【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 動橋町(追加)

2022年1月29日

14:00~ 動橋町

「いぶりば」というコミュニティスペースに伺ってきた。中に入ると、見えてきたのは子供用のグズ!ぐず焼き祭りに使われるもので、大人用はもっと大きいのだとか。やはり、動橋町といえばぐず焼きまつりが有名だよなと思いつつ獅子舞の話を聞いてみると、舞い手のスキルが必要な分、連帯感や団結感が深まるのはどちらかといえば獅子舞の方とのことで、なるほどと思った。地元で若いうちから獅子舞の経験を積むことが大事であり、そのような人が青年会に溶け込みやすいようで、練習をしっかりしている地域という印象は強くなった。

今回はいぶりばで前川さんと獅子舞のイベントの打ち合わせをさせていただいたのち、白神さんのご紹介で、前川さんとともに青年会経験者の和田藤雄さんに昔の獅子舞のお話を伺うことができた。その時に伺った内容を振り返る。

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戦時中の獅子舞の担い手

獅子舞は少なくとも明治時代からやっていたが、いつからやっていたのかわからない。戦争をしていた頃に、動橋地区5町をまとめたのが青年団と言い、各町の担い手を青年会と言った。当時、青年会に入るときは2年間、準会員ということで、雑用から始めた。雑用は例えば神社のお祭りでお神酒を詰め替えるなど、神社関係のことが多かった。準会員は当時10人くらいいて、獅子舞には参加していない。獅子舞に参加したのは会員の人々だ。白い服を着ているのが頭持ちで、着物のような服を着ているのが笛の人々だ。まず会員になると笛から初めて年齢が上がって音色を習得してから獅子に入ることができた。小学校から旧制中学に入る人は学年で2人くらいで、進学が珍しい時代だった。また、戦時中では中国事変の際に、20歳を過ぎた担い手がぐっと減ってしまった。昭和19年の時にはかなり担い手が少なかったが、獅子舞もぐず焼き祭りも続けた。青年会は獅子舞をやっていた一方で、ぐずの制作や担ぎ手もしていた。昔のぐずは今ほど精巧なものではなかった。ぐずの担ぎ手で背が低い人はぐずの中で真っ暗な中で太鼓を叩いていた。昔の太鼓のリズムは「トトンカトントン」という繰り返しだった。また、当時は太鼓を乗せて歩くような移動の台があって、縦打ちの太鼓を使っていた。今は台がなくて高さが低いので、この時と比べると太鼓も叩き方が変わっている。獅子の太鼓は舞い方によってテンポが変わり、戦時中のものは今よりも2倍以上時間が長くゆっくりだった。今は回る家の軒数が多いため、少し短縮して簡略化された印象だ。

 

昭和18年頃の動橋町青年会の様子

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戦時中の獅子舞の流れ

当時の祭りの流れとしては、約350軒の家を1つの獅子で2日間で回った。朝の6時ごろから出て、夜の19時くらいまで回った。次の日は16時ごろで終わっていた。基本的には神社に始まり神社に終わるという回り方で、お昼はお寺の前にあった青年会館(村役場跡)で食べた。女の人たちがお昼ご飯を用意してくれた。獅子舞のご祝儀は今のように先にもらって歩くということはなく、カバンを持って獅子舞が舞った後にご祝儀をもらって歩くという順番だった。金額は定かではないが、物価でいえばお酒一升が80~90銭、キャラメルが5~10銭、一年間の定期が5円50銭の時代だったので、ご祝儀となると30~50銭くらいだったような気がする。獅子頭の新調は神主さんが職人に頼んで作ってもらっていた。どこに頼んだのかはよくわからない。獅子舞の練習は本番が8月なので、その2ヶ月前の6月から開始していた。夜ご飯を食べた後、青年会館で22時くらいまで実施した。

(取材先:和田藤雄さん, 同行:北嶋夏奈さん)