【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 打越町(追加)

2021年11月1日

9:30~ 打越町

獅子頭の追加撮影で伺った。同時に、獅子舞保存会・実行委員長の福村克也さんにお話を伺うこともできた。獅子頭は2つあり昭和13年、昭和50年にそれぞれ制作されたものだ。古いほうがより睨みが効いていて、目が小さく、重量は軽い。古い方だけ、小松市大文字町で作られたことが分かっており、製作者は「表公山」という人物だ。新しい獅子頭は作者がわからず、修理の際は浅野太鼓に持って行ったことがある。2つの獅子頭ともに耳と角がなく、木がむき出しで漆を塗っていない獅子だ。打越町の獅子舞の起源は小松市二ツ梨町にある。打越の中野撚糸の方の先先代が習いに行った。獅子頭の中で現在いちばん古いものが昭和13年(83年前)で、そのさらに1つ前に獅子頭が存在していたとご年配の方に聞いたことがあるので、おそらく100年以上の前の話かもしれない。獅子頭はいずれも雌獅子である。

分校地区4町で棒振りがないことと、豆噛みという動作をするのは打越町のみである。棒振り系の獅子はおそらく小松市の矢田野の方面から伝わっただろう。棒振りの賑やかしのような華やかさがないが、テクニックが必要な獅子舞である。獅子5~6人、太鼓、笛という構成で行う。獅子舞の舞い方は1つしかない。立った状態からスタートする。一番低い姿勢でも中腰で、寝る場面などはない。獅子頭(1番)の後ろの人(2番)が一番辛くて、獅子頭を持つ人が蚊帳から頭を出さないように蚊帳を操作しなければならない。

お祭りは9月の第3日曜日である。過去にはかなり日にちの変動があって、祭りの日が平日休日に関わらず8月17日だった時もある。祭りの日は朝5~6時ごろから町内110軒を回り始める。現在は休みなく2班に分けて回り、片方の班が食事をしている時は片方の班が舞うというような形をとっている。ただ昔は、3時から舞い始めていたので、朝ごはんと昼ごはんで1時間ずつ休んでいた。以前は祭りの日のお昼といえば青年団の家などで食事をしていたが、最近は公民館で食べるようになった。コロナ禍でここ2年間は獅子舞を実施できておらず、蚊帳の中で密になる人数も多いというのが1つの要因かもしれない。

▼左が新しい獅子頭で右が古い獅子頭

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文化伝播に必要な要素とは?山代大田楽を見て、獅子舞の始まりを思い浮かべた

石川県加賀市山代温泉で行われた山代大田楽を見てきた。2021年10月30~31日のそれぞれ20時から21時の日程で実施され、久しぶりに人が集まるお祭りの活気を感じられた。また、10月31日には14時から山代大田楽のトップ・わざおぎ塾長の上出さんにもお話を伺うこともできた。今年で10年、塾長を務められてきた上出さんは山代大田楽26年の歩みについて、まちづくりの観点を中心にお話を聞かせていただいた。

▼山代大田楽は服部神社から始まる

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山代大田楽は、山代温泉の開湯1300年祭のタイミングで始まった。1回だけ演舞するのイメージだったが、それをずっと続けようということで、現在で26年目になる。初めは8人くらいのスタートで、あとは東京の人が来て演舞を行なった。今でも、加賀市の人だけでなく金沢の人など様々な人が踊り手として通う。過去には、大田楽に出るために三重県からわざわざ仕事を辞めて家を借り、1ヵ月間練習に参加した人もいる。大田楽自体では中学生から還暦の人までが関わっており、これは昔からの地域住民の義務感によって実施されている場合とは担い手のモチベーションが異なる。還暦の人でも激しい踊りをどんどんこなす。元々、芸能に興味がある人が集まると、年齢の差を超えて集まることができるというわけだ。卒業というものがあったとしても、何かしら関われる仕組みも必要かもしれない。このお話を伺っていて思い出したのが、獅子舞の場合は青年団、壮年団という年齢制限の線引きをしながら担い手を集めることが多く、とかく若い人を担い手にしたがるという傾向がある。ただ、それを撤廃する形で年齢制限をなくす画期的な仕組みが獅子舞保存会という組織の誕生で、それによって獅子舞という芸能の愛好家によって地域の獅子舞が受け継がれていく仕組みを取り入れているところもある。この話と大田楽の仕組みとがリンクするように思えて、この点は大きな学びとなった。

最初は必ずしも地元の人が関わるという芸能ではなかったが、最近は中学1年生が学校行事の一部に組み込む形で踊り手として参加するようになっている。土地の芸能ではないがどのように土地に根付くところまで実現できたのだろうか?大田楽はまだまだ山代の人でも知らない人が多いということと、若い人に受け継いでほしいという想いから、学校の授業の一環として山代大田楽を行うことになった。また、高校、大学へと成長する中で、外に出たとしてもまた山代温泉に戻ってきてくれたらという思いもあった。祭りのためなら会社を休んでも出ますという人が能登には多い印象で、そういう人は小さい頃から祭りに携わってきた経験がある場合も多い。そのように地元愛を育むような場として、大田楽が機能すればという思いもある。

大田楽を通して大人も子供も世代を超えた繋がりが生まれ、挨拶ができる関係性ができることを目指している。市外で演舞したときに観客が山代大田楽の人に挨拶され(礼儀正しいことに)驚き、「なんという町の方ですか?」と問い合わせがいったこともあるほどだ。「人が喋っているときに喋らない」など、礼儀を重要視していることが、芸能が続いていく秘訣でもある。ただ単に芸能をしているだけではダメで、それを観光客や地元の方とどのような関係性を作っていくかが重要なのだ。祭りの時だけでなく、旅館の宴会場などで踊るときもある。昔は、知らない人に声をかけるとか、挨拶するとか、事件事故に巻き込まれやすくそういうのが、なかなかご時世的にできない時期もあったが、それでは子供がどこか元気がないようにも見えてしまった。旅館でも玄関前に立っていると挨拶してくれる人がいるように、そういうコミュニケーションが大事で、まちづくりは人づくりということを意識している。

▼獅子に噛んでもらう地元民

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また、大田楽の担い手は礼儀とともに、その踊りの質にも厳しい。「下手な人がいると一緒に踊りたくない」というくらいに皆真剣に行っている。それが見にくる人にとっては、「すごいなあ」という反応を示す人もいれば「私にはちょっとできない」と感じる人もいて色々だが、とにかく真剣であるというのが担い手には求められていることだ。

大田楽は元々、音楽家と振り付け家が協働で創始して、1990年に東京日枝神社で実施したことに始まる。大田楽は田楽をアレンジしてできた芸能で、昔は収穫感謝の祈りの要素も強かったであろう田楽という芸能が、今では賑やかしの要素も強くなっている。山代大田楽は1995年から実施されており、予算は山代温泉観光協会が出す形で、道具に関しては大田楽の公演等を管理をしている特定非営利活動法人のACT.JTから借りることで運営が成り立っている。道具の保管は静岡の伊東で行っており、日本全国の大田楽が演舞する時に、ここから貸し出しという形になる。現在、日本全国では、東京、伊東、高崎、新潟、京都、山代、などに「わざおぎ」という大田楽の拠点があり、その中でも天皇の即位の時に全国の選抜メンバーが呼ばれたときに山代のメンバーが多かったことから、かなり山代にはレベルの高い踊り手が多いとも言える。地方にわざおぎができる時は、踊りを教える方々が直接来ることで、大田楽の踊り方を教えてもらえる流れだ。この話を伺っていて、多くの獅子舞にも共通して言えることだと感じた。江戸時代の鳥取藩が広めた麒麟獅子がその好例であろう。熱意ある藩主が獅子舞を城の中に留めるのではなく、外で民衆に浸透させる形で広めたいと考え、獅子舞を教える役職を作り、各地域に派遣したことで「お殿様の特別な芸能」としての意識が薄れ、それが広まっていったという歴史がある。ここから学べることは、やはり熱意あるリーダーの存在があって初めて、個性ある地域の郷土芸能が根付いているということだ。

いつも服部神社前で踊るというのが例年の動きだったが、今回は服部神社から温泉通りまでを歩くという流れで行われた。観客席を設けないことで、密を防ぐということだろう。まず、先頭を歩いたのが王舞(おうのまい)で、その後ろを歩くのが黄色と萌黄色の獅子である。黄色の方が雄で尖った角を持ち、緑色の方が雌で擬宝珠のような角を持つ。獅子は睨みの感じや獅子頭の形からして、中国から奈良時代に伝わった伎楽の獅子面に似たような形である。その獅子の後ろに歩く笛を吹いている人々が楽隊で、その次の笹を持っている方は市民参加で出てきている湯掛け(わらべ)の役割を担う。また、傘をかぶる人を総田楽と呼ぶ。それにしても、コロナ禍でこのような賑わいも久しく見かけなかったが、活気が感じられる演舞を取材できてよかった。大田楽の広がりを見ていると、日本全国で最も数の多い獅子舞という民俗芸能の始まりはどのようであったろう?と思い浮かべることにも繋がったので、それがとりわけ大きな収穫だった。

▼王舞、獅子、楽隊と続く行列

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 熊坂町(追加)

2021年10月31日

16:00~ 熊坂町

熊坂町といえば、7つの集落(大同、花房(ケブソ)、吉岡、庄司谷、畑岡、北原、石坂)と神社が存在するということで、そこに昔、獅子舞がそれぞれ継承されていたのか?をテーマとして聞き取り調査を行った。現在は1つの青年団が庄司谷という集落を起点として、熊坂青年団の1つの獅子舞を持っているのみだ。そこで、地域住民に山口美幸さんの同行のもとで、突撃インタビューを実施した。

青年団を経験したことのある角谷直樹さん(49)に、25年前ごろの獅子舞のお話を伺った。高校卒業して18歳から25歳まで青年団を務めた。祭りは収穫感謝のお祭りで、朝5時に庄司谷の集落の神社の奉納の舞いから始まり町内を回り、その後、花房(けぶそ)の神社とその町内、吉岡の神社とその町内、畑岡の神社とその町内、北原の神社とその町内などという風に、5つの集落を順々に回っていった。早い時は夕方18時ごろに回り終えたが、遅い時は夜の20時まで回ったこともあり、青年団の担い手が少ない時はとにかく時間がかかった。お昼は町内に食事を摂るお店があった時はそこで食べていたが、最近は町民会館で食べるようになった。基本的に祭りは1日完結だが、祭りを土曜日でやった時にはその前の平日の金曜日に、大同工業などの企業に獅子舞を舞いに行ったこともある。ということは、少なくとも金曜日に仕事のお休みを取らねばならなかった人もいた。

獅子舞の種類は太鼓2人と獅子4人で、舞い方は1種類である。蚊帳はとても長いのが特徴である。寝た状態から始まり、太鼓の動きで起こされて、最後は動き回るような動作で終える。練習はお盆明けからしていたが、新しく入ってくる人がいない年は、祭りの1週間前から始めた。青年団をしていた時、人数は7人だった。県外にいる人が祭りのタイミングで帰ってくるということもあった。集落を回る範囲が広いが、担い手や小道具を運ぶのは軽トラックだった。獅子頭は現在、2つ保管されている。

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地域住民の宮本一幸さん(88)に青年団だった頃のお話を伺った。熊坂町には当時から大同工業という大企業があり、近隣の雇用先として一番大きいところだったため、当時としてはかなり裕福な町だった。ご祝儀の額はものすごくて、何十万円もの額が集まってきた。青年団の役についている人は、1軒あたり、1万円をだすのが普通だった。宮本さんが青年団長だった25歳の頃の話である。その頃から、祭りの獅子舞は一体だけで、今と同じように庄司谷から舞い始めた。

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最終的には、7つの集落と神社にそれぞれ獅子舞が継承されていたという事実を確認することはできなかった。もしこのような事実があるとしたら、江戸時代以前の話かもしれない。ただ、地域住民の山下久美子さんによれば、昔は5つの集落(花房、吉岡、庄司谷、畑岡、北原)の各神社で祭りの当日に輪踊りを実施しており、獅子舞を実施したあとは各集落ごとに神社で輪踊りをするという流れだった。昭和30年代ごろにこの地域に嫁に来てから、この輪踊りが廃れてしまっている状況だったが、婦人会でそれを立て直したことがある。演目としては、越中おわら、佐渡おけさ、じょんがらなどの踊りを行っていた。

 

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 三木町(追加)

10月30日

16:00~ 三木町

地域住民の西本清治さん(昭和14年生まれ)に獅子舞のお話を伺った。獅子舞の始まりは、能登から木こりさんが来て、永井町に住んで仕事をしながら、永井町、奥谷町、三木町の3町のそれぞれに獅子舞を伝えたことに始まる。その頃の集落はお互いに対抗意識があったので、一緒に習いに行くということはなかっただろう。これらの獅子は能登獅子で、人伝いで継承したとはいえ太鼓の音が少し似ている部分がある。おそらく獅子舞を伝えた木こりさんの名前は、宝達志水町出身の清水某さんだ。各町内で動作の格好が少しずつ変わっていったので、今は元の形をそのまま伝えているところはない。もしかすると、橘町は奥谷町経由でこの能登獅子を習った可能性がある。現在、奥谷町、永井町、橘町はいずれも獅子舞が途絶えており、永井町ではすでに獅子頭は焼失して存在しない。この中では三木町のみ、現在でも獅子舞を継承している。これらの獅子舞の始まりに関する話は、西本さんが青年団の時、獅子舞を教えにおいでた60~70くらいの方に教えてもらった。

青年団は16歳で入り25歳で卒業した。人数は20~30人いた。16歳で青年団に入ると、そのうち1名が選抜されて、3年間槍突きを務めた。槍突きは毎年1人選ばれ3年で卒業するため、常に3名が町内で槍突きの役目を務めるという運営体制になっていた。衣装の数が3名分だったということもあり、この人数になった。3年間、槍突きを行った人は、その後蚊帳や笛や太鼓など他の役を務めた。槍突きの選抜について、その時の青年団長が新入りの16歳の中から運動能力など様々なことを考えながら、声を掛けて決める。青年団に所属する人は男子のみで、女子は青年団に入らない。

獅子の舞い方は4つあり、ホウダツ、ムカシ、チュウブル、ヤマジシという名前である。ヤマジシは天狗が登場する獅子ゴロシで、お宮さん(三木神社)、区長、青年団長の3軒のみで舞う。ご祝儀が高いとか、村役をしているとか、神社の世話をしているとかの場合はムカシ、普通はチュウブル、所帯を出た次男坊やご祝儀が低い場合はホウダツを舞った。槍突きは3年目で、ヤマジシやムカシという演目を舞わせてもらえた。60年前ごろ、一番ご祝儀が低い場合は200円で、町内100軒なかったので、ご祝儀は全部合わせても2万円いかないくらいだった。

獅子舞の日程は、今も昔も9月16日だ。神社への奉納の舞いから始まり、区長さん、青年団長を回って、上から順番に回っていく。夕方以降は櫓を建てて、盆踊りをする。その際に、神社の境内に来た人に梨を一個ずつみんなにあげる習慣があった。西本さんの時は梨をプレゼントするというのが獅子舞の後の恒例だったが、時代によってはご祝儀が上がったら旅館に行った時もあったし、飲み食いも多少していた。三木町では収穫感謝の秋祭りだけで、春祭りに関しては3月16日に催事だけ行なっており、獅子舞はしていない。

獅子舞の練習は町民会館ができる前は、松岡さんという方の家の中で祭りの1ヵ月前くらいから行っていた。祭りの日のお昼も、松岡さんの家の中で食べた。町の中でちょうど真ん中あたりに位置していた家だったので、人が集まりやすかったということもあっただろう。今この家はなく、獅子舞の練習は町民会館で行うように変わっている。

獅子頭は2つ残されており、新しいものは白山市の鶴来で作ってもらった。古い方はどこで作ってもらったのかよくわからない。獅子頭の修繕については、加賀市山中で漆を塗ってもらったことがある。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺田原町・大聖寺八間道(追加)

10月29日

16:00~ 大聖寺田原町

区長の西谷伸一さんと、直谷さんの自宅の倉庫にお伺いして獅子頭の撮影をした。同行は山口美幸さん。直谷さんの自宅の倉庫は敷地面積が広く、獅子舞の道具始め町内の資料がまとめて保管されている。この地域に公民館はない。獅子頭が保管されているのかわからないとのことだったが、実際に保管されていたので、感動的な再会だった。昔は「チロリ」というお店があったところに倉庫が立っていて、そこに獅子頭が保管されていたが、その後に家が建ってしまったので、獅子頭がどこにあるのか?という話になっていた。獅子頭は直方体の形をした箱に入っており、子供獅子を入れるには少し大きすぎる箱だったので、もしかしたら大人獅子が昔入っていた可能性がある。ただ、小道具を入れるスペースを作っていた可能性もあるということだろうか..。尻尾が獅子頭とともに箱に入れられていた。箱には、「清雲作」と書かれているので、白山市鶴来の知田工房で作られたものだろう。獅子頭は新品同様にピカピカ光っていたが、鼻の頭のところだけ少し擦れた傷があった。獅子頭の新調からあまり年数が経たないまま、獅子舞が途絶えたのだろう。

獅子舞は昭和45年(50年前)ごろから昭和55年(40年前)ごろには獅子舞を少なくともやっていた。子供獅子だった。最初は小学生の男子が獅子舞をやって女子は着物を着て付いて歩くということをしていた。しかし、人が少なくなって女子が笛を吹くようになった。その時は少なくとも、中学生までは獅子舞をやっていた。大聖寺田原町という地番をもつ家は少ないが、行政区では大聖寺東町や大聖寺南町なども入ってくるので田原町に属していると言う家も多い。つまり大聖寺東町の獅子舞というものを含めて、大聖寺田原町の獅子舞の実態を探っていく必要がある。

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16:30~ 大聖寺八間道

地域住民の平岡久秀さん(平成20年度区長)にお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子舞は中学卒業した62.3年前ごろには行っていた。ただ、その後2~3年で獅子舞をしなくなった。若い人がいなくなったからだ。青年団も太鼓も獅子舞もすーっとなくなった。太鼓は好きだから、自分で竹のバチだけ作って、昔使っていた太鼓を鳴らすということをたまにしていた。その後、獅子頭は区長の持ち回りとなったが、家の作りが小さくなったのか、なかなか保管ができなくなった。それで、最終的に平成13年に江沼神社の旧拝殿の裏側に倉庫を建てて、区長さんと江沼神社の宮司さんで、鍵を2つもって管理することにした。平成20年にはそこで獅子頭の保管を始めた。

平岡さんが町内に来る前には、大人獅子と子供獅子が同時に行われていた。お金持ちも多い地域だったので、2つの獅子頭を使っていたのだ。八間もあった幅の広い道(八間道の町名の由来)に行政関係の人が住み、とても綺麗な小学校がある地域だった。ただし、最後の方には、大人獅子のみになっていた。大人獅子は獅子4人、太鼓2人という構成で、棒振りと笛はなかった。大人の法被もあった。中学生はいなくて、高校生以上の人が青年団に所属していた。最後の方には、青年団が5~6人しかいなくて、ギリギリの状況で獅子舞を行っていた。

獅子舞の練習は江沼神社や小学校で練習を行った。練習の時は音を大きくすると近所迷惑になるので、太鼓の上に綿の入っていない布を置いて音を抑えながら練習をしていた。繁華街である大聖寺八間道ならではの工夫と言えるだろう。

獅子舞は桜まつりの前日である4月15日に町内を回り、16日に他の町内の本陣も回るという流れだった。前日の朝は8時ごろから区長さんの家から舞い始めた。リヤカーに太鼓や獅子頭を乗せて、家々を回っていった。お昼は町内の道で座って食べた。町内を回っていると、お酒や食べ物などをくれるような家もあった。獅子舞が終わった後は、夜ご飯として魚が食べられる料亭で座敷に入って刺身を食べた。

桜まつりの当日は、加賀神明宮(山下神社)から今の山口の薬屋のところまで、ダーっと屋台が並んでいた。屋台が並ぶからこそ、町内の各家は祭りの前日に舞うのが恒例だった。祭りの当日は、大聖寺京町や本町、中町あたりの本陣を回った。また、大聖寺八間道にある江沼神社の祭礼では獅子を舞わず、加賀神明宮の桜まつりのみで獅子を舞った。ただし、江沼神社に配慮するためか、加賀神明宮に奉納の獅子舞をしに行くということはなかった。

獅子舞の舞い方は、スッタンタンスッタンタンと足を出してリズムをとるような獅子だった。デコデンデコデンと太鼓を鳴らして、それで獅子が起き上がって、自分の足をパクパクしてノミをとるような動作もあった。口を開けてわーっとして終わりとなった。昔は蚊帳に竹を通して蚊帳の中に入ったが、最後の方には竹を使わなくなっていた。大聖寺の中には、おそらくこの八間道のような舞い方をする獅子は多いだろう。

 

 

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺神明町・大菅波町(追加)・大聖寺観音町

10月28日 

10:00~ 大聖寺神明町

加賀神明宮の太田さんと地域住民の福村宏喜さん(70歳代)とその弟・外二さんにお話を伺った。町民会館に伺うと、獅子頭が2体、黒くて古い獅子頭と赤くて新しい獅子頭が保管されていた。黒い獅子頭には裏に「○波町 野村清太郎」の文字が書かれており、獅子頭のデザインから推測するに、富山の井波で製作された獅子頭だろう。赤い獅子頭は町内の予算で浅野太鼓に頼んで獅子頭の新調をした。浅野太鼓は次の桜まつりまで1年かけて獅子頭を作ってくれたが、おそらく浅野太鼓は他の所に発注して製作したと思われる。昔、公民館がない時は古い建物がその敷地にあり獅子頭もそこで保管されていた。

元々は子供会が獅子舞を運営していて、小学校1年生から中学校3年生までが所属した。一部幼稚園の時から例外的に獅子舞の蚊帳の中に入って舞ってくれた子供もいた。中学校3年生くらいの子供が年下の子供に教えるいう方法で練習を行っていたので、そこに大人の指導が関与していなかった。その過程で、自分たちの舞いやすい形で、少しずつ舞い方も変化していった。昔から公民館がない時代は、獅子舞の練習は加賀神明宮で行なっていた。夕方以降は暗くなるので、あまり遅くまではできないこともあり、夜19時くらいまで実施していた。部活をしている子も「獅子舞の練習をやるから」と駆けつけてくれたこともあった。獅子が5人、太鼓が2人という構成だった。平成13年ごろに子供会を解散した。所属するのが3家族だけになって、そのうち1家族が抜けるというタイミングで解散となった。その3年くらい前まで獅子舞を男女で合わせてやっていて、それでも子供の数が足りなくなって獅子舞をやることがなくなった。最後は男2人女4人でやっていた。女の子は太鼓をメインで行なっていた。

春は桜まつりのお祭りの前の日に1日だけ、町内のみ獅子舞をしていた。また、秋は夏休みの一番最後の日、9月1日の八朔祭りの前日にも獅子舞を行った。お祭り当日はお店が出て回りにくいので、前日に実施した。祭りの当日はまず神明宮から回り始め、町内も回ってからどこかの家の前で終わるという形である。町内、50軒程度の家があり、昔は子供がたくさんいた。お小遣いとお菓子がもらえて、女子はなかなか参加できなかったので、男子が羨ましかった。お小遣いといっても1000円程度だったが、屋台で買い物もできるので嬉しかった。ご祝儀は3000~5000円ほどだった。それで子供会の運営もこのご祝儀によって運営をしていた。また、大聖寺神明町は加賀神明宮があるので本陣がなく、他町の獅子舞が舞いに来るということがあまりない。ただ、神社への奉納ということで、加賀神明宮に舞いにくることはある。神明町にも本陣を作ろうという話もあったが結局実現はしていない。

獅子舞の舞い方は1種類しかなかった。誰かが習ったものを子供が伝えていったというのは面白いポイントだ。寝た状態から太鼓の音で起こされて、最後は獅子が暴れて上を向いた形で終わる。獅子舞の始まりはいつ誰が伝えたものかはよくわからない。

元々、大聖寺神明町は機織りの工場があって、外から仕事で通ってくるような人が多かった土地である。機織りの工場がなくなってから分譲地が増えて、新しく入ってきた人が多い土地だからこそ、昔のことを知る人はもうかなり少なくなっている。獅子頭を持っていたのは、もしかすると機場の人だったのかもしれない。桜まつりは昭和に入ってからなので、それ以前の獅子舞の祭りの形態についてはもっと詳しい調査が必要そうである。

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13:00~ 大菅波町

地域住民の中出邦夫さんに獅子頭の撮影とは別でお話を伺った。5.6年前くらいに担い手が少なくなってから、獅子舞ができなくなった。獅子舞のお祭りは8月16日だった。その前は8月20日、9月ということもあったが、徐々に時期が早くなっている。田んぼの収穫の時期が早くなってきているからだ。収穫の前に、祭りを行うのが恒例である。昔は学校を卒業したら、牛を飼い牛小屋を作り、農業をしている人もいたが、今では勤め人も多くて兼業農家がどんどん増えている。その流れの中で、休みが取れなくなって、祭りの開催にも影響が出ているというわけだ。8月16日はお盆ということで、休みが取りやすいということもあって、この日程で祭りを行ってきた。また、春祭りでも獅子舞をやるが、町役しか回らない。盆踊りは行わず、午前で終わった。一方で、秋祭りでは、町内の家々を回り盆踊りもやる。町内は80軒ほどあるが、昔は40軒しかなかった。昔と比べると田んぼが減った。工場がなくなって、団地もできた。青年団は最盛期で、20~25人ほどの人がいたこともある。年齢は中学3年から25歳くらいまでが普通だが、町内が小さくて人が足りなくて、28歳くらいの人もいた。まず小さい方の太鼓から習い始めた。3年目になると獅子を舞うことができる。

24~5日練習をして、祭りの本番に臨んだ。獅子舞の練習ではお酒を飲んでいたので、学校の先生から少し止められたこともあった。昔はスパルタで、練習を始める前に掃除をして、練習中も「(獅子頭を持つ人は蚊帳を使わないで練習したが本番同様に)頭が飛び出さないように」などと厳しい指導が入った。体の格好から教えていくようなイメージだった。獅子舞の練習は公民館で行なっていた。昔公民館は鍵がかかってなくて、のんびり昼寝をしにくるような場所だった。そこで、サラリーマンの人の話を聞いたり、映画を見た人の話を聞いたり、珍しい人が来ると話を聞いていたこともあった。公民館ができる前は、青年会館があったが、終戦後は小松に海軍の予科練があり、そこから色々もらって公民館を建て替えた。広間の畳をあげて、練習をしていた。公民館が焼けたこともあったが、獅子頭がその時に焼けた記憶はない。もしかするとその時はお宮さんに獅子頭が保管されていたのかもしれない。あと織物工場があった時は、その前にある広場で練習をしていたこともあった。

獅子舞の祭りの日の1日のスケジュールは、朝6時半から7時くらいから舞いを始める。もっと昔は家数が少なかったので、8時くらいから始めることもあった。ご祝儀の金額は、5000円くらいだ。その金額によって舞い方を変えることはない。終わるのは夕方ごろで、お宮さんで盆踊りの準備を行う。盆踊りでは、他町との交流も活発に行われた。他の村に踊りに行くこともあった。獅子舞では他町に舞に行くことはあまりなかったが、「まるじゅう」という料理屋は青年団の知り合いがいてその繋がりで舞いに行ったこともある。また、昔は片山津の湯の祭りに出たり、どこかの護国神社例大祭で市役所に頼まれて奉納獅子舞をした。

舞い方はゆったりとした「一番」、少し激しくなる「二番」というものがあり、これは続きで行なっていた。寝たところから始まる、ゆったりとした舞いである。太鼓2人と獅子3~4人がいて、笛や棒振りはいない。獅子舞のやり方は、明治の初め頃に大聖寺の岡町の方から習ってきた。大菅波町の獅子頭は金ピカなものがあるが、赤いものを塗り替えた。なぜ金色にしたのかはよくわからない。大聖寺の長崎さんという道具屋がいてどこからか完成した獅子頭仕入れてきたので、それを購入したこともあった。

 

17:00~ 大聖寺観音町

地域住民で昭和25年生まれの山尾さんに、獅子頭が保管されている観音堂でお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。獅子頭の箱には、「明治14年... 」と書かれていた。明治時代の獅子頭だとしたら、相当古い獅子頭である。昔の字体だったので、そのことからも歴史あることが伺える。ただし、獅子頭の製作者に関して、獅子頭の裏側に「井波 武部豊」と書かれている。武部豊さんについてインターネットで調べてみると、大正6年生まれと出てきたため、獅子頭の箱の年数と合わない。もしかすると、武部豊さんが獅子頭を新調したのではなく、明治時代の獅子頭を修復したという可能性も考えられる。耳が長く鼻が高い獅子頭だ。蚊帳には「観」「音」「町」などの文字が散りばめられている。獅子頭が保管されている箱に入っている新聞には「平成4年」と記載があったので、古い獅子頭でもかなり手入れがされてきたことが伺える。観音町の観音堂は那谷寺から毎月18日にお参りに来る。観音堂はお寺ではなく、処刑場があったことの名残で、供養の意味合いで建てられたお堂である。そのような信仰と獅子舞との繋がりはよくわからない。ご神体は石のようだが、観音堂にお参りに来るお坊さんだけが見たことがある。

今では獅子舞を実施していない。桜まつりの時に、獅子を舞った記憶がある。桜の木を建てて、屋台車を引いてその上で踊るというものもあった。小学校1年から獅子を持たせてもらっていたが重すぎて地面についてしまうこともあって、それで獅子頭に禿げた跡がついている。自分より10歳ほど年長の人に獅子舞を教えてもらった。60年以上前の話である。山尾さんの同級生は当時町内に住んでおらず、自分より5歳くらい下から1.2.3人と子供がいるようになった。自分が中学3年の時は小学校高学年が年長者だったので、その後は何年か獅子を舞えない時期があったと思われる。それで、自然消滅のような形で獅子を舞わなくなってしまった。子供が子供に獅子舞を教えるというやり方だったので、子供同士の伝承が難しくなっていった。自分と同年代の子供が多くいれば伝承もうまくいったのかもしれないが、そううまくはいかなかった。元々、20軒弱の家しかなかったので、子供と同時に住民も元々少ないという背景がある。

獅子舞の練習は観音堂の前で行った。雨の日は観音堂の中でも太鼓の練習や蚊帳の中に入って踊る動作の確認などをしていた。桜まつりの日の獅子舞のスケジュールは、最初の日は町内を回って寸志(ご祝儀)をもらい、次の日は他町の商売屋さんに行って獅子を舞った。子供は獅子舞をすると、お菓子やお小遣いがもらえた。

舞い方は寝た状態から始まり、左右に振れて、暴れて、太鼓の前でわーっと獅子を振り上げて終わる。ノミ取りをして口をパクパクさせるような舞いもあったが子供にとっては疲れて難しい舞い方でもあり、腰をあげる時よっこいしょと大きい身長の人が持ち上げて補助する場合もあった。お話を伺った限りでは、舞い方は大聖寺神明町とおそらく同じようなやり方である。舞い方に関する名称については特に意識したことがない。子供獅子でも小学生は蚊帳の中で足だけ動かす場合が多く、獅子を回すのは中学生以上が主だ。太鼓2人、獅子4人の構成である。ただ、それに加えて小学生よりも小さい子供が、蚊帳の中に入って来て一緒に舞うこともあった。

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ps. 2021年10月30日 諏訪雄士様より

獅子頭が保管されていた箱に書かれた文字は「明治十四年 辛巳 四~頭(四四頭=獅子頭)出来 観音町」と読解できるのではないかとのこと。確かにそうかもしれない。

 

 

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺八間道・塩浜町(追加)

10月27日

11:30~

大聖寺八間道

区長の村田俊宏さん(58)と町民の奥野幸治さんと同行の山口美幸さんとともに、江沼神社の獅子頭が保管されていると思われる倉庫に向かった。もう45年以上前に獅子舞は実施していない。だから倉庫に行くと言っても何が入っているかわからず、村田さん曰く「秘密の花園を覗きに行くようなものだ」とのこと。村田さんが物心ついたときには、既に「近くの大聖寺京町の獅子舞が羨ましいな。うちの町にも獅子舞があれば...」と感じていた。奥野さんより少し若い人が小さいときに獅子を舞っていたことを見たことがあるため、少なくとも70年前には獅子はあったのかもしれない。

江沼神社の旧拝殿が江沼神社の敷地内にあり、その後ろにある倉庫を開けてみるとそこにあったのは、獅子頭の箱!獅子頭が上段に大人獅子、下段に子供獅子だった。「昭和28年12月新調」と獅子頭の箱の蓋に書かれていたので、この時に大人獅子と子供獅子が同時に作られたのかもしれない。少なくともこの時以前に獅子舞を実施していたことは分かる。ただし、奥野さんによれば、子供獅子から大人獅子へどこかのタイミングで切り替わったという記憶もあり、そこら辺の詳細がわからない。大人獅子の裏側には少しカビが生えている。また、獅子頭の角が残されていたがこの双方にはめられる穴はなかったので、すでに無くなった獅子頭の角かもしれない。蚊帳2つ尻尾2つ太鼓1つも残されている。そういえば、大聖寺荻生町は昔、江沼神社から獅子頭を借りて舞っていたという話があったので、これはもしかすると大聖寺八間道の獅子頭だった可能性はある。

獅子舞は桜まつりの2日間のみ行っていた。青年団は何歳からやっていたのか、よくわからない。獅子は4人、太鼓2人で笛がない獅子だった。他の町内の本陣や知っているお店もいくつか回った。最初、山下神社での奉納から獅子舞を始め、本陣、町内の各家という順に回った。江沼神社での祭礼で獅子を舞った記憶はない。

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19:00~

塩浜町

獅子頭や祭りの撮影の追加のヒアリングとして、区長の西さんにお話を伺った。獅子舞の舞い方は8種類あり、サンベン、ニゲ、クルクル、アシキリ、アイナタ、アイボウ、マメ、アクビという演目である。最後の2つは棒振りがない。マメは獅子に体力を使わすために、豆を拾わせる動作をさせる。アクビとマメでは、獅子を持っている人が50mくらい引きずられるという舞い方で、奉の字を描く時の縦の棒の部分を描くときの動作である。アクビは非常に激しいので、伝統的な獅子頭は使えないということで、最後に格好良い黒い獅子頭で締めるという今の形態が生まれた。激しい舞いだからこそ、獅子頭を大事に使おうという意識も強いようだ。途中8の字を描くように獅子を回す。8の字は縁起の良い末広がりの意味がある。アクビとマメは神社の奉納の時にしかやらない。また、アイボウは2人で松明を回すイメージで、赤い棒を使って実施する。太鼓はオオバエとコバエがある。青年団は高校を卒業した18歳から入って25歳までというのが恒例だったが、現在は担い手が少なくて30歳くらいまで年齢が伸びている。オオバエは大人、コバエと棒振りが子供、中学生は応援に来てくれて雑用的なことを行い、獅子に入り始めるのが高校生の年齢である。笛は昔、青年団が難しい横笛を吹いていたが、今では子供が簡単な縦笛をふくようになっている。

獅子舞の祭りの日は、9月中旬で2日間かけて行う。朝6時から夜の6時までで、2日目は6時半ごろからスタートする。町内140軒を回るだけでなく、他町や企業を舞いに行くので、トータルで160軒は回る。最初、青年会館から舞い始め、神社に奉納をしてから、区役、町内という風な順番で回っていく。「今年は山回り、今年は海回り..。」という風に毎年回り方を変える。大体の家で、「ニゲ」の演目を行う。また、お酒をもらったら、「目録!ビール1ケース!」などと言って、「クルクル」の演目も舞う。家の前には親戚などが集まってきて、ご祝儀を7連続で渡してくれたことがあり、その時は7回舞いを行なった。現在、獅子のご祝儀は5000円を出す人が多く、神輿の祝儀は3000円を出す人が多い。昔、ご祝儀は獅子と神輿で100万円は集まったが、現在は獅子だけでもご祝儀は100万円は越える。昔は青年団が飾りをつけた神輿を作ってくれていたが、最近は富山県の刑務所で神輿を作ってもらった。獅子のご祝儀に関しては、塩浜町だけでなくその周辺もご祝儀が高く、最も高いのは小塩辻町で、1万円を出す人がたくさんいる。

最後の奉納で神社に入ってくる時、棒振りの子供3人くらいを肩車して薙刀獅子頭に噛ませる理由は、獅子を退治したということを示すためだ。神社で民衆の見ている中で、最後に神社の前でも獅子を退治するという流れがある。そういえば、田尻町の獅子舞を2021年9月18日に拝見した時、神社から公民館に移動する時に、青年団の上役の人を肩車をして鳥居をくぐって公民館の前まで戻るということをしていたが、塩浜町のお話とどこか似ている気がする。この周辺の地域のいわゆる浜どこの獅子は肩車文化があるのかもしれない。

塩浜町の獅子舞の起源は九州にある。北前船に乗って塩屋町か橋立あたりにきた九州の人が、獅子舞を伝えた。そう考えると、昔、橋立地区で内灘の獅子舞が明治時代に伝えられる前の赤い獅子はもしかすると、塩浜町同様に九州から北前船の影響で伝わった獅子舞なのかもしれない。浜どこの獅子はお互いに対抗意識を燃やしていただろうし、繋がりもあったように思う。それらの獅子の文化圏の古層には、九州由来の獅子が継承されていたということかもしれない。また、浜どこ同士の交流は獅子舞の後に夜に行う輪踊りで特に行われていた歴史があり、塩浜町では娘が生まれたら「ケンボウ」という黒い自分の家の家紋が入った衣装を作りそれが未婚という印で、それを目がけて自分の町や他の町の男が声をかけにいくということが行われた。小松市の安宅では女性はカツラをかぶるなどの派手な衣装で有名である。

塩浜町の獅子舞には赤と黒獅子頭がある。黒は伝統的な色ではなく、赤い色の獅子頭を伝統的に使っている。黒い色の獅子頭は、修理の時にたまたま黒色を塗ってみようということでやってみたら格好良かったのでそうなった。昔は、表情の怖い獅子を舞っていた。真っ黒に塗られた目を持っていたが、後から金色を塗り、目玉を修理した。塩浜町の獅子頭は雌獅子である。雌獅子はゆっくりとしたイメージが強いが、この地域の獅子舞は非常に激しい。激しいからこそ、獅子頭の握り方も拳を作るように縦棒と横棒の交差点を握る。その方が、手首を返しやすいからである。また、激しい獅子なので、かなり軽く作られている。獅子頭が制作されたのが、白山市の鶴来である。一番新しい獅子頭は130万円で作ってくれた。昔、蚊帳の中には竹が入っていていた。ただし、今も昔も獅子舞も蚊帳の大きさは変わらない。また、なぜかわからないが尻尾を使わなくなった。竹や尻尾を通す穴は今でも所々蚊帳に残っている。おそらく激しい獅子だから持ってられないということで、50年以上前にやらなくなった可能性はある。

獅子頭の握り方

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ps.昔、高尾町の障害施設で和太鼓をしていた時に、十万石祭りで太鼓を叩いてほしいということで依頼された。大聖寺のどこかの獅子もそこに添えて演舞した。獅子は舞える人がいないということで、その後、神社に獅子頭を奉納して終わりという形になった。古老の方はこの時、涙ながらに「よし!」と納得したようである。こんな獅子だったかな?と獅子頭としての役目を果たさせる形で終えた。図書館の横の公園で舞いをしたので、その周辺の町の獅子の話かもしれない。今から15年くらい前の話である。