獅子頭は本物の動物の頭だった話

昨日は埋めてある豚の頭を土から掘り返して、それをモデル(半々さん)が持って、写真の先生(うつゆみこさん)が撮影をしているのを見学するワークショップに参加した。 とても刺激的だった。毎週続けていて、もう6回目とかで、まだまだやるらしい。

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豚の頭と聞いて思い浮かんだのは、獅子頭のことだった。もともと柳田國男の『獅子舞考』等で言われているように、日本古来の獅子舞(とりわけしし踊りの部類)は「獅子=動物=人間」という関係性が見られる。どういうことかというと、例えば獅子頭を埋めることによって村境で悪疫の侵入を防ぐという考え方、あるいは海や山の怒りを鎮めるという考え方が伝わっている地域が日本全国にある。それは元をたどれば動物(鹿や猪、熊など)を埋めたことは明らかで、死者分割譚や人身御供の観点から言って起源は人間を埋めたことすらも想像される。人間を埋めることの無慈悲さと非合理性、形式化などからして、徐々にそれが薄まり、人間→動物→獅子頭と周縁化・外部化が行われた結果であろう。首塚、胴塚、手塚、耳塚などが日本全国に見られることから、埋めるという行為は対象物を分割させて埋めたというのは明らかだ。このようなことを考えてこのワークショップに参加したら、まさにその過去の紐解き、再現に繋がった。

 

それはともかく、実際のワークショップで得た新鮮な気づきについても触れておく。土に埋められた豚の頭を掘り返すという行為について、恐ろしさはあまりなかった。なぜなら、あまり肉がついていなかったからだ。肉がついていればそれだけリアルで恐ろしかったに違いない。豚以外にも、鳩などの動物が埋められていたが、それらはリアルだったのであまり掘り返せなかった。また、肉はトロトロのソースのように溶けていくことがわかった。そして、異臭はすごく、ダニが湧いていた。匂いがうつるので、家に帰ったら洗濯とシャワーは必須だ。思ったより豚の骨の部分というのは小さく細かった。肉の分量はとても多いとわかった。土に埋められた人間や動物および獅子頭を掘り返すという習俗は日本にはあまり見られないが、例えば、インドネシアスラウェシ島のトラジャ族は死んだ人間の墓を掘り返してドレスアップを行い、死体洗い祭りを行う。これは先祖との繋がりを再確認するために行われるが、今回のワークショップは動物·自然との繋がりを再認識できるものだった。まさに死体洗い祭りの再現を見ているような気分だったのだ。

 

このようなワークショップの面白さはアナログ回帰という時代性もあるだろう。パソコンと携帯ばかりを見て土を踏みしめず道路を踏みしめる私たちの病を直す処方箋になりうると思う。自分の原点でもあり、多くの人の原点でもある自然と人間の関係性を問い直す行為なのだ。モデルさんと写真家さんの呼吸が整った時に良い写真は撮れる。それはどこか猟師が山に向かう感覚と似ているとも感じた。気を引き締めて自然に相対する感覚を感じたのだ。自然と遊び戯れるのだけれどどこか引き締まっている。豚の首は微笑むだろうか、もっと撮ってくれとプライドをくすぐるような思いになっているだろうか。ただ恐れそれを避けるのはおそらく我々にとって自然が遠すぎて、それゆえに理解できない結果なのだろうとも思う。そこに問題があるのではないだろうか。知らず知らずのうちに環境問題は進行しているように、自然に向き合いもっと考えていかねばならない。モデルさんのポージングを見ていて様々に工夫し戯れる様を見ていてそう感じたのである。

 

獅子舞という芸能の分野における、動物と人間の関わりについてもう一度整理しておこう。獅子舞の始まりは、東アジアに広がっている大陸系のものだと動物の霊力を身体に取り込み自分の地位を高める、あるいは守ってもらうという意味合いがとても強い一方で、 日本古来のシシの踊り(獅子舞に近いもの)は、動物の供養やその動きを真似て自然に対する敬意を表するというような意味合いが強いと思う。日本には敬語があるように自然に対して少しへりくだっているようにも感じる。大陸の方から渡ってきたものと似ているようで全く違う部分だ。現在の獅子舞は、 演舞によって獅子を殺し厄を払う、あるいは獅子に悪疫を退治してもらうという2つのパターンが存在しており、獅子を殺す発想の繋がりとして獅子を穴に埋めるという行為も存在するのだと思う。

 

その時の感覚は、自分ばっかり食べてないで神様にも食べていただこうという意味の贄なのか、大事なものは差し出さないと怒りが収まらないという発想なのか、霊化した生き物強さを借りるということなのか、厄を宿して埋めてしまえという考えなのか、寺社仏閣いずれかに対する圧力なのか、埋めるという死が守り神を作り出すということなのか。本当に千差万別の解釈が存在するのだ。今回のワークショップは定期的に開催しているようで、定期的に地底にいる動物の神様を掘り起こし戯れることで動物・自然との繋がりを再確認するものかもしれない。これは獅子頭を埋めるという習俗すらも薄れてしまった現代においてその時の感情を再現する手がかりになりうるだろう。