渤海使は石川県に獅子舞という芸能をもたらしたのだろうか?

渤海という国は面白い。渤海国は中国史において唐の属国と見なされ、渤海使遣唐使の一部だと考えられてきた歴史がある。さらに大きな歴史的事件が起こることなく、開国から消滅までの200年の歴史の中で比較的平和的な国家が保たれてきた。これらの理由から、歴史の表舞台からは姿を消している。日本人も中国人も、歴史上この国が存在したことを知らずに、歴史の授業でも数行しか触れられない。しかし、渤海と日本の交流は密接で、遣唐使よりも長く多数の交易を行ってきた歴史がある。渤海の毛皮と日本の繊維が主な貿易品だった。渤海にとって日本の繊維は防寒具を作るために必要で、日本にとって渤海の毛皮(虎や豹など)は高価で貴重なものとしていわゆるステータスの象徴のような形で1匹あたり8万円ほどで取引された。

 

渤海使が日本と交易していた時代は、まさに獅子舞が日本全国に伝播している時期である。612年に百済味摩之が伎楽の一部として獅子舞を伝来してのち、それが仏教の行道の獅子として日本全国に広まっていく過程で、大陸系の獅子舞といえば味摩之が伝えた伎楽の獅子ということがもう当たり前だと考えられているような気もする。しかし、その後も遣唐使遣新羅使渤海使などが日本に来ていたわけで、中国において獅子舞が盛んになったのは唐の時代なので、唐の時代に何らかの形で獅子舞が流入していたのではないかと考えたのである。

 

ただし、歴史の表舞台に立っている遣唐使から探るのはあまり得策とはいえない。石川県加賀市で獅子舞調査をしていて感じたのは、能登半島や加賀に寄港していた渤海使の人々が何らかの獅子舞のような芸能をもたらしたのではないかということ。実際に、上田雄『渤海使』(講談社学術文庫, 2004年)の記述では以下のようなことが書かれていた。

 

821(弘仁12)年に来日した第20回渤海使の王文矩(おうぶんく)らは、正月16日に朝廷の宴会に参加したようで、そこで打毬(だきゅう)またの名を毬杖(ぎっちょう)というスポーツの技を披露したとある。その内容は、騎乗して打棒で毬(まり)を打って、相手陣に入れることを競うゲームとのこと。唐や東アジアでは競技終了後に「打毬の舞」を上演するようになり、その舞楽が日本に「唐楽」として伝えられ、今も雅楽の演目として継承されているようだ。しかし、騎馬民族&狩猟民族ではなかった日本人の間で、この芸能はあまり広まらなかったようだ。しかも、獅子舞との関連性はあまり見られない(雅楽と獅子舞との繋がりはやや存在する)。ただ、少なからず渤海から日本に芸能が伝わった例があるということはわかった。

 

また、獅子舞のシシに関していえば、882(元慶6)年に裴頲(はいてい)という人物が渤海使として加賀国に来た時に、渤海客に饗応すべく、越前、能登越中等の国に命じて酒、宍(しし)、魚鳥、蒜(にら)などを送らせる指令が出されたそうだ。また、919(延喜19)年に裴璆(はいきゅう)という人物が来日した時に、滝口の武士に命じて在京している間は毎日鮮鹿2頭を用意したようで、肉食の渤海使に対して日本の狩猟関係者が必死に獲物を捕らえていたことが想像できる。当時は肉をぼたん鍋やステーキにして、蒜などを添えて食べたとのことである。

 

結局あまり大きな手がかりはまだ得られていないものの、渤海使が日本に何らかの芸能をもたらし、それが日本の芸能史の大きな役割を果たしていた可能性があり、それが見過ごされてきている可能性もある。そのように感じるのである。引き続き、渤海使の果たした役割について、文献資料やフィールドワークなどを通じて得られた見識をもとに明らかにしていきたいと考えている。