鹿酒とは何か?しし踊りの古層を諏訪にみる

諏訪には御左口神という古代からの神がいる。この神としし踊りとはどこか密接なつながりがあるように思えるので書き記しておく。発端は中山太郎著『タブーに挑む民俗学』に出てくる造酒法の話である。古代日本では、御綱柏と造酒に意外な関係性があった。八丈島では黒酒を作るその時に黒麹を作る際の粟に、御綱柏(オオタニワタリ)を被せるというのだ。古代の豊楽に御綱柏が登場する理由はこれである。他には口噛み酒などが古代の造酒法として知られている。

 

こうして作られた酒はどうやら薬物として用いられたようだ。酒の古名はキ又はクシであり、クシとはすなわち薬のことである。このクシの神をどう祀ったのかというのが、御左口神信仰の本質である。酒を作るのは専ら女性で、掌酒(神に供える酒の醸造をつかさどる人)として働き、酒神はこの女性が祀られるということも多かった。御左口神とは諏訪大社の酒神の祭神であり、そのことが武田信玄署名の『諏訪上下宮祭祀再興次第』に書かれている。語源は噛み酒が「みさく」「さくち」などと呼ばれていたことにある。琉球本島では噛み酒を「みしゃぐ」と呼び、宮古島では「うむ、さく」などとも呼ぶらしい。

 

一方で古記録によれば、御左口神の特徴は以下のようである。

①王子胎内との記述から、女性である

②正体は雌鹿である

③醸酒の精進屋に鹿皮や鹿足と最花一貫文を供える

※最花一貫文については何か不明

 

このことから、まず御左口神の元の姿は孕み鹿であった。孕み鹿である所以は女性の生産能力を信じ儀式化したということだろう。諏訪大社の神の変遷は、狩猟神、農業神、武神という風な変遷をたどる。その原型こそが、御頭祭や耳切鹿の故事でも有名な鹿の姿であったというわけだ。それにしてもなぜ鹿と酒が関係あるのか?『神武紀』戊午年秋八月の条に出てくる牛(シシ)酒とは鹿酒のことであった。シシといえば、鹿を意味しカノシシ(鹿)とイノシシ(猪)となったのは、後世のこと。その点では、東北に広く伝わるしし踊りと考え方は同じである。どのようにして鹿酒なるものを作ったのかはよく分かっていない。猿酒(猿などが溜め込んだとも言われる果実が自然発酵して作られたお酒の類)の故事などから推測ができる可能性もあるかもしれないが、それは推測の域を出ないようだ。また、諏訪の造酒法は北方から伝わったものではないかと言われている。

 

 鹿の胎児は「さご」と呼んだ。早川孝太郎『雑誌「民族」(三巻一号)』によれば、三河国設楽郡振草村大字小林で2月初午に行う種取り神事にて、鹿の腹に納める苞(つと・蕾を包むようにはが変形した部分)を鹿のサゴ(胎児)と呼んでいることからわかる。この報告と御左口神の古い記録を照らし合わせると、鹿の胎児を造酒に用いたという呪術的作法があったのではとも考えられる。そして御左口神は古く左口(さご)と呼ばれていたのかもしれない。今では『諏訪旧跡誌』にあるように、御左口神は石神と同一視されることもある。検知用の縄を祀ったものとも言われる。全国の御左口神は様々な漢字があてられその由来を遡るのが非常に難しいのが現状だ。その中でも、鹿に由来を求める筆者の見解はとても興味深く感じられた。そして、酒がクスリでであり神聖視されており、神を祀る時のみ飲んだというアイヌの逸話含め、現代と古代のギャップを様々に感じるに至った。

 

参考文献

中山太郎『タブーに挑む民俗学』河出書房 2007年

 

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ところで、2021年4月15日に諏訪大社の御頭祭に行ってきた。十間廊に供えられた長い首をそのまま残した鹿の頭の表情は静かだった。喜怒哀楽はなく、人間をただ見つめるように立っている。今から200年以上前、江戸時代の旅行家・菅江真澄が著した『すわの海』によれば、鹿の本物の頭が75頭、まな板の上に並べられていたという。その中に耳が裂けた鹿がいたそうだが、それは神様が矛で獲ったものだと考えられていた。今では剥製を使っているが、昔はその場で生きた鹿を殺し、神に捧げていたのだ。

鹿を神様に捧げるとは、どのようなことを意味していたのだろうか。まずは鹿の首をはじめとした様々な動物や植物などの幸を神に献ずることによって、神と人が一体となり饗宴を行う。つまり、自然を敬うとともに共存する狩猟儀礼と言えるだろう。以前、諏訪大社を訪れた際に、日本の中でも諏訪という地域がなぜこれほどまでに古い儀式を今に伝えているのかを尋ねたことがあった。「詳しいことはわかりませんが、諏訪は食料が乏しい寒冷な山間部だったかもしれません」とおっしゃっていた。つまり、日本では神社もお寺も境内で殺生を行うという習慣はなかったはずだが、古くからの肉を食す習慣がそれほどまでに生活上欠かせなかったからだと読み取れるのだ。そういうわけで、自然に対する恐れや感謝の心も非常に強かったのかもしれない。

神長官守矢史料館が販売している『しおり』によれば、大昔は御神(おこう)と呼ばれる実際の子供を生贄に捧げていたとも言われている。菅江真澄が生きた時代には、子供を柱に縛り付けそれを神官が救済したのちに、動物を献じるという方式をとっていた。これは、人間を生贄に捧げるという習俗が徐々に外部化され、対象が動物に変わり、今では剥製になるという人身御供(ひとみごくう)のプロセスを連想させる。何れにしても、柳田國男の『獅子舞考』を読んでもわかるように、贄と獅子舞(何方かと言えばしし踊り)とは密接な関係性があり、その点は今後深めていかねばならない課題である。