耳塚の正体とは?獅子舞との関連性を紐解く

奥羽地方などに広く伝わる、獅子舞の獅子が喧嘩をして耳を取られたという話は何を意味するのだろうか? 確かに、遠野物語のゴンゲサマなどに見られるように、獅子舞は耳を取るという発想が起こりがちであると思う。柳田國男『定本柳田國男12巻』(筑摩書房 1969年)を参考に、以下に記す。

 

耳を取られる経緯としては、村の獅子同士が争って、耳やら鼻やらを噛み切られて、その古戦場には獅子塚ができて、以後の獅子舞の侵入を防止したという話の結末に至ることもある。そういう場所には、耳塚やら鼻塚やら花塚やら耳取橋やら様々な地名が残るが、そこに住む人、通る人は今となっては、何のことやらさっぱり分からないという人が大半だろう。

 

日本の歴史を振り返ると、人間の耳を大量にとって埋めたという出来事が3回あった。その3回とは、神功皇后三韓征伐の際に作られた筑前糟屋郡香椎村大字濱男の耳塚の話と、八幡太郎義家が奥州征伐の後に河内国に築いた耳塚の話と、豊臣秀吉朝鮮出兵の後に現在の京都市東山区に作った耳塚の話だ。最初の2つについてご存知の方はかなり少ないだろう。結局、豊臣秀吉の耳塚の話がだけがなぜか有名になった。結局倒した敵兵の数を数えるのに、首を持ち帰るのは大変なので、耳をそぎ落として持ち帰ったということであろう。これを埋めたのが耳塚であり、朝鮮半島から人が訪れた際、その時討たれた子孫の者は特にこの場で涙するという。

 

しかし、これらのような耳塚はあまり大きくない場合もあるし、その塚の中を調べてみると、なぜか4尺の太刀が見つかることもあったそうだ。昔から土地の人はその場所を耳塚と思っていなかったという場合もある。それならば尚一層、耳塚の謎は深まるばかりである。また、耳塚の先型として、源頼義が作った六條西洞院の耳納堂は、古事談によれば敵だけではなく味方の遺物供養的な性格が読み取れなくは無いという。結局、耳塚といえば、朝鮮出兵の話を思い浮かべるというのは、後世の語り部の結果であってその由来は様々であるというわけだ。

 

ただし、小さなものを含め、耳塚が全国的に分布することを考えてみるに、何かその根源的な由来がどこかに存在すると考えることは自然である。柳田國男はこの点に関して、耳が単に持ち運びに優れ、簡単に物品のように扱うことができ、塚を築くために耳を取ったと考えるのは、動機として存しえないという内容を述べている。つまり、塚と供養とを結びつけるのは後世の人々の作り話という場合も多いようだ。

 

古代に遡れば、多くの耳取りは「神や精霊の占有物」を意味する標識法であり、耳は最も無害な家畜管理法とも言えるという。すなわち祭りの直前まで、動物を生かしておくことと識別することの両立を図ったということである。それが獅子舞の耳を取る話にも繋がってくるわけで、諏訪の御頭祭で鹿の頭が75頭供えられる際に耳裂鹿が混じっていたというのもこれで説明がつくのだ。それが結局、村の境とも性質が重なってくる(まれびと的思想等によれば神が入ってくる場所であり、悪疫も入ってくる場所?)というわけで、それが場所的にも獅子塚と一致するわけだ。耳取の生贄で神を祀った霊地が通りすがりの人にとっての神聖な場所となり、その崇敬が衰えると祭事が中断されて野生化する。その結果できたのが、今日の耳塚であり獅子塚であるというわけだ。

 

※獅子舞の鼻を撮影している自分は、鼻がチャーミングだからと撮影しているのだが、ここに史実的な根拠を耳塚鼻塚的発想で無理やり持たせることもできなくは無さそうである。