木造獅子頭の研究史について

日本の木造獅子頭研究史においてまず挙げるべき人物は、田邊三郎助(田邊 1981・1986・1997)、臼杵華臣臼杵 1984)、門屋光昭(門屋 1981年)の3人である。それぞれ、どのような研究成果があったのかを、蔭山誠一『愛知県日置八幡宮所蔵木造獅子頭考』を参考に振り返る。獅子舞の伝来経路と獅子頭の伝来経路の相関性なども推測していきたい。

中世から近世の概観(田邊三郎助)

中世の紀年銘が残る獅子頭についての変遷が全体の肉取りや舌の工作、植毛の仕方、眉の形態、目鼻立ちや口縁の彫り口に見られる造形の時代的変化や特徴について研究をされている。大きく分けて2つの分類があるという。

「カサ高」型

法隆寺奈良県)、防府天満宮広島県)、伊奈冨神社(三重県)、津波倉神社(石川県)の獅子頭

「やや扁平」型

御調八幡宮広島県)、丹生神社(広島県)、白山神社(石川県)の獅子頭

静岡県の息神社にて2つのサンプルが1年違いで存在する点が興味深い。

 

南北朝時代から室町時代にかけて肉取りが角張って抑揚がなくなる傾向あり。室町時代には地方での制作が一般的となり、木彫りや漆塗りの技術が低下する。(この時代には多くの地域で獅子舞が途絶えたのではあるまいか。完全に個人的な見解だが、鎌倉時代から江戸時代までの時期に途絶えていたか影が薄くなってしまった獅子舞行事は日本全国に多数存在すると考えられる。)

 

室町時代の後半から桃山時代にかけて、顎は角張ったままで頭部が高く、鼻から顎の前方部が低く締まって形の良いものの数が増すとされている。江戸時代には耳を頭部と一緒に掘ったり、別に作って両物を固定したり、舌が下顎の上に削り出されるだけになったりと作業の簡略化が目立つようになる一方、形態におけるバリエーションは増す。

獅子頭の形態分類

獅子頭の正面

獅子型:上顎頭部がネコ科動物の肉付き

知立神社(愛知県)、日置八幡宮(愛知県 1252年銘)、真木倉神社(岐阜県 1305年銘)、息神社(静岡県 1374年銘)

半球型:上顎頭部から上顎頬部まで丸みあり

白山神社岐阜県 1385年銘)、息神社(静岡県 1375年銘)

箱型:比較的平坦で上顎側面がやや垂直

真清田神社(愛知県 1471年銘)、星大明社(愛知県 1510年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、神館神社(三重県 1435年銘)

 

獅子頭の側面

A類:上顎の鼻先が低い, 鼻梁が後方に凹んで伸びた後に額が垂直からやや斜めに立ち上がる, 上唇と上唇の筋肉部分の抑揚が大きいなど。

知立神社(愛知県)、 日置八幡宮(愛知県 1252年銘)

B類:上顎の鼻先が比較的高い, 後方に伸びる鼻梁の凹みが浅く額がやや斜めに立ち上がる, 上唇と上唇の筋肉部分の抑揚が小さいなど。

白山神社岐阜県 1385年銘)、息神社(静岡県 1374年銘)、(※真木倉神社(岐阜県 1305年銘)はややこれに類似)

C類:上顎の鼻先が高い, 後方に伸びる鼻梁の凹みが浅く額がやや斜めに立ち上がる, 上唇と上唇の筋肉部分の抑揚がほぼ無いなど。

真清田神社(愛知県 1471年銘)、星大明社(愛知県 1510年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、神館神社(三重県 1435年銘)

→こう見ると上記③箱型と③C類は一致する。

獅子頭の誇張表現が歯の噛み合わせや眼光による威嚇から、鼻先や口部分へと変化していることから、伎楽の仮面から行道の仮面へ変化が表れている。ここに、行道執行者の意図と獅子頭製作者の表現のすり合わせが行われていたことが読み取れる。

 

植毛の位置・数量・表現

上顎頭部頂部

眉部

上唇部分

側面頬の部分

下顎前面から側面縁の部分

①〜③, ⑤を満たすのが、諏訪神社岐阜県 1306年銘)

①〜③を満たすのが、知立神社(愛知県)、日置八幡宮(愛知県)、白山神社岐阜県 1385年銘)

①②を満たすのが、伊奈冨神社(三重県

①③を満たすのが、真木倉神社(岐阜県 1305年銘)

②③を満たすのが14世紀後半までの獅子頭に限定される。

③⑤を満たすのが、武芸八幡宮岐阜県 1351年銘)

③のみを満たすのが、息神社(静岡県 1374年銘)、真清田神社(愛知県 1471年銘)、星大明社(愛知県 1510年銘)

 

植毛の立体的表現手法

実際の植毛

線刻による表現

白山神社岐阜県 1385年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、息神社(静岡県 1375年銘)

線画や描画による彩色表現

彫刻の浮き彫りによる立体的表現

真木倉神社(岐阜県 1305年銘)、真清田神社(愛知県 1471年銘)、天神神社(岐阜県 1488年銘)、伊奈冨神社(三重県)、神館神社(三重県 1435年銘)、加茂神社(三重県 1545年銘)

獅子頭の上唇には髭が存在したという地域の人々の意識の表れ

 

14世紀後半までの獅子頭における形態の移行の傾向としては、正面観型→半球形、A類→B類、植毛の減少が明らかである。ただし、鎌倉時代は地域全体が同じデザインで統一されるわけではなくてモザイク状に分布がなされており、獅子頭を制作する人が地方の神官や職人だったことを反映している。ただしそこには神官や職人による芸術的な独創性があったというよりは、分布から見ても別の地域を介したデザインの流入が行われたということのようだ。そのデザインの中心地は政治・文化の中心地である「京都」とのこと。

ps. 獅子頭の年代計測

日本最古の年記銘付き獅子頭と言われる愛知県愛西市日置八幡宮獅子頭について年代計測を行った財団法人 元興寺(がんごうじ)文化財研究所の平成19年調査を例に挙げる。破損・劣化状況・構造の観察のためのX線透過撮影獅子頭の下顎底部の宝珠穴にある墨書の赤外線撮影獅子頭樹種同定(顕微鏡による細胞の大きさの観察?)の3つを行なったようだ。判明したことは下顎がヒノキで上顎がエノキであり、下顎が後から補修されたものであるということ。そして、修復の過程で漆膜表面の汚れを除去していたところ上顎後頭部上辺の鎹(かすがい・両端の曲がった釘)にかかる位置に銘文が発見された。線刻された文字の上には修復の際の黒漆が塗られていたという。上顎右側には「建長4年壬子8月」上顎左側には「(奉ヵ)施入盛ヵ西ヵ禅ヵ(師ヵ)」の文字。これにより上顎が1252(建長4)年制作が判明、平成20年3月10日時点で正倉院獅子頭面を除く日本最古の木造獅子頭ということがわかったそうだ。

 

以上、蔭山誠一『愛知県日置八幡宮所蔵木造獅子頭考』には精緻で非常に興味深い内容が書かれていた。獅子舞の伝来経路は演じ手と作り手の対話であると考えると、獅子頭の伝播との共通性を見いだすことができるかもしれない。少なくとも上記の日置八幡宮獅子頭の事例や周辺地域の獅子舞の伝来経路を総合して考えると、荘園制を軸として伝播したという共通性は見いだせる。

 

話はそれるが奈良時代に伎楽としてもたらされた獅子頭はおそらく東大寺大仏殿開眼(752年)までは地方伝播がそこまで進まなかったと思う。国分寺の建立が進み、桓武天皇の時代794年に京都に都が移ってから地方と中央との活発な交流を基礎として、八幡信仰を先駆けとした神仏習合、荘園の広がり、山岳信仰の広がりなどが獅子頭及び獅子舞の伝播を同時多発的に促進したと考えるのが良いだろう。奈良時代(中央集権国家)→平安時代(中央集権国家の崩壊)→鎌倉時代地方分権)・・・・・→明治時代(中央集権国家)という流れで、中央集権国家の成立から崩壊までの流れの中に、獅子舞の地方伝播の謎が隠されているのだ。他地域の事例をあれこれ考えると頭の中では辻褄が合うように思うのだが、もう少しこの考え方を精緻化させたい。