【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材8日目 大聖寺新町・大聖寺鉄砲町・動橋町

2021年8月26日

9:00~ 大聖寺新町 獅子舞取材

地域住民・河村弘幸さんにお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子舞は今は途絶えており、今から60年前くらいにやっていた。この獅子舞の歴史を語る上で外せないのが、聖北祭の存在である。ここで、ある年表をご紹介したい。

 

昭和45年 聖北協議会結成(新町・相生町・松ヶ根町・北片原町)

昭和50年 第1回 聖北祭 

昭和51年 第2回 聖北祭 

昭和52年 第3回 聖北祭 

昭和53年 第4回 聖北祭 錦城東小設立 

昭和54年 第5回 聖北祭 

昭和56年 聖北協議会解散

昭和57年 新町・新栄町・相生町・麻畠町 ・松ヶ根町の5町が地域活動拠点を作る

(参考文献:山口玄蕃頭宗永公没後四百年記念供養祭実行委員会『山口玄蕃頭宗永公没後四百周年記念誌』平成12年)※大聖寺の山口玄蕃が前田利長に滅ぼされた1600年から数えて没後400年の冊子

 

聖北協議会は昭和45年に新町・相生町・松ヶ根町・北片原町の間で作られたもので、それを元に聖北クラブ、聖北自衛消防隊などが組織された。そのタイミングで獅子舞をはじめとしたお祭りも聖北祭の形で行われるようになった。獅子舞を管理していたのが新町で、太鼓やら獅子やらに4町全員が関わった。なぜ獅子舞実施の中心が新町になったかというと、お金も人も集まる土地だったということが大きい。当時、新町といえば、料亭、散髪屋、電気屋、お米屋、人形屋など本当に様々な商売人の集まる町で、当時40軒ほどの家しかなかったのにも関わらず、38軒の商店街加盟店があった。商売人でなくても商売人に家を貸すということもあったようだ。京町の青草から橋立に向けてのバス路線のメインストリート(新町含む)はとても栄えていた。40年前は橋立から来た人はこの通りを見て「原宿(もしくは銀座)に来たみたい」と盛り上がったそうである。金魚売りが来たこともある。商店街の古き良き通りというイメージだった。

第1回~第5回 聖北祭で子供獅子が行われた。第1回の時に河村さんは28歳だった。獅子舞の関係者は25~6人くらいだ。頭は子供獅子で、舞いも太鼓も4町内で共有して舞った。祭りは2日間やった。団塊の世代なので、子供の数は多かった。現在は73~74歳の人々である。1学年で600人くらいいた。

この子供獅子は上福田町から北片原町が習い、それを新町に伝えたようだ。新町にはそれ以前にも獅子舞はあったが、本格的に開始したのが第1回の聖北祭の時に北片原町に習った。大人獅子が少し難しかったので、簡単にして子供獅子という形態が生まれ、新町の獅子が確立した。

獅子舞が終了したのは、小学校区の分断が昭和53年に行われ、それが元で(祭りの担い手同士の交流が薄れたのか)次の年で聖北祭が終了してしまったからだ。それ以来、獅子舞をしていない。とても懐かしい思い出だ。

f:id:ina-tabi:20210827101540j:plain

その後は獅子頭の撮影をするため、区長の宮地裕士さんに集会所の鍵を開けていただいた。天井収納のはしごをかけて2階の屋根裏に登り、獅子頭を探した。木箱に入った獅子頭が出てきたときはとってもびっくりされていた。獅子頭があるとは思っていなかったそうだ。緑色のビニール袋に包まれ、梱包もされていて大事に保管されていた。

f:id:ina-tabi:20210827101840j:plain

 

11:00~ 大聖寺鉄砲町 獅子舞取材

獅子頭が保管されている松縁寺でお話を伺った。通常獅子頭は公民館や神社に保管されていることが多いため、お寺に獅子頭が保管されているというのは非常に珍しい。お堂に伺うと5人ほど地域の方が集まってくださっており、角が大きく顔の小さな獅子頭と、丸くて古い獅子頭の2つが用意されていた。今回お話を伺ったのは、西出宏憲さん、髙橋明己(あけみ)さん、曽宇清さん、田中英一さん、中越康夫さん(区長)の5人である。同行は山口美幸さんだ。衣装やら獅子頭やらは、お寺の「長持ち」に保管されていた。昔は専稱寺(せんしょうじ)に保管されていたが、今は松縁寺に保管されている。お寺に獅子舞の小道具が保管されているというのはとても珍しい。

獅子舞は戦前からしていたが、戦中に一回途絶えた。その後復興したのが昭和22年で、昭和26年くらいまで舞ったが、それも途絶えてしまった。そのときは「鉄青会(鉄砲町青年団)」が大人獅子をしており、メンバーは12人くらいいた。その後、昭和57年に法華坊町から獅子舞を習って獅子舞を復興して、昭和59年に獅子頭を新調した(この年に獅子頭を注文しに行ったら、田尻町獅子頭も新調したのを聞いた)。新調した獅子舞は富山の井波彫刻のものだ。子供が2年間は重い獅子頭を持って舞っていたが、このタイミングで軽い獅子頭に変えたということだ。昭和59年冬号の「暮らしの泉」という雑誌に自分たちの獅子頭と同じような獅子頭が井波彫刻として紹介されていたが、おそらく自分たちの獅子頭の話ではない。しかし、この獅子舞も5年後の昭和61年に途絶えてしまった。担い手である小学校5~6年(獅子頭もち)や中学生の子供がいなくなってきてしまったのだ。子供獅子を始めたくらいは青年団の子供が28人くらいいた。自分たちの町を「子沢山通り」などと呼んでいた。この世代が大学に行って、町に帰ってこなくなると、獅子舞の担い手もいなくなってしまったのだ。

獅子舞は大聖寺桜まつりの時のみ行われた。朝8~9時から始まり、町内のみ回って、料亭・髙橋の駐車場で昼飯を食べて少し休んで夕方までやって休んだ。獅子舞は区長さんのお宅から始めた。初回(昭和57年?)だけ加賀神明宮で奉納の舞いをしたが、それ以降は神社で舞っていない。子供獅子は太鼓と笛と獅子頭と棒振りがいた。笛は一人一本、自前で購入した。(越後の旅芸人が行なっていた「カクベエジシ」という隠れ飲み?のたとえ話のごとく)大人は飲んでいた一方でそれだけではなく、子供はお菓子をあげたり、県民の森でのバーベキューをしたり、地蔵盆の時にカラオケをしたり、ヨーヨー釣りとか、金魚すくいをしたり、かき氷を食べたり、様々なことをして子供にも楽しみを提供していた。また、鉄砲町の人々で、他の地域の場所(耳聞山公園)を借りて運動会をしたこともあった。取材の最後に、最近まで料亭をしていらっしゃった髙橋さんの家で飾り獅子を撮影させていただいた。獅子舞の獅子だけでなく、陶器の獅子頭を飾るということもあったようである。

ps. 鉄砲町の由来は城下町で足軽の鉄砲部隊が住んでいたからだ。

f:id:ina-tabi:20210827101957j:plain

 

21:00~ 動橋町 獅子舞取材

青年団長の荒栄健太さんにお話を伺い、練習見学をさせて頂いた。動橋町ではコロナ禍でも、2021年8月28~29日まで、神社での獅子舞の実施が決定している。加賀市の大半の獅子舞が中止になる中で、獅子舞の実施を決定したことはとても勇気ある一歩だし、その熱い想いと工夫に迫りたいと感じ、今回取材をさせていただいた。

青年団には19歳から30歳までが属している。以前は25歳までだった。人数は実質14人くらい。OBも応援で駆けつけてくれる。獅子頭は2体1組で購入し、全く同じデザインで発注する。現状、4組8体の獅子頭が保管されており、実際今回拝見したのは3組6体だった。練習では耳をつけない。祭りの本番では、2班に分けて、1000軒の家を2日間で回る。単純計算で250軒を1日で回るということである。舞いの長さは同じだが、舞い方は3種類、1つの演目をその長短によって名前を変える。

 

f:id:ina-tabi:20210828100921j:plain

今回、コロナ禍で獅子舞を通常通り町内を回る形で実施できないが、8月28・29日 9:00~18:00 の日程で、振橋神社参拝客向けに獅子舞を実施することになっている。また、その前の8:00からは神社、青年会館、町民会館を舞うということもする。ユニークな点は、青年団が神社に一日中待機して、来てくれた参拝客に獅子舞を披露するという祭りの形態だ。コロナ禍ならではの形と言えるだろう。

 練習の期間は2ヶ月である。普通は小学校の体育館で練習をする。ここで暑くて広いところで厳しい練習をしているが、今はコロナ禍ということもあり、最近新幹線の延線で建て替えになった綺麗な町民会館で練習を行っている。

f:id:ina-tabi:20210828101205j:plain