寝獅子の源流とは?石川県小松市串町で獅子の舞い方を調査

10月25日

10:00~13:00

よこえ酒店の横江博昭さんにお話を伺った。先日、片山津温泉で獅子舞の取材をしたときに、能登半島田鶴浜から来た建具職人である山口半次郎が明治時代に獅子舞を伝えたことを知った。そして、その獅子舞が周辺の柴山町、新保町、高塚町などに伝えられたこともわかった。この流れのなかで、片山津温泉から小松市串町にも獅子舞が伝えられたことも知り、片山津温泉ではすでに1度途絶えてしまった寝獅子の舞いを今にとどめている。昔の寝獅子の舞い方はどのようであったのか?を知る良い機会だと思ったので、今回取材を申し入れた。こまつの曳山交流館みよっさの橘さんに、串町公民館の方をご紹介いただき、それから横江さんをご紹介いただいた流れである。

 

横江さんが経営されている酒屋にお邪魔した。昔、寝獅子は人を楽しませる演劇的な要素が強い演目だったのかもしれない。加賀市潮津町の寝獅子の動画を横江さんにお見せしたところ、物語の顛末が寝獅子にはあったが今ではそれが少し崩れているようだ。一方で、今では一瞬一瞬のおどける面白みを意識するようになったということかもしれない。寝獅子とはいえ、今と昔では大事にするものが少し異なっているようにも感じた。その後、串町公民館で、串町の寝獅子について拝見したところ、棒振りとひょっとこを折衷したような踊りをしていることがわかった。ひょっとこが獅子を棒で突いたり鼻に棒を突っ込んだりしてからかっているところまでは滑稽だったのだが、それに反応した獅子がひょっとこに噛み付くという場面にギョッとした。まるで人間が動物に食われるみたいだ。最後は獅子が退治されるのだが、顔が横倒しになって終了となった。加賀市側では、潮津町が片山津温泉由来の寝獅子をやっているが、ひょっとこは獅子に酒を飲ませるものの、獅子に噛みつかれることはなくひたすら逃げるのみだ。最後は獅子頭が太鼓の上に置かれて終了となる。加賀市潮津町と小松市串町でそれぞれ寝獅子の形態の発展の仕方が違っていたと思われる。

 

▼旧公民館で現在使用している獅子を持つ横江さん。背後の黒板には、獅子舞の本番の日程が書かれている。

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元々、串町の獅子舞の起源は、大正時代に高島という大工の弟子に長吉という人がいて、片山津から寝獅子を習ってきたことに始まる。「あの人の寝獅子見たいな」という風に噂が広がっていき、「長吉寝獅子」と呼ばれて有名になった。寝獅子のなかでも長吉寝獅子というジャンルがここで確立したわけだ。それで、本流というか芸事として素晴らしい寝獅子は隣の昔は江沼郡だった額田町の方に残った。今の串町の獅子は芸事というよりかはただ寝転んでいるような印象も強いが、それも今の若者の青春の過ごし方やスタンスであると割り切ってお考えのようだ。

以前の取材で、片山津から串茶屋にも獅子舞が伝わったということを聞いていた。串茶屋は遊女の街で、串町の隣に位置する。遊女については江戸時代に集団で埋葬されたお墓がずらりと並ぶ場所もあり、多くの遊女がいたことが伺える。串町は串茶屋の出村である。町の成り立ちからして、芸事の文化が盛んな土地だったのだろう。それが獅子舞の舞い方にも反映しているように思える。また、串茶屋は現在、子供獅子をしている。昔は串茶屋も串町と同じ青年団が回っていたが軒数的に回りきれんということになって、別のところに獅子舞を習いに行って、新しい獅子舞を始めた。つまり、昔は串茶屋も串町も同じ青年団を形成していて、そこに片山津からの獅子舞が伝わったという流れである。

※『串町史』(平成4年)によれば、江戸時代の藩政の頃から獅子舞をしており、明治時代に一度形態が変化したようだが、その詳細はわからない。現在の獅子舞は大正6年(1917年)頃に「片山津隠者」の型を参考に新しく習った棒振り型のものである。この時の姿は、「赤熊(シャグマ)の毛」を頭に被り、草鞋を履いて演舞していたようで、現在でも草鞋を履いて演舞するのは変わっていない。また、この大正6年頃にはすでに寝獅子が伝わっており、頻繁にやってはいけない演目ということで厳しい指導がされた。

 

▼旧公民館の青年団の団室は獅子とともにお宝がたくさん眠っている。

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串八幡社の祭礼時、秋祭りで獅子舞を実施してきた。春祭りでは獅子舞を実施しない。小学校5~6年や農家の長男から24歳までが獅子舞をする。現在は20人ほどで実施している。寝獅子は卒業近い人が務めることも多い。24歳からは織物関係など町内の仕事に携わるのが中心になって、壮年団に所属するが、獅子舞には関わらなくなる。青年団の人とは別に子供たちを集める必要がある時には、子供会に頼むが、図書券500円などでは最近はやってもらえないので、5千~1万円くらい出す。小学校5年生だと1万円くらい出す。

現在町内では、青年団と町内会で分けて獅子舞が行われている。串町には1200軒の家があり大所帯なので、青年団だけでは回しきれなくて、横江さんが町内会長をした時に2つの組織に分かれた。班ごとにするという案もあったが、それでは寂しいのでということで、町内会と青年団に分けられた。昔から「正月3日盆3日祭りは2日でおこまいか」という言い伝えがある。3日も4日も稲刈りの最中に祭りをしているわけにもいけないというわけだ。青年団は9月15日前後の3日間、町内会は9月15日前後の2日間獅子舞を行う。串八幡宮、お寺、町内会長を回ってから、年によって何班から回るというのが決められている。朝5時くらいから日が暮れるまで実施する。

舞い方は、寝獅子とあと2つ(長棒と短棒?)がある。寝獅子はご祝儀が1万円が入った時に特別に行い、ほかは大体500円くらいを出す場合が多い。今も昔も大体ご祝儀の額は変わっていない(平均的な獅子舞のご祝儀の金額が低く、逆に払いやすい設定になっているのは、おそらく軒数が多く少額でも財力があるからだろう)。昔はすごい大きな動作だったが、現在は舞い方の表現が小さくなっているような印象がある。獅子舞の祭りとは別に、獅子舞の県大会、全国大会もあったし、北島三郎やらが出ていたNHKのふるさと自慢に出させてもらったこともあった。ひと通り町内を回ると20万円くらいは貯まるので、青年団で集まって日帰り旅行に行くこともあった。

 

▼獅子舞が始まる串八幡宮は石造物がたくさん。獅子・獅子頭狛犬などの奉納もあった。昔は馬など石造物にまたがって遊んだらしいが、今ではそのようなことをしたら怒られてしまう。

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また、獅子頭に関しては、超大量に保管されていてびっくりした。まずは旧公民館1階の青年団の部屋に2体、2階の民俗資料の展示室に3体、現在の公民館に3体の計8体が保管されていた。青年団の部屋に置いてあるのが青年団が使う獅子頭で、現在の公民館に保管されている獅子頭が町内会が使う獅子頭である。また、旧公民館の2階に保管されている獅子頭は、町内会か青年団か所属がよくわからないものの鼻が割れた獅子たちがゴロリと飾られていた。鼻が壊れる理由は、獅子に対して棒をぶつけるのが当たり前で、そのような舞い方になっているからである。最も古い現存する獅子頭青年団の部屋がある旧公民館のものだと「昭和15年まで使用」と書かれている一方で、現在の公民館にある町内会の獅子頭には「皇紀2600年(昭和15年のこと)参宮記念奉納」と書かれている。古い獅子頭はもっぱら井波に頼んでいたようだ。また、獅子頭の色に関しては、町内会の最新の獅子頭が赤色であるが、そのほかは全て木がむき出しになっており、色が塗られていないという点は興味深い。白木の獅子頭は、一本の桐の木を使い、節があってはならない。

 

▼旧公民館に保管されている昔の獅子頭や天狗面、ひょっとこ面など。

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また、天狗やひょっとこの面も多数見られたが、天狗というのは意外だった。片山津温泉の獅子舞には、三番叟が登場するものの、天狗は登場しない。三番叟がどこかのタイミングで天狗に切り替わった等の可能性が考えられる。また、昭和29年に作られた大太鼓等、3つの太鼓が旧公民館横の農家(横江さんの敷地内)に保管されていた。太鼓もかなり盛んに行われてきたことが伺える。これらの太鼓の脇に獅子舞に使う棒も取り付けられていた。

それにしても、旧公民館が資料館として解放され、小学校の授業にも使われているとのことで、これは素晴らしい取り組みである。隣の串茶屋でも公民館の中に資料館が作られているしこの周辺の地域は民俗資料の保管が非常に進んでいると感じた。

 

▼旧公民館横の農家に保管されている大きな太鼓。

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石川県加賀市で、獅子頭制作ワークショップを開催!獅子舞の原点は、豊かな想像力とDIY精神か?

10月23日

石川県加賀市竹の浦館で獅子頭制作ワークショップを実施した。竹の浦館にはいつも、獅子舞の写真集やクリアファイルの委託販売でお世話になっている。今回は、獅子舞についてより体験的に知ってもらおうということで、獅子頭の制作ワークショップを企画させていただいた。昨今は新型コロナウイルスの流行を背景として、なかなか獅子舞を見る機会も少ない。子供に獅子舞のことを知ってもらう機会も少ないので、自分で獅子頭を作って踊ってみるのも良いのではないかと思っていた。結局、獅子舞を実施しているという事実を文章や写真で伝えることはできるが、それは「知ってもらう」ということにすぎない。「ああ、そういうことなのか」という一歩踏み込んだ理解をしてもらうためには、自分で獅子舞を創作してもらうしかないのだと思う。

獅子舞を創作するというのは想像力の必要な作業で、各町内で行われている獅子舞をそのまま丸ごと真似して作るということはまずあり得ない。今回ワークショップを実施してみて、獅子舞の耳に人間の顔を描いたり、角の部分から髪の毛を生やしたり、目の玉を黄色くしたりするような子供もいた。獅子舞というイメージに対して知識をこねて作るのではなく、偶然性などから生まれてくる、その人がその時間にその場でしか作り得なかったものを作るといえば良いだろうか。獅子舞は改めて固定化された伝統的なものではなく、動いて変わっていくような流動的な生き物であることを実感した。

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ワークショップの時間は、11時からと14時からで2回設定したが、その時間など関係なしに、飛び入りの親子がたくさん来てくれた。事前予約は4組だけだったのに、結果的には14組も来てくれたのはびっくりしたし、とてもありがたかった。同時に、運営側も最低3人以上は必要な内容だとわかった。かなりわちゃわちゃするので、1人だとなかなか対応ができずに作り始めるまでに時間がかかってしまう。どうしても待たせてしまう子供には、牛乳パックの裏にお絵かきをしてもらうなどして、間を持たせることが必要だ。基本的に子供が興味があるのは、獅子頭のデザインの部分で、色を付けるとか絵を描くとかそういうところに関心がある。描いた眉やら鼻やら耳やら角やらを取り付けるのは、手先の器用さも必要だし慣れが必要なので、運営の方でサポートしていかねばならない。親がサポートに入ってくれたり、逆に親がとてもクオリティの高いものを作ってくれる場合もあった。これはこれで運営側としては助かった。

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そして、子供達は最後に自分で作った獅子頭を使って、踊っていた。これも、こういう風に踊ると教えるよりは、子供達が動画を見て勝手に踊るという方が正しい。凝り始める子は、蚊帳や尻尾、笛まで作り始めるという具合である。蚊帳については、もちろんそのような材料など用意していないので、大きな画用紙やら風呂敷やらを周りの人にもらって作っていた。また、椅子とマジックをそれぞれ太鼓とバチにして、獅子のリズムをとる子もいた。雄獅子と雌獅子の違いまで知っている子供もいて、獅子舞を再現するにはこのような観察力も必要である。なんでも、自分の身の回りのものから作れてしまうのだ。昔の農民が農作業に使った蓑や寝るところに置く蚊帳などを使って、獅子舞を作ったという事例も多数ある。今でこそ、石川県加賀市というのは工芸品としても価値ある獅子頭とそれに準ずる祭り道具を揃えている地域が多いが、昔の獅子舞の原点は、このようなDIY精神から生まれたのだと思う。

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今回、獅子舞の運営側としては片山津の山口美幸さんとライターの北嶋夏奈さんに準備から本番まで1週間、関わっていただいた。やはり、3人は必要なワークショップだ。仕込みも牛乳パックを繋げてガムテープで止めて、赤い紙を貼って、耳・角・目の穴を開けねばならない。結構下準備がいる作業である。そして、今回、展示として獅子頭を飾らせていただいていたが、貸し出してくださった大聖寺相生町の方々に感謝したい。

会場に来てくれた、家族の皆様、子供達、本当にありがとうございました。ぜひまた獅子頭のワークショップを開催したい地域がありましたら、ぜひお声がけいただけたら嬉しいです。

 

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺突撃取材(熊坂町・大聖寺一本橋町・大聖寺前鷹匠町など)

10月22日

10:30~大聖寺田原町 @直谷さん宅

直谷さんに獅子頭のありかを確認した。ほとんど使っていない子供獅子の獅子頭が小屋の中にあるかもしれない。区長さんに許可を取れば見せてもらえる。また、錦町の林さん(十一町出身)に獅子舞で使う笛を作るように頼んだことがあった。後日の再取材が決まった。

 

11:00~ 熊坂町 @大聖寺地区会館

伊林先生に、熊坂町の歴史についてお話を伺った。熊坂には江戸時代まで遡ると、元々7つの集落があった。それが北から順に、大同、花房(ケブソ)、吉岡、庄司谷、畑岡、北原、石坂の7つだ。町内会が分かれているのではなく、街道レベルに人の往来が激しくはない道沿いにポツリポツリと家の塊があって、それを1つ1つ名前をつけていったという具合である。町内会は同じなのに、バラバラという状況がとても面白い。しかもしれぞれの集落に神社が1軒ずつ存在する。これは、大聖寺下福田町の行政区の作り方と似ている。

また、大聖寺下屋敷町の取材で、獅子舞は7つに分かれていたのかは定かではないが、少なくとも昔、いくつかバラバラに獅子舞を持っていたことは明らかになっている。それで、今は熊坂町で1つの青年団を形成しているが、もしかすると、各集落ごとに分かれていた時の獅子舞の道具がどこかに残っているかもしれない。それはまだ見つけ出せていないが、その時の獅子舞はどうなったのか?熊坂町の謎の1つである。大聖寺下屋敷町は熊坂町畑岡から獅子舞が伝わったというのは下屋敷町の取材で明らかになっているので、少なくとも畑岡には獅子舞があったようだ。各集落ごとに神社が違えば、祭りの形態も違ったことが推測される。基本的には五穀豊穣の祭りなので、春と秋の例大祭が行われた。日付は皆バラバラで行われただろうが、熊坂町内の集落同士の交流というのはあまり行われていなかったかもしれないとのこと。

ps. 大聖寺の関町に関してもお話を伺ったが、なぜ今、大聖寺で最も古い獅子の形態であるお座敷獅子の形態をとどめているのか?ということについて、正解はわからなかった。北陸の関所といえば、親不知のところと大聖寺の関町がメインで、あとは口止め番所がいくつかあったという具合である。それほど、有数の関所であるから、獅子舞?という話かと思ったが、関所に旅人が滞在するとか文化的な交流があるとかそういう話は聞いたことがないようだ。それどころか関町のあたりは人家もまばらで、お隣の今出町は新しくできた町ということで「今出た町」という名前が付けられている。関所というのは、経済的に恵まれていないような職人さんとか、下層の技術者とか、妊婦さんとか、関町から越前町にかけて住んでいた。そのほかの家は、関所を守るための足軽が屋敷を構えて住んでいた。そのような場所に旅人が宿泊をするということはなく、大聖寺本町などに宿屋は構えられたのだ。

 

11:30~大聖寺八間道

西山先生のお家に突撃インタビュー。獅子舞はしていたし、獅子頭はあるとのこと。獅子舞がないと思っていたので、びっくりだ。獅子頭はどこかわからない。一軒ずつ聞くしかないだろうとのこと。ただし、奥野さんなら知っているかもしれないとのこと。それで奥野さんのお宅にお邪魔することに。お留守だったので、またの機会に伺うことにした。

 

12:00~永井町

元区長さんにお電話をさせていただいた。永井町にはなぜか神社が2つある。それが、白山神社と箱多満里神社の2つである。このうち、箱多満里神社の社務所に、獅子頭が保管されているという情報を得た。社務所から調べていく必要がありそうだ。

 

13:00~ 大聖寺鷹匠

宮崎さんのお宅に直撃インタビュー。獅子頭は谷さんの家にある。元々、一昨年の区長会の時にアイリスに預けてあるという話が出てきた。ただ、その後に谷さんの家が広くなったから、そちらに獅子頭が移動した。元々、中学生でも獅子舞をしていたので、子供獅子だったことはわかっている。後ほど、本格的に取材を行う。

 

14:00~ 大聖寺一本橋

細川晶子さんにお話を伺った。親子獅子を前から実施していた。これはかなり古い獅子で、大聖寺関栄よりも前からやっていた。大きい獅子頭があり獅子舞が途絶えてから、それを道具屋さんに預けていたがなぜかそれがなくなり、箱だけ残っていた。今あるのは小さい獅子頭だけだ。現在は小野坂不動産にそれが飾られている。その小さい獅子頭は、おそらく獅子舞には使っていない。獅子頭は基本的に自分たちの町内で作っていた。他に発注したというのは聞いたことがない。小野坂不動産にはその祭りの写真が残されている。また、一本橋町の山車は加賀神明宮に預け、それを買ったのかどうか..本町がそれを受け継いだ。獅子は昭和34年生まれの息子さんが大人になる前には、すでに実施していなかった。町内の軒数が減っていったのが獅子舞が途絶えた背景である。

獅子舞の舞い方は、早くもゆっくりでもない。1つしか演目はなかった。太鼓2人、獅子4人、笛1人で実施していた。棒振りはなかった。大聖寺錦町の林さんという方が笛を作っていた。これは、大聖寺田原町でも聞いた話だ。それに加えて、一本橋町では、笛の中にレントゲンをかけたことがある。どんな良い音色が出るかどうか、お医者さんが中を見たくなるくらいの笛だった。作ったご本人も獅子舞の当日に笛を吹きにきた。この林さんは獅子舞を一本橋町の住人に教えた人でもあった。昔、中華料理の白山の駐車場のところに住んでいた。もし、今生きておいでなら90歳くらいだっただろう。今では、細川さんが最年長で現在、85歳である。

ps. 大聖寺十一町は獅子舞がないかもしれない。85歳の一本橋町の方でも、隣町の獅子舞はみたこともないとのこと。

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15:00~ 大聖寺鷹匠

原楽器の桑原由至(よしゆき)さん(55歳)にお話を伺った。獅子舞の始まりはよくわからず、現在獅子舞を実施していない。昭和55年の後、10年続いたかどうかである。最後の10年の間では人手不足で子供とOBのまだらで獅子を断続的に実施していた。本来は子供獅子なので、大人の数が子供の数を上回らないように配慮をしていた。獅子舞を運営していたのは、子供会ではなく町内会だった。

昭和40年生まれの桑原さんが小学校1年生から参加して、上は高校生までだった。現役時代は、どこの町内でも子供だらけで子供獅子をしている町が多かった。1ヶ月くらい前に19時から小一時間毎日練習して、本番は4月の大聖寺桜まつりだった。獅子舞当日は、大谷派のお寺の教務所が本陣になり、そこで1回目獅子舞をして、その後おそらく加賀神明宮に行ってから前鷹匠町の町内を回り、最後に教務所に戻ってきて終わるという流れである。この教務所というのが、公民館の機能を持っていて、獅子舞の練習もこの敷地内で行われていた。獅子頭の保管も最初はこの場所だったが、途中から区長さんの持ち回りになった。

祭りの日は午後からのスタートとなった。子供たちは学校が早退になるので自分たちだけ優遇されたような楽しみがあって、獅子舞に参加したらお駄賃とお菓子ももらえた。おそらく土日の2日間獅子舞は行われた。

獅子舞の演目は1つしかない。獅子と太鼓の大バチ小バチだけのシンプルなもの。寝るところからスタートして、太鼓でドンと起こされて、乱れ太鼓のようになって、最後は暴れるという獅子である。最後はドンドンで閉めて終わるという流れだ。一軒あたり3000円くらいのご祝儀だった。ご祝儀の額によって、舞い方を変えるということはしなかった。また、他町から獅子舞が舞に来るということは特になかった。

獅子頭の制作は、白山市美川町に発注した。いつ誰がなどの詳細は不明だ。

鷹匠町の町内には、現在お若い方が多い。小学生くらいの子供含めて、子供獅子ができる年齢の人が多く引っ越しをされてきている。その背景には、大阪病院の近辺に新しいお家が立っていて、ちらほらと若い人が入ってきたということがある。それでも、現在、獅子舞は実施してない。獅子舞を経験した人は現在、45歳以上の人で3~4人くらいしか町内にはいない状況である。

 

ps. 大聖寺田原町との比較

大聖寺東町(田原町)は60軒以上あり、前鷹匠町以上は大きくて獅子舞をもっと長くまで実施していた。法被を着て、太鼓に大バチと小バチがあって、横笛(篠笛)もあって、獅子を先導する役がいた。獅子を先導する役の人は、サーカスのように棒を持って、獅子を操るような動作をした。これは、棒振りとは違う役割があった。また、子供が獅子舞をしたが、男の子だけでなく、女の子も獅子舞に参加していた。おそらく獅子頭まで女の子が回す時があった。これは人手不足ではなく、そういうのが当たり前に行われていた。これは他町にはない男女平等の獅子舞ともいうべき珍しい獅子舞である。東町にある桑原楽器には、桜まつりの日に大聖寺南町や大聖寺関町の獅子舞が遠征として舞いに来る。

 

18:00~ 直下町

田中自動車のスタッフの方に三谷地区の直下町の獅子舞のお話を伺った。昔は雌獅子があったが、雄獅子になった。雌獅子は、日谷町や曾宇町と同じような舞い方の赤い獅子頭ものもだった。しかし、それはパッカーンと割れてしまった。それをしばらく保管していた。今の雄獅子は橋立地区の田尻町から習った獅子頭で、「東西東西、目録1つ...」という口上も田尻町と同じである。雌獅子があったのは、今から25年以上前に聞いた話で、おそらく50年以上前の話であろう。実際はいつの話だか詳細はよくわからない。

 

20:00~ 大聖寺魚町

田中宏造さん(78歳)に電話でお話を伺った。太鼓をたたく、暴れ獅子だった。夫婦獅子で、棒槍がある獅子で最後に退治した。鶏のトサカのような被り物もあった。奥谷町から獅子舞が伝わり、獅子舞と同時に天狗も伝わってきた。自分たちは獅子舞を舞ったことがない。囃子方や踊りの方をしていた。今90歳くらいの方が生きておれば、獅子舞を経験したことがある人もいただろう。後日、詳しく再取材をさせていただくことになった。

 

 

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺五軒町

10月21日

16:00~ 大聖寺五軒町

区長の小林啓志さん(70歳)にお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。獅子頭が中々見つからず、区長さんに過去に区長を務めたことのある町内の方々に聞き取りしてもらい、獅子頭をはじめとした祭り道具を見つけていただいた。今回は、それらを小林さん宅に集めてもらい、今回撮影とインタビューを行うことができた。小林さん宅には、水牛の角などが玄関に飾ってあり、興味深いものがたくさんあった。

残存する獅子頭は2つあった。大人獅子と子供獅子があり、それぞれサイズが違っていた。今、70歳の小林さんが中学生くらいの時より少し前には大人の獅子がやっていたので、約60年前ごろに大人獅子から子供獅子に切り替わったと思われる。面白半分で、親子獅子をやろうかという話をしていたが、結局それはやらなかった。大人獅子は大きく、髪の毛がパーマがかかっているような縮れ髪で、それが特徴的だと感じた。また、獅子で暴れてどこかにぶつけたのか、鼻が少し擦れている。大人獅子の作者はわからないが、子供獅子の作者はわかる。林竜代さんらしい。これは弓波町などと同じ作者だ。制作年代は不明である。子供獅子は10年くらいしか続かなかった。子供獅子の獅子頭を見ると修理はしていないが、眉の色のはげ以外はピカピカで綺麗な状態だ。五軒町の獅子舞の起源自体はよくわからない。

また、蚊帳は茶色で素朴な色だ。また、ラッパや笛、太鼓、バチなども出てきた。ラッパは獅子舞の時に使ったかどうか定かではない。バチで叩いて音を出す鼓(つつみ)のようなものも残されている。まつり道具はとても多いが、これらは区長持ち回りで保管していくようだ。

祭りは加賀神明宮の氏子なので、4月の桜まつりの時のみ行う。大人獅子の時は蚊帳の中に3.4人、子供獅子の時は5.6人以上入っていた。太鼓は2人、鼓は人数不明である。子供獅子の時は小学校1年生からやっていたが、年齢の上限はよくわからない。その時の状況次第という感じだった。現在、獅子舞は10年前くらいから実施していない。最後の年は、蚊帳の中やしっぽを振る役は女性が務めていた場面もあった。練習は桜まつりの1ヶ月前から始まり、子供達の練習は部活が終わって、ご飯を食べてから行なった。町民会館のような施設はないため、道端などで練習をした。

祭りの当日は、2日に渡って獅子舞が行われた。昔は加賀神明宮から回り始めたと聞いたことがあるが、実際には見たことがない。町内を回るのはずっとやっていて、町内35軒ほどの家が今も昔もあった。ただ、昔は大家族で親戚が住みに来たり、2世帯のところもあった。今は、家の軒数はあまり変わりないとはいえ、空き家が多い。五軒町の場合、空き家でも留守宅の前でも舞う。舞い方はよくわからないが、蝶々をワーワーやっていたような記憶がある(おそらく、大聖寺関町同様に連獅子由来の獅子かもしれない)。大聖寺はよく他町に舞いに行くという話をよく聞くが、五軒町は人数が少ないため、他町の本陣も個人商店も回った記憶はない。桜まつりの当日は、朝8時から始まり夕方には終わっていた。2日ともに、子供獅子に参加した子供はお菓子がもらえた。2日かけて35軒を回るということは、基本的にかなりゆっくりと時間をかけて1軒1軒回っていたことが想像される。ご祝儀の値段に関しては、よくわからない。500円から1000円札くらいの金額だったような気がする。祭り当日のお昼は、本陣となった個人宅で家主が場所を提供してくれて、そこで食べた。ただ時代とともに、そういうことは中々できないようになった。獅子舞の運営は一貫して町内で行っていた。青年団や保存会などの組織はなかったようだ。

近年、町内の獅子舞はやっていないが、大聖寺中町や大聖寺関町などが町内の商店に舞いに来たこともあった。中町は暴れ獅子でダーっと走るシーンが印象的だったという。

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石川県小松市の祭りの特徴は?曳山や演劇の文化に触れる

10月20日

16:00~ こまつ曳山交流館みよっさ

予定がぽっかり空いたので、思いつきで石川県小松市の曳山交流館みよっさに訪れ、曳山の展示を見た。とにかく大きいと思った。絹織物を中心とした町民文化の繁栄がうかがえる。中心となるお旅まつりの始まりは江戸時代の前田利常が小松城に隠居した1640年ごろの話。小松城下の整備の時で、宮大工を連れてきたときの技術に下支えされている文化である。昔から国府があったので、小松といえばこの周辺地域の中心を担うような町であり、祭礼も徐々に大規模化していったようだ。曳山の引き揃えの姿は圧巻である。人手も必要だし、資金力も必要だ。現在は、修繕をちょこちょこしながらも、一気に全面取り替えにならないように工夫をして直しているという。町内の寄付、助成金、ご祝儀などを元手に町内会が運営をするらしい。この曳山において、獅子舞が目立つような場面はない。曳山と同時に登場する神輿に行道獅子がついてくるか否かが気になるところである。2つの神社から神輿が同時に出発するという特異な形態を取っているのが面白く、一箇所では白馬が先導することは聞いたが、スタッフさんももう一方の先導役は注目してご覧になったことはないようだ。また、各町内で運営されている獅子舞に関しては、加賀市片山津温泉などのエリアと、小松の獅子舞(串町や安宅、矢田野など)との繋がりも聞いたことがある。獅子舞のことも資料として、たくさん保管されていると以前伺っていたので、またの機会にじっくりと見に伺いたい。

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18:00~ 大杉ミュージカルシアター練習会

白山市で大学講師を務めるアメリカ出身のガートさんのお宅で行われた。ガートさんのお宅はミュージカルを実施できるほどに広く、天狗面やら獅子頭やらネットや知人経由で集めたお宝がたくさんあり、興味深かった。人を招きたくなる家とでもいうべきか。その家自体が博物館のようにも思えて探検するのが面白かった。

大杉ミュージカルシアターの練習に顔を出した。ガートさんのピアノ演奏に合わせて、10名ほどの大人が歌を歌う。音楽の授業だと思った。とても懐かしい気持ちで自分も参加した。白山の開山にまつわる曲は非常に興味深く拝見した。信仰のお山を登るのを危ないからと止める周りの人々、それでも登りに行く泰澄..。当時の様子をありありと身体的に描き出す試みは大変興味深かった。獅子舞の曲や天狗の曲もあった。日本の民俗学みたいなものを、広く多くの人に伝えていくには、曲というものが必要になるときはあるかもしれないと思った。聞いているだけで、とにかく楽しい気分になれるのだ。

加賀市に滞在していると、小松市の子供歌舞伎やら、人形浄瑠璃やら、ミュージカルやらと演劇的な文化が盛んであることが面白い。人形浄瑠璃はとりわけ人口減少が進む山間部に存在することが非常に興味深く感じられた。大杉ミュージカルシアターも結局は、大杉という山間部での活動であり、国際的な演奏会に招かれても基本的には山間部など少しマイナーな地域に向かうことが多いという。過疎地同士で繋がる山の民のネットワークとまでは言い過ぎかもしれないが、人を惹きつける磁場みたいなものは感じた。

ライターをしていると、身体的に何かを表現するという機会がない。そのため、久しぶりに普段使わない脳の部分を使った気がする。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺法華坊町

10月17日17:00~

大聖寺法華坊町

区長の中谷悟さんにお話を伺った。向かったのは個人宅のような町民会館。新しい家のように見えたが、20年経っているとのこと。2階は整体の方が使っているらしく、布団が敷いてあった。獅子頭は軽く小さいサイズのものが1つ残されていた。獅子頭は耳が割れているものの、他の部分は比較的きれいな状態で残されている。獅子頭裏面の開口部に大きな鈴をつけており、町民からしたら「鈴の音が印象的だった」ようだ。獅子頭がどこで作られたのか、またいつ作られたのかはよくわからない。獅子頭の裏には書かれておらず、箱は残っていなかった。

今は獅子舞を14~5年以上しておらず、青年団も無くなってしまった。以前は、子供獅子をしていた。平成に入ってから子供の数が極端に減ってしまった。小学校2クラスしかなかったときもあったが、子供の数が1300人もいた。女の子でも棒振りをさせてみては?という話もあったが実現せず、男の子が2人以上入る年も無くなったので継続が難しくなった。大聖寺の他の町などでは女性が棒振りをしているところもある。法華坊町では、獅子舞とは別に女性はお座敷芸みたいな扇子を持った踊りをすることもあった。

最後の方の獅子舞は蚊帳の中に入るのが3人、棒振り1人(子供)、笛1人(30代)太鼓2人という構成だった。少なくとも7人は必要で、青年団の団員は10人はいたような記憶がある。4月の桜まつりの時のみ祭りをしていた。この時、獅子舞は自分の町内だけではなく、他の町にも舞いに行った。

昔、法華坊町は湿地帯だった。大島さんという方がこの湿地帯を持っていたが、この土地をどう活用していたのかよくわからない。家が建ち始めたのは、ここ100年ほどの話だろう。「法華坊町の紹介」という看板が町内に立てられている。そう考えると、大聖寺の街中ではかなり新しい町である。商売を始めた飲食店が多い町で、寿司屋だけでも何軒かあった。獅子舞を習ったのは三谷から。三谷といえば、直下町はオスで激しく、日谷町・曾宇町はメスでゆったりとした舞いであるが、法華坊町は比較的激しい舞いだったようで、棒振りがあるとなると、もしかすると直下町由来かもしれない。ただし、「金貨一千万両、御酒肴は...」という口上はないため、それは伝わっていないと思われる。

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人形に感情を託す!?人形浄瑠璃の獅子舞の奥深さ~ 石川県白山市「尾口のでくまわしと徳米座」

10月17日

10:00~

石川県白山市「尾口のでくまわしと徳米座」

石川県白山市松任ふるさと館にて、人形浄瑠璃のイベントが開催された。人形浄瑠璃の研究家・マーティン・ホルマンさんのトークショーののち、3団体の人形浄瑠璃の演舞を実施。白山市内の伝統的な浄瑠璃を継承する2団体(東二口文弥人形浄瑠璃保存会・深瀬木偶回し保存会)に加え、徳島県の徳米座の上演も行われた。国際的な視点に加えて、石川県と徳島県という国内団体の交流、伝統的演目と現代的演目という時間的な流れ、様々な視点で楽しめる人形浄瑠璃のイベントだった。

人形浄瑠璃の研究家・マーティン・ホルマンさん(徳米座)によれば、人形浄瑠璃の特徴は、「人の感情を布でできた人形に託す」ことにあるという。つまり、俳優のように役柄を自分の身体を使って演じるのではなく、人形遣いが人形に気持ちを託すことによって、人形浄瑠璃は成立するのだ。人形に魂が込められることによって、人間自らが演じなくても人を感動させることができる。そこに面白さや魅力があるというわけだ。

人形浄瑠璃の獅子舞を見たことがあるだろうか?多くの獅子舞は「人が獅子を動かす」ことによって行われる。一方で、人形浄瑠璃の演目として獅子が登場する場合は「人が獅子を動かす人形と獅子を操る」ことで成立する。つまり、ここに二重構造が生まれているのだ。人形浄瑠璃の獅子舞は2人で操作する。1人目が腰の下から左手を入れて、ちょんまげ姿の人形の首を操作するとともに、右手で獅子頭を持ち獅子頭の舌の部分についた金属を引くようにして口をパクパクさせる。もう一人は、人形の両足を操作するという役割分担だ。どちらも黒い衣装を全身に纏って、実際上の人間(演者)はあくまでも「黒子」に徹するのだ。ホルマンさんによれば、これは江戸の糸操り人形からインスピレーションを得たものだという。また、島根県益田市にもこの糸操り人形がある。これらを見て、今回、2008年ごろに創作されたのが、今回の獅子舞というわけだ。

今回演じられた演目は夫婦獅子という獅子頭が2対1組の形で演じられるものだった。浮気を責められた雄獅子が雌獅子に許してもらおうとする様子をコミカルに描きながら、新型コロナウイルスによる苦境を一緒に乗り越え、みんなで一緒に笑い合おうという意図で行われた。まずは雄獅子がおかめにそそのかされて、風船ガムを噛み膨らませて、それがばちんと割れる。その後、おかめは花や蝶々をひらひらとさせて、雄獅子はそれを追う。また、観客の頭を噛むシーンが多数挟まれ、途中で劇団員にマスクを被せられるシーンもある。それから雌獅子が登場しておかめの花を咥えて持って行ってしまい、違う花飾りを持ってきてお互いの首に掛け合ったり、雄獅子が雌獅子にサングラスをかけたりするシーンがあり、最終的には子供も生まれるというような流れだった。伝統にとらわれることなく、わかりやすくコミカルに演じるその姿は、ホルマンさんが作った徳米座の国際色豊かな演者達の感性も合わさって、非常にユニークなものとして完成されていたように思う。

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