と書かれている。その御神体のありかについては明示されていなかったものの、その獅子頭の由などが書かれていた。伊豆神社は元々大同年間(806~810年)に早池峰山を開いた始閣藤蔵が厚く信仰した神社であり、早池峰神社の親神とも言われているので、神社の歴史は相当古いことが伺える。そこに伝わる御神体獅子頭というのは制作年代・制作人物ともに不明であるが、材質は桐で、その形は伎楽の獅子面に類似し、仕上げは漆塗りで、その上には金箔が貼られた状態であるようだ。その獅子頭というのをぜひ見てみたいものだが、どこにあるかもわからず、森の中に佇む厳かな社をただ参拝しそこを後にした。

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15:00~ 門中組(かどなかぐみ)虎舞

門中組振興会 顧問の新沼利雄さんにお話を伺った。三陸芸能短期留学に昨年参加した繋がりで紹介していただいた。門中組虎舞には、伝承館がある。ここは練習場にもなる。ずらりと並べられた写真の数々。その中には、集合写真の顔が誰かを示した紙まで一緒に几帳面に飾っていた。そして、3体の展示された虎舞の道具たち。非常に迫力と熱意溢れる空間と感じた。また、のれんや置物など虎舞のグッズも多数展示されており、これは団体独自で製作したものである。一部の暖簾は花代をいただいたときにその気持ちとして、お礼として、グッズを渡すようにしている。現在の虎頭と胴体の上には、古い虎頭や獅子頭も透明なケースに入って展示されていた。伝承館のシャッターには、虎舞の原寸大の写真が2体分プリントされたものが貼ってある。ボコボコのところは切りはりしてうまく貼っている。これは、「避難場所」などのサインのような看板を作っている会社に頼んで作ってもらった。伝承館の外壁には、津波がここまできましたという印がつけられていたのが印象的だった。目の前に広がるのは、防波堤で固められた海。津波の影響によってこの地域が大きな影響を受け、大震災を境に状況が一変したことがよくわかる。それにしても普段は遊び場であったであろう海は、人に脅威をもたらす存在として防がねばならないという感覚に変わったのだろうか。そのコンクリートブロックの無機質な様子はどこか物悲しい過去を語っているようだった。

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門中組は2つの地域(門の浜と小中井)からなり、公民館も2つある。公民館とは別に門中組虎舞としての活動場所が必要ということになり、伝承館が作られた。「昔から伝えられてきた地域の伝統文化を伝えていきたい」とのこと。最近は1ヶ月通える範囲の人々を受け入れるというスタンスに変えた。人手不足を補うため、地域外の方々でも担い手になれるということに決まったのだ(今まででもコンテンポラリーダンス関係の方が北海道などから訪れた事もあったが、完全な担い手として地域外から募集をかけるのは今回が初めての試みだ)。普段練習は伝承館で行っており、一度やり方を覚えた人は3~4日前から参加すれば本番に間に合う。ただし、始めてやる人は少なくとも1ヶ月前から練習をしなくてはならない。笛と太鼓は女性でも参加することができ、他の役は男が務める。メンバーは30人ほどいるが、なかなか出てこれない人もいる。フルメンバーで15人、そこから交代する人が10人は必要で、それでも20人くらいの時があるので人数が足りないという実感がある。昔のように、勝手に親が子に強制する事もできない時代なので、一番重要なのはやる気になる人をどれだけ増やせるかということになる。わかめ取りの期間や、仕事のある平日の日中は依頼があっても断らねばならない。皆、仕事がある中で、祭りを実施している。中学生から50歳代まで所属しており、50歳代でも元気に虎頭を持つことがある。中学生は学校の授業などでやることはなく、学校とは分けて行われている。基本的に部活優先の中で、こちらにも参加してくれる人もいるという感じだ。なぜ中学生から担い手にするのかといえば、高校、大学と外に出ていても、帰ってきたときに舞うことができるからだ。小さい頃から虎舞に触れておくことは、次世代の担い手が出てくるという意味で、とても重要な経験となる。郷土芸能といえば少なからず、マイナーな世界なので、どうやってそこを広げていくのか、担い手の確保は非常に重要なテーマだ。

芸能祭で披露されたビデオを見せていただいた。「サイボウフリ」が1人で前に立ち扇子を振るなかで、3体同時に2人立ちの虎が舞うという構成である。太鼓も複数を同時に叩き、披露する場によって個数が異なる。面白いのが、何度も中の人が交代をするということであり、これは演者がとても疲れるので、それに配慮するためだ。股の上に立つなど虎の前後の人の掛け合いが見ものである。基本的に虎が前後に水平的な動きをすることは少なく、立つ位置は定点で行われる。演目数は4つである。Youtube でも見られるようになっている。

お祭りは熊野神社の式年大祭ということで4年に1回、10月のどこかの日程で行われる(昔4年に1回ではなかった)。今年がその年だったが、虎舞いはできず神事のみとなった。今回のみ祭りでの披露では8年1回という感じになってしまった。祭りと言えば、結婚して子供が生まれると参加してくれる人もいる。地域に住み始めると、顔を出しにくるという感じの場合もある。祭りの日は神社に行ってから港で舞い、船に乗っても舞う。豪華客船飛鳥Ⅱの上で舞った事もある。また、お正月に舞う事もする。

祭り以外はイベントで呼ばれた時に舞いに行く。東日本大震災の年には11月に静岡まで舞いにいった。また、震災のときは、仮設住宅や復興祭などで舞うこともあった。その当時のことが、岩手日報で報道され、その記事が残っている。復興していく町と共に、虎舞の披露は大きな希望となった。震災のときは扉が流されるなど伝承館もめちゃくちゃになってしまったが、なぜか虎舞の道具は流されなかった。「神様が残しておいてくれたのかもしれない」とのこと。雨で浸水したときに胴体がびしゃびしゃになってしまったことがあったが、今では木をくんで高い位置に虎頭と胴体を保管・展示しているため、備えは万全である。

虎の頭は赤いものを使っていた。虎の顔よりは獅子頭権現舞に近いようなデザインである。これは伊達藩由来のものらしい。北に行けば行くほど、虎舞の頭は黄色のものが多い。門中組虎舞の場合は、もともと獅子頭があり、それが虎舞にどこかのタイミングで変化したと見るべきだろう。虎頭は張り子で作られており、桐の木に紙が貼られておりとても軽い。片手で持てるように作られている。虎頭を作ったのは地域の大工さんだ。大工さんなら皆作れるわけではない。やはり、思いのある人がこのような虎舞の道具を作っている。

内陸側は県の無形文化財が多いが、海側はあまり文化財指定がまだまだ少ない。虎舞の県の文化財指定の第1号が門中組虎舞だった。周辺には、陸前高田にハシゴ虎舞をするところ(根岬梯子虎舞)もある。虎舞団体を集めて全国虎舞大会を作ろうという企画があったが、補助金がつかなかった。NPOである必要があったようだが、そのようなどの組織形態をとるのかも実現に重要な要素だろう。

昭和33年9月13日 門中振興会の文書によれば、門中組虎舞の起源は鎌倉時代にまで遡る。鎌倉幕府北条時頼の時代のある夜、一隻の船が賑々しく囃す笛や太鼓の音とともに、泊里浜に漂着した。その船の中には、諸仏体と祭器、楽器等が満載で、庶民はただ驚くばかりだった。地域の熊野神社には年代作者不明の獅子頭があり、これは虎舞の原型になった「型取り獅子舞」の形式と思われる。この獅子頭で獅子舞を奉納すれば、悪魔払いや五穀豊穣、浜は大漁疑いなしということになったようだ。現在の舞の形式は、明治時代に「虎舞の天才」と仰がれた佐々木寅五郎氏の振り付けによるものである。この振り付けの構成は、「地舞」「腰舞」「頭舞(首舞)」の3つが主となる。「地舞」は虎が獲物を求めて右に左に首を振って進む様子であり、「腰舞」は藪や林を通り抜けてふと小高い丘に差し掛かり前方を眺めると遥か彼方に獲物と思しきものを発見して奮然と睨む様子であり、「頭舞(首舞)」は獲物を追い焦り狂った虎が岩山に突立ち上り身の危険をも忘れて狂乱する様子である。佐々木寅五郎氏の振り付けを後世に伝える弟子たちが5名ほどおり、その結果、現在までその伝統が受け継がれているという流れだ。

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少なからず、自分ができることは何か。自分が担い手でもなく、ただ書くだけで終わる傍観者なのではないか。厳しくもその裏に温かみのある新沼さんの口調から、僕に強く訴えかけてきているような気がした。少なからず、地域外でも担い手を募集されていること、Youtubeで虎舞が観れることの案内はオマツリジャパンの記事で書かせていただこうと感じている。あとは、虎舞を見せ合う全国大会のような場があるとなお良い。「それらをあなた方が企画するべき」というお言葉をいただいた。そのような場をどうにか作れたらと強く感じた。とても充実した取材で、これほどまでに郷土芸能にのめり込む地域の方がいることに驚いた。この思いにぜひ応えたいという気持ちにもなった。

門中組虎舞の映像(出典:Japanese folk performing arts 東北文映研ライブラリー映像館)

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17:30~ 鵜住居(うのすまい)虎舞

鵜住居青年会の小原正人さんにお話を伺った。消防署の間借りされているスペースで虎舞の道具を持ってきていただき、お話を伺った。祭りの日は鵜住神社の例大祭がある旧暦の8月15日に例大祭を行う。大漁祈願と五穀豊穣の願いが込められている。その他地域の繋がりで様々なイベントに出掛けており、年間20回ほどの回数をこなしている。とりわけ、ラグビーワールドカップの時に鵜住居で試合が行われたので、かなり多くの回数をこなした。基本的にイベントの出演依頼が来るときは、釜石市の虎舞連合会(市役所の観光課)を通して話がくるようになっている。市の指定を受けていてもいなくてもこの連合会に入ることができ、現在は7団体が加入している状況だ。他の団体との違いの中で鵜住居青年会の一番の特色は、虎舞の団体が手踊りを継承しているということである。

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虎頭を使った演目は主に3つある。それが矢車、跳ね虎、笹ばみという3つで、各団体呼び方は違っても少しずつ違う演じ方をする。手踊りや様々な踊りがあり、それは全部踊れることを目指すよりは専門的に各々が分担したものを覚えていくことになる。ただし、虎舞の演目だけは全員が踊れるようにする。手踊りに関してはオリジナルの演目を持ち、虎舞の演目に関しては他の地域とも名前自体は同じものを演じている。

練習はお祭りの1ヶ月くらい前から実施し、また大きなイベントで呼ばれたときも2-3週間くらい前から週1-2回行うようにしている。時間は19-21時で仕事終わりに参加できる日程で行う。高校生までは青年会の会員ではないので、当日に来れるか?などと聞いてもし来れそうなら呼ぶというような場合も多い。地域外から来る人もいて、震災の関係で地域外に引っ越さざるを得なかった人もいる。

東日本震災のときは津波で流されて道具が全く無くなってしまった。会員も大体が家や家族が流されてしまっていて、虎舞をしているどころではなくなってしまっていた。それでも残さなくてはいけないということで、様々な方の支援や補助金で復興した。震災があったのが3月で、その年の9-10月頃には茨城県日立市の秋祭りに呼ばれて、道具は完璧でなくても演じることができるまで回復した。避難所や仮設住宅で舞うときもあり、小正月や元旦には仮設住宅を区画ごとに回った。町内を歩くことができない状態で、神社のみで奉納を終えるということもあった。

昔と今とでは少しずつ踊り方が変わりつつある。年号まではわからないが、江戸時代中期ごろから虎舞を実施していると思われる。太鼓は明治11年の太鼓が残っている。また、青年会の先輩のお墓から笛が見つかってその笛に名前が書いてあり、その名前を家系図で辿ったところ江戸時代中期まで遡ることができた。虎舞は直接的には上閉伊郡の方から、あるいは両石町から伝わったと言われている。大本の系統は、山田町のものと考えられている。山田町に前川(吉里吉里)善兵衛さんという豪商が船で航海している中で知った芸能を地元の方々に教えてそれが虎舞として根付いたということのようだ。

担い手は現在、年下が25人くらいいる。必要な最低人数は笛1人、太鼓1人、頭踊り2人、ぼうげという囃子役の人が複数人で約10人は少なくとも必要になる。青年会員になるのは高校を卒業した18から19歳くらいから。小学生はお化粧をして着物を着て虎を囃し立てる役をして、中学生から頭踊りを覚えるという流れだ。

虎頭はどこかに委託して作るわけではなく町内で作る。完成までには、かなりの日数がかかる。5年に1回くらい新調するが、少しずつ直しながら使っている。各団体で幕の模様も虎頭のデザインも異なる。こういう風に作ってほしいと頼む場合もあれば、作り手の個性が強く反映される場合もある。そのため、時代によってデザインがどんどん変わっている。現在、使える虎頭は4頭あり、そのうち角打ちで家々を回る小さいサイズのものが2体、イベントなど舞台でで演舞するものが2体という感じで保管している。虎は1体につき2人で演じる。鵜住居虎舞は釜石の芸能フェスティバルや鵜住居神社の例大祭などで見ることができる。

 

鵜住居虎舞の映像(出典:Japanese folk performing arts 東北文映研ライブラリー映像館)

 

www.youtube.com

 

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以下、鵜住居虎舞の資料(町民が作成·保管, 年月日不明)より
○芸能の由来
鵜住居虎舞は、太神楽の拍子を取り入れたようにも思われる趣を持ち、虎頭を使った踊りは優雅な舞であることから「雌虎」と称されており、手踊りが数多く伝承されているのが特徴です。地元の鵜住神社に奉納する舞であり、鵜住神社例大祭には御神輿のお供役として参加しています。昭和初期に銅版が巻いてある横笛が発見され、その笛には「己之松」の銘が刻まれており、言い伝えなどにより江戸時代末期の物と推測され、江戸時代中期頃に岩手県上閉伊郡より伝わったとされています。また、現存する太鼓には「明治11年」の号が記されています。昭和 26 年頃までは「鵜住居若者會」が継承し、その後「鵜住居青年会」が保存継承活動を続けております。

○各演目の解説
◦通り囃子 ・・・お祭りの際に、神社仏閣などにお参りする際に囃される。演目の始まりと終わりに囃される。
◦矢 車(遊び虎)・・・虎頭を使った舞。端午の節句の鯉のぼりの上で元気よく回る矢車に太鼓のバチさばきが似ているところから名づけられた。別名を遊び虎と称し、春麗らかな日差しを浴びて無心に遊び戯れている虎のゆったりとした優雅な表情を踊りにしたもの。
◦跳 ね 虎 ・・・遊び戯れていた虎も季節が変わり、秋になると狩猟シーズンを迎え、猟師(マタギ)に追われ、ついに傷つき荒れ狂う様を踊りにしたもの。
◦笹 喰 み ・・・虎の武器である牙を、硬い竹で磨く様子を踊りにしたもの。
◦手 踊 り ・・・当日の人員によって決定します。
◦甚 句(傘甚句)・・・昔ながらの素朴で縁起の良いめでたい手踊り。踊りの最後に必ず踊られます。

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p.s. 

今回、鵜住居虎舞をご紹介いただいた川崎さんに別の視点から、鵜住居虎舞のことを教えていただいた。しし踊りの担い手から見ると歴史が古いように思えるとのこと。また、中学校3年生が虎舞を演じているとのことで、女子が手踊りで男子が虎の舞いを行う。中学校の文化祭(学習発表会)で披露する機会がある。ここ10年の話だ。しし踊りと違って、虎舞は衣装を揃えるのが難しくない。しし踊りといえば、きつくて厳しいというようなイメージも少なからずあり、踊りの難易度も高く、衣装の着付けも時間がかかるという印象がある。ただ、遠野市とかだと、しし踊りを学校の授業で実施するので、授業で行うのは不可能な話ではない。遠野にも虎舞があるものの、圧倒的にしし踊りの方が影響力が強い。海の虎舞、山のしし踊りという感じである。また、虎舞の南北という考え方もあり、北は吉里吉里善兵衛の伝えた豪商が船によって伝えた虎舞がある一方で、南は伊達藩の虎舞が北上して伝わってきて、もしかするとその境目が岩手県釜石市唐丹(とうに)という地域かもしれないとのこと。山田町では大沢地区という場所があり、虎舞の掛け声が「オーサワ、オッサオーサ」という掛け声があり、その語源は大沢という場所の地名が由来になっている。それゆえ、山田町の方から虎舞が周辺に伝播していったということはほぼ間違いがないだろう。

紫波町では3団体の民俗芸能団体のイベントがあったときに、芸能団体のカードがもらえた。200円出すと1枚カードがもらえる。500円だと3枚セットでもらえる。セットの場合は額縁にしてもらえるとか。寄付の垣根の高さがあるものの、カードであれば全然垣根を感じることなく、寄付ができる。それをしかも自治体が推進している取り組みで実施しているのが特に強調すべきポイントだ。これによって購入者は「良いことをしている」というという感覚を得ることもできる。また、自分の推しを作ることができるという点も良いだろう。市の職員を巻き込めば、ふるさと納税の返礼品のような形に転換していける可能性もある。とても可能性のある取り組みだ。

個人的には、能登半島中能登町のお守り化した獅子舞カードの事例を見たり、花札を作ってみたら?と勧められたこともあったので、似たことを考えたことはあった。ただ、改めてカードによる寄付文化を作っていくという話を聞いていて、やっぱりお祭りには新しい寄付文化が必要だよなと思えてきた。クラウドファンディングをやろうにも、地域の祭りに対して熱い想いを持っているお年寄りにはよくわからない..と思われてしまったり、手数料が引かれるくらいなら満額を手渡しで寄付したいというニーズもかなり高いように思われる。その中で、カードを作ることによる寄付文化が根づけば、自治体単位でも県単位でも獅子舞という芸能単位でも何かしら良いムーブメントが起こせるように思う。あとは、たくさん買ってくれるとか、上乗せで寄付してくれるとか、そういう動きがないとあまり大きなお金にならないので、その点をどう解消していくのかが重要である。

那須塩原市で獅子舞の展示を見てきた

12月1日は那須塩原町の那須野が原博物館で獅子舞の特別展「舞い踊る伝承-那須地域の獅子舞・城鍬舞・念仏踊り-」が行われていたので、拝見してきた。

 

大迫力の展示内容

今回の展示は3年ほどかけて準備が進められたようで、かなり完成度が高いと感じた。本来であれば昨年の秋に行われる予定だったが、今回はコロナの関係で1年遅れの開催となったらしい。図録は200ページの大ボリュームで、写真や文章などから調査内容が綿密に行われていることがよくわかった。看板屋さんに頼んで製作したという巨大な写真がプリントされた掛け軸は、天井に近い部分はこんな風に展示すると迫力あるよな..ふむふむと学びになった。獅子頭などの祭り道具がずらりと並べられており、損保ジャパンか何かの保険も入っているようで、展示にどのような保険をかけるかなども館内の方に話を伺えて良かった。

 

那須塩原市の獅子舞の特徴

ひとまず、展示を拝見して感じた、那須地域の獅子舞の印象について触れておきたい。1998年の調査によると、栃木県内に63地域で獅子舞が継承されている。その中で、那須地域では16地区で獅子舞が伝承されており、県内では取り分け獅子舞が盛んな地域である。春と秋に五穀豊穣に感謝する獅子舞が行われ、ほとんどが風流系で神楽系のものはほぼ見られない。また、神社への奉納が主であり、家を一軒一軒回る形態はほとんど見られないことが特徴だ。獅子頭同士が喧嘩をするという風な考え方もあり、獅子頭が生きていて自然に近い存在だということを感じさせられた。

鹿の角を持った獅子頭が1つ見られるのは、北のしし踊りと南の三匹獅子舞の中間的存在を予感させる。しし踊りは鹿がモチーフである要素が強いが、三匹獅子舞はイノシシの分布と被るとも言われているので、その中間的存在とも言えるかもしれない。また、三匹獅子舞のそれぞれの呼び方が1番2番3番とか、左右とか様々な呼び方がある。左右は神様側から見て左右なので狛犬と同じで鳥居正面から見ると右が左に変換される。

また、獅子舞に似た芸能として、風流系の城鍬舞というものがある。起源は田植え踊りや田楽が元になっており、花笠が登場するなどの共通性があるものの、獅子は登場しないので獅子舞とは異なる。漢字違いで福島県に白鍬舞というものがあるものの、これは全国でも珍しい芸能だ。

 

獅子舞を次の世代に継承していく取り組み

年齢制限をもうけていた保存会が今では、それを撤廃して関わりたい人が関わるというやり方で獅子舞を継承しており、60代でも保存会に所属している地域もある。伝統にとらわれることなく、獅子舞を次の世代に繋いでいると感じた。

また、下厚崎の獅子舞は、高林の獅子舞、小島の獅子舞などは獅子舞休止のなかで、獅子頭の神社への奉納を欠かさず行っている。このように、獅子舞の奉納ができない中でも、獅子頭の奉納を継続して行うことで、地域に伝わる獅子を次の世代に伝えていくという動きも見られるのだ。小島の場合、集落20軒が獅子頭奉納と獅子舞道具の保管をそれぞれ持ち回りで担当するという。

2019年に大原間小学校では、児童が地域に積極的に関わることを目的として、獅子舞クラブが発足して、三本木の獅子舞との交流が実現。獅子舞クラブのメンバーは15名で17回の練習を行い、11月の学校解放「大原間オリンピック」で披露された。この活動は今後も継続が検討されており、三本木の獅子舞を受け継ぐ担い手の輩出が期待される。

百村の百堂念仏舞は2011年の東日本大震災の影響で奉納ができず、翌年も子供の減少により中止となった。このように、災害や疫病で一度祭りが途絶えるとその後に復活困難となる場合も多い。しかし、町民の「なくしたくない」という想いから、百村地区だけでなく、穴沢小学校の6年生が担い手になることで、再開が図られた。現在は小学校の統合により、高林小学校がそのあとを引き継ぎ、今に伝わっている。

また、祈りを強く持ち、継続に対するモチベーションとしているところもある。三本木の獅子舞では、奉納を中断した時期に伝染病に襲われたという言い伝えがあり、奉納を再開して今に至る。それゆえ、戦時中も男性たちが出征して不在のなかで、女性たちが獅子舞を演じたと言われ、途絶えさせてはいけないという強い気持ちのもとで受け継がれている。毎年7月に病魔退散の願いを込めて、獅子が集落の家を一軒ずつ回る風習がある。これは昔は当たり前だったが、現在では那須地域でここしか行っていない非常に珍しい風習である。また、演目数が22も存在しており、獅子が踊りながら声を発して歌うという栃木県内では珍しい踊り方が存在する。祭りの日程は現在、3月24日に近い日曜日と7月は土用の入り前後の日に集落を回ることとなっている。

 

このように、那須地域では獅子舞をどのように次の世代に伝えていくのかという点においては、様々な工夫があることを知ることができた。

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